第五十六話 届くはずのない場所
第三支部を出てから、セラは宿へ向かわなかった。
大通りを外れ、工房の並ぶ方へ曲がる。
俺も黙ってついていった。
途中で一度、
「インクスさんのところですか」
と聞いた。
「そうだ。杭を見せる」
歩幅は変わらなかった。
鍵については何も言わない。
俺も聞かなかった。
《機能――統制鍵》
俺だけが先に知っていた言葉を、今日になってセラ本人も知った。
しかも俺からじゃない。
八つの恩恵を繋ぐ鍵。
どうやって繋ぐのか。
繋がったら何が起きるのか。
サイラスにも、そこまでは分からない。
セラが何を考えているのかも、横から見ただけでは分からなかった。
ただ、工房までの道を迷わなかった。
工房へ入ると、インクスは昨日持ち帰ったヴェスパルの翅を弄っていた。
木枠へ固定した翅の根元へ細い針を刺し、魔石から魔力を流している。
淡い光が翅脈の中を進み、途中で散った。
「あー、違う」
針を一本抜いて、別の場所へ刺す。
今度はさっきより手前で光が途切れた。
「あれ。もっと違うな」
俺たちが入ったことには気づいているらしい。
でも振り返らない。
「まだ翅ですか」
「飛んでたんだから、飛ぶ理由があるだろ?」
「死んでますけど」
「だから困ってるんだって」
何が困るのかは分からない。
俺は鞄から布包みを取り出し、作業台の空いているところへ置いた。
「インクスさん。これも――」
布を開く。
黒い粉。
その中に、ヴェスパルから抜いた操獣杭。
インクスが振り向いた。
目が止まる。
次の瞬間、椅子が後ろへ倒れた。
「何それ!?」
さっきまで持っていた針を放り出した。
「ちょっと待って。何それ、見せて」
俺が渡す前から顔を寄せてくる。
「おおー……」
右から見る。
左へ回る。
布ごと持ち上げる。
「小さいね。折れた? いや、違う。最初からこの形か」
「これよりも大きいものあります」
「大きいものも?」
杭を爪で叩く。
耳へ近づけ、また叩く。
「音も変だな」
「インクスさん」
「表面は焼いてるのか? いや、圧着……違うな」
全然聞いていない。
「昨日、ヴェスパルに刺さってました」
ようやく止まった。
「どこに?」
「お腹あたりです」
「腹?」
「ええ、それも統率蜂だけに」
インクスが杭を見る。
俺を見る。
また杭へ戻る。
「これが刺さってたの?」
「はい」
「おおー」
口元が上がった。
「いいねえ」
何がいい。
セラが作業台へ寄った。
「統率蜂を操っていた」
インクスの目がさらに開いた。
「これで?」
「そうらしい」
「なるほどなるほど」
今度は光へ透かした。
もちろん透けない。
それでも何度も角度を変える。
「命令を残してた? 魔力はどっちから入る? 蜂の魔力を使うのか? それとも中に――」
「これ昨日見つけたの?」
「そうです」
インクスが顔を上げた。
「僕いたよね?」
「いましたよ」
「どこに?」
「俺たちの横に」
少し考えてから、工房の隅へ置かれたヴェスパルの翅を見た。
「ああ」
思い出したらしい。
「だから君ら、腹ばっかり開けてたのか」
「何だと思ってたんですか」
「見てなかった」
即答だった。
「翅見てたから」
昨日、俺とセラが統率蜂を調べていた少し離れたところで、インクスはずっと兵隊蜂をひっくり返していた。
黒い異物を抜いた時も、多分こっちを見ていない。
その直後にエーリヒが倒れた。
結局、見せないまま今日になった。
「削っていい?」
「少しなら」
「割るのは?」
「駄目です」
「火は?」
「弱くなら」
「溶かすのは?」
「絶対駄目です」
「けち。できること少ないなあ」
文句を言いながら、顔は楽しそうだった。
細い鑢で杭の端を削る。
黒い粉が落ちた。
「おお」
それだけで嬉しそうにする。
針先で粒を分け始めた。
「これは分かるかい?。普通の金属。硬さを出すためのものだよ」
隣へ寄せる。
「こっちは魔力を通す鉱石だね。珍しくはない」
さらに一つ。
「繋ぎは……多分これ」
