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最強女騎士は、あと百二十日で壊れる ~粗探ししかできないハズレスキル《不具合鑑定》の俺だけが、それに気づいた~  作者: 出水克幸
武具の街 ベルーガ編

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第四十三話 まだ折れていない

インクスが工房の奥へ消えてからも、しばらく金属を削る音が続いていた。


俺は手元に残されたセラの剣を見る。


直すかどうかは、あとで決める。


そう言われた。


壊れた剣を鍛冶屋へ持ち込んだのだから、直せるなら直す。直せないなら別の剣を探す。それくらいの話だと思っていたのに、この工房へ来てから一つも思った通りに進んでいない。


「帰るか」


セラが言った。


「待ってください。あの人、まだ何も決めてないでしょう」


「直す気がないのなら同じだ」


「本人に聞きます」


工房の奥へ声をかける。


「インクスさん」


返事はなかった。


削る音だけが続いている。


「インクスさん」


今度は少し大きめに呼ぶ。


それでも音は止まらない。


三度目を呼ぼうとしたところで、ようやく奥から声が返ってきた。


「聞こえてるよ」


「聞こえてるなら返事してくださいよ」


「返事をしないと、聞こえてないことになるのかい?」


初対面でここまで面倒な人も珍しい。


しばらくして、インクスが細い金属片と鑢を手に戻ってきた。


「まだいたんだ」


「直すかどうか決めるって言ったでしょう」


「言ったね」


「決めてください」


「嫌だよ」


即答だった。


「何でです?」


「今は直したくないから」


「理由になってないでしょう」


「僕にはなるよ」


インクスは俺の手から剣を取ると、今度は鞘から完全に抜いた。


灯りへかざし、角度を変えながら刃を眺める。表面にある傷を見ているというより、その向こう側まで覗こうとしているような目だった。


やがて、親指の腹で刀身を軽く弾く。


澄んだ金属音が、工房の中へ伸びた。


「よく残ったね」


「そんなに悪いんですか」


「悪いよ。外から見える欠けは大したことない。でも、中には細い亀裂が何本も入ってる。魔力を通す筋も痩せてる。普通に振るだけなら、まだ使えるだろうけどね」


「だったら、その亀裂を直せばいいんじゃないですか」


インクスが俺を見る。


「塞げば、直ったことになるのかい?」


言葉に詰まった。


インクスは返事を待たず、もう一度剣へ目を落とす。


「打ち直して、傷んだところを落として、魔力の通り道もある程度なら戻せる。でも、この剣がこの子についていけてないことまでは直らない」


セラの眉が動いた。


「またそれか」


「まただよ」


インクスは笑った。


「一度や二度、無茶な力を通したくらいなら、こんな壊れ方はしない。振るたびに少しずつ、剣の中に無理が残ってる」


「使い方が悪いという意味ではないんですよね」


「逆だって言っただろう?」


インクスは剣先をセラへ向けた。


「使い手の方が強すぎる」


セラは言い返さなかった。


その沈黙を見て、インクスの目が細くなる。


「やっぱり分かってる」


「何がだ」


「自分が剣へ合わせてることさ」


今度はセラの表情が僅かに変わった。


「合わせてなどいない」


「合わせてるよ。強く斬る時だけ握りが少し深くなる。それから腰。剣が耐えられるところを越えないように、最後のところで力を逃がしてる」


俺はセラを見る。


「そうなんですか?」


「知らん」


「知らないんですか」


「意識していない」


インクスの口元が大きく歪んだ。


「それがいい」


「何がだ」


「頭で剣を庇ってるんじゃない。身体が先に、この剣じゃ足りないって分かってる」


セラは自分の剣を見た。


今度は否定しなかった。


インクスが興味を持ったのは、たぶんそこだった。


「直すだけならできるよ」


インクスは剣を鞘へ戻す。


