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最強女騎士は、あと百二十日で壊れる ~粗探ししかできないハズレスキル《不具合鑑定》の俺だけが、それに気づいた~  作者: 出水克幸
勝利譌�ヴィクトル編

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第四十九話 最短路

「納品は、昨日ので終わったんだな」


朝食を終えて宿を出たところで、セラが聞いた。


インクスは返事の代わりに懐を探り、くしゃくしゃになった紙を引っ張り出した。


昨日、補修所でもらった受取書だった。


「たぶん」


「たぶん?」


カイが覗き込む。


「十二本って聞いていましたけど、十三って書いてありますね」


「一本余ったから置いてきたんだよ」


「それは納品ではないのでは」


インクスは紙を裏返し、しばらく眺めてから、また畳んだ。


「受け取ったんだから、いいんじゃない?」


カイは口を開いたが、何も言わなかった。


昨日の補修所の主人も、似たような顔をしていた。


セラは二人のやり取りには入らず、宿の前から通りを見ていた。


朝はまだ早い。


それでもジェノベックは、もう動いている。


戸板を外す店があり、荷車へ木箱を積む男たちがいて、籠いっぱいのパンを抱えた子供がその間を縫うように走っていく。


通りの端では、片腕を包帯で吊った男が、残った腕だけで店先の椅子を並べていた。


昨日から気になっていた。


怪我人はいる。


それなのに、寝込んでいる人間をあまり見ない。


「今日は街を見る」


セラが言った。


インクスが受取書をしまう。


「どこ?」


「まだ決めてない」


セラは歩き出した。


「昨日だけじゃ足りない」


それ以上は言わなかった。


俺とカイも続く。


ここへ来た目的そのものが、ジェノベックを調べることだった。


空座第三支部。


異様に早く傷から戻る人間たち。


エーリヒ・シュタール。


何度も補修所へ持ち込まれていた、同じ剣と鎧。


昨日、担架で第三支部へ運び込まれた男は、夕方には自分の脚で外へ出てきた。


見たものは増えた。


分かったことは、あまり増えていない。


「第三支部から見ない?」


インクスがセラの横へ出た。


「昨日の、あれ」


「ヴィクトルですか」


カイが先に言った。


「うん」


「街を調べる話だったと思いますが」


「あるじゃないか。街に」


カイが黙る。


セラが角を曲がった。


第三支部の方角だった。


インクスが少しだけ歩くのを速めた。


――――


第三支部の中庭には、昨日と同じ大鍋が置かれていた。


まだ煮炊きは始まったばかりで、湯気の向こうから刻んだ野菜の匂いがする。


入口の掲示板では老人が仕事札を一枚ずつ読み、昨日子供を預けていた女は、中庭の端で洗濯物を畳んでいた。


治療所の戸も開いている。


胸に包帯を巻いた男が、治療師らしい女に何か言われながら出てきて、片手を上げて笑うと、そのまま門へ向かった。


中庭の中央には、白布を巻かれた大きな支柱が立っている。


ヴィクトル。


近づいても、特別なものには見えなかった。


古びた太い支柱に白い布が巻かれ、その下に石造りの台座があるだけで、街の記念碑だと言われれば、俺ならそのまま信じる。


インクスだけは違った。


中庭へ入るなり昨日とほとんど同じ場所へしゃがみ込み、根元の石、わずかに露出した金属、白布の端を順に目で追っていく。


「これ、触っていい?」


近くを通った職員へ聞いた。


昨日止められたのを覚えていたらしい。


「見るだけなら……」


「触るのは?」


もう指が伸びている。


「壊さなければ、構いませんよ」


職員とは別の声だった。


振り返る。


黒髪の男がこちらへ歩いてきていた。


黒を基調にした長衣に、薄い黒の手袋。


片耳には小さな飾りがある。


男が近づくと、職員がわずかに姿勢を正した。


「サイラスさん」


「おはようございます」


職員にも、俺たちにも、同じ調子だった。


柔らかい声だった。


インクスはサイラスをほとんど見ず、ヴィクトルへ手を伸ばした。


露出した金属へ指を置き、表面を撫でてから爪先で軽く叩き、少し位置をずらしてもう一度叩く。


今度は台座だった。


音を聞いているらしい。


