第五十三話 帰ったあとで
すぐには出発できなかった。
街道がヴェスパルの死骸で塞がれていたからだ。
道の外へ落ちたものまで含めれば、とても数える気にはならない。
翅を広げたまま仰向けになっているもの、腹を裂かれて半分だけ道へ残っているもの、二体三体と重なり、荷馬車の轍を完全に塞いでいるものまでいた。
先頭の馬が嫌がって鼻を鳴らす。
御者が手綱を引いても、前へ出ようとしない。
「これじゃ通れんな」
エーリヒが周囲を見た。
若い護衛が近くの一体へ歩いていき、後脚を掴もうと腰を曲げる。
「そこを触らないでください」
カイが止めた。
護衛の手が止まる。
カイは肩に巻いた布を押さえながら近づき、落ちていた長槍を拾った。
「死んでても尾は危ないんです」
槍の穂先で腹を軽く押す。
何も起きない。
もう一度、今度は少し強く押した。
潰れていた腹の節が縮み、その直後、垂れてれていた尾が跳ね上がった。
黒い針が、さっきまで若い護衛の手があった場所を薙ぐ。
「うわっ」
護衛が後ろへ飛び退いた。
カイは腹を槍で押さえたまま、尾の付け根を示した。
「先にここを落としてください。切ったあとも針には神経毒が付いてるの触らないで下さい」
エーリヒが借り物の剣を抜き、教えられた位置へ刃を入れた。
尾が地面へ落ちたあとも、針は何度か小さく跳ねた。
「死んでも油断出来ないですね」
俺が言うと、カイが槍を引いた。
「道の上にいるやつだけやるぞ」
エーリヒが先を見る。
「全部片づけてたら日が暮れる。尾を落として端へ寄せる。残りはラズウェルで人を出してもらおう」
御者たちも異論はないらしい。
予備の槍や長い棒、荷台に積まれていた縄が集められる。
俺も一本取ろうとしたところで、横からセラが先に抜いた。
「セラ。それくらいなら俺たちで――」
「向こうは薬を待っている」
セラは死骸の方を見たまま言った。
「早く終わらせた方がいい」
そのままエーリヒの横へ行く。
「まあ、そうなんですけど」
返事はなかった。
もう棒を死骸の下へ差し込んでいる。
俺も反対側へ回った。
三人で押す。
巨大な胴が土を削りながら、ようやく道の端へ動いた。
「重いな」
エーリヒが息を吐く。
「翅があるから軽いのかと思ってた」
「飛ぶ時に魔力を使う」
セラが棒を抜いた。
「死ねばただの重い虫だ」
「夢のない話ですね」
俺が言うと、セラは一度だけこっちを見た。
「死骸に夢がいるのか?」
「いや、そういう意味じゃ…」
エーリヒが鼻で笑った。
セラはもう次の一体へ向かっていた。
何体処理したか分からなくなった頃だった。
尾を切った一体をひっくり返した時、腹の下から何かが落ちた。
ぱらぱら、と乾いた音がする。
土ではない。
真っ黒な粉だった。
「……何だ、これ」
棒を止める。
ヴェスパルの腹から、煤のようなものが土へ細い筋を作っている。
「燃えた跡か?」
エーリヒが近づいてくる。
「いや。それはないです。だって、焼かれてませんよね」
「私が斬ったやつだ」
セラも戻ってきた。
枝を拾い、粉の横へしゃがむ。
触らずに少し覗き込んだ。
「血でもないな」
「ですよね」
さっきまで動かしていた死骸にはなかった。
俺が胴体を見ると、エーリヒも同じ場所へ目をやった。
「ああ、そいつ統率蜂だな」
「統率蜂?」
「ヴェスパルの群れをまとめるやつだ」
エーリヒは剣先で死骸を少し転がした。
「この辺りの林にはヴェスパルの巣がいくつもある。といっても、巣ごとに女王がいるわけじゃない」
「違うんですか」
「一つの群れが、いくつか巣を使うんだよ。餌を溜めたり、兵隊蜂が集まったりな。女王蜂は、その巣の集合体をコロニーと呼んでいるんだか、そのコロニーに一匹だけだ」
「一つの巣に一匹じゃないのか」
セラが聞いた。
「ああ。女王を中心に、百から二百くらいで一つのコロニーを作る。その下に統率蜂が何匹かいて、実際に飛び回ってる大半が兵隊蜂だ」
エーリヒが林の奥を指した。
「新しい女王蜂が生まれた時は、元のコロニーには残らない。かなり離れた場所へ飛んでいって、そこで別のコロニーを作る。近場で女王同士が縄張りを食い合わないためらしい」
「なるほど」