「でも元へ戻しても、また同じ壊れ方をする。それじゃ面白くない」


「面白いかどうかで修理を決めないでください」


「じゃあ何で決めるんだい?」


「必要かどうかです」


「誰に?」


また聞き返される。


「使う人にです」


「使う人が、その剣を必要としてるのかい?」


俺とインクスの視線が、同時にセラへ向いた。


「必要だ」


返事は早かった。


「どうして?」


「剣だからだ」


「剣なら何でもいい?」


「使えるならな」


インクスは少し首を傾げた。


「本当に?」


セラの目が細くなる。


「何が言いたい」


インクスは答えず、自分の背中へ手を回した。


布で何重にも巻かれた剣。


初めて見た時から、一度も身体から外していない。


「それは何なんです?」


俺が聞く。


「剣だよ」


「それくらい見れば分かります」


「なら答えは出てるじゃないか」


「何でずっと背負ってるんです?」


「置いておくと邪魔だから」


「絶対違うでしょう」


「ケケケ」


笑われた。


セラも布巻きの剣を見ていた。


「売り物か」


「違う」


「自分で使うのか」


「使わない」


「なら、なぜ持っている」


今度はインクスがすぐに答えなかった。


背中の柄へ指をかける。


触れるだけで、抜きはしない。


「使える奴がいないから」


「使えない剣を作ったんですか?」


「使えるよ」


「でも、使える人がいないんでしょう」


「そうだよ」


「矛盾してません?」


「してないさ」


インクスは楽しそうだった。


「剣として振るだけなら、使える奴はいくらでもいた。でも、最後までこいつを武器のままで扱えた奴がいない」


意味が分からない。


セラは俺より長く、その言葉を考えていた。


「どういう構造だ」


「教えない」


「なぜだ」


「今教えたらつまらないだろう?」


「知らん」


「僕がつまらない」


やっぱり、自分の都合しか考えていない。


「誰かに頼まれて作ったんですか?」


「違うよ」


「なら何でこんなものを?」


インクスは少し考えたあと、天井を見た。


「降りてきたから」


「……何が」


「これが」


背中の剣を軽く叩く。


「朝起きたら、頭の中に形があった。どう組むかも、何を使うかも大体分かった。だから作った」


「それだけ?」


「金で神様が降りてくるのかい?」


知らない。


ただ、この人に理由を求めるだけ無駄なことは分かってきた。


「完成してから気づいたんだ」


インクスは続けた。


「僕じゃ使えない」


「作った本人なのに?」


「作れることと、使えることは別だろう?」


それはそうだけど。


何となく腹が立つ。


「何人かには渡したよ。腕のいい剣士にも、大剣使いにも、槍を使う奴にも」


「槍?」


俺が聞き返すと、インクスが口元を上げた。


「今のは忘れて」


「無理ですよ」


「なら覚えてればいい」


完全に遊ばれている。


「誰も使えなかったのか」


セラが聞いた。


「ああ」


「なら失敗作だ」


インクスの笑みが、一瞬だけ消えた。


怒ったのかと思った。


違った。


むしろ、嬉しそうだった。


「いいね」


「何がだ」


「そういう言い方」


背中の剣へ手を置く。


「僕もそう思ってる。誰にも使えない武器なんて、武器じゃない」


そして、セラを見る。


「だから探してる」


「何を」


「こいつを武器にできる奴」


工房の中が静かになった。


「それって――」


俺が口を開くと、インクスが手を上げた。


「まだだよ」


「何がまだなんです?」


「決めるのが」


「もうセラのこと、ずっと見てるじゃないですか」


「興味を持つことと、答えを決めることは別だろう?」


また。


この人まで、確認したものと結論を分けている。


少し嫌な気分になった。


そんな俺を見て、インクスが笑う。


「君も面白いね」


「俺ですか?」


「壊れてるものを見ると、すぐ直そうとする」