サイラスも横へしゃがんだ。


「何か見つかりました?」


「ここと、こっち。違うね」


インクスが二か所を指す。


「何がです?」


「たぶん、作った時期」


指が境目をなぞる。


「こっちの方が後」


「たぶん?」


「割れば分かるよ」


職員が顔を上げた。


サイラスは少し遅れて、


「それは困りますね」


と言った。


声は変わらない。


インクスは白布の端を少し持ち上げた。


「この辺も後からかな」


「そこまでは、僕にも」


「知らないの?」


「知らないこと、多いんですよ」


サイラスは気にした様子もない。


「僕よりずっと昔のものですから」


インクスがようやく顔を見る。


「でも、見つけたのは君?」


「ええ」


「どこ?」


「街の外です。古い遺構があって」


「どんな?」


サイラスの口元が少し緩んだ。


「全部聞きます?」


「聞くよ」


「そうですか」


なぜか、それを嫌がらなかった。


けれどインクスの方が、もう別の継ぎ目へ目を移している。


サイラスは続きを話さず立ち上がり、その視線がこちらへ来て、一度セラで止まった。


顔ではない。


左肩。


セラも気づいた。


「何だ」


「いえ」


サイラスはわずかに首を振った。


「職業病みたいなものでして。怪我をされている方には、どうしても目がいくんです」


セラは黙っている。


サイラスの視線が肩から腕へ落ち、すぐ顔へ戻った。


「左肩を、少し庇っていらっしゃるでしょう」


「動く」


「ええ」


それで大丈夫だとは言わなかった。


少し考えるように、セラの立ち方を見る。


「動くなら、よかった。ただ、痛くないとはおっしゃらないんですね」


セラの眉がわずかに寄る。


サイラスはその先を聞かなかった。


治療所へ目を向ける。


「気が向いたら、あちらへ。腕のいい人がいます」


「……考えておく」


「はい」


それで終わった。


奥から若い職員が紙束を抱えて近づいてくる。


「サイラスさん。南区の昨日分、こちらでいいですか?」


「ありがとうございます」


受け取ったサイラスが一枚目を見る。


職員が横から何か説明する。


その途中で、サイラスは少し離れた石柱へ手をついた。


向かおうとしている建物とは反対側だった。


紙を揃える間、身体を預けただけにも見える。


黒い手袋の掌が数秒だけ石に乗り、すぐ離れた。


インクスが顔を上げ、その手と石柱を順に見てから、またヴィクトルへ戻った。


「そういえば」


サイラスが途中で振り返る。


「お名前、まだ伺っていませんでしたね」


先にカイが名乗った。


セラは少し遅れて、


「セラ」


俺も続く。


インクスはしゃがんだままだった。


「インクス」


「僕はサイラスです」


さっき職員が呼んだので、もう知っている。


それでも本人は名乗った。


「よろしくお願いします」


セラは返さない。


インクスも根元を見たまま。


カイだけが頭を下げたので、俺も少し遅れて同じようにした。


サイラスは気にした様子もなく、職員と奥へ消えていった。


――――


「兄ちゃん、それ好きなのかい」


入口脇から声がした。


籠《かご》を編んでいる老婆だった。


昨日も同じ場所にいた気がする。


インクスはまだヴィクトルの前にいる。


「好きかどうかは、まだ分からない」


「妙な返事するねえ」


老婆は笑い、細い蔓《つる》を曲げて籠の縁へ差し込んでいく。


「大きいからね。ここへ来るたび目には入るよ」


俺は老婆の近くへ寄った。


「昔からあるんですか?」


「いや。あれが来たのは、サイラスさんが来てしばらくしてからだったかな」


カイも足を止める。


「サイラスさんが見つけたんですか?」


「そう聞いてるよ」


老婆は蔓を一本選び直した。


「最初は皆、笑ってたさ。なんだ、そのでかい荷物はって。何人もかけて運び込んできて、見たって何だか分からないし、すぐ使えたわけでもなかったしね」


インクスの手が止まった。


「すぐには?」


老婆は聞こえなかったのか、そのまま話を続けた。


「それより昔は大変だったよ。荷運びが腰をやれば、その荷車は何日も出ない。店主が熱を出せば戸は閉まったまま。外で魔獣にやられて帰ってきても、運が悪けりゃそれっきり仕事には戻れない」


