第五十話 傷の奥
中庭から担架がほとんど消えたのは、昼をかなり過ぎてからだった。
怪我人がいなくなったわけではない。
第三支部の治療室へ移された者もいれば、壁際に並べられた簡易寝台で眠っている者もいる。
ヴィクトルで傷が閉じたあと、立とうとして職員に寝かされた男もいた。
朝、大鍋が置かれていた場所まで寝台が広がっている。
ヴィクトルは、もう白布の中へ戻っていた。
開いていた部材は隠され、留め具も元へ戻されている。
朝と同じ、何のために立っているのか分からない大きな支柱だった。
さっき開いた姿を思い返すと、バスティオンとアレーテイアが浮かんだ。
形も、やっていることもまるで違う。
それでも、普通の道具を見ている時にはなかった、何か大きすぎるものに触れているような感覚だけは似ていた。
気のせいかもしれない。
けれど――これも、神造兵器なんじゃないか。
今は、それだけ頭に残した。
インクスはヴィクトルの根元にいた。
昼飯も食べていないはずなのに、しゃがんだまま金属の合わせ目へ爪を当てている。
「まだやってるんですか」
声を掛けると、顔を上げずに手だけ振った。
「閉じたあとが面白いんだよ」
「何が?」
「朝と違う」
それだけ言って、また黙る。
朝には入らなかった継ぎ目へ、今は爪の先が少しだけ入るらしい。
インクスは反対側へ回って同じ場所を探し、今度は首を傾げた。
「開いたんだから、少しくらいずれるんじゃないですか」
「そうかもね」
否定しなかった。
手も止めない。
「違うかもしれないし」
小さく笑う。
「ケケケ」
分からないものを見つけると、この男は機嫌がよくなる。
その少し離れたところでは、カイが長椅子に座って水を飲んでいた。
脇腹の傷はもう見えない。
上着だけが大きく裂け、乾きかけた血が布を硬くしている。
何度か立とうとしたのを見た。
そのたび、途中でやめていた。
少し離れた寝台でソフィアが患者を診ている。
本人はこちらを見てもいない。
それでもカイは、立てば見つかると思っているらしい。
セラは中庭の端でウツロイを拭いていた。
ヴェスパルの黒い体液を布で落とし、長剣形態の刃を光へ透かす。
一度、柄を左手へ持ち替えた。
その腕が止まった。
ほんの少し。
ウツロイを落とすほどではない。
セラは何もなかったように右手へ持ち直し、鞘へ納めた。
俺は見ていた。
たぶん、もう一人も。
「あなた」
ソフィアが言った。
セラは振り返らない。
ソフィアは患者の腕へ包帯を巻いたままだった。
端を結んで、余った布を切る。
「剣持ってる人」
セラがようやく顔を向けた。
「何だ」
ソフィアは答えず、近くの職員へ患者を任せた。
そのままセラのところまで来る。
左手首を掴んだ。
「おい」
「こっち」
そのまま歩き出す。
本気で嫌ならセラが動くはずもない。
けれど、あまりに迷いなく引かれたせいか、二歩ほどはそのまま連れていかれた。
途中から自分で歩く。
「傷はない」
「うん」
「なら――」
ソフィアは聞いていなかった。
治療所の戸を開ける。
セラが入口で足を止めると、背中を押して中へ入れた。
俺も何となく後へ続いた。
――――
治療室は狭かった。
寝台が一つと椅子が二脚。
壁際の棚には包帯と薬瓶が詰め込まれ、窓は開いているのに、昼の熱と薬草の匂いが残っている。
ソフィアは台の上にあった器具を端へ寄せた。
「脱いで」
セラが上着の留め具へ手を掛ける。
「上だけか」
「下も。背中と脚も見るから」
セラは一度ソフィアを見た。
それから腰の剣帯を外す。
上着を脱ぐ。
その下も、何の迷いもなく外し始めた。
俺は数秒、普通にそこにいた。
途中で何をしているのか頭が追いついた。
「ちょ、ちょっと待ってください」
セラの手が止まる。
「何だ」
「いや、その……俺、外にいますから」
セラがこちらを見る。
「なぜだ」
本気で分からないらしい。
