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最強女騎士は、あと百二十日で壊れる ~粗探ししかできないハズレスキル《不具合鑑定》の俺だけが、それに気づいた~  作者: 出水克幸
勝利譌�ヴィクトル編

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第五十四話 治ったあと

ラズウェルの治療師は、夜の間に何度かエーリヒを診た。


呼吸はある。


熱も出ていない。


目立った傷も見つからない。


それでも、朝になっても意識は戻らなかった。


一度だけ目を薄く開けたらしいが、こちらを見たのかも分からないまま、また眠っている。


明るくなるのを待って、ジェノベックへ戻ることになった。


荷馬車の一台から荷を移し、床へ毛布を重ねる。


そこへエーリヒを寝かせた。


「どういう状態かわからんからの。あまり揺らしすぎるなよ」


ラズウェルの治療師が御者へ言った。


「とはいえ、のんびりもするな」


「難しい注文するなあ」


御者が手綱を握りながらぼやいた。


ラズウェルを出る頃、東の空がようやく白み始めていた。


村の入口には、長槍や縄を持った男たちが何人か集まっている。


昨日、街道へ残してきたヴェスパルを片づけるためだろう。


まだ薄暗い。


毒針の残った死骸へ近づくには早いらしく、焚き火を囲みながら縄を確かめたり、槍の穂先を見たりしていた。


日が出れば動くつもりらしい。


俺たちの荷馬車が通ると、そのうちの一人が手を上げた。


エーリヒのことは、もう伝わっているようだった。


誰も呼び止めなかった。


荷馬車が街道へ出る。


昨日のヴェスパルは、まだ道の脇に残っていた。


セラがそちらを見る。


「昨日のままだな」


「明るくなってからやるみたいですね」


「あの尾を処理するなら、その方がいい」


カイも頷いた。


「暗い場所で触って処理を誤ると危険ですからね」


それきり、しばらく誰も喋らなかった。


荷台からは、車輪が石を踏むたびに毛布が擦れる音だけが聞こえた。


エーリヒは一度も起きなかった。


―――


ジェノベックへ入ると、門番が第三支部へ人を走らせた。


診療所まであと少しというところで、向こうからソフィアが来た。


俺たちを見つけると、歩調だけが速くなる。


「こっち」


挨拶もなく荷馬車の脇へ来た。


「降ろさなくていいから。先に見るね」


荷台へ上がる。


エーリヒの顔を覗き込み、首筋へ指を当てた。


長くは触らない。


すぐに胸元へ掌を置く。


「少し離れて」


光が弾けた。


思わず目を細めた。


セラを診た時と同じ、まばゆい白。


一瞬でエーリヒの身体を包み込む。


服の下。


皮膚の下。


骨も内臓も、その奥にあるものまで照らされているように見えた。


ソフィアは目を閉じたまま、右手を胸へ、左手を腹へ置いている。


白い光の中に、細い金色の筋が浮かんだ。


胸から首へ。


腹から両脚へ。


腕の先まで。


血管とも魔力経路とも違う光が、枝分かれしながら全身を走る。


しばらくして光が消えた。


ソフィアは手を離さなかった。


「……もう一度」


誰に言ったわけでもなかった。


再び光が広がる。


今度は少し弱い。


長かった。


ソフィアの眉間に皺《しわ》が寄る。


「中へ運んで」


「何か分かったんですか」


「まだ」


こっちを見もしなかった。


「ちゃんと見ないと」


―――


エーリヒを寝台へ移す。


ソフィアは袖《そで》を捲った。


「昨夜のこと、最初から聞かせてくれない?」


診察を止めないまま言った。


俺は街道での戦闘から話した。


エーリヒは大きな攻撃を受けていない。


ラズウェルへ着いてからも荷を降ろしていた。


普通に食事を取った。


喋っていた。


立ち上がった直後に、突然倒れた。


「尾針には触れていません」


カイが途中で加えた。


「私が見ていた範囲では」


「分かった」


ソフィアはそれだけ返した。


瞼を開く。


首へ指を当てる。


胸を押す。


腹へ掌を当てる。


触るのは確認程度だった。


すぐにまた、光を流す。