ちょうど通りを木箱を高く積んだ荷車が通り、御者が老婆へ手を上げた。


老婆も籠を少し持ち上げて返す。


「一人休むとね、その一人だけじゃ済まないんだ。代わりに荷を運ぶ奴が抜けて、そいつの仕事が止まって、その穴をまた誰かが埋める」


「今は?」


俺が聞いた。


老婆は第三支部へ顎《あご》を向けた。


「治るさ」


あっさり言った。


「怪我したらここへ来る。熱が出ても来る。腹が痛けりゃ、それも連れてくる。死んじまった人まで起きるわけじゃないけど、息があるうちに運び込めれば、大抵は帰ってくる」


その口調には祈りも期待もなく、明日の店が開くのと同じくらい当然のことを話している。


「昔みたいに家へ寝かせて何日も様子を見ることがなくなった。昨日まで寝てた魚屋が、次の日には店先で客と値段の喧嘩をしてる」


老婆が少し笑った。


「治ったからって、すぐ働こうとして怒られる馬鹿も多いけどね」


通りの向こうでは男が木箱を落とし、隣にいた男が腹を抱えて笑っている。


「朝になれば店が開く。荷車も出る。働いた奴が飯を食うし、飯屋も儲かる。荷が止まらなけりゃ商人も来る。この辺も随分うるさくなったよ。夜まで灯りのついてる店が増えた」


老婆は籠の縁を指で押し、少し形を整えた。


「昔よりは、ずっといい」


しばらく蔓を編んでから、ぽつりと続ける。


「サイラスさんも、よく見てる人だからね」


誰かが尋ねたわけではなかった。


「顔色の悪い奴を見かけりゃ声を掛ける。仕事のないのがうろうろしてりゃ、ここの札を見ろって連れてくる。子供抱えて困ってる女がいれば、預け先を探す」


「ずっと、そうなんですか」


カイが聞いた。


「最初からだよ。だから最初は嫌われた」


老婆は笑う。


「知らない若造が毎日来て、飯は食ったか、傷はどうだ、仕事はあるかって聞くんだ。鬱陶《うっとう》しいだろ」


俺はさっきのセラとのやり取りを思い出した。


老婆は蔓を持ち替える。


「うちの息子も、荷台に脚を挟まれてね。もう切るしかないって言われた時には荒れたよ。仕事も終わりだって。ここへ来るのも嫌がったし、何したって無駄だって聞かなかった」