「なぜって……」
説明できるか、こんなもの。
ソフィアがそこでようやく俺を見た。
一瞬だけ目を丸くしてから、俺が何を気にしているのか分かったらしい。
「ああ」
小さく頷く。
「気になるなら外にいていいわよ。私は診察だから別に気にしないけど」
それだけ言って器具へ戻った。
セラはまだ俺を見ている。
「と、とにかく外にいます!」
逃げるように部屋を出て、扉を閉めた。
ようやく息が出る。
耳まで熱いのが自分でも分かった。
なんでセラはあんなに平気なんだ。
ソフィアはまだ分かる。
何人も診てきた治療者なんだから、いちいち気にしていられないんだろう。
セラは違う。
そこまで考えたら、こっちだけ余計なことを意識しているみたいで嫌になった。
俺は扉から一歩離れた。
二歩離れた。
なんとなく、もう一歩離れた。
中からソフィアの声がした。
「右脚も見るわよ」
衣擦れの音。
聞くんじゃなかった。
俺はさらに離れた。
最初はそのまま待っていた。
中から声はほとんど聞こえない。
たまに寝台の軋む音がするくらいだった。
長い。
何を診ているんだ。
さっきの肩。
ヴェスパルと戦った時にも、明らかに一度遅れた。
右脚も見ている。
気になり始めると駄目だった。
俺は扉の前まで戻った。
入っていいものか迷う。
一度手を下ろした。
やっぱり気になる。
軽く叩いた。
「……トーマです」
少し間があった。
「どうぞ」
ソフィアだった。
俺は取っ手へ手を掛けた。
さっき自分から飛び出しておいて戻るのも変な気がする。
それでも、扉を少しだけ開ける。
「……大丈夫ですか」
「布は掛けてるわよ」
ソフィアの声に少しだけ笑いが混じっていた。
中を見る。
セラは寝台へ腰掛けていた。
身体には大きな治療布が巻かれている。
よかった。
何がよかったのかは考えないことにした。
恐る恐る中へ入り、扉を閉める。
セラが一度こっちを見たが、すぐソフィアへ向き直った。
ソフィアはもう診察へ戻っている。
セラの左腕を持ち上げ、肩を回す。
背中へ回り、肩甲骨の内側を押した。
一か所だけ、セラの呼吸が変わった。
ソフィアはそこへ指を置いたまま、少し位置をずらす。
次は右脚だった。
膝を曲げる。
足首を回す。
立たせて数歩歩かせる。
セラは言われるまま動いた。
途中で面倒になったのか、
「まだか」
と聞く。
ソフィアは返事をせず、歩いて戻ってきたセラの腰へ手を当て、もう一度向きを変えた。
セラも何も言わなくなった。
しばらくして、ソフィアが両手を洗う。
指の間。
爪の際。
手首まで丁寧に流す。
布で拭いてから、セラの左肩へ片手を置いた。
もう片方は背中。
「少し奥まで入れるわね」
セラが小さく頷く。
ソフィアは目を閉じた。
中庭でカイたちを治療していた時とは違った。
呼吸がゆっくりになる。
それから、低い声で言葉を落とした。
「――息は巡り、血は道へ」
指の間に白い光が灯った。
「骨は骨へ。肉は肉へ」
光が広がる。
ヴィクトルの光とは違う。
あれは薄く、大勢へ分かれて届いた。
ソフィアの光は狭い。
その分、濃かった。
白の内側に淡い金色が混じり、肩から首、背中へ細い筋となって伸びていく。
昼間なのに、部屋の中だけ別の明るさになった。
眩しいはずなのに、目を逸らしたくならない。
神殿なんてほとんど知らないのに、神聖という言葉が先に浮かんだ。
「失われたものよ、己が形を忘れるな」
セラの左手がわずかに開いた。
本人が動かしたようには見えなかった。
光が肩の奥へ沈んでいく。
鎖骨の下。
胸の中心へ。
そこで一度、金色の筋が揺れた。
真っ直ぐ進みかけて、迷ったように左右へ分かれる。
ソフィアの眉がわずかに動いた。
すぐに光を引き戻す。
「あるべき場所へ」
最後の言葉とともに光が強くなった。
俺は思わず腕で目元を庇った。
セラの輪郭そのものが、淡く金色に縁取られている。