「普通でしょう」


「そうかな」


インクスは作業台へセラの剣を置いた。


「僕は壊れ方を見る」


「何でです?」


「そこに、使われ方が残るから」


刀身を軽く指で叩く。


「どこへ力を入れた。どこで逃がした。何を無理させた。武器は折れてなくても、全部残してる」


言い方は違う。


でも、少しだけ分かる気がした。


俺は不具合を見る。


この人は、不具合が生まれた過程を見る。


近いようで。


たぶん、かなり違う。


「だから直さないんですか」


「今直したら、続きを見られないだろう?」


「……は?」


セラもインクスを見る。


「お前」


声が低くなった。


「私の剣が折れるところを見たいのか」


「見たいよ」


即答だった。


「インクスさん」


俺まで声が低くなる。


でも、インクスは悪びれない。


「壊れないなら、それも答えだ。壊れるなら、どこで終わるのか見たい。どっちでも面白い」


「持ち主は面白くないですよ」


「君はそうなんだね」


本当に合わない。


「トーマ」


セラが呼んだ。


「はい」


「もういい。剣を返せ」


インクスは作業台から剣を取り、セラへ渡した。


今度は笑っていなかった。


「普通に振るなら、まだ持つよ。ただ、高い出力を通すな。一度でも限界を越えたら、たぶん終わる」


「分かった」


「本当に?」


俺が聞く。


セラがこちらを見る。


「聞いただろう」


「聞くことと守ることは別でしょう」


「必要なら使う」


嫌な答えだった。


「使う前に言ってください」


「なぜだ」


「止めるので」


「なら言わん」


「そう言うと思いました」


セラの口元が、ごく僅かに動いた。


笑ったのかもしれない。


それを見ていたインクスが、また観察するように目を細める。


「やっぱり面白いね」


「お前に言われると不快だ」


「ケケケ」


インクスはそれだけ笑うと、背を向けて工房の奥へ戻った。


やがて。


金属を削る音が、また始まった。


―――


それから、そう時間は経っていなかった。


ベルーガの方角から、鐘が鳴った。


一度。


続いて二度。


間を置かず、短い音が重なる。


カイが扉へ顔を向ける。


「この鳴らし方……」


「何です?」


俺が聞いた直後、林の向こうから誰かが走ってくる音が近づいてきた。


やがて、一人の男が工房へ飛び込んでくる。


街で見かけた鍛冶師だった。肩で息をし、片腕には血の滲んだ布が巻かれている。


「インクス!」


奥から返事はない。


金属を削る音だけが続いている。


「インクス! 聞こえてんだろ!」


ようやく音が止まった。


「聞こえてるよ」


「なら出てこい!」


「騒がしいね」


しばらくして、インクスが奥から姿を見せた。


さっき使っていた鑢《やすり》をまだ手に持っている。


「何があったんだい?」


男は作業台へ地図を広げた。


「南の見回りがやられた。救援に出た連中も、一人しか戻ってねえ」


カイが地図の横へ寄る。


「相手は?」


「モスバックだ」


俺とセラの視線が動いた。


男の指が、ベルーガから南へ延びる道をなぞっていく。


「でかい。苔背熊《モスバック》なんて大きさじゃねえ。剣を入れても通らなかったって話だ」


指が止まる。


森の奥。


赤い線で囲まれた区域の北側だった。


インクスの表情から、さっきまでの気だるさが消えた。


「あそこか」


「知ってる場所なんですか?」


俺が聞く。


インクスは赤い線に沿って指を動かした。


「災厄の置き土産だよ」


災厄と聞いた途端ヴァルガルドの戦いが一瞬脳裏をよぎった。


「置き土産?」


「昔、この辺りで災厄が出現して、しばらく一帯を荒らし回ったんだ」


地図の中には、赤い線で大きく囲まれた森がある。


「災厄そのものはもういない。でも、あれだけのものが暴れた土地から、力まできれいに消えてくれるわけじゃない。地面や地下水へ残り滓が染み込んで、今も濃く残ってる場所がある」