そこまでは早かった。
次の粉へ針を入れたところで、動きが止まる。
別の場所を少し削る。
また見る。
「ん?」
嫌そうではない。
むしろ、さっきより顔が明るくなった。
「これは…」
「鉱石ですか?」
「分からない」
インクスは笑った。
「僕だって世界中の山を掘って回ったわけじゃないからね。知らない鉱石も、素材も、そりゃあるよ」
小皿へ欠片を移し、下から弱い火を当てる。
一部は赤くなった。
一部は崩れた。
その中に、黒いまま残ったものがある。
「おおー。残るんだ」
火を強くしようとしたので、俺は手を出した。
「それ以上は駄目です」
「今から面白くなるのに」
「なくなったら終わりです」
「けちだなあ」
火を弱め、今度は細い針を杭へ当てる。
魔力を流した。
黒い表面の内側を、細い光が走る。
一本。
その横へもう一本。
奥で枝分かれし、すぐ消えた。
インクスが黙る。
もう一度。
「なるほど」
角度を変える。
「なるほどなるほど」
また流す。
「おおー……」
だんだん顔が杭へ近づいていく。
「ちょっと待って。これ何本入ってるんだ?」
「何がです?」
「術式」
また光を流す。
途中で数えるのをやめた。
「入らない」
「何が?」
杭を二本の指で挟んだ。
「これだけしかないんだよ」
作業台へ置き、指で線を引く。
「術式を一つ。もう一つなら干渉しないように離す。魔力の入口もいる。出口もいる。命令を残すなら、そのための場所も」
もう一本引こうとして、やめた。
黒杭を見る。
「だが、動いていた」
インクスがぱっと顔を上げる。
「そう!」
声が大きかった。
「そこなんだよ!」
杭を摘まみ、
「ケケケケ」
と笑う。
「僕が今分かってる材料だけなら、魔力を通したところでどこか潰れる。術式同士が食い合うか、焼けるか、割れる」
俺を見る。
「でも動いたんだろ?」
「動いてました」
「命令も残ってた?」
「鑑定では《命令保持部》って」
「保持まで?」
また杭へ顔を寄せる。
「おおー……」
心底感心している。
黒いまま残った欠片を針先でつつく。
「こいつが何かしてるのかな。それとも加工か。いや、それでもまだ足りないなあ」
しばらく独り言が続いた。
それから不意に顔を上げる。
「これ作った奴、天才だよ」
冗談ではなかった。
「こんな小さいところへ、入らないものを押し込んで、それで壊さず動かしてる」
杭を光へ持ち上げる。
「会ってみたいな」
セラが聞いた。
「敵でもか」
インクスは少し考えた。
「作ったものを見るのに、敵かどうかって関係ある?」
本当に分からない顔だった。
すぐ杭へ戻る。
「何使ってるんだろうなあ」
工房の戸が開いた。
「悪い、インクスいるか」
作業着の男が入ってきた。
四十くらいだろうか。
首へ汗拭きの布を巻き、片手に歪んだ金具を持っている。
インクスは顔も上げなかった。
「いるよ」
「これ、見てもらえるか。南の吊り場のやつ」
「そこ置いといて」
「今日の帰りでもいいんだが」
「今日は無理」
男が呆れたように作業台を見た。
黒杭。
ヴェスパルの翅。
小皿の黒い粉。
「……また変なの拾ったのか」
「拾ってないよ。持ってきてもらった」
大差ない気がする。
男は金具を棚へ置き、
「じゃあまた来る」
と戸口へ戻った。
そこで手が壁についた。
首に巻いていた布が床へ落ちる。
俺は何となく見ていた。
男は立っていた。
倒れてはいない。
目も開いている。
でも、焦点が合っておらず、どこも見ていなかった。
「大丈夫ですか?」
返事がない。
セラもそちらを見る。
ほんの数秒。
男が瞬きをした。
「あれ?」
自分が壁へ手をついているのを見てから、俺たちを見る。
「どうしました」
「いや……何が?」
「今、呼んでも返事しませんでしたよ」
男は怪訝そうな顔をした。
「寝不足じゃないか」
落とした布を拾おうとして、少しよろける。
「休んだ方がいいですよ」
「今日は無理だ」
布を拾い上げる。
