↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
最強女騎士は、あと百二十日で壊れる ~粗探ししかできないハズレスキル《不具合鑑定》の俺だけが、それに気づいた~  作者: 出水克幸
武具の街 ベルーガ編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
46/69

第四十六話 降りてきた形

翌朝、インクスの工房へ入ると、昨日まで歩けた床の半分が工具に占領されていた。


細い鉤。


抜き針。


小槌。


何に使うのか分からない、先端だけ妙に曲がった金属棒。


その真ん中に、昨夜預けた新しい剣が横たわっている。


長剣の姿には戻っていた。


ただし。


外された部品は、一つもない。


インクスは剣の横へ胡坐をかき、柄と鍔の境目を細い針で突いていた。


髪も昨日よりひどい。


「寝ました?」


「セラ君は?」


顔も上げない。


聞いていないらしい。


「朝からカイとベルーガ側です。昨日の禍蝕個体について、実際に斬った時の話を聞きたいそうで」


「ああ」


針先が少し動く。


それだけだった。


昨日の個体は、斬るたびに硬さが変わった。


死体を調べても、刃が入った時の感触までは残らない。


そこを確認したいらしい。


しばらくして、インクスがふと思い出したように顔を上げた。


「じゃあセラ君、今日何も持ってないの?」


「剣ならないですね」


「あの子が?」


少し笑った。


俺も考えてみる。


宿の中でも、野営でも。


セラの剣は大抵、手を伸ばせる場所にあった。


「落ち着かないんじゃない?」


インクスは面白そうに入口を見る。


「どうでしょうね」


「帰ってきたら聞こう」


そう言った直後には、もう入口を見ていなかった。


剣へ顔を戻し、今度は別の鉤を手に取っている。


セラが丸腰なのが珍しい。


ただ、それだけの話だったらしい。


鉤を鍔の下へ差そうとする。


入らない。


刃側へ回す。


そこも駄目。


「昨日からそれやってるんですか」


「うん」


「開きました?」


「開くように見える?」


見えない。


床に増えた工具の量だけなら、剣の半分くらいは分解されていてもよさそうなのに。


インクスは鉤を置いた。


少し考えてから、剣の腹を指で叩く。


「分からないんだよね」


「何がです?」


「これ」


「だから何が」


「構造」


インクスがようやく俺を見た。


「僕が作ったんだよ?」


「知ってます」


「僕も知ってる」


妙な会話になった。


インクスは剣を膝へ乗せた。


「前に言っただろう? こいつは降りてきたって」


「あれ、本気だったんですか」


「まだ疑ってたの?」


本気らしい。


インクスは額の辺りを指で叩いた。


「急だったんだ」


少しだけ目つきが変わった。


「これとこれを混ぜろって浮かんだ。だから混ぜた」


右手が槌を持つ形になる。


「次に、ここまで熱しろ。叩け。冷やせ。こっちを削れ。別の金属を入れろ」


何もない床を見ながら、手だけが忙しく動く。


「一個終わると次が来るんだよ」


声が弾んできた。


「それがまた面白くてさ」


ケケケ、と笑う。


「考える前に次が来る。手を止める暇がない。あんなの初めてだった」


振っていた手が急に止まる。


「気づいたら日が変わってた」


「……徹夜したんですか」


「途中で外が暗くなったのは覚えてる」


「朝まで?」


「気づいたら明るかった」


だいたい徹夜だ。


「完成してから、さすがに振り返ったんだよ」


インクスは剣へ目を落とした。


「どの金属をどれだけ使ったか。ここの中に何を入れたか。どういう順番だったか」


鍔の根元を指先で撫でる。


「でも、断片しか残ってなかった」


「その時点でおかしいと思いません?」


「思った」


返事は早かった。


「でも」


剣を少し持ち上げる。


光へ向ける。


刃の上を細い光が走った。


「出来がよかったんだよ」


口元が緩む。


「すごく」


それだけで全部許したような顔をしている。


「満足したから、考えるのやめた」


「そこは考えましょうよ」


「その時は別に困ってなかったから」