数秒。
やがて光が弱まり、部屋の明るさが元へ戻った。
ソフィアは手を離さなかった。
今度は祈りを口にせず、肩の位置を変えながら短く光を流していく。
背中。
左腕。
右脚。
必要なところだけを拾っていくようだった。
最後に手を離す。
「動かしてみて」
セラが左腕を上げた。
真横。
さらに上。
頭の後ろまで回した。
一度下ろし、今度は速く上げる。
途中で止まらない。
右脚にも体重を乗せる。
膝を曲げた。
それから、少し意外そうに自分の肩を見る。
「……軽いな」
ソフィアは手を拭きながらセラの動きを見ていた。
「戦いで負った傷は治ったわ」
その言い方に、俺だけが顔を上げた。
戦いで負った傷は。
その先に何かあるように聞こえた。
ソフィアと目が合った。
ほんの一瞬。
何も言わず、またセラを見る。
セラは気にしていなかった。
もう一度肩を回す。
今度は笑った。
ほんの少しだったが、はっきり分かった。
「助かった。礼をいう」
戦っている時には、まず見ない顔だった。
ソフィアも一瞬だけ手を止めた。
「ええ」
口元が少し緩む。
「どういたしまして」
セラは治療布へ手を掛けた。
俺は反射的に立ち上がった。
「外にいます!」
今度は何も聞かれる前に出た。
後ろでソフィアが小さく笑った。
――――
服を着終えたセラが出てきた。
剣帯も元に戻っている。
左肩を一度回し、今度は右脚へ体重を掛けた。
踵を少し浮かせる。
下ろす。
次に二、三歩だけ歩いて、止まった。
自分でも動きの違いを確かめているらしい。
「先に戻る」
それだけ言って、中庭へ向かった。
いつもより歩幅が少し大きい。
本人は気づいていないかもしれない。
俺はその背中を見送った。
さっき笑った時もそうだった。
治ったのが、少し嬉しいらしい。
それを本人に言ったら、たぶん否定する。
追おうとしたところで、
「トーマ」
後ろからソフィアに呼ばれた。
振り返る。
「少し手を貸して」
部屋へ戻る。
ソフィアは使った器具を洗い始めていた。
俺は何をすればいいのか分からず、入口の横に立ったままになる。
セラの足音が遠ざかる。
中庭の声に混ざって聞こえなくなった頃、ソフィアが器具を水から上げた。
布の上へ並べる。
こっちを見ないまま言った。
「セラさん、重傷ね」
心臓が跳ねた。
「え?」
自分でも間抜けな声が出た。
ソフィアがようやく俺を見る。
さっきまでの穏やかな顔ではなかった。
俺は治療中の光を思い返した。
途中で分かれた金色。
「……分かるんですか?」
「ええ」
ソフィアが微笑む。
それで駄目だった。
ずっと喉の奥で引っかかっていたものが、一気に上がってきた。
「実は……」
そこまで言って、止まった。
ソフィアの治療衣には、第三支部の職員たちの胸にあった空座の紋がなかった。
それに気づいたのは、中庭で初めて見た時だった。
ソフィアは何も聞かない。
濡れた器具を布の上へ置き、次の一本を手に取った。
国王に伝えた時も、あれは報告だった。
見えたものを伝えただけだ。
どうしたらいいのか。
本人に言うべきなのか。
まだ黙っておくべきなのか。
そんなことを誰かに相談したことは、一度もなかった。
俺は椅子へ腰を下ろした。
「俺、《不具合鑑定》って異能を持ってるんです」
ソフィアの手が少しだけ遅くなった。
それだけだった。
「壊れてるものとか、普通と違うところが見える。武器なら亀裂とか、使い続けるとどこが壊れるとか」
そこまでは何度か人へ説明したことがある。
問題は、その先だ。
「でも、セラだけ違うんです」
ソフィアはまだ何も言わない。
「初めて鑑定した時、人間に出るような表示じゃなかった」
頭の中に文字が戻ってくる。
見たくなくても、もう忘れられない。
「《対象名称――セラ・ヴァルク》」
自分の声が少し低くなる。
「《個体識別名称――未登録》」
ソフィアの手が止まった。
