第四十四話 剣はついてくる
森の奥へ進むほど、胸元の護瘴石は目に見えて色を変えていった。
結界を越えた時には白に薄い灰色が混じる程度だったものが、今では半分近くまで濁っている。浄気面を通して吸っているはずなのに、空気は重い。息をするたび、喉の奥へ細かな砂でも貼りついていくような感覚が残った。
インクスは何度も自分の護瘴石を確かめながら歩いていた。
工房では人の話もろくに聞かず、剣さえあればそれでいいような男だったのに、今は笑いもしない。あのインクスが黙っているだけで、この先が普通ではないことが分かった。
先頭を歩いていたセラが足を止めた。
「ここだ」
森が途切れていた。
いや。
途切れたんじゃない。
壊されている。
幹の太い木が何本も途中からへし折られ、地面には大小の穴が連なっている。土だけではない。地表から露出していた岩盤まで抉れ、大きな破片が周囲へ散らばっていた。
何か巨大なものが、力任せに森を押し潰しながら通った跡だった。
俺は近くの岩へ寄る。
人の身体より大きな塊が、中央から砕けていた。
切断でもない。
焼けてもいない。
表面には四本の深い溝が走っている。
カイがしゃがみ込んだ。
「爪ですね」
「これが?」
思わず聞き返す。
溝は指が入るほど深い。
インクスも横から覗き込んだ。
「岩盤まで砕いてる。さっき聞いた話、大げさじゃなかったみたいだね」
「普通のモスバックにできます?」
「無理だよ」
返事は早かった。
「なら、禍蝕したら?」
そう聞くと、インクスはすぐには答えなかった。
砕けた岩を見たあと、森の奥へ視線を向ける。
「知らない」
「知らない?」
「僕だって禍蝕した魔獣を実際に見るのは初めてなんだよ。記録なら読んだことはあるけど、そもそも禍瘴に当てられた魔獣は大抵、変わり切る前に死ぬ」
カイも振り返った。
「インクスさんでも、実物は?」
「ないよ。だからこの先にいるのが、禍蝕すれば普通にこうなるものなのか、それとも特別おかしいのか。それを僕に聞かれても困るね」
その時だった。
森の奥で、何かが地面を叩いた。
一度。
遅れて、腹の底へ響く振動が届く。
二度目。
今度は近い。
木々の隙間を、大きな黒い影が横切った。
セラの右手が腰の剣へ伸びる。
「来る」
直後。
正面の大木が横へ吹き飛んだ。
根元ではない。幹の途中から折れ、回転しながら俺たちの横を抜けていく。
土煙の向こうから、それは姿を現した。
一瞬。
モスバックだと認識できなかった。
大きさだけなら、ベルーガへ来る前に見た群れの長と同じくらいだった。
右耳の先が欠けている。
肩に古い傷もある。
間違いない。
あの時、若い二頭を一声で退かせた長だ。
それなのに。
身体の形が違いすぎた。
背を覆っていた緑の苔は黒く変色し、その下では盛り上がった筋肉が岩の塊みたいに蠢いている。
前脚は左右で太さが違う。
特に右。
肩から先だけで俺の胴より太く、地面を掴む爪は黒く変色していた。一本一本が刃物のように分厚く、さっき見た岩盤の傷があれでつけられたのだと一目で分かる。
けれど、異常なのはそれだけではなかった。
「……何だ、あれ」
腹に。
顔があった。
長の腹部。
黒い毛と皮膚の間へ半分沈み込むように、別のモスバックの顔が埋まっている。
瞼は閉じている。
口だけが僅かに開いていた。
脇腹からは、本来あるはずのない脚が一本伸びている。
反対側にも。
背中に近い位置にも、途中までしか伸びきっていない前脚のようなものがあった。