今度は薄い。


胸へ沈んだ白い光が、身体の内側をなぞるように広がった。


「頭の中に大きな出血はない」


ソフィアが呟く。


「心臓も破れてない。肺も動いてる。腹の中にも、急に倒れるほどの出血はない」


カイが少し息を吐いた。


「ヴェスパルの毒は?」


「違うと思う。神経毒なら、もっと別の出方をする」


ソフィアは掌の位置を変えた。


胸。


肩。


腹。


脚。


光を送りながら、同じ場所を何度か確かめていく。


そのうち、俺にも妙なことが分かってきた。


光が入る。


けれど、何も返ってこない。


ソフィアが手を止めた。


もう一度。


今度は胸へ少し強く流す。


一拍。


二拍。


だいぶ遅れて、エーリヒの身体の奥から淡い光が浮かんだ。


消えかけた火の中に、かろうじて赤いものが残っているような光だった。


セラが寝台へ一歩寄った。


「何があるのか」


「ええ」


ソフィアはエーリヒから手を離した。


そのまま自分の手の甲へ小さな光を当てる。


すぐに、皮膚の下から白い光が押し返してきた。


次に俺の腕を掴んだ。


「え?」


「じっとして」


勝手に光を入れられた。


少し温かい。


そう思った時には、腕の内側から同じ光が返っていた。


ソフィアが手を離す。


「今のが普通」


エーリヒを見る。


「生き物の身体は、自分の形を覚えてるものなの」


「形?」


セラが聞いた。


「そう。骨がどこにあったか。肉がどこまであったか。血がどこを通っていたか」


ソフィアはエーリヒの胸へ掌を戻す。


「傷がつけば、身体は元の形へ戻ろうとする」


薄い白が広がった。


「治癒術は、ないものを外から作って詰め込んでるんじゃない。その人の中に残ってる『戻ろうとする力』を拾って、そこへ魔力を通す」


ソフィアの指がわずかに動く。


また、返ってくる光は弱い。


「私は、その返事を見ながら治してる」


「返事?」


「ここは戻れる。ここは時間を掛けた方がいい。ここから先は身体が嫌がってるみたいな感じかな」


光を止める。


「それを私は再生余力って呼んでいて、再生余力が少なくなれば、その返事が鈍くなる」


セラがエーリヒを見る。


「こいつは?」


「かなり弱い」


「残ってないのか」


「残ってはいるけど」


ソフィアは首を振った。


「でも火が消えかけてる」


俺の胸の奥が冷たくなった。


セラへ目が向いた。


自分でも止められなかった。


セラも気づいたらしい。


一度、こちらを見る。


何も聞かなかった。


俺も言わなかった。


ソフィアはまだエーリヒを見ている。


「魔力切れとは違う。疲れてるだけでもない」


もう一度、弱い光を流した。


「身体そのものが持ってる、『まだ元に戻れる』って力が減ってる」


助手へ振り返る。


「この人の治療記録…。普通の治療もヴィクトルも全部。三か月くらいまであればいいから持ってきてもらえないかしら」


助手が走っていった。


「それが減ったから倒れたんですか」


俺が聞く。


「そこまでは言わない」


ソフィアは手首へ指を当てた。


「昨日の疲れもあるし、食事も足りてない。水分も足りてない。立った時に血の巡りが落ちた可能性もある」


指を離す。


「でも、一晩経っても全身の反応がこれだけ鈍いのは、そっちだけじゃ説明しづらい」


助手が帳面を二冊抱えて戻ってきた。


ソフィアはその場で開いた。


頁《ページ》をめくる。


一枚戻る。


また進む。


指が止まった。


「これ、ヴィクトルの記録?」


「はい」


「次の日は」


助手が覗き込む。


「護衛任務です」


別の頁。


「これは普通の治療」


「はい」


「二日後は?」


「外壁警備です」


ソフィアは何も言わなかった。


頁をめくる。


負傷。


治療。


勤務。


別の負傷。


また治療。


毎回ではない。


何日か空いているところもある。


軽い怪我も混ざっている。


ただ、後ろへ行くほど間隔が短くなっていた。


ソフィアの指が止まる。


「……」


寝台へ戻った。


もう一度、エーリヒへ光を流す。


遅れて、弱い光が返る。