「それで?」


「サイラスさんが何度も来た。そのうち息子の方が根負けした」


「何度も?」


「暇だったんじゃないの」


老婆は笑った。


自分でも違うと分かっている顔だった。


「脚は切らずに済んだよ。今は東倉庫で、朝から荷物を担いでる。働きすぎだって、今度は嫁さんに怒られてる」


その時だけ、少し誇らしそうだった。


俺は何も言えなかった。


空座。


黒杭。


バスティオン。


アレーテイア。


俺たちが見てきたものと、老婆の話しているもの。


どちらかが嘘なら、まだ簡単だった。


老婆が完成しかけの籠を膝から下ろした。


「だからまあ、あの人がいなくなると困るのさ。そういう家は、この辺じゃ珍しくないよ」


鐘が鳴った。


一度目で老婆の手が止まり、二度目で中庭の職員たちが顔を上げた。


三度目が鳴る前には大鍋へ蓋がされ、門の外から兵士が駆け込んでくる。


「南外郭《みなみがいかく》! ヴェスパルだ! 人狩蜂《ヴェスパル》が入った!」


聞いたことのない名前だった。


俺が兵士を見た時には、もうセラの手がウツロイの柄へ掛かっている。


「何体!」


職員が聞く。


「三体確認! 外にもいるかもしれない! 護送隊が二台やられた!」


中庭の人間が一斉に動き始めた。


子供たちは奥へ連れていかれ、仕事札を見ていた男たちまで掲示板を壁際へ寄せて通路を空ける。


治療所では歩ける患者を別室へ移し、その横で別の職員が担架を壁から外していた。


慌ただしいのに、誰も立ち尽くしていない。


奥から戻ってきたサイラスは、さっきまで持っていた紙束をどこかへ置いてきたらしく、兵士の前で足を止めた。


「外壁を越えたのは?」


「三体です!」


「怪我人は」


兵士は息を整えながら首を振った。


「分かりません。荷車の向こうが見えなくて」


「ありがとうございます。それで十分です」


サイラスは兵士をそれ以上引き止めず、近くの職員へ治療所を空けるよう頼んでから、俺たちへ視線を移した。


セラの剣、カイの装備、俺、最後にインクスの工具袋まで見てから、


「少し、力を貸していただけますか」


と聞いた。


セラはもう歩き出していた。


「どこだ?」


「南へ二本目。大通りは避けた方がいいです。避難の人が上がってきますから」


カイが先に走り、俺もその後を追う。


インクスは一度だけヴィクトルの方へ顔を向けたが、すぐこちらへ来た。


――――


ヴェスパルの姿が見えるより先に、低い羽音が腹へ響いてきた。


蜂と聞いて想像した甲高い音とは違う。


何十枚もの薄い板を一度に震わせているような音で、通りの窓板や吊り看板まで細かく鳴っていた。


逃げてきた男が俺の肩へぶつかる。


その身体越しに、屋根から黒い影が落ちた。


石畳へ降り立ったそれは二本脚で立ち、人間と同じ位置に腕がある。


似ているのはそこまでだった。


二メートルを越える細長い身体は、黒と濁った黄の外殻に覆われている。


異様に細い腰の後ろから節のある腹部が伸び、その先には短剣ほどの毒針。


黒褐色の複眼の下で鋏のような顎が開閉し、二本の長い触角が別々の方向を探っていた。


腕の先にあるのも手ではない。


内側へ曲がった黒い鉤爪《かぎづめ》。


背中の四枚の翅《はね》が一度震えるだけで、周囲の空気が叩かれる。


人狩蜂《ヴェスパル》。


俺が知っているのは、さっき聞いた名前だけだった。


守備兵が槍を構える。


ヴェスパルの触角が止まった。


二本とも、セラへ向く。


翅が鳴った。


兵士が槍を突き出した時には、もうそこにいない。


穂先の外へ回り込んだヴェスパルが鉤爪を振り抜き、槍の柄ごと兵士を石畳へ叩き倒した。


それでも追撃しない。


複眼がセラへ向いた。


次に来た鉤を、セラは抜きざまのウツロイで外へ弾いた。


そのまま刃を返す。


黒と黄の胸殻へ斜めの線が走り、黒い体液が滲《にじ》んだ。


浅い。


ヴェスパルは着地せず、翅を打って店の壁へ飛びついた。


人間なら折れているような角度まで脚を曲げ、そのまま壁面を横へ走る。


「そこまで曲がるんだ」


インクスが見上げていた。


ヴェスパルが壁を蹴る。


また左。


セラは半歩だけ右へずれた。


鉤爪を刀身の腹で滑らせ、その勢いが死ぬ前に首元へ刃を返す。


今度は深い。


黒い飛沫《しぶき》が袖へ散った。


ヴェスパルの頭が大きく揺れる。