インクスは剣を床へ戻した。


「誰もまともに使えなかったけどね」


さらっと付け足す。


そして今。


初めてまともに使った人間が出た。


だから中を確認しようとした。


「それで、いざ開けようとしたら」


インクスは床に散った工具を見る。


「何もない」


「何も?」


「とっかかり」


俺が黙っていると、インクスが首を傾げた。


「トーマ君、パズルやったことある?」


「ありますよ」


「最初どうする?」


また急な質問だった。


「四隅を探したり、端を集めたり」


「そう」


インクスが身を乗り出した。


「同じ色でもいい。絵でもいい」


床に落ちていた金属片を二つ拾う。


「青いところを集めよう、とか。人の顔を作ろう、とか」


剣の左右へ置いた。


「何でもいいんだ」


指で剣を叩く。


「最初に触る理由がある」


それから、鍔。


柄。


柄頭。


刀身の根元。


順番に指していく。


「こいつには、それがない」


俺も目で追う。


確かに外から見える留め具はない。


「継ぎ目っぽいところは?」


「押した」


「柄頭」


「回した」


「魔力は?」


「流した」


「温めるとか」


「やった」


少し間があった。


「叩いた?」


インクスが目を逸らした。


「ちょっと」


ちょっとではなさそうだった。


「変形すると一瞬だけ隙間ができるんだよ。そこへ鉤も入れた」


剣を大剣へ変える。


ガギン、と重い音がする。


刀身の根元。


確かに細い隙間が生まれた。


「ここ」


鉤を入れる。


途中までは入った。


「何かある」


先端を僅かに動かす。


カチ、と中で音がする。


「でも、そこから先がない」


剣を裏返す。


反対側には穴も留め具もない。


「パズルなら、一枚嵌めれば隣が分かるだろ?」


元へ戻す。


「こいつは一枚目がないんだ」


少し笑った。


「だから手を付けられない」


床を見る。


散らかった工具の量だけは、一晩中手を付けようとした証拠になっている。


「それでも試した結果がこれ?」


「うん」


「無理だった」


「うん」


間を置いて。


「ケケケ」


笑った。


悔しいのか楽しいのか、もう分からない。


そのまま剣をこちらへ押した。


「君の目には、どう映ってるんだい?」


「俺の?」


「それだよ」


自分の目元を指す。


《不具合鑑定》。


俺は剣へ意識を向けた。


昨日。


この剣は長剣から大剣へ形を変え、禍蝕個体を断ち切った。


相当な出力が通っている。


刀身。


柄。


変形部。


接合部。


魔力の通り道。


見えるところから順に拾う。


大きな亀裂はない。


目立った歪みもない。


そこから、さらに内部へ意識を向ける。


表示が一つ残った。


《構造――異常検出》


待つ。


その先は出なかった。


「どう?」


インクスの顔が近い。


「構造に異常があることまでは出ます」


目が少し大きくなった。


「どこ?」


「出ません」


「壊れてる?」


「それも分かりません」


「変形機構?」


「分かりません」


「中の部品は?」


「だから分かりませんって」


インクスは俺の顔を見た。


それから剣を見る。


「君の目にも、とっかかりがないんだ」


独り言みたいに言った。


少しして、口元が上がる。


「いいね」


「何がです?」


「まだ分からないものがある」


剣を両手で持ち上げる。


「ケケケ。面白いなあ」


俺はまったく同じ気持ちにはなれなかった。


―――


昼を過ぎた頃。


工房の戸が開いた。


セラだけが入ってきた。


カイはまだベルーガ側に残っているらしい。


インクスは音に気づいて振り返った。


一晩と半日、散々調べた剣を抱えたまま。


満面の笑みを浮かべる。


「セラ君、何も分からなかったよ」


開口一番だった。


悪びれる様子はない。


むしろ、堂々としている。


セラは散らばった工具を見た。


インクスを見る。


「そうか」


手を出す。


それだけだった。


インクスが少しだけ目を瞬く。


「もうちょっと何かない?」


「何がだ」