「治癒術とヴィクトルは、同じじゃない…」


セラが帳面から顔を上げた。


「どちらも治すんだろう」


「うん。治す。使ってるものも根っこでは同じ」


ソフィアは自分の指先へ光を灯した。


「でも普通の治癒術は、患者の身体とやり取りしながら進める」


光を消す。


「再生余力が落ちてくれば、術の通りが悪くなる。時間が掛かる。途中で身体が熱を持つこともある」


「だから治療師が気づく」


カイが言った。


「普通ならね」


ソフィアはヴィクトルの記録へ指を置く。


「たぶん、ヴィクトルはそこが違う」


「どう違う?」


「身体の返事を待ってない」


俺は帳面を見た。


「返事を待たない?」


「ヴィクトルの出力で、元へ戻る道を外から開いてしまう」


ソフィアは少し考えてから続けた。


「本人の戻る力が弱くなってても、ヴィクトルの力の方が強いから無理やり引っ張ってこれるって感じかな」


セラがエーリヒへ目を落とす。


「それで早く治る?」


「たぶんね。そう考えれば辻褄は合う」


ソフィアが頷いた。


「普通の治癒なら、再生余力が減れば治療も遅くなる。それ自体が警告になる」


帳面を軽く叩く。


「でもヴィクトルは、弱くなってる身体まで同じように治せてしまう」


俺はようやく分かった。


「遅くならないから……気づけない?」


ソフィアが俺を見る。


「そう」


短かった。


「傷は治る。でも、本来ならその前に出るはずの『もう余裕がない』って兆候が見えなくなる」


セラが聞く。


「ヴィクトルが再生余力を削ってるのか」


「そこは違う」


ソフィアはすぐに否定した。


「普通の治癒だって再生余力は使う。傷を戻すなら当然使う」


もう一度記録を見る。


「ヴィクトルが余計に奪ってるのかは分からない」


「じゃあ何が問題なんです」


「止まる場所が分からない」


ソフィアはエーリヒを見た。


「普通なら治りが悪くなって、治療師が気づく。本人も前より戻らないって分かる」


少し間が空いた。


「ヴィクトルは、その警告を出さずに治せるのかもしれない」


カイが眉を寄せた。


「限界だけ見えなくなる」


「……たぶん」


そこまで言って、ソフィアが黙った。


帳面を持ったまま動かない。


助手が顔を上げた。


「先生?」


「……私、今まで何人の方を…」


「え?」


「ヴィクトルで治った人」


助手が戸惑った。


別の帳面へ手を伸ばす。


「数なら――」


「いい」


ソフィアが止めた。


「数じゃない」


頁を戻す。


一か所。


また一か所。


そこにはソフィアの診療印が残っていた。


「私も診てるじゃない」


誰に言ったわけでもなかった。


指がその印の上で止まる。


「あの日も。その前も」


俺は黙っていた。


負傷者が次々と運ばれてきた時も。


一人ずつでは間に合わなくなった時も。


ソフィアはヴィクトルのすぐ近くにいた。


「治ったあと、身体も診てる」


ソフィアが言った。


「歩けるのも見た」


帳面を閉じかけて、やめた。


「……それで帰した」


助手が口を開く。


「でも先生、それは――」


「分かってる」


声は強くなかった。


「その時は、それで良かった」


エーリヒを見る。


「少なくとも、そう思った」


自分の指先を一度だけ見た。


すぐに手を下ろす。


「治った傷ばっかり見てたな」


誰も返事をしなかった。


ソフィアが椅子を引いた。


座らず、背に手を置いただけだった。


「近くにいたのに」


一度、息を吐く。


「気づかなかった」


セラも何も言わなかった。


慰めもしなかった。


しばらくして、ソフィアは帳面を開き直した。


「だから、まだ決めつけない」


俺は顔を上げる。


「ヴィクトルが原因だって?」


「そう」


ソフィアは頷いた。


「私は見落としていたわ。だからって、今度は逆に全部ヴィクトルのせいにしたら同じでしょう」


記録へ指を置く。


「元の怪我も違う。普通の治療も受けてる。働き方も食事も休養も違う」


それでも、エーリヒへ目を戻した。


「ただ、これは調べないと駄目」


セラが聞いた。


「今まで倒れなかったのは?」