それでも距離を取るのではなく、首を後ろから引かれたように一度だけ跳ね、そのままセラから離れた。


向かった先には、横倒しになった荷車へ走るカイがいる。


ほとんど入れ替わるように、屋根から二体目が降りてセラの前を塞いだ。


セラは離れた一体へ一瞬だけ目をやり、すぐ正面へ戻す。


荷車の下から声がした。


「助けて……!」


カイはもう膝をついていた。


「トーマさん、こちらを!」


俺が回り込むと、御者らしい男の脚が荷台と石畳の間へ挟まれ、脛《すね》から流れた血が車輪の下へ広がっている。


カイが荷台へ肩を入れたが、荷物まで積んだ車体はびくともしない。


追いついたインクスが工具袋を落とし、短い鉄棒を車輪の下へ差し込んだ。


「そこ踏んで。持ち上げなくていいから」


カイが体重を掛ける。


荷台が浮いた。


俺とカイで男を引く。


脚が抜けた途端、男が悲鳴を上げ、押さえつけられていた傷から血が噴き出した。


「担架!」


カイが叫ぶ。


返事はない。


守備兵たちも手が塞がっている。


カイは周囲を一度見ただけで、男の腕を自分の肩へ回した。


「私が運びます」


その背中へ羽音が落ちてきた。


「カイ!」


振り返ったカイは男を俺の側へ突き飛ばしたが、自分までは間に合わなかった。


鉤爪が脇腹を薙《な》ぎ、裂けた上着ごと身体を持っていく。


カイが石壁へ叩きつけられた。


空気の抜ける音がした。


それでも、すぐに壁から背を離す。


服は大きく裂けている。


その下にはまだ血も傷もなかった。


ヴェスパルも見た。


高く上がっていた鉤爪が、ほんの少し下がる。


触角の動きまで鈍った。


その瞬間、カイが壁を蹴った。


倒れた兵士の槍を拾い、石突きを外殻の継ぎ目へ叩き込む。


鈍い音。


ヴェスパルの上体が浮く。


カイはそのまま一歩入り、槍を引いて下から顎へ二撃目を入れた。


頭が跳ね上がる。


横からウツロイが走った。


首が落ちた。


胴体だけが二歩ほどよろめき、その場へ崩れる。


カイは槍を手放し、自分の脇腹へ手を当てた。


まだ何もない。


けれど、呼吸はさっきより浅かった。


あと何秒か。


俺は途中から数えられていない。


残った二体は離れていた。


一体はセラの前。


もう一体は屋根の縁。


その触角が、ほとんど同時に止まった。


二つの頭が同じように動く。


セラ。


カイ。


俺たち。


次の瞬間には二体が分かれ、一体がセラへ、もう一体がカイへ降りた。


「来ます!」


カイが槍を拾い直す。


「下がって!」


返事はない。


ヴェスパルが低く滑り込み、鉤爪を横から叩きつける。


カイは槍を両手で受けたが、靴底が石畳を滑った。


すぐに顎が来る。


カイは槍ごと手放して身体を沈めた。


顎が頭上を抜ける。


そのまま懐へ入り、さっき割った胸殻へ肩をぶつける。


ヴェスパルが一歩よろけた。


カイは追わなかった。


すぐ離れる。


自分に残された時間を分かっている。


セラの方では、鉤爪とウツロイが続けざまにぶつかっていた。


ヴェスパルは地面から壁へ、壁から軒先へと短く飛び回る。


セラは追わない。


通りの中央に立ち、入ってきた時だけ動いた。


右から来た鉤を外し、背後へ回られれば剣だけを返す。


次は左。


ウツロイの先が触角の一本を根元から落とした。


そこでヴェスパルが止まった。


残った触角が大きく二度震える。


腹部が跳ね上がった。


毒針が伸びる。


セラは身体を捻り、急所だけを外した。


針先が服を裂く。


左肩が遅れた。


返しが出ない。


ヴェスパルがそこへ踏み込む。


セラは無理に振らず、一歩だけ下がって針を通した。


敵が追う。


伸びきった腹部の付け根が近づいた。


そこへウツロイが走る。


腹部が根元から切れ、毒針ごと石畳へ落ちた。


羽音が崩れる。


ヴェスパルも横倒しになった。


同時に、カイの身体が折れた。


何もなかった脇腹が裂け、血が一気に上着を染める。


膝が石畳へ落ちた。


十秒。


来た。


俺が向かおうとすると、カイは俺ではなく倒れた露店を見ていた。


板の隙間から小さな手が出ている。


泣き声もした。


カイが立とうとする。


俺は肩を掴んだ。


「行くな」


振りほどかなかった。


代わりに、血のついた手で露店を指す。


「子供が……」


インクスが先に走った。


「僕が行く」


さっきの鉄棒を板の下へ差し込み、持ち上げる。