俺は周囲に転がる死骸を見回した。
よく見ると、大きい個体はそう多くない。
セラが近くの一体を棒の先で示した。
「あれも同じか?」
「見てみるか」
エーリヒが先に歩いた。
その途中、街道脇に傾いた石が見えた。
草に半分埋もれている。
表面の刻印は、ところどころ欠けていた。
俺はそちらを顎で示した。
「あの境界石、ほとんど死んでません?」
エーリヒも見る。
「死んでるな。あれはたぶん、もう何年も駄目だ」
「放ってたんですか」
「長いことな」
若い護衛が後ろから言った。
「一応、街道沿いにはずっと境界石があるんです。でも修繕してこなかったんですよ。壊れてるのが普通みたいになってて」
「危なくないのか」
セラが聞いた。
「今まで大きな被害はなかったからな」
エーリヒが答えた。
「幸い、この辺りに街まで押し寄せるような凶暴な魔獣はほとんどいなかった。ヴェスパルも巣へ近づかなきゃ、向こうから襲ってくることは少ない」
「なるほど、だから後回しか」
「ああ。壊れてても困らないなら、他を直す。そうやって放置されてきたんだろ」
エーリヒは境界石から視線を外した。
「ただ、サイラスが来てからだな。少しずつ直そうって話になったのは」
俺は思わず見た。
「サイラスが言い出したんですか」
「ああ。何かあってからじゃ遅いってな」
若い護衛が肩をすくめる。
「全部やり直すには人も金も足りませんけどね。街道に近い場所から順番にやってます」
「まだ、ああいうのが手つかずで残ってる」
セラが傾いた石を見る。
「多すぎるんだよ」
エーリヒは苦笑した。
「直してる間に別のやつも駄目になる。それに最近は、ヴェスパル自体を見かける回数が増えてる」
「今日みたいなのも?」
「いや」
エーリヒの顔から笑いが消えた。
「百匹以上まとめて、しかも荷馬車へ真っすぐ来たのは初めてだ」
セラが統率蜂の死骸へ視線を戻す。
「粉も、この黒い粉も普段から出てるのか」
「いや。俺は見たことない」
一抹の不安を感じた俺は他の蜂も見ることにした。
今度はセラが先に歩いた。
近くの死骸を調べる。
兵隊蜂。
何もない。
別の兵隊蜂にもない。
少し離れた統率蜂の腹側へ回る。
「あった」
セラの声がした。
俺とエーリヒが近づく。
同じ黒い粉が、甲殻の継ぎ目からわずかにこぼれている。
もう一体。
まただ。
「兵隊蜂にはついてないですね」
カイも周囲を見ていた。
「そうだな。今のところは…」
「統率蜂だけか」
エーリヒが唸る。
俺は枝の先で甲殻の隙間を探った。
何か硬いものに当たった。
「インクスさん。細い道具あります?」
工具袋を持っていたインクスが来た。
「どれくらい?」
「この隙間に入るくらい」
袋の中を探り、細い鉗子を俺へ渡した。
「折らないでね」
「俺より気にしてますね」
「道具は大事だよ」
もうこっちを見ていなかった。
ヴェスパルの甲殻を指で押しながら、妙な角度から眺めている。
鉗子を差し込む。
硬いものを挟む。
ゆっくり引いた。
黒い粉が少し増える。
さらに引く。
甲殻の間から、細長い黒い異物が出てきた。
「……出た」
エーリヒが顔を寄せる。
「何だ、それ」
指先より短い。
針より太く、片側だけが尖っている。
セラはしゃがみ込むと、横から形を見た。
「自然に入ったものには見えないな」
「俺もそう思います」
布の上へ置く。
目を凝らした。
《不具合鑑定》。
文字が浮く。
《命令保持部――破損》
《保持可能情報量――極小》
《複雑命令――保持不能》
待った。
それ以上は出ない。
「どうだ」
エーリヒが聞く。
「おそらく命令を残すためのものです」
「命令?」
カイも覗き込んだ。
「ただ、命令を残すとしても単純なものしか…。複雑な指示は無理みたいです」
セラが統率蜂を見た。
「それで十分じゃないか」
「何がです?」
「こいつが群れを動かすなら」
一度、周囲の兵隊蜂へ目をやる。
「全部に入れる必要はない」
俺は返事をせず、統率蜂を見た。
エーリヒも気づいたらしい。
「統率蜂にだけ命令して、あとは兵隊蜂がついていく……か」
「できるなら、です」
カイが付け足した。
「鑑定でそこまで分かったわけじゃないでしょう?」