カイが赤い線を見る。


「禍瘴域《かしょういき》ですね」


「ああ」


聞いたことのない名前だった。


「濃い場所は結界で囲って、立入禁止にしてある。人間も入らないし、魔獣も入れない」


「中に入ったらどうなるんです?」


「入らないから大丈夫さ」


地図を持ってきた男が嫌そうな顔をする。


「冗談に聞こえねえぞ」


「冗談じゃないよ。普通は誰も近寄らない」


インクスは工房の外に見える山へ顎を向けた。


「人間だけじゃない。魔獣だって禍瘴の気配を感じれば、本能で遠ざかる。濃いのを感じたら、あっちの山まで逃げていくくらいにはね」


「じゃあ」


地図を見る。


「その近くにモスバックがいた時点でおかしい?」


「ああ」


カイの顔も険しくなっていた。


「結界の中へ入った可能性は?」


インクスは指先で赤い線を叩いた。


「それなら、それで問題だけどね」


指が線の内側から、外へ滑る。


「もっと嫌なのは逆だよ」


「逆?」


「モスバックが中へ入ったんじゃなく、中のものが外へ出た」


工房の空気が少し変わった。


セラが腰の剣へ触れる。


「場所を案内しろ」


男が顔を上げる。


「行くのか? そこは立入禁止だぞ」


「モスバックは標識を読まん」


セラはそれだけ言った。


インクスが小さく笑う。


「ケケケ。まあ、その通りだね」


俺たちが出ようとすると、インクスが声をかけた。


「そのまま行く気かい?」


「まだ何かあります?」


「あるよ」


インクスは自分の鼻先を指した。


「禍瘴に毒されるのは魔獣だけじゃない。人間だって吸い続ければ中からやられる」


「先に言ってくださいよ」


「今言っただろう?」


そう言うと、インクスはまた工房の奥へ引っ込んだ。


戻ってきた手には、革と薄い金属を組み合わせた半面状の道具がある。


鼻と口を覆う形で、正面には黒い濾材がはめ込まれていた。


「浄気面《じょうきめん》」


作業台へ置き、今度は銀線の巻かれた灰白色の石を取り出す。


「こっちは護瘴石《ごしょうせき》。二つ合わせて防瘴具《ぼうしょうぐ》って呼ぶ」


「これを着ければ平気なんですか?」


「平気にはならないよ」


インクスはあっさり答えた。


「吸い込む量を減らして、身体へ入った禍瘴の影響を弱めるだけ。完全に防げるなら、わざわざ立入禁止にはしないだろう?」


確かに。


「人数分あります?」


「境界の管理所に非常用が置いてある。これは見本」


護瘴石を指で弾く。


「最初は白っぽい。禍瘴を受けるほど黒くなっていく。真っ黒になる前には出る。それが決まり」


セラが石を見る。


「真っ黒になったら?」


「そこまで残るなって話だよ」


「分かった」


「君は分かってても進みそうだから言ってるんだけどね」


「その時はその時だ」


「セラ」


俺が呼ぶ。


「冗談だ」


一拍遅かった。


絶対に嘘だ。


―――


ベルーガを南へ出ると、道はすぐに深い森へ入った。


最初のうちは、街へ来る途中に通った森と大して変わらなかった。湿った土と苔の匂いがして、木漏れ日が街道へ落ちている。鳥の鳴き声も聞こえている。


けれど奥へ進むにつれ、少しずつ音が減った。


鳥が消えた。


虫の声もいつの間にか聞こえなくなった。


代わりに、鼻の奥へ残る妙な臭いが濃くなっていく。煙とも腐臭とも違う。息を吸うたび、喉の内側へ薄い膜が貼りつくような不快さがあった。


やがて、木々の間に石柱が見えた。


腰ほどの高さの石が一定の間隔で森を横切るように並び、その一本一本に古い術式が刻まれている。石柱の間には薄い光の膜が張られていた。


その横には、風雨に晒《さら》された木札が立っている。


『立入禁止』


文字はそれだけだった。


「ここから先です」


カイが足を止めた。


結界の少し手前には、小さな石造りの管理所が建っている。普段はほとんど使われていないのか、窓にも扉にも薄く埃が積もっていた。


先ほどの男から預かってきた管理札をインクスが扉へ差し込む。


錠が外れた。


「勝手に入っていいんですか?」


「こういう時のための管理所だよ」


中には木箱がいくつも並んでいた。


蓋を開ける。


工房で見せてもらった浄気面と護瘴石が人数分収められている。


俺たちはそれぞれ装着した。


浄気面を顔へ固定すると、息を吸うたびに少しだけ抵抗がある。胸元へ下げた護瘴石は、服越しにも冷たさが伝わってきた。


「外すなよ」


インクスが言う。


「苦しくなっても?」


「苦しくなる前に出るんだよ」


「その判断は何です?」


「石を見る」


護瘴石を指す。


「灰色ならまだ余裕がある。黒くなるほど危ない。濃い場所へ入るほど、色が変わるのも早くなる」


セラも胸元の石を見る。


「分かった」


「だから君の『分かった』が一番怖いんだけどね」


インクスが呟いた。


管理所を出る。


セラが光の膜を見る。


「強い結界だな」


「ああ。魔獣なら、まず越えられない」