「一晩頑張ったんだけど」


「そうか」


「同じだ」


俺は黙っておいた。


インクスは納得していなさそうだったが、剣は渡した。


セラが柄を握る。


昨日一度しか使っていないはずなのに、手の中への収まり方だけを見ると、もう前から使っていた剣みたいだった。


刀身を見る。


少し角度を変える。


そのままインクスへ視線を向けた。


「聞きたい」


「なんだい?」


「これが壊れたら」


セラの指が柄へ添えられる。


「打ち直せるのか?」


「分からない。たぶん無理」


間すらなかった。


セラが顔を上げる。


俺も見た。


「即答ですか」


「だって作り方覚えてないし」


インクスは床の工具を足先で避ける。


「もう一回降りてくればできるかもしれないけど」


「降りてこなければ?」


「無理じゃない?」


あっさりしていた。


セラはもう一度、剣へ目を落とした。


しばらく黙っている。


その横顔を見て、昨日折れた剣が頭に浮かんだ。


長く使っていた。


傷んでも使い続けて。


最後は、セラの一撃に耐えられなかった。


セラの口元がほんの少し緩んだ。


けれど、目は剣より少し遠いところを見ていた。


「なら」


指で柄を一度撫でる。


「駄目になった時にでも考えるか」


インクスが動かなくなった。


セラは気づかず、まだ剣を見ている。


その横顔と。


腕の中の剣を。


インクスが交互に見た。


「……やっぱり」


「何だ」


「僕、君のそういうところ好きだよ」


「そうか」


また終わりかけた。


その瞬間。


インクスの目が見開いた。


「あ!」


突然の声に、俺まで肩が動く。


セラは動かなかった。


「何だ」


「降りてきた!」


「何がです?」


「名前!」


「何の?」


インクスが俺を見る。


本気で理解できないという顔だった。


セラの手にある剣を両手で指す。


「剣だよ! 剣!」


勢いよく立ち上がる。


「昔聞いたことがあるんだ。偉大な鍛冶職人っていうのはね、自分が打った武器の顔を見た瞬間、名前が浮かぶことがあるんだって!」


狭い工房の中を歩き始める。


二歩進んで壁にぶつかりそうになり、向きを変えた。


「完成した剣を見たら分かるらしいんだよ。ああ、こいつはこの名前だ、って」


自分の胸を指した。


「でも僕は一回もなかった」


勢いが少し落ちる。


「あー、僕にはそういう感性がないんだなって。そこだけちょっと残念だったんだよね」


次の瞬間には、もうセラの前にいた。


「でも今!」


セラと剣をまとめて指す。


「君がその顔で剣を見てたら、重なって見えたんだよ」


「どの顔だ」


「今それはどうでもいい!」


どうでもいいらしい。


「来たんだよ! 名前が!」


そのままインクスは作業台へ手を掛けた。


「何してるんです?」


返事はない。


作業台の上へ立つ。


散らばっていた紙を靴で避け、中央まで行く。


咳払い。


目を閉じる。


人差し指を一本立てた。


「では」


妙に厳かな声になる。


「発表するよ」


俺とセラは見上げた。


わざわざ間まで取る。


そして。


インクスが目を開いた。


「名前は――ウツロイだ」


自信満々だった。


工房が静かになる。


インクスは笑顔のまま待っている。


セラは剣を見ている。


俺も一応待った。


数秒。


「……おい」


机の上から低い声がした。


「なんだ、その反応は」


「いや」


「いや、じゃない!」


しゃがんで俺を睨む。


「今の流れなら、もっと何かあるだろう!」


「もっと派手なのが来ると思ったんですよ」


「派手?」


「なんとか剣なんとか、とか。すごいの」


インクスの眉間に皺が寄った。


「なんだと?」


「だって作業台の上に立つから」


「発表方法と名前の派手さは関係ないだろう!」


「ありますよ」


「ない!」


言い合っている横で。


カチ、と音がした。


セラが剣を鞘へ収めていた。


インクスと一緒にそちらを見る。


「ウツロイか」


机の上のインクスが黙る。


セラは鞘に収まった剣を見た。


それから顔を上げる。


「インクス」


「うん」


「良い名だ」