「南の吊り場を今日中に片づける。人も足りてない」
袖がずれた。
前腕が見える。
そこだけ妙に皮膚が新しかった。
傷痕すらない。
周囲より少し色が薄い。
俺が見ていることに気づいたらしい。
「ああ、これか」
腕を曲げる。
指を握る。
「昨日まで動かなかったんだ」
「昨日?」
「石に挟んだ。骨までいったらしいけどな」
男は笑った。
「ヴィクトルにかけてもらった」
拳を握ってみせる。
「見ろよ。もう何ともない」
エーリヒの寝台が浮かんだ。
男が戸を開ける。
「待ってください」
振り返った。
何を言えばいいのか分からなかった。
少し間が空いた。
「……気をつけてください」
「分かってるよ」
片手を上げて出ていった。
戸が閉じる。
セラはそこをしばらく見ていた。
「知り合いか」
「いえ」
インクスはもう黒杭へ戻っている。
「ねえトーマ。この黒いところだけ分けられたら――」
それから一時間ほどインクスは色んな角度から黒杭を見ていた。手持ち無沙汰になり、一旦戻ろうか考えていると作業台が跳ねた。
小皿の粉がずれる。
インクスが顔を上げる。
「ん?」
次は床だった。
下から鈍い振動が伝わってきた。
壁へ掛けた工具が触れ合い、細かな音を立てる。
立て掛けてあった剣が一本倒れた。
遠くから、長い軋みが聞こえた。
木と金具が、限界まで引っ張られているような音。
セラが窓へ顔を向ける。
外で誰かが叫んだ。
「止めろ!」
少し遅れて、
「起こせ! おい!」
聞こえた。
次の瞬間。
腹の底へ響く衝撃が来た。
窓が震える。
外で馬が暴れた。
それだけでは終わらない。
何か大きなものが落ちたあと、別のものが続いて崩れていく。
一つ。
その重みで、また一つ。
俺の手が作業台を掴んでいた。
音だけが、少し遠くなった。
赤い警報灯。
工場の床を走っている。
靴の裏が滑る。
誰かがいる。
戻らないと。
何で戻ってる。
逃げろ。
違う。
置いていけない。
「トーマ」
セラの声で戻った。
工房だ。
インクスがこちらを見ている。
外へ出る。
南の空が白く濁っていた。
煙じゃない。
土と石の粉だ。
通りの向こうから人が走ってくる。
顔から血を流した作業員が壁へ手をついた。
「吊り場が落ちた!」
息が切れている。
俺は近づいた。
「何があったんです」
「操作してた奴が……急に倒れて」
言葉の途中で咳き込む。
「吊ってた石が振れた。支柱にぶつかって、そこから足場も、荷車も……」
俺の腹が冷えた。
「その人、腕に怪我してませんでした?」
作業員が顔を上げる。
「知ってるのか?」
セラはもう走っていた。
俺も追った。
さっきの声だけが耳に残る。
――もう何ともない。
南側へ近づくほど、人の流れが逆になっていった。
怪我をしていない者まで走ってくる。
土埃。
焦げた木の臭い。
その奥に、血の臭いが混ざる。
現場へ入った瞬間、足が止まった。
大型の吊り櫓は、半分以上形を失っていた。
吊っていた境界石が資材置場へ落ち、積まれていた石を弾き飛ばしている。その一つが荷車へ食い込み、横倒しになった荷車が仮設足場の柱を押し倒したらしい。
橋へ続く運搬路の一部まで崩れていた。
倒れた油灯から火が移り、積んでいた木材の端が燃えている。
その間に、人がいた。
梁の下から腕だけが出ている。
壁と荷車の間で潰れた脚を抱えている男。
自分で這っている人。
誰かの名前を何度も叫んでいる声。
動かない人。
危険区画を示していた赤い布が地面へ落ちていた。
倒れた油灯の火が、その向こうで揺れる。
赤い。
明るくなって。
暗くなって。
また赤くなる。
音が遠くなった。
――規格内です。
誰の声だ。
――もう少し様子を見よう。
工場の床。
遠くなった警報音。
手。
誰かの背中。
扉。
あと少し。
「トーマ」
何かが胸へ当たった。
布の束だった。
セラが投げたらしい。
こちらを見ていない。
「使え」
俺は布を掴んだ。
息を吸う。
油と土と血。
今のは何だったんだ?