「《分類――神造兵器・第九号》」
言葉にすると、そこだけ現実から浮いて聞こえる。
「《機能――統制鍵》」
一度息を吸った。
そこから先が一番言いたくない。
「最後に出た時は、《破損進行率――七十九パーセント》」
ソフィアが顔を上げる。
「《完全破損まで――推定九十五日》」
言ってしまった。
膝の上で手を握る。
「でも、今の数字じゃないんです」
急いで続けた。
「俺の意思じゃ出せない。見ようとしても出ないし、そこから進んでるのか、止まってるのかも分からない。《完全破損》が何なのかも分からない」
喉が乾く。
「本人にも、まだ言ってない」
その一言を出す方が、数字を言うよりきつかった。
ソフィアの手は動かない。
俺は俯いたまま続けた。
「言った方がいいのか、ずっと分からなくて」
自分でも情けないくらい声が小さくなる。
「九十五日って見せられて、何をしろって言うんだって思うし。でも、本当にその通りだったら……黙ってた時間まで無駄にするかもしれない」
言葉が勝手に出てくる。
「違ってたら、余計なもの背負わせるだけだし」
それから、俺が知っている範囲で話した。
一緒に旅を始めてから何度も戦った。
治療したあと、ろくに休まず次へ行ったこともある。
本人が動けると言えば、俺も結局止め切れなかった。
左肩にはずっと傷が残り、アレーテイアではそこへさらに負担が掛かった。
右脚にも違和感が残った。
ベルーガへ来てからも、荷物を持つ時や剣を振る時、何でもない顔をして左を庇うことがあった。
話しているうちに、自分でもどこまでが戦傷で、どこからが《破損》なのか分からなくなる。
「治せば動くんです」
俺は言った。
「さっきも、あんなに普通に肩が上がってた」
だからこそ分からない。
壊れているのか。
治っているのか。
両方なのか。
ソフィアは最後まで聞いた。
途中で質問を挟まなかった。
俺が話し終えても、すぐには何も言わなかった。
器具の一つを裏返し、残っていた水を布で拭う。
もう一つ取る。
そっちも拭く。
俺は待った。
やがて、
「そうだったの」
とだけ言った。
また静かになった。
水の落ちる音だけがする。
ソフィアは次の器具へ手を伸ばした。
俺はまだ待った。
何か続くと思った。
でも、何も来ない。
さすがに耐えられなくなって、顔を上げた。
「……え?」
ソフィアの手が止まる。
俺を見た。
少し申し訳なさそうに眉を下げる。
「さっきの『重傷ね』なんだけど」
「はい」
「あなたの顔を見て、言ってみたの」
意味が入ってこなかった。
数秒遅れて、
「……え?」
もう一度出た。
ソフィアが少し困ったように笑った。
「治療だけで七十九だの九十五日だのまで分かるわけないでしょう」
俺は何も言えなかった。
「……全部喋ったんですけど」
「ごめんなさい」
今度はちゃんと謝った。
けれど、少しだけ笑っている。
「でも、聞けてよかった」
それでは怒るにも怒れない。
俺が何も言えずにいると、ソフィアの表情が戻った。
「ただね」
セラへ触れていた右手を見る。
「何もなかったわけじゃないの」
俺もそちらを見る。
「あの子、治癒の入り方がおかしかった」
「途中で光が……」
「見えてた?」
頷く。
ソフィアは自分の指を軽く擦った。
「深いところを治す時は、古い祷句を使うの。神様に頼んでるわけじゃないわ。治療の順番を飛ばさないためと、その人の身体が覚えている形を拾いやすくするため」
さっき聞いた言葉が頭へ戻る。
失われたものよ、己が形を忘れるな。
「骨なら元の位置がある。筋肉にも、神経にもある。壊れていても、身体の方に残っているものを辿って戻すの」
そこでソフィアは少し考えた。
「セラさんは、それが途中で分かれた」
「分かれた?」
「そう見えた、くらいにしておいて」
断定しなかった。
