第五十二話 薬を運ぶ道
東門へ着いた時には、四台の荷馬車がもう並んでいた。
一台目と二台目には薬材の木箱、三台目には保存食と治療用の布が積まれ、最後の一台だけ荷台の半分ほどが空いている。
御者たちが縄を締め直し、その横で二人の護衛が装備を確認していた。
片方には見覚えがある。
「エーリヒさん」
呼ぶと、振り向いた。
昨日ついた泥が、まだ裾や袖に残っていた。
乾いて白くなった泥の上へ今朝ついたらしい土まで重なっていて、本当に昨日からほとんど休まず動いているように見える。
腰にある剣も違った。
鞘も柄も使い込まれているが、街道で使っていたものではない。
俺の視線に気づいたらしい。
「ああ、これか。借り物だ。いつもの剣はまだ修理屋に預けてる」
「まだ戻ってないんですね」
「急がせても刃が直るわけじゃないからな。護衛を断るわけにもいかんし、今日はこれでやる」
エーリヒは鞘を軽く叩くと、もう積荷の確認へ戻っていった。
俺はその背中を見ながら、修理屋で開いた帳面を思い出した。
三度。
同じ持ち主の剣が、短い間隔で三度戻ってきていた。
そして今、本人の剣はまた修理屋にある。
四度目。
使い方が荒いだけかもしれないし、この街ではそれだけ戦う機会が多いのかもしれない。
ただ、剣が四度目の修理に入っている横で、持ち主は昨日の泥を服に残したまま次の護衛へ出ようとしていた。
少し遅れてカイが来た。
その後ろをインクスが歩いてくる。
背負っている工具袋は旅の荷物より明らかに重そうだった。
「インクスさんまで来るんですか」
「ウツロイを使うんだろ?」
工具袋を最後尾の荷台へ載せると、沈んだ荷台を御者が嫌そうに見たが、インクスは気づいていない。
セラは先頭の荷馬車の横にいた。
昨日までより立ち方が自然で、左肩も落ちていないし、右脚へ体重を掛けても逃がすような動きはなかった。
見た目だけなら、本当に治っている。
それが少し困る。
俺は近くまで行った。
「今日は、できれば剣を抜かずに終わってほしいです」
セラは荷馬車の先に続く道を見たまま、
「そうだな」
と返した。
約束ではない。
でも、本人も戦いたがっているわけじゃないことくらいは分かった。
昨日ソフィアに言われたことは、朝からずっと頭の隅に残っていた。
傷は治っている。
けれど、治療に使った《再生余力》まで元へ戻ったわけではない。
だから、もし本当に戦うことになったらどうするのか。
止めるのか。
どこまでならいいのか。
答えは結局、朝になっても出なかった。
出発の声がかかり、四台の荷馬車が東門を抜けていく。
街を離れてからしばらくは何も起こらず、道の両側には畑が続き、さらに進むと低い林が混じり始めた。
馬車の車輪が土を踏む音と馬の蹄、それ以外は時々、御者同士が声を掛け合うくらいだった。
昼前。
先頭の馬が、急に頭を振った。
御者が手綱を引く。
少し遅れて音が届いた。
遠雷に似ていたが、途切れない。
むしろ近づいてくる。
エーリヒが足を止めて空を見た。
俺もつられて顔を上げる。
林の向こうに、黒いものが浮かんでいた。
最初は雲に見えた。
けれど、それは動いていた。
近づくにつれて黒い塊が無数の点へ分かれ、一つ一つに翅があるのが見えてくる。
ヴェスパル。
何匹いるのか、分からない。
数えようとして、すぐに無理だと分かった。
十や二十なんて数じゃない。
百。
いや、それ以上かもしれない。
奥からまだ黒い影が湧き続け、重なった翅と胴体が青空を塗り潰していく。
真昼だった街道へ影が落ちた。
羽音も一匹ずつ聞き分けられるものではなく、空そのものが低く唸っていた。
若い護衛が一歩下がる。
「こんな数……」
「荷馬車を寄せろ! 馬を散らすな!」
エーリヒが借り物の剣を抜いた。
若い護衛が御者の前へ入り、カイは最後尾へ走る。
俺も荷台に括られていた予備の槍を外した。
その横をセラが通り過ぎる。
「セラ」
止まらない。
荷馬車から離れ、街道の中央へ出ていく。
さらに前へ進み、ウツロイを抜いた。