手だけが少し震えていた。
「こっち!」
呼ばれて走る。
腹を切った男。
布を当てる。
押さえる。
指の間へ血が回ってくる。
「治療師は!」
「来てる!」
顔を上げる。
三人。
いた。
でも。
一人の男へ二人が集まっている。
出血が目立つからだろう。
すぐ隣では、顔色を失った女が浅い呼吸を繰り返している。
誰も見ていない。
もう一人の若い治療師は、曲がった腕へ光を押し込んでいた。
「動かないで!」
「痛い、待て、そこ――」
「動いたら戻せません!」
さらに魔力を入れる。
男の身体が跳ねた。
俺は治療師じゃない。
何が正しいかなんて分からない。
それでも、昨日ソフィアの治療見たばかりだった。
あの人は、最初から傷へ魔力を叩き込まなかった。
触れて。
見て。
待っていた。
この人たちは、傷の大きい順に魔力を入れているようにしか見えなかった。
「ソフィアは!」
俺が叫ぶ。
一人が振り向いた。
「使いを出した!」
「どこから来るんです!」
「第三支部の診療所だ!」
すぐには来ない。
別の治療師が、
「救護班もこっちへ回せ!」
と怒鳴る。
上から木が鳴った。
セラが顔を上げる。
「そこから離れろ!」
全員が反応できたわけじゃなかった。
残っていた足場の端が崩れる。
木材が落ちた。
悲鳴。
粉塵が上がる。
二人が巻き込まれた。
また音が遠くなる。
逃げ道。
あと少し。
誰かの手が、すぐそこに――
「トーマ!」
今度は近かった。
振り向くと、セラが崩れた材木を持ち上げている。
「そっちを引け!」
俺は走った。
考えるのはやめた。
今は、こっちだ。
救い出された人間が次々と道の脇へ並べられていった。
十人を越えたところで、数えるのをやめた。
救護班が追加で来た。
治療師も増えた。
それでも足りない。
「こっちを先に!」
「この人、息が!」
「魔力がもう――」
一人へ手を掛けたまま、別の声へ顔だけ向ける。
誰も全体を見られていない。
俺も同じだった。
目の前の男から布を離せない。
そこへ。
白い光が滲んだ。
胸元。
薄い。
でも知っている。
隣でも。
脚を潰された女。
その向こう。
梁の下から出された若い男。
一つずつじゃなかった。
白い光が、事故現場のあちこちに現れていく。
「ヴィクトルだ!」
誰かが声を上げた。
空気が変わった。
「助かるぞ!」
「サイラスさんだ!」
でも。
サイラスの姿はない。
光だけが増えていく。
重傷者を選んでいるように。
腕が裂けた男の傷が閉じ始めた。
血が止まる。
ずれていた骨が動く。
少しずつ、本来あった位置へ戻っていく。
裂けた肉が、その上を覆っていった。
速い。
前に見た時は。
ただ、すごいと思った。
人間の身体が、こんなに早く治る。
それだけだった。
今は。
腕が正しい場所へ引っ張られている。
裂けた肉が寄せられる。
骨が元の形を思い出したように戻る。
でも。
その男は、まだ苦しそうに息をしていた。
顔色も戻らない。
傷だけが先に消えていく。
昨日、ソフィアが弱い光を身体へ入れた時。
あの人は待っていた。
身体から返ってくるものを。
ヴィクトルは待たない。
戻れ。
そこがお前の場所だ。
そう命令しているように見えた。
「……」
言葉が出なかった。
周囲では歓声が上がっている。
「治ってる!」
「こっちもだ!」
間違ってはいない。
治っている。
目の前で。
だから、余計に目を逸らせなかった。
しばらくして、通りの向こうが騒がしくなった。
追加の救護班が人を押し分けてくる。
その先頭ではない。
二人ほど後ろ。
ソフィアがいた。
髪が乱れている。
息も整っていない。
現場へ入った途端、一度だけ全体を見回した。
「そこの二人、こっち」