下から這い出してきた子供を抱え上げた。


その時、最後のヴェスパルの翅が鳴った。


複眼がインクスと子供へ向く。


セラはまだ倒した一体の向こう側。


守備兵も負傷者を引いている。


俺が前へ出ようとした時、横から走ってきた人影が先にインクスとの間へ入った。


サイラスだった。


剣も槍も持っていない。


子供を庇うように立ったあと、なぜか進もうとする路地とは反対側の店の壁へ、黒い手袋の掌を押し当てる。


そこへ担架を持った第三支部の職員が二人追いついた。


一人はサイラスの手を見た途端、その場で足を止めた。


「《最短路》を?」


「ええ。今日はここから」


サイラスが指したのは、第三支部とは反対方向へ延びる細い路地だった。


職員は驚きもせず、担架を持ち替えて向きを変える。


「こっちだ! 《最短路》を使う!」


後から来た別の救護班まで、その声だけで同じ路地へ入っていく。


インクスは子供を抱いたまま路地とサイラスを見比べた。


「そっち、支部と逆だよね?」


「そうですね」


サイラスは膝をついているカイの横へ入り、その腕を自分の肩へ回した。


「だから、少し近くします」


冗談を言っているような顔ではない。


「歩けます?」


カイは答えず、足へ力を入れた。


それで十分だったらしい。


「行きましょう」


俺も反対側へ入る。


細い路地へ入ると、さっきの担架がすぐ後ろからついてきた。


一つ目の角を曲がり、軒先の洗濯物を避けて進む。


もう一度曲がったところで、見覚えのある白い壁がいきなり視界に入った。


第三支部の裏門だった。


さすがに足が止まりかけた。


俺が道を知らないとか、昨日この街へ来たばかりだとか、そういう問題ではない。


戦場からここまで走ってきた時より、明らかに短い。


それでも後ろから来た職員たちは何も驚かず、俺たちを追い越しながら裏門へ声を張った。


「《最短路》から二人! 一人は腹部、もう一人は脚!」


門の内側からすぐに返事があり、担架が吸い込まれるように中へ運ばれていく。


俺は一度、来た路地を振り返った。


道が光っているわけでも、壁の位置が変わっているわけでもない。


ただ、そこにあるはずだった距離の一部だけを、歩かずに済んだ。


そんな感覚だけが残った。


横にいるインクスは道ではなく、サイラスの左手を見ていた。


さっき壁へ触れた手。


そのあと、今通ってきた路地とは反対側へ視線を滑らせたが、何も聞かなかった。


――――


裏門が開くと、治療者たちがすぐに飛び出してきた。


「その子はこっち」


低い女の声がして、淡い金髪を邪魔にならないよう後ろでまとめた女が、インクスから子供を受け取った。


治療衣は何度も洗われて色が抜け、袖口には縫い直した跡がある。


装飾らしいものは身につけていない。


女は泣いている子供をなだめようとはせず、まず額の傷と瞳を確認し、次に脚へ触れた。


そこで泣き声が一段大きくなる。


「頭は浅い。痛いなら泣いてていいから、その脚は動かさないで」


近くの治療者へ子供を渡すと、もうカイの前へしゃがんでいた。


裂けた上着を切り、溜まった血を拭って傷口へ指を当てる。


「腹までは抜けてない。筋肉で止まっている」


両手から淡い光が広がり、指の隙間から流れていた血が少しずつ弱くなっていく。


「大賢者!」


別の治療者が呼んだ。


その一言で分かった。


ソフィア・グレーテル。


最高峰の大賢者、千命の聖手。


王都から出たことのなかった俺でも名前くらいは聞いたことがある。


もっと立派な杖や法衣を身につけ、人混みの中にいてもすぐ分かるような人物を想像していたが、目の前の女は髪が少しほどけ、袖にも膝にも誰かの血と汚れがついていた。


「胸をやられた人が一人!」


「寝かせて。上体は起こさない」


ソフィアはカイから手を離さず答えた。


傷を完全に閉じる前に近くの治療者を呼び、押さえる場所を指で示してから、その手へ自分の役目を渡す。


「ここ。止血だけ続けて」


すぐ隣の胸を負傷した兵士へ移り、服を裂いて耳を胸元へ近づけた。


「吸って」


兵士は浅く息を吸ったが、途中で顔を歪めた。


「もう一回」


「無理……」


「浅くていいから」


ソフィアは肋骨を指先で探り、位置を変えながら呼吸音を聞いた。


「一本、中へ入ってる。こっちを先にやる」


その間にも担架は次々に中庭へ入ってくる。