「待ってください」
今度は自分でも分かるくらい声が強くなった。
セラが半分だけ振り向く。
俺が怖いのは、あの数だけじゃない。
昨日、ソフィアに診てもらったばかりだ。
目の前のセラは普通に立っているし、肩も脚も動いている。
だから余計に、どこから止めればいいのか分からない。
「セラ一人で前線で戦う必要ないでしょう」
セラは俺の顔を少し見た。
その視線が一度だけ左肩へ落ちた俺の目を追ったのかどうかは分からない。
「荷馬車から離れるな」
「いや、俺が言ってるのは――」
「私一人で十分だ」
空を見上げる。
黒い群れ全体が揺れた。
セラはウツロイを下げたまま待つ。
「来い」
黒い空が落ちてきた。
最初の一団が急降下し、その背後から別の群れが左右へ広がる。
セラは迎え撃たなかった。
自分から、その中へ入った。
正面の一体とぶつかる寸前に身体をずらし、腹の節へ刃を滑らせる。
振り抜かず、返した刃で二体目の翼を落とし、身体を沈めたところへ突っ込んできた三体目の首を肩越しに斬った。
三体が地面へ落ちる頃には、セラはもう四体目の懐へいる。
一度の動きが終わる前に、次の攻撃が始まっていた。
右へ抜ければそこに首があり、身体を返せば背後から来た翼の根元へ刃が届く。
ヴェスパルが包囲を閉じようとする頃には、セラはもうその外へ出ている。
固い外殻へまともにぶつけることもない。
翼の根元。
腹の節。
口器の下。
首の継ぎ目。
ウツロイが止められない場所だけを選び、まるで最初から相手の身体の中へ線が引かれているみたいに斬っていく。
十数体が落ちた。
群れの動きが変わる。
セラへ近寄ろうとする個体が減り、その分だけ後ろの個体が押し出され、左右へ広がって距離を取ろうとし始めた。
「……逃げ始めてる」
若い護衛が呟いた。
セラは追った。
向かってくる相手を倒しているだけじゃない。
右へ追い込み、左を斬り、空いた方へ自分が回る。
気づけば、荷馬車を覆っていた群れの中心そのものが街道の先へ引き剥がされていた。
全部、セラへ寄っている。
ウツロイの内部で金属が噛み合った。
刀身が広がり、柄が伸びる。
大剣形態。
一体を刃の腹で叩き飛ばし、後ろの個体へぶつける。
二体が絡んだところへ踏み込み、まとめて断つ。
横から入った攻撃は大剣の背で逸らし、そのまま重さを返してヴェスパルごと地面へ叩き落とした。
「ケケ……」
インクスが笑いかけた。
でも、その声が途中で止まる。
目はセラではなく、ずっとウツロイを追っていた。
「そんな使い方、僕は考えてないんだけどな」
大剣が長剣へ戻る。
変形の途中でも、セラの手は止まらなかった。
狭くなっていく刀身をそのまま引き抜き、次の一体へ入る。
「……変わってる途中まで使うの?」
誰にも聞いていない。
インクスの疑問が終わるより早く、群れが一斉に高度を上げた。
低空に残っていた個体まで追従し、セラの剣が届かない高さへ逃げていく。
頭上で黒い円が何重にも重なった。
街道が再び暗くなる。
「学習したか」
エーリヒが借り物の剣を握り直す。
向こうから来ないなら待てばいい。
俺はそう思った。
護衛なのだから、荷馬車を守れればそれでいい。
「セラ。ここまでで――」
セラの腰が沈んだ。
「ちょっと待って」
踏み込んだ土が弾けた。
セラが消える。
次に見えた時には、もう空だった。
最も低い位置を旋回していたヴェスパルの腹を長剣が下から斬り抜き、両断された身体と一緒にセラも落ち始める。
その足が死骸の背へ触れた。
蹴る。
落下が横への加速へ変わる。
二体目の翼が飛び、傾いた身体を踏んで今度は斜め上へ飛ぶ。
三体目が反応した時には、もう首が落ちていた。
そこからは速すぎた。
一体斬るたびに次の足場ができる。
生きている個体も、死にかけた個体も、落ちていく死骸さえ使う。
群れが横へ逃げれば横へ。
高度を上げればさらに上へ。
距離を取ろうとしたヴェスパル自身が、次のヴェスパルまでの足場になった。
セラは飛んでいるわけじゃない。
でも地面へ戻らない。