いきなり患者には触れない。
「歩ける人は壁際。勝手に帰さないで」
若い治療師が言う。
「でも、もう傷が」
「傷の話はしてない」
別の男へ膝をつく。
額へ触れる。
首。
胸。
それから弱い光を入れた。
待つ。
「この人を先に運んで」
次。
腕を治していた治療師の手を止める。
「そこ、もう入れないで」
「ですが、骨がまだ――」
「あと」
それだけだった。
別の患者へ移る。
俺には何を見ているのか分からない。
でも。
さっきまで三人の治療師が動き回っていた時より、周囲が静かになった。
「木片は抜かない。それごと固定して」
「はい」
「その人は横にしないで」
「分かりました」
「その二人、ヴィクトルにかかった?」
「はい」
ソフィアが一人の手を取る。
光を入れる。
待つ。
眉が寄った。
「……薄い」
次の人。
また。
「こっちも」
俺が近づく。
「ソフィアさん」
「あと」
顔も上げなかった。
しばらくして、
「何」
「この光」
「見えてる」
患者の胸へ手を置いたまま答えた。
「傷は綺麗に治っていってるわ」
そこへ別の声が入った。
「ソフィアさん」
サイラスだった。
人混みを抜けてくる。
いつもの歩き方じゃない。
息が乱れ、片方の手袋に泥がついている。
現場へ入ったところで止まった。
白い光を見る。
一人。
その向こうにも。
さらに奥。
近くにいた作業員が駆け寄る。
「サイラスさん、ありがとうございます!」
「……何がです?」
「ヴィクトルを」
サイラスの顔から、わずかに表情が消えた。
俺は近づく。
「あなたが繋いだんですか」
「いいえ」
返事はすぐだった。
「僕は何もしていません」
「でも、これ」
「ヴィクトルの力です」
そこも迷わなかった。
一番近い光へ視線を落とす。
「それは間違えません」
ソフィアが立ち上がった。
「なら止めて」
サイラスが見る。
「これをですか」
「そう」
「今?」
ソフィアの顔が険しくなる。
「身体が追いついてない人もいるわ」
「それでも傷は塞がっています」
「エーリヒを見たでしょう」
「見ました」
「同じことを、ここで何人にやるつもり?」
サイラスはすぐには答えなかった。
足元。
腹を深く切った男。
ヴィクトルの光で血は止まりつつある。
でも、唇は白かった。
「これを止めたら」
サイラスが聞く。
「この人は診療所まで持ちますか」
ソフィアは黙った。
「向こうの人は?」
返事はない。
「橋の下から出した人も?」
サイラスの声は静かなままだった。
「全部止めて、何人死なせます?」
「だからって――」
「僕は止めません」
ソフィアの言葉へ重ねたわけではない。
ただ、答えだけが早かった。
「今ここで助けられる命を、先に何が起きるか分からないからという理由だけで捨てません」
白い光の中で、一人が激しく咳き込んだ。
息をする。
すぐ隣にいた女が、その手を掴んだ。
サイラスはそちらを見た。
「先の問題は調べます」
ソフィアが低く言う。
「取り返せないものだったら」
「それでもです」
「サイラス」
セラだった。
少し離れたところから歩いてくる。
肩へ木屑が付いている。
「この街の住民を救いたいのか」
サイラスがセラを見る。
「どういう意味です?」
「確かにここの多くの負傷者は全員助かるだろう」
白い光。
「無理やり治してそれが正しくないとしたら?」
サイラスは否定しなかった。
負傷者を見た。
崩れた吊り場を見た。
「今は」
そこで一度切れた。
「救えないよりはいい」
「力の加減ができていないかもしれなくてもか」
ソフィアが聞いた。
「使います」
今度は迷わなかった。
「この人たちが今死ぬのを防げるなら」
セラがじっと見ている。
「では、他の街は?」