脚を大きく裂かれた守備兵、片腕が不自然な方向へ曲がった商人、背中を鉤爪で抉られた女。


治療者たちがそれぞれへ散っていくが、人数が増える方が明らかに早い。


「大賢者、こちらも!」


「待って。そっちは圧迫して」


短く返しながらも、ソフィアは胸の兵士から手を離さなかった。


行かないのではない。


今ここを離れれば、この男の方が危ない。


入口にいた職員が外へ向かって、


「大賢者は中だ! 重傷者からこっちへ運べ!」


と怒鳴る。


その声を聞いて外にいた救護班が担架の順番を変え、人垣の方も自分たちで道を空け始めた。


それでも中庭の空きは、目に見えて減っていった。


胸の兵士を治療しながら、ソフィアがようやく顔を上げる。


「外、あと何人?」


職員が門の外を確認する。


「四人! その後ろにもまだいます!」


ソフィアは一度だけ中庭全体を見渡した。


治療中の者、まだ手の回っていない者、次に入ってくる担架。


すぐに視線を胸の兵士へ戻す。


「サイラス」


返事がない。


「誰か呼んで」


職員が門へ向かおうとした時、その門から当のサイラスが入ってきた。


肩には新しい負傷者を担いでいる。


「ただいま戻りました」


ソフィアは振り返らなかった。


「遅い」


「すみません」


声だけは少し笑っていた。


ソフィアは笑わない。


「私じゃ追いつかない。重傷者はこっちで見るから」


サイラスは負傷者を職員へ渡し、床に並んでいる人間を一度見渡した。


「分かりました。お願いします」


それだけで話は終わった。


ソフィアはもう次の処置へ戻り、サイラスは中庭の中央に立つヴィクトルへ向かう。


それまで子供の近くにいたインクスが、その動きに気づいて身体を起こした。


サイラスは朝にインクスが調べていた金属部ではなく、何の印もない白布の上へ手を添えた。


祈りの言葉もなかった。


「少し、借ります」


低い音が、ヴィクトルの内側から響いた。


最初は風を受けたように白布が持ち上がったが、よく見ると布の下で何かが位置を変えている。


職員が二人走り寄り、左右にある留め具を外し始め、別の一人が台座脇へしゃがんだ。


どうやらサイラスが触れただけで勝手に開くわけではないらしい。


職員たちがいつもの手順を知っていることの方が、俺には妙に印象に残った。


最後の留め具が外れると、白布がほどけ、その下から何本もの長い部材が現れた。


金属にも木にも見える表面をした部材が複雑に重なり、一部がゆっくり外へ開いて、別の箇所へ噛み合っていく。


何かの形になろうとしているのは分かる。


けれど、それが何なのかまでは分からない。


サイラスが手を離した。


それとほとんど同時に、ヴィクトルの根元から淡い光が石畳へ落ち、ひびや継ぎ目を選ぶように中庭へ広がっていった。


光が寝かされた人間へ触れるたび、それまで治療者が押さえていた出血が弱まり、裂けた傷の縁が少しずつ寄っていく。


折れていた腕も、いきなり元へ戻るのではなく、腫れが引きながらゆっくり位置を変えた。


痛みに呻いていた男が息を吸い直し、別の場所では家族の名を呼ぶ声が上がる。


泣いていた者が笑い、笑ったまままた泣いた。


カイの脇腹にも光が届いた。


ソフィアが途中まで処置していた裂傷の残りが急速に塞がり、太い赤い線が細くなって、やがて皮膚の色へ近づいていく。


カイは大きく息を吐き、反射的に身体を起こそうとした。


「寝てて」


ソフィアの声が飛んだ。


こっちは見ていない。


「傷は閉じています」


「見れば分かる」


胸の兵士へ手を当てたまま返す。


「血まで戻ったわけじゃないから」


カイは脇腹へ手を置いたまま、何か言いかけた。


けれど結局、そのまま身体を戻した。


近くでは腕を治された男が、自分の指を何度も曲げ伸ばししていた。


最初の二度は笑っていたが、三度目で指先が細かく震えているのに気づき、顔から笑いが消えた。


立とうとしても腰が上がらない。


「おい……?」


自分の脚を見る男へ、治療者が手を伸ばした。


「そのままでいてください」


「もう治っただろ」


「だから、今は動かないで」


男は納得していない顔をしたが、それ以上起きようとはしなかった。


背中の傷を治された女も、見た目には何も残っていないのに呼吸が浅く、水の入った杯を持つ手が震えている。


ソフィアはそちらへ一度視線を送り、


「水は少しずつ。まだ立たせないで」


とだけ言った。