本数も。
向きも。
長さも合っていない。
生き物としての形を、途中から思いつくまま付け足したように見えた。
カイが息を呑んだ。
「これが……禍蝕?」
インクスは答えなかった。
怪物を見たまま、僅かに眉を寄せている。
「インクスさん?」
「ああ」
やっと声が返った。
「たぶんね」
「たぶん?」
「言っただろう。僕だって初めて見る」
その時。
腹の顔が動いた。
閉じていた口がゆっくり開く。
長の喉から出たものとは別の、細く掠れた鳴き声が漏れた。
背筋が冷えた。
インクスも笑わなかった。
「……顔まで増えるのかい」
カイが怪物から目を離さないまま聞く。
「禍蝕では、こうなるものなんですか?」
「知らないよ」
インクスは首を横に振った。
「禍瘴に耐えるために身体を作り替えるっていうなら、こういう変化が起きることもあるのかもしれない。でも、僕は正常な禍蝕ってものを知らない」
怪物の目が。
セラを捉えた。
空気が変わる。
セラも動かない。
街道で会った時。
あの長はセラを見た。
殺気を感じても向かおうとした若い二頭を止め、戦う必要がないと判断して、群れを連れて去った。
あの時は。
目の前にいる相手を見ていた。
今は違う。
焦点はセラに合っているはずなのに、そこに判断するものがない。
ただ。
敵がいる。
それだけだった。
低い咆哮が森を震わせた。
怪物が踏み込む。
「下がれ!」
セラの声と同時に、巨大な右前脚が振り下ろされた。
俺とカイが左右へ飛ぶ。
轟音。
地面が揺れた。
土と石が弾け、さっきまで俺が立っていた場所が大きく抉れる。
カイが息を呑む。
「岩盤を砕くって、そういう意味か……」
セラだけが前に残った。
剣を抜く。
刀身が薄暗い森の中で光った。
俺は怪物へ《不具合鑑定》を向ける。
《個体識別――判定不能》
最初からおかしい。
続いて表示が浮かぶ。
《骨格構造――著しい不整合》
《筋組織――過剰発達》
《魔力経路――多重化》
《外皮適応――進行》
多重化。
その意味を考える暇はなかった。
怪物の右前脚が横から振られる。
セラは受けなかった。
爪が届く寸前で一歩踏み込み、腕の外側へ抜ける。
そのまま刃を走らせた。
斬れた。
黒い皮膚が裂ける。
怪物が吠える。
まだ。
剣は通る。
セラは止まらない。
身体を反転させ、今度は後脚を斬る。そこから伸びてきた余分な前脚を身体を沈めて避け、返す刃で根元から斬り上げた。
血が飛ぶ。
次は首。
脇腹。
同じ場所へ攻撃を重ねない。
普通のモスバックなら存在しない位置から脚が伸びてきても、一度見れば次にはその範囲へ入らない。
セラ自身は崩れていなかった。
むしろ。
押している。
「セラ殿が……」
カイが言いかける。
俺には別のものが見えていた。
《刀身内部――亀裂進行》
一撃ごとに。
セラの剣も削られている。
さらに。
さっき斬った右前脚。
傷の周囲が盛り上がっていた。
治っているんじゃない。
黒い皮膚が重なるように厚くなっている。
《外皮適応――斬撃耐性上昇》
「セラ! 最初に斬ったところ、硬くなってます!」
セラの目が一瞬だけ動く。
怪物へ二度目の斬撃。
右前脚。
今度は浅い。
明らかに、さっきより刃が入っていない。
次にセラが狙ったのは首だった。
一閃。
傷が入る。
すぐに脇腹へ移る。
同じ場所を続けて狙わない。
それでも。
変化は止まらなかった。
傷を受けた場所から順番に。
外皮が厚くなっている。
首。
右前脚。
脇腹。