ほんの少し笑った。


「私は気に入った」


インクスの顔が一気に明るくなった。


「でしょ!」


机の上から身を乗り出す。


「でしょ!?」


「危ないですって」


「ほらトーマ君! 分かる人には分かるんだよ!」


「はいはい」


「それも嫌だ!」


しばらく文句を言っていた。


セラはもう聞いていない。


鞘を腰へ取り付け、位置を確かめている。


インクスもようやく机から降りた。


まだ何か言いたそうだったが、セラの腰でウツロイが揺れるのを見ると、少し機嫌が直ったらしい。


床の工具を一本拾う。


「ところで」


何でもない調子で聞いた。


「次、どこへ行くんだい?」


セラの手が鞘から離れる。


「南」


「南のどこ?」


「決めていない」


「何しに?」


今度は少し間があった。


「空座の人間に言われた」


インクスの手が止まった。


「南に、私へ繋がるものがあるらしい」


拾った工具を、すぐには床へ戻さなかった。


「南と、空座ねえ」


さっきまでとは違う声だった。


セラが顔を上げる。


「空座を知っているのか」


「知ってるさ」


インクスは工具を置いた。


「ローデン王国の人間なら、名前くらいは聞いたことがあると思うよ」


俺は思わず顔を上げた。


「そんなに知られてるんですか?」


「ん?」


インクスが逆に意外そうな顔をする。


「ああ。君たちがいた国じゃ、まだそこまで広がってないのか」


「俺は、まともな組織の話として聞いたことはないです」


「なるほどねえ」


インクスは床へ座り直した。


「知らないものの話って、悪い方が先に広がりやすいからね」


セラは何も言わない。


俺も黙って続きを待った。


インクスが少し考える。


「どう説明しようかな」


視線が俺へ向いた。


「トーマ君、レメル教は知ってる?」


「それは知ってます」


旅の途中でも教会は何度か見た。


インクスがセラへ顔を向ける。


「セラ君は?」


「知らん」


「本当に?」


「神に祈ることはない」


「そこじゃないんだけどなあ」


インクスが頭を掻いた。


少し悩んで、


「まあいいや」


と諦める。


「簡単に言えば、空座も外から見ると宗教に近いんだよ」


「宗教?」


「人が集まる。困ってる人を助ける。食べ物を配る。怪我人を診る。寝る場所がない旅人を泊める」


指を折っていく。


「災害があれば人も出すし、仕事がない奴を働き口へ繋ぐこともある」


「神に祈るのか」


セラが聞く。


「そこが違う」


インクスの指が止まる。


「決まった神様はいない」


「では、誰が始めた」


「それもいないらしい」


今度はセラの目が少し動いた。


「開祖とか始祖とか、そういう一人の人間がいないんだって」


インクスは工具を指先で転がす。


「少なくとも表向きはね」


「表向き?」


「僕も昔から見てたわけじゃないから」


そこは濁した。


「戦争をなくしたいとか。飢えてる奴を助けたいとか。そういうことをやってた連中が、別々の土地で少しずつ繋がっていったらしいよ」


工具を床へ置く。


「助けられた奴が残る。残った奴が、また誰かを助ける」


指先が隣へ移る。


「そいつが別の街へ行って、同じことを始める」


また隣へ。


「そうやって広がった」


一つの点からではなく。


あちこちにできた点が、後から繋がった。


そんな説明だった。


「それが、このローデン王国じゃかなり大きくなってる」


「国は認めてるんですか?」


「今はね」


インクスは頷く。


「数年前には、正式に大きな拠点まで置かれた」


「拠点?」


「第三支部」


初めて聞く言葉だった。


「第三支部?」


俺が聞き返す。


「そう」


「空座に支部があるんですか?」


「あるよ」


「第三ってことは、他にも?」


「知らない」


インクスが笑った。


「まあ、一と二はどこかにあるんじゃない?」


「そこ知らないんですか」


「僕、鍛冶師だよ?」


何を期待しているんだという顔をされた。


セラが口を開く。


「その第三支部はどこだ」


「ああ」


インクスの表情が少し変わった。


「ジェノベック」


聞き覚えのない名前だった。