インクスが石柱へ近づいた。


「本来なら、外にいるモスバックが中へ入り込むことはない」


「なら、やっぱり安全なんじゃ」


そこまで言ったところで、カイがしゃがんだ。


結界の内側。


黒ずんだ土から、細い筋が一本伸びている。


光の膜を越えて。


こちら側へ。


「……漏れてる」


カイの声が低くなった。


俺は結界を見る。


「でも、どこも切れてませんよ」


光の膜は途切れていない。


インクスも黒い筋の横へしゃがんだ。


「結界は足のあるものを止めるには強い。モスバックが正面からここを越えるのは難しい」


靴先で土を軽く削る。


「でも、地面の下っていうのは、人間が引いた境界線ほど行儀よくないんだ」


地下水。


地脈。


木の根。


岩の亀裂。


地上に線を引いても、その下まで同じように分けられるわけではない。


「禍瘴は地中の禍瘴溜《かしょうだ》まりに沈んでる。でも地下水の流れが変わったり、地脈がずれたりすれば、結界の下を抜けて外へ滲むことがある」


カイが黒い筋を見る。


「漏出《ろうしゅつ》が確認されたら、この区画は至急封鎖し直す必要があります」


「どうするんです?」


「漏れている地点を特定して、周囲へ追加結界を張ります。必要なら既存の結界そのものも組み直します」


「広がり切る前に見つけられれば、だけどね」


インクスが続けた。


風が吹いた。


浄気面越しでも分かるほど、不快な臭いが強くなる。


胸元の護瘴石を見る。


白かった石に、薄く灰色が混じっていた。


「もう反応してる」


「ここはまだ薄いよ」


インクスの視線は、結界の向こうへ向いている。


「中はもっと濃い」


人が通るための管理口は、少し先にあった。


インクスが封印具を操作すると、光の膜が人一人分だけ薄くなる。


「長居はしない。石が濃くなったら戻る」


念を押してから、一人ずつ中へ入った。


最後にインクスが通り、背後で結界が閉じる。


その瞬間。


空気の重さが変わった。


浄気面を着けているのに、息を吸ったものが胸の奥へ残るような感覚がある。


「これを魔獣が浴びたらどうなるんです?」


歩きながら聞く。


カイが答えた。


「普通なら死にます。魔力循環を乱されて、筋肉や内臓が耐えられなくなる。濃度が高ければ、それほど時間もかからないはずです」


「普通なら?」


その言葉が引っかかった。


インクスがこちらを見る。


「極稀にいるんだよ」


「何がです?」


「負けない奴が」


「禍瘴に耐える?」


「違う」


インクスは首を横に振った。


「禍瘴に耐えられるよう、自分の方を変える」


カイが小さく息を呑んだ。


「禍蝕《かしょく》……」


「ベルーガじゃ、そう呼ぶ」


インクスの声から笑いは消えていた。


「もっとも、生き残ったから助かったって意味じゃないけどね」


その先で。


セラが止まった。


「血の臭いがする」


言われて気づいた。


禍瘴の臭いに混じっている。


生臭い。


鉄に似た匂い。


セラが道を外れ、木々の間へ入っていく。


俺たちも追う。


少し進んだところで、俺は足を止めた。


最初は、大きな岩がいくつも転がっているように見えた。


違った。


モスバックだった。


木の根元。


倒木の横。


藪の中。


何頭もの苔背熊《モスバック》が、森の中に倒れている。


ベルーガへ来る途中で見た群れと同じ種類。


腹を裂かれた個体。


喉を大きく噛み砕かれた個体。


身体を木へ叩きつけられたのか、背中が不自然な方向へ曲がっているものまでいる。


ただ。


全部が同じ死に方ではなかった。


一頭は前脚だけが異様に膨らみ、苔の下から黒い殻のような皮膚が露出していた。


別の個体は背骨の周囲が大きく盛り上がり、骨が皮膚を突き破る寸前まで変形している。


爪が捻じれ、途中から枝分かれしたものもあった。


それらは。


何者かに殺された形跡もないまま死んでいる。


そして、その変形した個体の中にも。


喉を噛み潰されたモスバックが混じっていた。


カイが一頭の前へしゃがむ。


傷には触れない。


しばらく見たあと、別の死体へ視線を移した。


「……もしかして」


「何です?」


「この群れ」


カイは変形した前脚を見る。


「禍瘴が漏れた場所に巻き込まれたんじゃないですか」


インクスが隣へ立った。


「ああ。たぶんそうだね」


「でも」


カイの目が、喰い殺された個体へ向く。


「こっちは違う」


俺にも分かった。


喉へ食い込んだ牙が太すぎる。


骨まで砕かれている。


「禍瘴で死んだんじゃない?」


「ああ」


インクスが低く息を吐いた。


「死ななかった奴がいる」


俺は黒い殻に覆われた前脚を見る。


「さっきの」


「禍蝕した個体だろうね」


「でも、禍瘴を克服できたなら」


言いかけて。


喰い殺された仲間を見る。


インクスも同じものを見た。