「攻撃された場所に合わせてる……」
《外皮適応――進行》
続いて。
別の表示が浮かんだ。
《硬化部位――内部負荷増大》
目を凝らす。
外側だけが硬くなっている。
皮膚。
筋肉。
そこまでは異常なほど強化されている。
でも。
骨も。
腱も。
魔力の流れも。
同じ速度で変化しているわけじゃない。
硬くすればするほど。
中へ無理が集まっている。
「セラ!」
今度は大きく叫んだ。
巨大な爪を避けながら、セラがこちらを見る。
「外側だけです! 硬くなった場所ほど、中へ負荷が集まってる!」
「どこだ」
「右肩! 一番使ってる腕の付け根!」
巨大な右前脚。
岩盤を砕く腕。
怪物自身も分かっているのか、攻撃のほとんどをあの腕に頼っている。
振る。
叩く。
地面を砕く。
そこへセラの斬撃を受け。
さらに硬化する。
その全部を支えている肩の奥に、負荷が集まっていた。
セラが踏み込んだ。
右前脚が上がる。
今度は完全には避けない。
剣を斜めに当て、爪の軌道を僅かに逸らす。
滑るように腕の横を抜けた。
懐。
右肩。
セラが斬り込む。
刃が食い込んだ。
深い。
今までで一番。
怪物が絶叫する。
「入った!」
カイの声が上がった。
けれど。
そこで止まった。
セラの剣が。
怪物の肩の中で動かなくなる。
傷口の周囲が盛り上がる。
黒い皮膚と筋肉が急速に硬化し、食い込んだ刀身を挟み込んでいた。
《外皮適応――急速進行》
その表示に重なる。
《刀身内部――亀裂拡大》
「セラ!」
抜け。
一度離れろ。
俺ならそうする。
剣を守るなら。
でも。
セラは引かなかった。
左足が地面を掴む。
右手へ力が入る。
さらに刃を押し込もうとする。
「駄目です!」
《高負荷斬撃――非推奨》
それも。
セラは知っている。
知った上で。
ここで止めようとしている。
剣へ流れる魔力が増した。
刀身が細かく震える。
「セラ!」
パキ。
音は小さかった。
戦闘の中なら、聞き逃してもおかしくないほどの音。
でも。
俺にははっきり聞こえた。
刀身の中央へ線が走る。
次の瞬間。
剣が折れた。
刃の半分が。
怪物の肩へ食い込んだまま残る。
セラの右手には。
半分になった剣。
ずっと。
当たり前みたいに腰にあったもの
その剣が。
終わった。
怪物が吠える。
肩に折れた刃を残したまま、巨大な右前脚を持ち上げた。
腕を振り抜いた体勢。
そこから逃げるより早く。
爪が届く。
俺が走る。
間に合わない。
その横で。
布が裂けた。
振り向く。
インクスだった。
背中の剣を。
初めて抜いている。
何重にも巻かれていた布が足元へ落ちた。
現れたのは長剣だった。
見た目だけなら。
ただ。
刀身には普通の剣では見ない継ぎ目がいくつも走っている。
鍔の周囲にも、細かな機構が組み込まれていた。
インクスはセラを見た。
一度だけ。
小さく頷く。
「うん」
それだけだった。
そして。
剣を投げた。
「君なら、この剣を使えると思ったよ!」
剣が空中で回転する。
怪物の爪が振り下ろされる。
セラが折れた剣の柄を手放した。
右手が伸びる。
回ってきた柄を。
掴む。
その瞬間。
手が柄へ吸いついたように見えた。
もちろん。
そんな魔法があるわけじゃない。
握る位置。
柄の太さ。
刀身の長さ。
手元へ寄った重心。
その全部が、最初からそこへ手を置くと決められていたみたいに収まった。
セラは。
握り直さない。
試し振りもしない。
受け取った勢いを殺さず。
そのまま振った。
ギィン!