「肩の傷は拾えた。右脚も。そこは普通に治せた。でも、もっと奥へ入った時だけ、光がどこへ向かえばいいのか迷った」
「それって……」
「そこから先は、まだ分からない」
今度は先に止められた。
「身体の作りなのか、昔の治療なのか、あなたの言う神造兵器ってものが関係しているのか。そこまでは言えないわ」
「でも、何かある?」
ソフィアは少し考えた。
「普通ではなかった」
それだけだった。
ソフィアは棚の奥から、先端に透明な石のついた細い板を取り出した。
「それと、もう一つ」
さっきセラを診た時にも使っていたらしい。
光の残りを確かめるように石を透かして見る。
「再生余力がかなり少ない」
「再生余力……」
中庭で、傷が治ったのに立てなかった人たちを思い出す。
「今日のヴィクトルだけが原因じゃないわ。昔の治療も、怪我も、無茶も、私には全部は分からないから」
透明石を机へ戻す。
「ただ、今の状態でまた大きな治療をするのは嫌ね」
「じゃあ、戦ったら」
「怪我をしたら治療が必要になるでしょう」
そこは当たり前すぎて、返す言葉がなかった。
俺はしばらく黙った。
結局、同じところへ戻ってくる。
言うのか。
言わないのか。
セラ本人は何も知らない。
「……やっぱり、話した方がいいんでしょうか」
ソフィアはすぐには答えなかった。
薬瓶を一つ手に取り、棚の別の場所へ戻す。
「今日?」
「え」
「今日、九十五日って聞いたら、セラさんは何か決められるの?」
俺は口を閉じた。
分からない。
「じゃあ、今日じゃなくてもいい」
思わず顔を上げる。
ソフィアは棚を見たままだった。
「でも、ずっと黙っておけばいいとも思わない」
今度はこっちを見る。
「次に何か見えたら、持ってきて。数字でも言葉でも、そのまま」
「そのまま?」
「あなたがどう思ったかは後でいい。先に、何が見えたか」
アレーテイアで覚えたやり方に少し似ていた。
確認したことと、そこから考えたことを分ける。
ソフィアは続ける。
「私は身体を見る。あなたは、あなたに見えるものを見る」
それから少し肩をすくめた。
「二人で見ても分からなかったら、その時は分からないって言えばいいでしょう」
胸の奥で何かが緩んだ。
「それで……いいんですか」
「今ない答えを、無理に作るよりはね」
あまりにも普通に言われた。
俺はずっと、勇気がないだけだと思っていた。
言う勇気。
黙って守る覚悟。
どちらかを選ばなきゃいけないと。
ソフィアが俺を見る。
「あなたが見つけたからって、あなた一人で答えまで出す必要はないわ」
何も返せなかった。
その言葉だけが残った。
俺にしか見えない。
だから俺が決めなきゃいけない。
ずっとそう思っていた。
違ったらしい。
セラがどうなるのかは、まだ分からない。
九十五日が何を意味するのかも。
治せるのかも。
何一つ解決していない。
それでも、少し息がしやすくなった。
「次に出たら」
俺は言った。
「持ってきます」
「ええ」
「ああ、それと」
扉へ手を掛けたところで呼び止められた。
「今日、あの子を戦わせないで」
俺は中庭の方を見る。
「本人にも言ってくださいよ」
「言ったわよ」
ソフィアはもう器具へ目を戻していた。
「だから、あなたにも言ってるの」
ソフィアはそれで話を終わらせた。
中庭へ出る。
セラは少し離れた場所を歩いていた。
左肩を回し、右脚へ体重を移してから、何歩か歩く。
さっきまでより腕が高く上がっている。
俺はその場から、それだけを見ていた。
その向こうでは、カイがまだ長椅子にいる。
二人の間には、何人かの職員と寝台があった。
セラはそちらを見なかった。
カイも声を掛けない。
さらに奥では、インクスが相変わらずヴィクトルの根元へしゃがみ込んでいる。
分からないものは、まだ何も分からないままだった。
ただ、それを分からないまま持っていく相手が一人増えた。
それだけで、昨日までとは少し違っていた。