「再生余力が減ったら、すぐ倒れるわけじゃない」


ソフィアは指先へ小さな光を灯す。


「血も水分も体力も、寝ればある程度戻る。傷がなければ普通に歩ける」


光を消した。


「でも、使った再生余力まで同じように全部戻るわけじゃない」


「少しずつ減る?」


「そう考えると、今の状態とは合う」


帳面の頁を指で追う。


「傷は消える。飯も食える。また働ける」


次の記録。


「本人も周りも戻ったと思う」


その次。


「でも、中では前より戻れる力が減ってる」


指が止まった。


「最後に大怪我なんて必要なかったのかもしれない」


エーリヒを見る。


「昨日みたいな疲れ。水分不足。食事不足。それくらいが最後に重なった」


「それで身体が止まったんですか?」


俺が聞いた。


ソフィアは少し考えた。


「身体が諦めたわけじゃないけど」


「じゃあ」


「生きる方を選択したの」


胸へ指を置く。


「心臓と呼吸を優先に。頭へ血を送る。そっちを守るために、今いらないものから後へ回してる」


エーリヒの腕を見る。


「立つことも。手足を動かすことも。余計な修復も」


寝台の上で、エーリヒの指先は動かなかった。


今度は俺からセラを見なかった。


見たくなかった。


―――


しばらくして扉が開いた。


「失礼します」


サイラスだった。


寝台へ目を向ける。


エーリヒの顔を見たところで、足が止まった。


「容態は」


「今すぐ命が危ない状態ではない」


ソフィアが答えた。


「でも、当分は現場に戻さない」


「分かりました」


返事は早かった。


ソフィアが二冊の帳面を差し出す。


「これも見て」


サイラスが受け取った。


一頁ずつ読む。


治療。


勤務。


また治療。


途中で指が止まる。


「間隔が短いですね」


「最近は特に」


「エーリヒさんだけですか」


「まだ分からない」


「見立てを聞いても?」


ソフィアがエーリヒを見る。


「再生余力、自身の治そうとする力がかなり落ちてる」


サイラスの目が少し動いた。


「原因は?」


「そこを今、調べようとしてる」


ソフィアはヴィクトルの治癒記録の頁を開いた。


「ヴィクトルを疑っているんですね」


「疑ってる」


隠さなかった。


「普通の治癒なら、再生余力が落ちれば治り方にも出る。ヴィクトルは、そこを飛ばして治してる可能性がある」


サイラスは帳面へ目を戻した。


何頁か遡《さかのぼ》る。


「一つ、分かりません」


「何」


「なぜ、今まで出なかったんでしょう」


ソフィアの顔が固くなった。


「ヴィクトルで治療を受けた人は、エーリヒさんだけではありません」


「知ってる」


「かなりの人数がいます」


「それも知ってる」


サイラスは帳面を閉じなかった。


「ソフィアさんも、その方々を近くで診ていた」


一瞬だけ、ソフィアの視線が落ちた。


「……診てた」


「それでも今日まで、同じ異常は出ていないのでしょ?」


責めている口調ではなかった。


「だからです」


ソフィアが顔を上げる。


「ソフィアさんが何人も診て、それでも異常として確認できなかった」


帳面を軽く持ち上げる。


「なら、今ここで見つかった一例だけで、ヴィクトル固有の問題だとはまだ言えません」


ソフィアは何も返さなかった。


少し前、自分で同じところまで考えていた。


「エーリヒさんの負傷歴。普通の治癒。ヴィクトル。休養。食事。勤務」


サイラスが頁を指で押さえる。


「比べるものが足りません」


「エーリヒがこうなってても?」


「こうなったから調べるんです」


サイラスは寝台へ目を向けた。


「無視するつもりはありません」


ソフィアが腕を組んだ。


「でも、ヴィクトルの運用は続けるんでしょ?」


「救命には使います」


即答だった。


「今日も負傷者は来ます。明日もです」


「……」


「ジェノベックがここまで成長できたのは、ヴィクトルだけのおかげだとは思っていません」


窓の外へ一度目をやる。


「薬を運んだ人も、食事を作った人も、道を直した人も、街の人達が動いた結果だと考えています」


視線を戻す。