「はい。そこはまだです」
セラが布の上の異物へ手を伸ばしかけて、触らずに止めた。
「前にもあったな」
俺も思い出していた。
猪型の魔獣。
その身体に打ち込まれていた、黒い杭。
「あれですよね」
「ああ」
「あの時よりずっと小さいですけど」
エーリヒが俺たちを見る。
「何の話だ?」
「以前、似たものが刺さった魔獣と戦ったことがあるんです」
「そいつも操られてたのか」
「そうだと思います。普通じゃない動きをしてました」
セラが異物を見る。
「あの時と違うみたいだな」
「ですね」
大きさも違う。
形も違う。
あの時のものと同じと決めるには早い。
カイが黒い粉を見ながら言った。
「でも、統率蜂だけっていうのは、読みがあってそうですね」
「だな」
エーリヒが腕を組む。
「誰かがやったと思うか?」
俺が答える前に、セラが口を開いた。
「少なくとも、これは蜂が自分で作ったものじゃないだろう」
「……ですよね」
誰が入れたのか。
何を命じたのか。
そこまでは分からない。
でも、統率蜂の身体に命令を保持する人工物が入っていた。
その事実だけは残る。
「持ち帰りましょう」
俺は布を畳んだ。
「ジェノベックで見てもらいます」
「サイラスにもか」
エーリヒが聞く。
少し迷った。
「……たぶん」
セラがこちらを見る。
「見せた方がいい」
「そう思います?」
「隠す理由もない」
そこで話は終わった。
セラは立ち上がり、また棒を拾った。
「日が落ちる」
「はいはい」
残りの死骸へ戻る。
何体も尾を落とし、押し、縄で引いた。
最後の大きな死骸を轍の外へ寄せた頃には、日はかなり西へ傾いていた。
―――
ラズウェルへ着いたのは夕方だった。
街というより、大きな村に近い。
石壁も立派な門もなく、街道沿いに家や倉庫が並び、その向こうに畑が広がっている。
先頭の荷馬車が見えると、人が道へ出てきた。
荷台の木箱を見た女が、診療所の方へ振り返った。
「来たよ!」
そこから一気に人が増えた。
倉庫の扉が開き、診療所からも人が走ってくる。
杖をついた老人。
腕を布で吊った男。
子どもを連れた女。
荷馬車が止まりきる前から声が飛んだ。
「薬材はこっち! 保存食は隣に! 治療布は箱のまま診療所へ!」
「一番奥の箱、先にこっち持っち来て!」
「それは食料だ!」
御者が叫ぶ。
あちこちから手が伸びた。
俺も荷台へ上がる。
隣ではセラが、すでに箱を一つ持ち上げていた。
「それ重いですよ」
「持てる」
「でしょうね」
「なら聞くな」
降ろしていく。
街道でヴェスパルを倒した時より、こっちの方が人の数は多かった。
俺が次の箱へ手を掛けたところで、甲高い声が飛んだ。
「エーリヒ!」
十歳にもならないくらいの男の子が、倉庫の横から走ってくる。
その後ろから別の子どもまで二人ついてきた。
エーリヒが担いでいた薬箱を下ろした。
「おい、荷馬車の前に出るな」
男の子は聞いているのかいないのか、そのまま目の前まで来た。
「遅い!」
「悪かったよ」
エーリヒが片手で頭を押さえる。
「待ってたのか?」
「ずっと!」
「朝から?」
男の子は大きく頷いた。
「今日エーリヒが来るって聞いたから」
後ろにいた女の子まで割り込む。
「ほんとに来た!」
「来るって言っただろ」
「エーリヒ、今日も魔獣倒したんだって」
「今日も魔獣倒したの?すごい!」
「俺一人で倒したみたいに言うな」
聞いていない。
男の子は腰の借り物の剣を見つけると、さらに顔を輝かせた。
「今日はどんな魔獣?」
「いつもの蜂さ」
「何匹倒した?」
「一匹」
男の子の顔が止まった。
「……一匹?」
「一匹」
「一匹っていうてもな。こーんな大きい蜂だぞ!!」
エーリヒが腕いっぱい広げて大きさを表している。
「すごい!」
「やっぱりエーリヒだ!」
「だろだろ」
エーリヒが高らかに笑った。
子どもたちはさらに寄ってくる。
「剣見せて」
「駄目。危ない」
「ちょっとだけ」
「駄目、駄目、どうしても使いたいなら剣士になるんだな」
「剣士になったらエーリヒみたいに何でも使えるようになるの?」
「何でもは使えねえよ」
誰も信じていない顔をしている。