怪物の爪が横へ流れる。
正面から受け止めたんじゃない。
刃を爪の内側へ滑り込ませ、力の向きだけをずらした。
巨大な前脚がセラの身体の横を抜ける。
爪が地面へ突き刺さった。
次には。
セラの剣が右前脚を斬っていた。
黒い外皮。
旧剣では浅くしか入らなくなっていた場所。
刃が。
深く走る。
怪物が咆哮する。
セラはもう次へ動いていた。
余分な前脚。
切断。
脇腹。
深く斬る。
次に来る脚を、見る前から知っていたように避ける。
「何で……」
俺の口から声が漏れた。
初めて触った剣だ。
なのに。
ずっと使ってきたように動いている。
いや。
違う。
前の剣以上に。
セラの身体へ合っている。
インクスだけが。
笑った。
「ケケケ」
嬉しそうに。
「やっぱり」
怪物が身体を捻る。
腹についている顔が大きく口を開けた。
喉とも腹ともつかない場所から、濁った声が漏れる。
余分な手足が一斉に動いた。
正面。
側面。
下。
本来なら一頭の生物から来るはずのない複数方向の攻撃。
セラは止まらない。
一本を弾く。
身体を沈めて二本目を避ける。
そこから踏み込み。
三本目を斬る。
武器が変わった。
それでも。
動きに一瞬の迷いもない。
《完全適合》。
分かっていたつもりだった。
セラは初めて触れたものでも。
重量。
重心。
間合い。
握り。
力の流し方。
それらから。
最も扱いやすい形を身体の方で見つける。
怪物が後退した。
初めて。
セラから距離を取った。
「押してる……」
カイが呟く。
でも。
怪物の変化も止まらない。
右前脚。
脇腹。
切断された余分な脚の根元。
斬られた場所が、次々と黒く硬くなっていく。
《外皮適応――加速》
「セラ! また硬化してます!」
分かっている。
セラが首を斬る。
深く入る。
二撃目。
浅くなる。
三撃目。
今度は金属を叩いたような音がした。
セラが距離を取った。
手の剣を見る。
「足りん」
インクスが聞き逃さなかった。
「何がだい?」
「威力だ」
普通なら。
自分が作った剣を初めて渡して。
いきなり足りないと言われたら、腹を立てそうなものなのに。
インクスは笑った。
「ケケケ。だろうね」
セラの眉が寄る。
「何?」
答えが返るより先に。
怪物が突進した。
巨大な右腕。
残った前脚。
余分な脚。
全部を地面へ叩きつけながら、一直線にセラへ迫る。
セラが剣を構えた。
その時だった。
ガギン。
異音。
刀身に。
線が走る。
「……え」
さっき見た。
剣が折れた時と。
似た音だった。
刀身の中央がずれる。
刃の一部が外れる。
「また――」
壊れた。
そう思った。
けれど。
セラは動きを止めなかった。
刀身の一部が横へ滑る。
鍔が開く。
内側に隠れていた金属塊が動いた。
柄の近くへ収まっていた重い部品が、刀身の芯を通るように前へ移っていく。
分かれた刃が回転する。
位置を変える。
柄が伸びる。
それぞれの部品が。
別の場所で噛み合った。
ガギン。
最後の一音。
さっきまでの長剣は。
もうなかった。
幅の広い刀身。
長くなった柄。
同じ部品でできているはずなのに。
構えた時の印象が全く違う。
総重量そのものが増えたわけじゃない。
重い部品が。
手元から刃の側へ移動している。
重心が一気に前へ出た。
同じ重さでも。
身体の近くで持つのと、腕の先で持つのでは負担が違う。
普通の剣士なら。
変形した瞬間に剣先へ身体を引っ張られる。
持ち方から覚え直す。
腰の位置も。
足の開きも。
振り始める場所も。
全部変えなきゃいけない。
セラは。
一度だけ剣を見た。
「なるほど」
それだけだった。
右足が半歩下がる。
握る位置が変わる。
腰が沈む。
前へ移った重心に合わせ、身体の方がもう変わっている。
長剣を持っていた人間の構えではない。
大剣を振る人間の立ち方だった。
インクスが。
とうとう声を上げて笑った。
「ケケケ!」
怪物が迫る。
「やっぱり分かるのかい!」
セラは答えない。
岩盤を砕く巨大な爪が振り下ろされる。
今度は。
避けなかった。
大剣を振る。
