第四十五話 止まらない剣
ベルーガへ戻った頃には、空の端が赤く焼けていた。
南門にはすでに衛兵と術師が集まっていた。カイが森の状況を説明すると、待機していた者たちが入れ替わるように禍瘴域へ向かっていく。漏れ出した場所を探し、必要なら結界を継ぎ足すらしい。
怪物の死骸も回収することになった。
腹にもう一つ顔があったこと。本来あるはずのない場所から手足が生えていたこと。そのあたりまで話が進むと、聞いていた男の一人が露骨に顔をしかめた。
それでも、誰もあれを何か別のものだとは言わなかった。
俺にも言えなかった。
《骨格構造――著しい不整合》
《魔力経路――多重化》
見えたものは残っている。
ただ、それが禍蝕した魔獣なら起こり得ることなのか、それとも、あの個体だけがおかしかったのか。比較するものがない以上、今はそこまでだった。
その代わり、見れば分かるものが目の前にある。
少し先を歩くセラは、森へ入る前より歩幅が狭くなっていた。右足を出す時だけ身体がわずかに揺れ、左腕もほとんど振れていない。
肩だ。
怪物を斬った時、かなり無理をした。
俺が歩みを緩めたまま見ていると、前を行くセラが一度だけ振り返った。
「遅い」
「肩」
それだけ言うと、セラは自分の左腕へ目をやった。
少し動かす。
顔は変わらない。
「帰ったら見ます」
今度は返事がなかった。
そのまま歩き出したので、俺も追う。
否定しなかった。
それで十分だった。
七十九。
九十五日。
浮かんだ数字は、口には出さなかった。
隣を歩いていたインクスだけが、しばらく俺とセラの背中を見比べていた。
「君も忙しいねえ」
「誰かさんが変な剣を渡したので」
「まだ変かどうかは分からないだろう?」
「欠陥があるって自分で言ったでしょう」
「欠陥があるのと、変なのは別だよ」
意味が分からなかったので放っておいた。
インクスは気にした様子もなく笑い、腕に抱えている布包みを持ち直した。
その中には、二つに折れたセラの旧剣が入っている。
セラは工房へ着くまで、一度もそちらへ顔を向けなかった。
少なくとも。
俺が見ていた限りでは。
―――
工房の炉は落としたままだった。
インクスは火を入れ直そうともせず、まず旧剣を作業台へ広げた。柄側と刀身側を並べ、灯りを引き寄せると、椅子にも座らず断面へ顔を近づける。
戦いから戻ってきたばかりなのに、疲れた様子がない。
剣を見ている時だけは、本当に元気だ。
セラは新しい剣を壁へ立てかけ、その近くへ立った。
休むつもりはないらしい。
ただ、左肩を壁側へ向けている。
街へ戻る途中よりも、はっきり右へ重心を逃がしていた。
何も言わずに近くの椅子を引いてやる。
セラは椅子を見た。
俺を見る。
それから座った。
珍しく素直だったので、逆に何も言わないことにした。
カイはベルーガ側へ報告に行っている。
工房に残ったのは俺たち三人だけだった。
「やっぱり、こっちまで来てる」
インクスが細い棒を手に取った。
「ほら」
示された断面へ顔を寄せる。
新しく割れた部分の端にだけ、少し暗い線が残っていた。
「亀裂ですか」
「ああ。今日できたんじゃない。もっと前から伸びてた」
インクスは刀身を傾け、光の当たる角度を変える。
「これでよく振ってたなあ」
椅子からセラの声がした。
「振れた」
インクスが顔を上げる。
一瞬だけ止まって。
「うん。まあ、そうなんだけどさ」
また剣へ戻った。
それ以上は言わなかった。
俺は少し意外だった。
セラの言う通り、振れていた。
だから使った。
そういう話なら、昨日までなら俺も同じところで止まっていたかもしれない。
今は。
断面に残った暗い線の方が気になった。
インクスが剣を裏返した。
「でも、悪くないよ。これ」
「足りないと言っただろう」
「君にはね」
今度は刀身の根元を指で叩く。
「ここ、無茶な力が入ると少し逃げるんだ。しなるし、魔力も抜ける。限界が近づくと、握ってる方にも嫌な感じが返る」
聞き覚えがあった。
インクスが初めてセラの剣を見た時、強く振る直前だけ力を逃がしていると言った。
「セラがやってたのは、それを感じて?」
「たぶんね」
インクスは折れた刀身を持ち上げ、しばらく眺めた。
「ついていけないなりに、こいつはずっと止めてたんだよ」
セラは答えなかった。
視線だけが、壁際の新しい剣へ向いた。
俺もそちらを見る。
欠陥がある。
そこまではもう分かっている。
森を出る前に、インクス本人が認めた。
問題は。
何が欠けているのか。
立てかけてある剣を取る。
セラは止めなかった。
《不具合鑑定》。
森では拾いきれなかった内部へ意識を向ける。
変形機構。
刀身の中を移動する金属塊。
形が変わるたびに切り替わる魔力の通り道。
普通の剣とは比べものにならない数の部品が、狭い内部へ詰め込まれている。
その中で表示が止まった。
《魔力伝導――制限機構なし》
《過負荷時――入力継続》
しばらく眺める。
意味は分かる。
分かりたくないだけだった。
「インクスさん」
「ん?」
「これ、入れた力を逃がすところがないですね」