「生き残ることと、元のまま生き残ることは別だよ」


森の奥で。


太い木が折れる音がした。


全員が顔を上げる。


次の瞬間。


木々の間から、一つの巨体が飛んできた。


地面へ叩きつけられ、土と枯れ葉を巻き上げながら何度も転がる。


「セラ!」


叫ぶより先に、セラが前へ出た。


飛んできたのはモスバックだった。


まだ若い。


腹を深く裂かれ、片方の後脚があり得ない方向へ曲がっている。


口元から血が流れていた。


それでも。


顔を見た瞬間。


分かった。


「こいつ……」


ベルーガへ来る前。


成人の儀式でセラへ向かってきた二頭のうちの一頭だ。


セラも同じものを見たらしい。


腰の剣へ手をかけず、ゆっくり近づいた。


若いモスバックは、まだ息をしていた。


呼吸するたび、口元で血が泡立つ。


セラを見ると、前脚を動かそうとした。


一度。


動かない。


もう一度。


爪が土を僅かに掻く。


「動くな」


セラがしゃがんだ。


街へ来る前。


二頭の若いモスバックの前へ立った時と同じ声だった。


モスバックの目が、セラを見る。


それから。


森の奥へ動く。


もう一度。


セラを見る。


言葉はない。


何を求めているのかも分からない。


助けてほしいのか。


止めてほしいのか。


あの奥へ行ってほしいのか。


俺には決められなかった。


セラも勝手に意味を与えなかった。


ただ。


モスバックの目を見返している。


やがて。


前脚から力が抜けた。


胸が一度だけ大きく上下する。


それきり、動かなくなった。


セラはしばらくその場から立ち上がらなかった。


森の奥から。


咆哮が響いた。


空気が震えた。


近くの枝から鳥が一斉に飛び立ち、頭上の葉がざわめく。


俺はすぐに思い出した。


ベルーガへ来る前。


群れの長が、若い二頭を止めた時の声。


同じ個体なのかもしれない。


けれど。


今の声は、あの時とはまるで違った。


若い二頭を制した低い一声には、状況を見て止めるものがあった。


今、森の奥から響いてくるのは。


ただの激昂《げきこう》だった。


セラが立ち上がる。


「行く」


迷いはなかった。


「待ちなよ」


インクスが呼び止めた。


セラが振り返る。


インクスは森の奥を見ていた。


ここから先は、地面の黒ずみがさらに濃くなっている。胸元を見ると、護瘴石の灰色も、さっきより明らかに深くなっていた。


「この先はもっと濃いよ」


インクスが言う。


「禍瘴が噴き出してる中心に近づく。防瘴具だって万能じゃない」


セラは答えない。


インクスの視線が、腰の剣へ移った。


「それに、その剣」


俺も見る。


《刀身内部――亀裂進行》


《魔力伝導部――損耗》


《高負荷斬撃――非推奨》


もう《不具合鑑定》を使わなくても、表示を思い出せた。


「次に本気で振ったら、折れるかもしれない」


インクスは続けた。


「身体も戻りきってない。それでも行くのかい?」


セラは死んだ若いモスバックへ目を向けた。


少しだけ。


それから森の奥を見る。


「行く」


「今のモスバックに頼まれたから?」


「分からん」


「何を求めてたかも?」


「ああ」


「なら、どうして行くんだい?」


セラはすぐには答えなかった。


森の奥から。


もう一度、咆哮が響く。


腰の剣へ右手を置く。


「分からないから放っておく理由にはならん」


インクスが黙った。


セラは続ける。


「それに」


手の下にあるのは。


もう限界に近い剣だ。


「剣が足りないから行かない、という理由にもならない」


インクスの目が僅かに動いた。


「その剣は、もう限界だよ」


「ああ」


「折れるかもしれない」


「知っている」


「それでも?」


セラがインクスを見る。


「剣は、行く理由を決めるものじゃない」


風が吹いた。


黒ずんだ葉が一枚、二人の間を横切る。


「行くと決めた者についてくるものだ」


インクスは何も返さなかった。


この男が黙るのを。


初めて見た。


質問を返さない。


笑わない。


ただ、セラを見ている。


やがて。


右手が自分の背中へ伸びた。


布で何重にも巻かれた剣。


柄へ触れる。


けれど。


まだ抜かなかった。


「……そうかい」


小さな声だった。


セラはもうインクスを見ていなかった。


森の奥へ歩き出す。


俺とカイも後を追った。


数歩進んで、振り返る。


インクスは死んだ若いモスバックの横に立ったまま、セラの背中を見ていた。


やがて。


背中の剣の柄を握る。


「行くと決めた者に、剣がついてくる……か」


独り言のように呟いた。


そして。


今度は手を離さないまま。


俺たちの後を追ってきた。

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