俺はカイへ目を戻した。


傷はない。


それなのに顔色はよくない。


傷がなくなったことと、元に戻ったことは同じじゃない。


そこまで考えたところで、昨日見た修理帳が頭へ浮かんだ。


エーリヒの剣。


同じ番号のものが、短い間隔で三度戻っていた。


二か月前に腹を貫かれ、第三支部に助けられたという話なら、今見ている光で説明はつく。


大怪我をしても傷が消える。


身体が動けば、本人は仕事へ戻ろうとする。


けれど、三度。


補修所の親父はエーリヒ本人より、戻ってくる剣の方を覚えていた。


俺はヴィクトルの周りを見る。


今日は警鐘が鳴り、治療所にいた患者を移し、職員が何人も走り回ってから、ようやくこれを開いた。


ソフィア一人では処理できない数の負傷者が運び込まれたからだ。


エーリヒ一人が怪我をするたび、毎回これをやっていたのか。


いや、そうは思えない。


エーリヒ自身も第三支部の人間ではなく、空座について聞いた時には「違う」「世話にはなった」と言っていた。


ヴィクトルを見れば昨日の帳面の意味が分かると思っていた。


実際には、分かったところより、説明のつかないところの方が目についた。


セラが中庭へ戻ってきた。


ウツロイにはヴェスパルの黒い体液が残り、服も何か所か裂けている。


左肩が少し低い。


ソフィアも一度だけそれを見た。


肩から立ち方、顔色まで目で拾ったようだったが、今は呼び止めず、目の前の患者へ戻った。


セラも自分から近づこうとはせず、カイの横へ来て血に濡れた上着を見た。


「深かったか」


カイは少し間を置いた。


「出てからは」


セラはそれで分かったらしい。


それ以上は聞かなかった。


ヴィクトルの光はしばらく中庭へ残ったあと、少しずつ薄くなっていった。


その間も職員たちは、傷が消えた者を外へ追い出すようなことはせず、寝かせたまま水を飲ませ、脈や顔色を見て回っている。


ソフィアも何度か、起きようとした者へ「まだ」と声を飛ばしていた。


やがて最後の光が消える。


サイラスがヴィクトルのところへ戻り、職員たちと一緒に白布を掛け直し始めた。


インクスはその作業をずっと見ていた。


開いた部材が一つずつ元の位置へ戻され、留め具が締められ、また朝と同じ大きな支柱のような姿になっていく。


全部閉じ終わる前に、インクスが根元へしゃがんだ。


朝に触った金属の継ぎ目へ親指の爪を当てる。


そのまま隣へずらしていき、途中で指が止まった。


「……ん?」


俺が近づくと、インクスは同じ場所をもう一度爪でなぞったあと、反対側へ回ってそちらも確かめた。


「どうした」


「ここ、朝と違う」


俺にはただの金属の合わせ目にしか見えない。


「どこが?」


インクスは爪先を差し込んでみせた。


朝には入らなかったらしい。


「少しだけ、ずれてる」


「開いたからじゃないのか」


返事はなかった。


インクスは閉じられていくヴィクトルを見上げている。


たぶん、本人にもまだ分からない。


中庭の向こうから聞こえていた羽音は、いつの間にか消えていた。


俺は戦った通りの方へ目を向けた。


セラに深い傷を入れられたヴェスパルが、逃げる代わりにカイへ向きを変えた。


そこへ別の一体が入り、セラとの戦いを引き継いだ。


カイへ攻撃を当てた一体は、裂けた服の下に傷がないのを見て、ほんの一瞬だけ動きを緩めた。


さらに、離れた二体の触角が同時に止まり、ほとんど同じ順番で俺たちを見た。


ただの群れの動きだと言われれば、そうなのかもしれない。


俺はこの国の外で、ヴェスパルという魔獣がどう狩りをするのかさえ知らない。


それでも、あれは食うために人を追い回していたようには見えなかった。


誰を狙うか。


どう動くか。


何かを見ていた。


試されていた。


そこまで考えて、俺はヴィクトルの前にいるサイラスを見た。


ちょうど負傷者の家族らしい老人から何度も頭を下げられているところだった。


サイラスも頭を下げ返す。


相手より、少し深く。


「僕ではありませんよ。運んでくれた人たちと、治してくれた人たちのおかげです」


老人はそれでも何か言い、もう一度頭を下げた。


サイラスは少し困ったように笑っている。


今朝と何も変わらない顔だった。


俺にはまだ、あの男のどこまでを疑えばいいのか分からなかった。

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