黒い群れの中だけで、走っていた。
「……待って」
インクスの声が聞こえた。
もう笑っていない。
空を見上げたまま、何もないところで柄を握るように指を動かしている。
「今の、剣の重心を使って身体の向きを変えたのかい?」
セラが一体の背を蹴る。
ほぼ真横へ飛び、すれ違ったヴェスパルを斬る。
そのまま身体をひねり、落ちる個体の脚へ足を掛けて上へ跳ぶ。
「いや、その次まで決めてた?」
答えはない。
三方向へ散ったヴェスパルのうち、セラは真ん中を追わなかった。
右へ逃げた一体を斬る。
その死骸を左へ蹴り飛ばす。
逃げていた別の一体へぶつかる。
動きが止まったところへセラが届く。
二体続けて落ちた。
インクスの肩が震えた。
「僕が作った剣だよね、あれ」
次の瞬間。
「ケッ……ケケ、ケケケケケケ!」
腹を抱えて笑い始めた。
戦闘の真っ最中なのに、膝へ手までついている。
「何だよ、それ! そんなの僕、知らないよ!」
息を吸おうとして、また吹き出す。
「ケケケケ! 僕が作ったのに! 僕の剣なのに、知らない使い方ばっかり増えていくじゃないか!」
空ではまた一体落ちた。
インクスはそれを見て、さらに笑った。
悔しがっているようには見えない。
むしろ逆だった。
自分の手を離れた剣が、自分の想像より先へ行くたびに嬉しくて仕方がないらしい。
「いいね。もっとやってよ。次は何するんだい?」
当然、セラには聞こえていない。
聞こえていたとしても、答えなかっただろう。
その間にも黒かった空は削られていった。
ヴェスパルが落ちるたびに青空が開き、そこへ陽が差し、その光の中をセラが横切ってまた一体を落とす。
一体の背へ降りた時。
膝が、いつもより深く沈んだ。
ほんの一瞬。
次の瞬間には、そのヴェスパルを蹴ってまた上へ飛んでいた。
俺は目を細める。
見間違いかもしれない。
あれだけ動いている。
足場だって不安定だ。
でも、もう一度見ようとした。
追えない。
銀色の刃が別の場所で光り、そのあとからヴェスパルが落ちてくる。
セラの左肩。
右脚。
呼吸。
見たいものが多すぎて、どこを見ればいいのか分からなくなる。
若い護衛は剣を構えたまま途中から空を見ていた。
御者も。
エーリヒまで、一度剣先を下げていた。
群れの方が先に崩れた。
東へ逃げるもの。
高度を捨てて地上へ降りるもの。
ばらばらになっていく。
それでもセラの届く範囲にいる限り、逃げた方向そのものが次の足場になった。
「……王国最強って」
若い護衛が何か言いかけたが、続かなかった。
その時、群れの端から数体が離れた。
セラを諦めたらしい。
三体が荷馬車へ向かう。
「こっちに来てます」
カイが先に動いた。
一体目の攻撃を半身で外し、すれ違いざまに翼の根元へ短剣を入れる。
飛べなくなったヴェスパルが落ち、若い護衛が首を断った。
二体目はエーリヒへ向かった。
エーリヒはほとんど動かず、攻撃が胸へ届く直前に半歩だけ外れる。
すれ違った首へ借り物の剣が入り、そのまま地面へ落ちた。
三体目がカイへ飛び込んだ。
前脚の鉤爪が肩口を薙ぐ。
服が裂けた。
カイの身体だけを見ると、まだ血は出ていない。
《後払い》。
カイは自分の肩を見ることもなく、すれ違ったヴェスパルの後脚を掴んだ。
飛び抜けようとする勢いまで利用して身体を振り回し、そのまま街道へ叩きつける。
若い護衛が追いつき、首へ剣を入れた。
数秒後。
裂けた服の下から、遅れて血が滲んだ。
カイは一度だけ肩を動かした。
それで終わりだった。
こっちは大丈夫だ。
そう思って空へ視線を戻そうとした。
羽音が近い。
近すぎる。
振り向く。
一体だけ、地面すれすれを回り込んできていた。
「っ!」
考えるより先に槍を構える。
攻撃と穂先がぶつかった。
衝撃が腕の奥まで抜け、思っていたよりずっと強い力に一歩押される。
俺は槍を引き、さっきセラが何度も斬っていた腹の節を狙った。
場所は分かる。
あそこだ。
なのに動く相手を前にすると、穂先がそこへ行かない。
外殻へ当たった。