轟音。
爪と刀身がぶつかる。
衝撃が森を揺らした。
セラの足元が沈む。
それでも。
剣は負けなかった。
怪物の腕が。
押し返される。
「……すご」
言い終わる前に、セラが踏み込んだ。
俺は怪物へ《不具合鑑定》を向ける。
《硬化部位――内部支持限界》
右肩。
そこだ。
「セラ! 右肩の奥!」
返事はなかった。
必要もなかった。
怪物が巨大な右前脚を持ち上げる。
セラも。
大剣を引いた。
以前の剣なら。
ここまで魔力を通す前に。
剣の方が悲鳴を上げた。
今は。
流れる。
セラから放たれた魔力を、大剣が受け止める。
まだ。
壊れない。
さらに。
流れる。
インクスから笑みが消えた。
目を見開いている。
たぶん。
作った本人も初めて見ている。
この剣へ。
ここまでの力が流れ込むところを。
怪物の爪が落ちる。
セラも動いた。
正面から。
大剣が斜めに走る。
爪。
黒い外皮。
異常発達した筋肉。
その奥。
右肩。
硬化した全部を。
まとめて断ち切った。
巨大な前脚が宙へ飛ぶ。
怪物の身体が傾く。
それでも倒れない。
腹の顔が開く。
残った手足が一斉にセラへ伸びる。
セラは剣を返した。
一歩。
さらに前へ。
大剣の前へ寄った重心。
刀身そのものが持つ勢い。
自分の踏み込み。
腰。
肩。
その全部を、一つの軌道へ乗せる。
横薙ぎ。
刃が怪物の胴へ食い込んだ。
黒い外皮を割る。
筋肉を断つ。
骨を砕く。
止まらない。
巨体を。
最後まで。
断ち切った。
怪物は立ったまま僅かに揺れた。
腹についていた顔が、一度だけ口を開く。
声は出なかった。
そして。
崩れた。
地面が大きく震える。
しばらく。
誰も動かなかった。
俺は自分が息を止めていたことに、その時ようやく気づいた。
セラが大剣を下ろす。
呼吸は少し荒い。
それでも。
立っている。
胸元を見る。
護瘴石はもう、灰色というより黒に近かった。
インクスも自分の護瘴石を見る。
こちらもかなり黒い。
「話は外に出てからだね。これ以上ここにいたら、せっかく勝ったのに禍瘴にやられる」
俺たちは結界へ戻ろうとした。
その時。
セラの足が止まった。
視線の先。
地面に。
折れた旧剣の柄側が転がっている。
怪物の肩から抜け落ちたらしい刃の半分も、少し離れた場所へ落ちていた。
セラは何も言わなかった。
ただ。
少しの間だけ見ていた。
アークの時も。
バスティオンの時も。
アレーテイアの時も。
ずっとセラが使ってきた剣だった。
インクスがその視線に気づいた。
「先に行きなよ」
セラが見る。
「何をする」
「拾う」
「なぜだ」
「なぜって」
インクスは折れた柄を拾い上げた。
次に刃の方へ向かう。
「こんな壊れ方をした剣を置いていけるわけないだろう?」
俺は思わず言った。
「嫌な言い方しますよね」
「ケケケ」
笑っている。
でも。
扱いは雑じゃなかった。
刃の断面を指で触らずに眺め、持っていた布へ柄側と一緒に包む。
セラは、その手元を見た。
「捨てるな」
インクスが顔を上げた。
セラはもう森の出口を見ている。
「言われなくても」
それだけだった。
―――
結界を抜けて管理所へ戻った頃には、護瘴石はどれもほとんど黒に近い色へ変わっていた。
インクスが扉を閉める。
「ぎりぎりだね」
「最初に言ってたより、かなり早く黒くなりましたね」
「中心に近づいたからさ。だから濃い場所ほど時間が短くなるって言っただろう?」
浄気面を外す。
普通の空気が。
こんなに軽かったのかと思った。
何度か深く息を吸う。
セラは管理所の外にある石へ腰を下ろしていた。
腰には。
もう何もない。
代わりに。
右手には、さっき受け取った大剣がある。
インクスは少し離れた場所へ布を広げ、回収してきた旧剣を二つ並べていた。
柄側。
刃側。
綺麗に折れたように見える。
でも。
インクスは断面を見て首を傾げた。
「やっぱりね」
「何がです?」
俺が近づく。
「ここで急に折れたんじゃない」
断面の一部を指す。
「前から入ってた亀裂が伸びてる。最後の一撃で新しく全部壊れたんじゃなくて、ずっと前から少しずつ折れてたんだよ」