「この辺りから、ずっと南」


床へ置いた工具で、適当に方角を示す。


「ローデンの中でも大きい商業都市だよ。商人も職人も多い」


そこで少し笑う。


「剣も多い」


最後だけ重要らしい。


セラが小さく呟いた。


「南」


少し間を置いて。


「空座」


俺もそこで繋がった。


「あ」


インクスがすぐ俺を見る。


口元が上がる。


「分かった?」


南へ行けと言われた。


理由は不明。


だが、その南には空座の大きな拠点がある。


「偶然かもしれませんけど」


「もちろん」


インクスはすぐに認めた。


「でも、他に何もないんだろう?」


何もない。


南という方角だけだ。


インクスがジェノベックという一点を置いた。


セラは少し考えた。


「闇雲に南へ行くよりはいい」


俺を見る。


「トーマ」


「はい」


「ジェノベックへ向かうぞ」


決まった。


あまりにも早いが、反対する理由もない。


「そうしましょう」


行き先が決まったことで、少しだけ肩の力が抜けた。


これで少なくとも、地図を見ながら南へ直進する旅にはならない。


俺が鞄から記録帳を出そうとした時だった。


「ただね」


インクスの声がした。


手が止まる。


見ると、さっきまでの軽い顔で、作業台へ腰を預けている。


「何です?」


「ジェノベック」


指先で机を叩く。


「ちょっと変なんだよ」


セラも入口へ向けかけていた身体を戻した。


「変?」


「うん」


インクスは少し考えてから続けた。


「第三支部が受け入れられ始めた頃から、街の景気がずっと上向いてる」


俺は首を傾げる。


「空座が人を助けているからじゃないんですか?」


「そうかもしれない」


否定はしなかった。


「怪我人が早く仕事に戻る。飯がない奴が食える。旅人も増える。働き口も繋いでもらえる」


一つずつ指を折る。


「全部、街が良くなる理由ではある」


そこで、手が止まった。


「でもね」


インクスが顔を上げる。


「最初のきっかけがないんだ」


「きっかけ?」


「街一つが急に良くなるなら、何かあるだろう?」


机を指で叩く。


「大きな鉱脈が見つかった」


一度。


「新しい街道が通った」


もう一度。


「税が変わった。大商会が移ってきた。何年も豊作だった」


指が止まる。


「そういうの」


インクスは首を傾げた。


「僕が聞く限り、ジェノベックにはない」


「でも景気は良くなっている」


俺が言う。


「そう」


今度は笑った。


「しかも一個じゃない」


商売。


施療。


仕事。


治安。


人の流入。


どれか一つが伸びたというより、街全体が同じ時期から底上げされている。


「何でも上手くいってるんだ」


インクスがそう言った。


その言葉を聞いた瞬間。


頭の奥で、別の文章が開いた。


昔聞いた声じゃない。


手紙の文字だった。


養姉エルシアが残したもの。


――それから、壊れているものを見つけたら、誰がその壊れ方で得をするかを考えなさい。


――欠陥は、いつも偶然に生まれるとは限りません。


以前、読んだ時と同じところで、思考が止まった。


あの時は、逆向きに接続された制御環だった。


間違いに見えたものを見て。


誰が、その壊れ方で得をする。


そう考えた。


今度は、壊れているわけじゃない。


むしろ逆だ。


何もかもが上手くいっている。


それでも、頭は同じ方向へ動いた。


誰が、この状態で得をする。


街の人間。


商人。


仕事を得た者。


治療を受けた者。


ローデン王国。


そして。


空座。


第三支部ができた。


その頃から街が良くなった。


助けられる人間が増えれば、空座への信用も増える。


残る人間も増える。


組織そのものも大きくなる。


そこまで考えて。


止めた。


利益があることと。


それを起こしたことは、同じじゃない。


順番を逆にすれば、何でも犯人にできる。


ただ。


エルシアの言葉は、頭から消えなかった。


「トーマ君?」


インクスがこちらを見ていた。


「いや」


一度だけ息を吐く。


「少し、気になることを思い出しただけです」


「何を?」


「まだ分かりません」