エーリヒは女の子の乱れた髪を直し、荷馬車へ近づいた子の襟を掴んで引き戻した。
「そっちは危ない。まだ降ろしてる」
「何持ってきたの?」
「薬と飯だ」
「甘いのは?」
「ない」
「前あった!」
「あれは俺のだったんだよ」
「くれたじゃん」
「取られたんだ」
子どもたちが笑う。
エーリヒも笑っていた。
前に見た紙包みを思い出した。
娘への土産。
妻への分は街で買うと言っていた。
ジェノベックにいる娘も、この子たちと同じくらいの歳だったはずだ。
男の子がエーリヒの腰へ目を落とした。
「あれ。また剣違う」
「ああ」
「いつものは?」
「修理中」
「また?」
エーリヒが嫌そうな顔をした。
「お前、本当によく見てるな」
「だってエーリヒの剣だもん」
女の子も横から言う。
「前も違った」
「その前も」
「そんなに壊してないぞ」
誰も納得しない。
セラが荷箱を抱えたまま、その横を通った。
男の子がそちらを見る。
それからエーリヒへ顔を戻した。
「この人、強い?」
エーリヒが笑った。
「俺よりずっとな」
男の子がセラを見上げる。
「エーリヒより?」
セラが足を止めた。
「比べたことはない」
それだけ言って歩いていく。
男の子はしばらくその背中を見ていた。
「エーリヒ負ける?」
「なんで嬉しそうなんだよ」
子どもたちが笑った。
エーリヒが二人まとめて額を押す。
「人の剣ばっかり見てないで手伝いしてこい」
「俺も持つ!」
「重いのは駄目だ」
「持てる!」
「じゃあ布の束な。あっちへ運べ」
男の子は役目をもらった途端、表情を引き締めた。
両手で布の束を抱える。
他の子どもたちも後を追った。
途中で男の子が振り返る。
「エーリヒ!」
「今度は何だ」
「また来る?」
エーリヒは薬箱を肩へ担ぎ直した。
「仕事が回ってきたらな」
「絶対?」
「ああ、約束する」
「仕事来なかったら?」
少しだけ間があった。
「お前らが薬切らして泣いてても来てやるよ」
「俺、泣かないもん」
「そういうこと言ってるやつが一番泣く」
「じゃあエーリヒが守って」
エーリヒは笑った。
男の子の頭をぐしゃっと撫でる。
「まず転ぶな」
子どもたちはそれでも満足そうだった。
また走っていく。
俺がエーリヒを見ると、向こうも気づいた。
「何だよ」
「人気者ですね」
「うるさい」
「勇者みたいでしたよ」
「やめろ。本人たちが信じる」
「もう信じてます」
エーリヒは嫌そうな顔をしたまま、薬箱を担いで倉庫へ入っていった。
―――
荷降ろしが終わる頃には、外は暗くなっていた。
今からジェノベックへ戻るのは危ない。
一晩ラズウェルで休み、朝になってから帰ることになった。
診療所の隣にある集会所へ通される。
長机が二つ並んでいた。
護衛と御者も一緒だった。
出されたのは豆と芋を煮込んだものに、硬いパン。
豪華ではない。
でも鍋は大きい。
「護衛の分までは考えてなかったんだけどね」
料理を運んできた女が皿を並べる。
「薬を持ってきてもらったんだ。このくらい食べていきな」
エーリヒの前には、最初から少し多めに盛られた。
「多いって」
「朝もろくに食べてないだろ」
「見てたのかよ」
「その顔で分かる」
エーリヒは言い返すのをやめ、パンを千切って煮込みへ浸した。
俺の向かいだった。
途中で御者から聞かれ、街道へ残してきたヴェスパルのことも説明する。
「南側は明るくなってから行け。尾を落としてないのがまだかなり残ってる」
「何匹だ?」
「知らん。数えるのは途中で諦めた」
「そんなにかよ」
エーリヒがセラの方を見る。
「ほとんど、この人がやった」
何人かの視線がセラへ集まる。
「百匹ぐらいいたって本当か?」
向かいの男が聞いた。
セラはパンをちぎった。
「数えていない」
「百より多かった?」
「知らん」
男は少し困った顔をした。
エーリヒが笑う。
「聞く相手が悪い」
セラは気にした様子もなく食べ続けた。
カイの肩には新しい布が巻かれている。
到着してすぐ、鉤爪で裂かれた場所を治療師に診てもらったらしい。
「痛みます?」
俺が聞く。
カイは一度肩を回した。
「動かすと少し。でも、この程度なら」
「その台詞、この街で聞くと嫌ですね」