胸の奥が。
少しざわついた。
セラも聞いていた。
ただ。
何も言わない。
インクスは断面を眺めたあと、旧剣をもう一度布で包んだ。
「これは僕が預かってていいかい?」
セラが見る。
「何に使う」
「見る」
「それだけか」
「十分だろう?」
セラは少し考えた。
「ああ」
それで終わった。
インクスが布を結ぶ。
セラは手元の新しい剣を見る。
まだ大剣の形のままだ。
「これは何だ」
インクスが振り返る。
「剣だよ」
「そういう意味ではない」
「じゃあ、どういう意味なんだい?」
セラが刀身を持ち上げた。
「途中で壊れた」
一拍。
インクスの口元が歪む。
「ケケケケケ!」
とうとう腹を抱えて笑い始めた。
セラの目が冷たくなる。
「何がおかしい」
「壊れてないよ」
「割れた」
「変わっただけさ」
インクスはセラの剣へ近づく。
刀身の根元へある小さな機構へ指をかけた。
「ちょっと貸して」
セラが渡す。
インクスが部品を押す。
ガギン。
幅広い刀身が動いた。
分離。
回転。
移動。
前へ移っていた金属塊が、刀身の内部を通って鍔の近くへ戻っていく。
柄が縮む。
数秒後。
大剣だったものは、最初にセラが受け取った長剣へ戻っていた。
俺は思わず近づく。
「本当に同じ剣なんですか」
「そうだよ」
セラが受け取る。
一度振る。
「軽い」
インクスが笑った。
「重さは変わってないよ」
セラの目が細くなる。
「明らかに違う」
「感じる重さが違うだけさ」
インクスは長剣の刀身を指す。
「この形では重い部品を手元へ集めてる。重心が握ってる場所に近いから、素早く動かせる」
次に。
大剣へ変わる時に動いた部分を指でなぞる。
「第二形態では、その重い部分を刀身側へ移す。総重量は同じでも、重心が前へ出れば振った時の負荷は増える」
自分の腕を伸ばした。
「同じ石でも、胸の前で抱えるのと、腕を伸ばした先で持つのじゃ全然違うだろう?」
「つまり」
セラが剣を見る。
「わざと扱いにくくしている」
「威力が欲しいならね」
インクスの口元が上がる。
「速く動かす時は重さを手元へ集める。叩き斬る時は前へ出す。同じ剣の中で、重さの使い方そのものを変えてる」
カイが感心したように剣を見る。
「普通の人には無理でしょうね」
「だから誰も使えなかったんだよ」
インクスは楽しそうだった。
「剣を使ってた人間に突然大剣を渡して、次の瞬間にはまた別の重心に変える。普通は身体がついてこない」
セラが言う。
「それだけか」
「何が?」
「形は二つだけか」
インクスが笑った。
「気になる?」
「聞いている」
「秘密」
「返すぞ」
「待って待って」
初めて。
少し焦った。
セラが長剣を持ち上げる。
「これは私が使っていいのか」
インクスはすぐに答えなかった。
工房で初めて会った時と同じように。
セラの手。
腕。
肩。
足。
そして。
顔を見る。
しばらくして。
笑った。
「君が使わないなら、また僕が背負って歩くことになる」
「答えになっていない」
「なら」
インクスは剣の柄へ指を置く。
「使ってみるかい?」
セラが剣を見る。
「壊れるのか」
「もちろん」
俺が思わず聞き返した。
「もちろん?」
インクスがこちらを見る。
「武器なんだから壊れるだろう?」
嫌な言い方だった。
俺はセラが持っている剣へ《不具合鑑定》を向ける。
戦っている最中には。
そこまで見る余裕がなかった。
表示が出る。
複雑だった。
変形部。
接続部。
魔力の経路。
普通の剣とは比べものにならない数の構造が重なっている。
そして。
その中に。
一つ。
引っかかるものがあった。
《構造――異常検出》
嫌な予感がした。
「……インクスさん」
「なんだい?」
もう一度見る。
間違いない。
「この剣」
視線を上げる。
「欠陥がありますよね」
インクスは。
笑った。
「ケケケ」
その顔は。
今日一番楽しそうだった。
「もちろん」
そして。
当たり前みたいに。
言った。
「まともな武器なんて、僕は作ったことがないよ?」