インクスは俺の顔を見た。


それ以上は聞かなかった。


代わりに口元が上がる。


「でも、きな臭いだろ?」


ケケケ、と笑った。


「その言い方だと、インクスさんは何か知ってるみたいですよ」


「知らないよ」


即答だった。


「だから気になる」


それなら分かる。


インクスは作業台に手をついた。


「まあ、表向きは少なくとも慈善組織さ」


そこでまた笑う。


「少なくともね」


まるで裏があるような言い方だった。


バスティオンでの襲撃が脳裏を掠める。


ゼイン。


あの場で見たもの。


空座という名前に警戒する理由なら、すでにある。


しかし、一方で、ユーリクのことも知っている。


同じ空座に属していたからといって。


全員を同じものとして決めつけるには、俺たちは少し知りすぎていた。


まだジェノベックを見てもいない。


「行けば分かる」


セラが言った。


インクスがそちらを見る。


セラはもう腰のウツロイへ手を添えていた。


「そうですね」


俺も頷く。


ジェノベックへ行く理由が、一つ増えただけだ。


その空気を見ていたインクスが、急に両手を打った。


「よし!」


嫌な予感がした。


「僕もついていくよ!」


「なんでです?」


自分でも分かるくらい嫌そうな声が出た。


インクスは俺を見る。


目が合った。


たぶん、気づいた。


それでも一切気にした様子を見せず、棚を開ける。


「ジェノベックには僕も武器を卸してるんだ」


革の巻物を引っ張り出す。


「そろそろ持っていく物もある」


床の工具を拾って入れ始めた。


細い鉤。


抜き針。


小槌。


「それだけですか?」


「あと」


手が止まる。


視線だけがセラの腰へ行った。


ウツロイ。


「結局、僕はあれについて何も分からなかった」


また工具を入れる。


「一緒に行けば、もう少し使うところを見られるだろう?」


「見世物じゃないですよ」


「分かってるよ」


本当に分かっているのか怪しい。


「でも変形するかもしれない。何か変わるかもしれない。僕の知らない使い方をするかもしれない」


少し声が弾んでいく。


「そしたら、とっかかりが見つかるかもしれない」


朝から探していたものだ。


「何か起きれば、今より分かるだろう?」


ケケケ、と笑う。


「何か起きる前提で話さないでください」


「でも何も起きなかったら分からないままだよ?」


「それでいい時もあります」


インクスは聞いていなかった。


工具の束を巻き終える。


セラはそんな二人を見ていたが、止める気はないらしい。


戸へ向かう。


「好きにしろ」


「セラ」


「置いていっても来る」


戸が開く。


インクスの顔が明るくなった。


「分かってるじゃないか、セラ君」


「褒められてないですよ」


「そう?」


本気で分かっていない顔だった。


工具の束を腰へ下げる。


立ち上がったところで、右手が一度だけ背中へ回った。


いつも剣があった場所。


今は空いている。


インクスはそこへ触れたまま、戸口の向こうを見た。


セラの腰にウツロイがある。


「……軽いな」


誰に言ったのか分からない。


セラはもう歩き出していた。


インクスは手を下ろす。


工房を出かけて。


「あ」


俺は身構えた。


「今度は何です」


インクスは振り返らない。


「ウツロイ」


「はい?」


「やっぱりいい名前だよね」


まだ言っている。


「セラが気に入ったんだから、それでいいでしょう」


「君がまだ認めてない」


「そこ重要ですか?」


「重要だよ」


当然みたいに答えた。


そのまま工具を鳴らしながら、セラの後を追う。


俺も工房を出た。


少し先でインクスが声を上げる。


「セラ君!」


セラが振り返った。


「ウツロイ、やっぱり格好いいよね?」


少し間があった。


セラは腰の剣へ一度だけ目を落とす。


「気に入ったと言った」


それだけ返して、また歩き出した。


インクスがこちらを見る。


勝ち誇った顔だった。


何も言わないことにした。


「ケケケ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。