インクスは旧剣を見たまま答えた。
「ないよ」
当たり前みたいな声だった。
「わざと?」
そこで初めてこっちを見る。
「逃がしたら減るだろう?」
「何が」
「威力が」
本気だった。
俺はもう一度、新剣の表示を見る。
セラが椅子から聞いた。
「何が問題だ」
説明しようとして。
一度やめた。
どう言えば伝わるか考えている間に、インクスが先に口を開いた。
「この剣はね、使う側が入れた分だけ受けるんだよ。途中で勝手に弱めたりしない」
セラはしばらく新剣を見ていた。
「それでいい」
予想通りだった。
「よくないです」
セラがこちらを見る。
俺は続けなかった。
今言っても、また同じ話になる。
インクスの方へ向く。
「どこまで入れられるんです?」
「壊れるまで」
「それを聞いてるんじゃないです」
「僕もそれしか知らないよ」
妙にあっさりしている。
「じゃあ壊れる前は?」
「使える」
その瞬間。
何か引っかかった。
作業台を見る。
二つに折れた旧剣。
その断面に。
ずっと前からあった亀裂が残っている。
「……それ」
声が出た。
インクスが首を傾げる。
「何だい?」
「前の剣も、壊れる前までは使えてましたよ」
しばらく誰も喋らなかった。
インクスは旧剣を見る。
「そうだね」
「じゃあ」
そこまで言ったところで、インクスが先にこちらを見た。
「でも、前の剣だって止められなかっただろう?」
言葉が止まった。
インクスは、折れた刀身を指先で軽く押さえた。
「嫌がってた。力も逃がしてた。使ってる本人にも分かってたはずだ」
セラを見る。
「それでも振った」
「必要だった」
「ああ」
インクスは否定しなかった。
「だから折れた」
その通りだった。
前の剣はセラを止めたんじゃない。
止めようとして。
止められなかった。
警告も。
逃がす仕組みも。
最後には役に立たなかった。
ただ。
先に壊れた。
俺は新しい剣へ視線を落とす。
森であれだけ使ったのに、外見は変わっていない。
傷も見えない。
――いや。
そこで止まる。
出ていないものは、無いという意味じゃない。
鑑定に出たのは、制限機構がないことと、入力が続くことだけだ。
内部が無傷だなんて。
どこにも出ていない。
「インクスさん」
返事がない。
旧剣を見たままだ。
「こっちは?」
「何が?」
「今、どれくらい傷んでます」
やっと新剣へ視線が移った。
俺の手から受け取ると、刀身を斜めにして灯りへかざす。継ぎ目を押し、鍔の辺りを動かし、今度は柄を耳元へ寄せて小さく振った。
少し前なら。
何か見つけるたびに笑っていた。
今は笑わない。
「……分からないな」
小さな声だった。
「作った本人でも?」
「こんなに流されたことがない」
指で刀身を軽く叩く。
音を聞く。
もう一度。
「想定はしたよ。でも、実際にやった奴はいなかった」
新剣を見る目が変わっていた。
面白いものを見る目じゃない。
知らないものを見る目だった。
「だったら」
俺はセラへ目を向ける。
「次に先に駄目になるのが、どっちかも分からない」
セラは黙っていた。
インクスも返さない。
新剣の上を指が一度だけ滑った。
「……困ったな」
「何がです」
しばらく考えてから、インクスが言った。
「初めてだよ。自分の剣より、使う奴の方が気になるの」
少しだけ笑いそうな顔をした。
笑わなかった。
セラが椅子から立ち上がる。
左肩を動かした拍子に、ほんの僅か眉が動いた。
俺は見ていた。
セラも。
俺が見たことに気づいた。
何も言わない。
新剣へ手を伸ばす。
「使う」
止めようとして。
やめた。
代わりに聞いた。
「次に俺が止めたら?」
セラの手が柄に触れたところで止まる。
こちらを見ない。
少し間があった。
「理由を言え」
「戦ってる最中に?」
「短く」
それだけ言って、剣を持ち上げた。
約束なのかどうか。
よく分からない。
俺が止めろと言えば止まるとも言っていない。
でも。
聞かないとも言わなかった。
今までよりは。
少しましだ。
「分かりました」
セラは返事をしなかった。
インクスへ剣を差し出す。
「鞘がない」
受け取ったインクスは、しばらく剣を見ていた。
「ああ」
それだけ答える。
いつもの調子なら、まだ譲ってないだの、勝手に持っていくなだの言ったはずだ。
今日は言わなかった。
作業台へ新剣を置く。
折れた旧剣のすぐ横だった。
二本を並べて。
インクスはしばらく動かなかった。
俺も何も言わない。
外から見れば、新しい方には傷一つない。
もう。
それを理由に安心する気にはなれなかった。
―――
宿へ戻ってからも、しばらく眠れなかった。
隣の部屋は静かだった。
セラが寝ているのか、まだ起きているのかは分からない。
天井を見ているうちに、昼間の言葉が戻ってきた。
理由を言え。
止まるとは言わなかった。
それでも、聞くとは言った。
「……相性良すぎるだろ」
誰もいない部屋で呟く。
強い剣を手に入れたはずなのに。
少しも安心できない。
目を閉じる。
今度、止める時は。
見てから迷っている暇はない。
そこだけは、決めた。