硬い音がして、槍が弾かれる。
ヴェスパルが間を詰める。
今度は槍を横にして受けた。
また押された。
一歩。
さらに一歩。
踵が車輪の轍へ入った。
抜こうとした時、空から声が飛んだ。
「トーマ、後ろに下がれ!」
セラ。
下がる。
分かっている。
右足を引く。
轍に取られた踵が引っかかった。
身体だけが後ろへ傾く。
「ちょ、待っ――」
槍へ掛けていた力まで抜けた。
ヴェスパルが一気に押し込んでくる。
その瞬間。
空で、金属が噛み合う音がした。
長剣だったウツロイが大剣へ変わる。
セラが落ちてきていた。
俺の真上へ。
まずい。
そう思った時には、セラの視線が下へ向いていた。
俺じゃない。
足元。
轍。
下がれていないことに気づいた。
空中で身体をひねる。
近くにいたヴェスパルの背を片足で蹴り抜き、その反動で落下軌道をわずかにずらした。
ほんの半歩。
それだけで俺の身体が、大剣の真下から外れる。
セラは振らなかった。
大剣の刀身を縦に立てた。
切っ先を真下へ向ける。
俺を押し込んでいたヴェスパルが顔を上げる。
遅い。
大剣が背中から突き刺さった。
甲殻を割り、胴を貫き、そのまま街道へ深く食い込む。
土が弾けた。
ヴェスパルの巨体が、大剣一本で地面へ縫い止められる。
俺は槍を握ったまま尻もちをついた。
セラは大剣の柄へ片手を掛けたまま着地している。
片膝が深く沈んだ。
さっき空中で見た時よりも、今度ははっきり分かった。
一拍。
ほんの一拍だけ、立ち上がるのが遅れた。
胸の奥がざわつく。
セラはすぐに立った。
呼吸も乱れていない。
左肩も下がっていない。
それでも俺は、今の一拍を見ていた。
「……後ろに下がれと言っただろう」
「下がろうとはしたんですよ」
セラが俺の足元を見る。
轍。
「見ていた」
「なら仕方なかったのも分かったでしょう」
返事はない。
大剣を引き抜く。
重い死骸が横へ崩れた。
インクスが駆けてくる。
俺ではない。
当然のようにウツロイへ向かった。
「今の!」
大剣を覗き込む。
「何で振らなかったの? あの高さなら、そのまま斬れたよね?」
セラが刀身についた体液を払う。
「トーマがいた」
「だから軌道を変えて刺したのかい?」
返事を待たず、今度は地面に残った穴を見ている。
「でも空中で大剣へ変えたら重心が……いや、その前に一体蹴ったから……」
途中から完全に独り言になった。
セラはウツロイを長剣へ戻した。
インクスが変形を間近で追う。
さっきまであれだけ笑っていたのに、今度は黙っている。
頭の中で何かを組み直しているらしい。
俺はまだ地面に座っている。
誰も助け起こしてくれない。
空を見上げると、あれほど黒かった空にはもう青しか残っていなかった。
遠くへ逃げていく小さな影がいくつか見えるだけで、街道にはヴェスパルの死骸がいくつも散らばっている。
何匹いたのか。
最後まで分からなかった。
ただ、そのほとんどを一人で落とした人間が、俺の前で何事もなかったみたいに大剣を長剣へ戻している。
セラが鞘へ納めようとした。
刃先が、鞘口の横へ触れた。
小さな音。
セラの指が、一度だけ柄を滑った。
俺は立ち上がる途中で止まった。
セラは自分の手を見なかった。
握り直し、今度は普通に鞘へ納める。
「セラ」
呼んだ。
少しだけ振り向く。
「何だ」
何を聞く。
疲れたか。
痛いか。
大丈夫か。
たぶん全部、大丈夫だと返ってくる。
俺が黙っていると、セラも待たなかった。
「行くぞ」
荷馬車へ歩き始める。
左肩は落ちていない。
右脚も引きずっていない。
歩幅だって、見ただけならいつもと変わらない。
だから俺の目には、さっき一度だけ深く沈んだ膝と、鞘を外した指だけが残った。
昨日ソフィアに言われたことは、別に忘れていたわけじゃない。
ずっと頭にあった。
それでも、あれだけ動けるセラを見ていると、どこまでが止めるべき無茶なのか分からなくなる。
俺は槍を荷馬車へ戻しながら、その答えをまだ出せないまま、セラの後ろを歩いた。