カイが手を止める。
「……そうですね」
それ以上は続かなかった。
セラは俺から少し離れた席にいた。
食べる量はいつもと変わらず多い。遠慮という言葉は知らないみたいだ。
水を飲み干す。
「もう一杯もらえるか」
近くの女に声を掛けた。
二杯目。
少しして、また器が空になった。
女が笑う。
「よく飲むね」
「今日は動いた」
「そりゃそうだ」
三杯目が注がれる。
俺が見ていたら、セラと目が合った。
「何だ」
「いや」
「飲みたいなら頼め」
「そうじゃないです」
セラは少し眉を寄せたが、それ以上聞かなかった。
エーリヒは皿を空にした。
最後のパンで汁まで拭っている。
「まだ食うか?」
料理を運んできた女に聞かれた。
「もう無理」
「昔はもっと食べたろ」
「いつの話だよ」
入口から、さっきの男の子が顔を出した。
エーリヒが気づく。
「まだいたのか」
「明日、本当に帰るの?」
「ああ」
「また来てよ」
「仕事があればな」
「なくても」
「それじゃ飯食えないだろ」
男の子は少し考えた。
「じゃあ仕事作る」
エーリヒが吹き出した。
「余計なことすんな」
「でも来て」
エーリヒは返事をしなかった。
代わりに追い払うように手を振る。
外から男の子の名前を呼ぶ声がした。
「ほら。怒られるぞ」
男の子は嫌そうな顔をしたが、最後にもう一度エーリヒへ手を振って走っていった。
エーリヒも小さく手を上げる。
「懐かれてるな」
セラが言った。
「まあな」
「娘と同じくらいか」
エーリヒが一瞬だけセラを見た。
「ああ。だいたいな」
それ以上は話さなかった。
やがて鍋の底が見え始めた。
エーリヒが空になった皿を持って立つ。
「明日は日の出で出るぞ」
御者へ声を掛けた。
「帰りは蜂がいないといいな」
誰かが笑う。
「さすがに、あれだけやったら――」
木の皿が落ちた。
乾いた音だった。
俺が顔を上げた時には、エーリヒの身体が長机へ突っ込んでいた。
肩が机の縁へぶつかる。
机が大きくずれ、器がいくつも跳ねる。
椅子も倒れた。
エーリヒが何かを掴もうとした。
手が空を切った。
セラが椅子を蹴った。
一歩で間へ入り、床へ頭を打つ寸前の肩を掴む。
「危ない!」
言われて俺も反対側へ回った。
二人で身体を支える。
それでも膝は完全に落ちた。
「エーリヒさん!」
返事がない。
目は開いている。
でも焦点が合っていなかった。
「呼吸はある」
セラが首元へ手を当てる。
「浅い」
「カイ、治療師を!」
「わかりました!」
カイは扉へ走った。
集会所の中が一気に騒がしくなる。
机を退ける者。
落ちた器を踏んでしまう者。
何が起きたのか分からず、その場に立ったままの者。
俺とセラでエーリヒを床へ寝かせる。
「傷は?」
セラが聞いた。
服を見る。
血はない。
裂け目もない。
「見えるところにはないです」
「今日、攻撃は受けていたか」
「まともには」
セラがエーリヒの腕を持ち上げる。
力が入っていない。
そこへ治療師が駆け込んできた。
「空けて」
俺たちを脇へどけ、首へ指を当てる。
瞳を見て、胸へ耳を当て、腕を取った。
「何があった」
「急にです」
俺が答える。
「立ったと思ったら、そのまま倒れて」
「今日、怪我は?」
「戦闘はありました」
セラが答えた。
「だが、こいつは大きな攻撃を受けていない」
「毒は?」
戻ってきたカイが首を振った。
「尾針には触れていません。僕が見ていた限りでは」
治療師はエーリヒの服を緩め、背中や腹まで確認した。
大きな傷は出てこない。
腕を持ち上げる。
手を離す。
そのまま床へ落ちた。
治療師の顔が変わった。
「寝台へ運ぶ。急いでくれ」
人が動いた。
担架代わりの板が持ち込まれる。
俺も手を貸そうとして、床に落ちているものに気づいた。
借り物の剣だった。
倒れた拍子に帯から外れたらしい。
鞘ごと拾う。
エーリヒが担架へ移されていく。
手の中の剣を見る。
修理屋の帳面に残っていた三度。
今預けている分で、少なくとも四度目。
「トーマ」
セラが呼んだ。
顔を上げる。
「行くぞ」
エーリヒを載せた担架が奥へ運ばれていく。
俺は借り物の剣を持ったまま、その後を追った。