「そのままにしません」
「どうする」
サイラスは少し黙った。
事故現場では、担架が次々と運ばれていく。
その横で答えた。
「恩恵の届く先を、国ごとに分けたままにしない」
昨日。
八つを一つにする。
そう言った男の声だった。
俺は聞いた。
「国境をなくすってことですか」
サイラスはこちらを見た。
少しだけ首を振った。
「国境そのものには、あまり興味がありません」
また負傷者へ目を向ける。
「ここに住んでいれば助かる。隣の国に生まれれば同じ傷で死ぬ」
白い光が傷を閉じていく。
「それを残したくないんです」
サイラスはそれ以上言わなかった。
誰が配るのか。
誰が決めるのか。
一つにしたあと、どうするのか。
俺も聞けなかった。
目の前でまた一人、呼吸が戻ったからだ。
サイラスは救護班へ向き直る。
「治ったように見える方も、全員ソフィアさんに診てもらってください」
ソフィアがすぐに付け足す。
「歩かせないで」
「はい」
「今夜は帰さない」
一拍だけあった。
「分かりました」
そこは争わなかった。
俺は事故現場を見回した。
ヴィクトルの光。
多い。
その中心にいるのは。
セラだった。
「サイラスさん」
「はい」
「この光、本当にあなたじゃないんですよね」
「違います」
サイラスもセラを見る。
セラは気づいていたらしい。
周囲の光を一度見てから、事故現場の外側へ歩いた。
一歩。
近くの負傷者を包んでいた光が、わずかに薄くなった。
二歩目。
別の光も揺れる。
「セラ」
俺が呼んだ。
止まる。
サイラスの口が動いた。
「もう一歩――」
言いかけて。
閉じた。
セラが振り返る。
「試すんじゃないのか」
「この人たちではやりません」
セラはしばらくサイラスを見ていた。
それから負傷者の方へ目を移す。
何も言わず。
さっき立っていた場所へ戻った。
白い光が、少しずつ濃くなった。
誰も頼んでいなかった。
セラも何も言わない。
そこに立ったまま、次に運び出される人を見ていた。
しばらくして。
担架が一つ、こちらへ運ばれてきた。
顔を見た瞬間、俺は立ち上がった。
工房に来た男だった。
まだ意識がない。
昨日ヴィクトルで治したという腕だけが、妙に綺麗だった。
「この人です」
俺が言った。
ソフィアが振り返る。
「何がです?」
「吊り櫓を操作してた人」
すぐに膝をついた。
額。
首。
胸。
弱い魔力を入れる。
待つ。
「治療歴は?」
「昨日です。腕を石に挟んで、ヴィクトルで」
ソフィアの手が止まった。
ほんの一瞬だけ。
また診る。
「事故の前」
俺は続けた。
「工房に来ました。その時も数秒だけ、意識がなくなってます。立ったまま」
「倒れた?」
「いえ。呼んでも反応しなくて。そのあと普通に戻りました」
ソフィアは男から目を離さない。
近くの治療師へ手を伸ばした。
「この人の昨日の記録を」
「今ですか?」
「今」
治療師が走っていく。
ソフィアはもう一度魔力を入れた。
戻ってくる光を待つ。
その顔が曇る。
「……弱い」
それ以上は言わなかった。
俺も。
エーリヒと同じだとは言わなかった。
少し離れたところで、切れた綱が地面へ横たわっていた。
吊ったままだった石。
折れた支柱。
その先で潰れた荷車。
一人が倒れた。
それだけで、ここまでになったのか。
どれか一つだけなら。
こんな崩れ方はしなかった気がした。
前にも。
似たものを見た気がする。
そこから先は、出てこなかった。
白い光が、また一つ傷を閉じる。
血が止まり。
肉が寄り。
何事もなかったように皮膚が戻っていく。
その横でソフィアは、傷の消えた男の胸へ手を当てたまま、まだ待っていた。
俺にはもう。
二つが同じ「治療」には見えなかった。