「でも、ヴィクトルがいなければ今ここにいない人も大勢います」


ソフィアが口を開く。


「分かってる」


「なら、救命の使用は止めません」


「止めろとまでは言ってない」


サイラスが顔を上げた。


「じゃあ、何を」


「傷が消えたからって、次の日から元通り扱うなって言ってるの」


ソフィアは帳面を指した。


「何度も治療してる人間から再診する。」


「わかりました」


「再生余力も見るわ。今までみたいにはすぐ戻さない」


「再診して問題がなければいいのでは?止めるとなるとその間の仕事は?」


「他を探して」


「人が足らない場合は」


「それでも」


「護衛を減らせば輸送が止まります」


「知ってる」


「外壁を減らせば――」


「知ってるって言ってるでしょう!」


部屋の空気が跳ねた。


助手が動きを止める。


ソフィア自身も、一拍遅れて黙った。


「……知ってるわよ」


さっきより低い声だった。


「私だってヴィクトルに頼ったこともある」


サイラスは何も言わない。


「私一人じゃ間に合わなかったから」


帳面の端を押さえていた指に力が入る。


「治って立った人を見て、良かったって思った」


ソフィアはエーリヒへ目を向けた。


「だから余計に、今度はそのまま帰したくないの」


サイラスはすぐに返事をしなかった。


帳面をもう一度開く。


「反復して治療を受けた方の名簿を出します」


ソフィアが見る。


「勤務も?」


「照合します」


「戻すのは」


少し間があった。


「エーリヒさんは戻しません」


ソフィアの眉が動いた。


「エーリヒだけの話してない」


「分かっています」


「なら」


サイラスが帳面を閉じた。


「ヴィクトルの救命使用は続けます」


ソフィアが黙る。


「今日、重傷者が来れば使います。そこは変えません」


「……そう」


「ただし、繰り返し治療を受けている方については、復帰前にソフィアさんの診察を入れる」


「全員?」


「まずは回数の多い方からです」


「まずは、ね」


そこから先をソフィアは詰めなかった。


サイラスも説明を足さなかった。


帳面はサイラスの手に残った。


ソフィアは寝台の脇から動かなかった。


廊下の向こうで声が飛ぶ。


「包帯、もう一箱持ってきて!」


別の部屋では子どもが泣いていた。


金属の盆が落ちる音がして、誰かが謝っている。


診療所は、ここの話が終わるのを待ってはいなかった。


その騒がしさの中で、足音が近づいてきた。


速い。


扉の前で一度も止まらなかった。


「エーリヒ!」


女の声だった。


扉が開く。


女が一人。


その後ろから、小さな女の子が入ってくる。


二人とも息を切らしていた。


遅れて職員が追いつく。


「ご家族です。門から連絡が行って――」


女はもう聞いていなかった。


寝台まで来る。


けれど、すぐには触らなかった。


エーリヒの顔を見る。


胸が動いているのを確かめてから、ようやく肩の力が少し抜けた。


「……何したの、あなた」


返事はない。


娘は母親の後ろにいた。


寝台を見ている。


普段と違う父親を、どう見ればいいのか分からないようだった。


「お父さん」


小さな声だった。


エーリヒは起きない。


娘が母親の服を掴んだ。


「寝てるの?」


妻はすぐには答えなかった。


ソフィアが口を開きかける。


やめた。


娘が少しだけ前へ出る。


壁際にいたセラが、無言で椅子を一つ退けた。


娘の通れる場所が空く。


娘はその間を通り、寝台の横へ行った。


エーリヒの手を見る。


しばらく迷ってから、小さな手で指を一本だけ握った。


「帰ってきたんだよね」


妻が目を閉じた。


「……うん」


それだけ答えた。


「じゃあ起きる?」


今度は答えが出なかった。


俺の視線が、またセラへ向いた。


セラも寝台を見ていた。


娘が握っている、エーリヒの手を。


セラは俺の方を見なかった。


そのまま、少しだけ壁から離れる。


家族の場所を空けるように。


俺も一歩下がった。

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