第四十三話 まだ折れていない
インクスが工房の奥へ消えてからも、しばらく金属を削る音が続いていた。
俺は手元に残されたセラの剣を見る。
直すかどうかは、あとで決める。
そう言われた。
壊れた剣を鍛冶屋へ持ち込んだのだから、直せるなら直す。直せないなら別の剣を探す。それくらいの話だと思っていたのに、この工房へ来てから一つも思った通りに進んでいない。
「帰るか」
セラが言った。
「待ってください。あの人、まだ何も決めてないでしょう」
「直す気がないのなら同じだ」
「本人に聞きます」
工房の奥へ声をかける。
「インクスさん」
返事はなかった。
削る音だけが続いている。
「インクスさん」
今度は少し大きめに呼ぶ。
それでも音は止まらない。
三度目を呼ぼうとしたところで、ようやく奥から声が返ってきた。
「聞こえてるよ」
「聞こえてるなら返事してくださいよ」
「返事をしないと、聞こえてないことになるのかい?」
初対面でここまで面倒な人も珍しい。
しばらくして、インクスが細い金属片と鑢を手に戻ってきた。
「まだいたんだ」
「直すかどうか決めるって言ったでしょう」
「言ったね」
「決めてください」
「嫌だよ」
即答だった。
「何でです?」
「今は直したくないから」
「理由になってないでしょう」
「僕にはなるよ」
インクスは俺の手から剣を取ると、今度は鞘から完全に抜いた。
灯りへかざし、角度を変えながら刃を眺める。表面にある傷を見ているというより、その向こう側まで覗こうとしているような目だった。
やがて、親指の腹で刀身を軽く弾く。
澄んだ金属音が、工房の中へ伸びた。
「よく残ったね」
「そんなに悪いんですか」
「悪いよ。外から見える欠けは大したことない。でも、中には細い亀裂が何本も入ってる。魔力を通す筋も痩せてる。普通に振るだけなら、まだ使えるだろうけどね」
「だったら、その亀裂を直せばいいんじゃないですか」
インクスが俺を見る。
「塞げば、直ったことになるのかい?」
言葉に詰まった。
インクスは返事を待たず、もう一度剣へ目を落とす。
「打ち直して、傷んだところを落として、魔力の通り道もある程度なら戻せる。でも、この剣がこの子についていけてないことまでは直らない」
セラの眉が動いた。
「またそれか」
「まただよ」
インクスは笑った。
「一度や二度、無茶な力を通したくらいなら、こんな壊れ方はしない。振るたびに少しずつ、剣の中に無理が残ってる」
「使い方が悪いという意味ではないんですよね」
「逆だって言っただろう?」
インクスは剣先をセラへ向けた。
「使い手の方が強すぎる」
セラは言い返さなかった。
その沈黙を見て、インクスの目が細くなる。
「やっぱり分かってる」
「何がだ」
「自分が剣へ合わせてることさ」
今度はセラの表情が僅かに変わった。
「合わせてなどいない」
「合わせてるよ。強く斬る時だけ握りが少し深くなる。それから腰。剣が耐えられるところを越えないように、最後のところで力を逃がしてる」
俺はセラを見る。
「そうなんですか?」
「知らん」
「知らないんですか」
「意識していない」
インクスの口元が大きく歪んだ。
「それがいい」
「何がだ」
「頭で剣を庇ってるんじゃない。身体が先に、この剣じゃ足りないって分かってる」
セラは自分の剣を見た。
今度は否定しなかった。
インクスが興味を持ったのは、たぶんそこだった。
「直すだけならできるよ」
インクスは剣を鞘へ戻す。
「でも元へ戻しても、また同じ壊れ方をする。それじゃ面白くない」
「面白いかどうかで修理を決めないでください」
「じゃあ何で決めるんだい?」
「必要かどうかです」
「誰に?」
また聞き返される。
「使う人にです」
「使う人が、その剣を必要としてるのかい?」
俺とインクスの視線が、同時にセラへ向いた。
「必要だ」
返事は早かった。
「どうして?」
「剣だからだ」
「剣なら何でもいい?」
「使えるならな」
インクスは少し首を傾げた。
「本当に?」
セラの目が細くなる。
「何が言いたい」
インクスは答えず、自分の背中へ手を回した。
布で何重にも巻かれた剣。
初めて見た時から、一度も身体から外していない。
「それは何なんです?」
俺が聞く。
「剣だよ」
「それくらい見れば分かります」
「なら答えは出てるじゃないか」
「何でずっと背負ってるんです?」
「置いておくと邪魔だから」
「絶対違うでしょう」
「ケケケ」
笑われた。
セラも布巻きの剣を見ていた。
「売り物か」
「違う」
「自分で使うのか」
「使わない」
「なら、なぜ持っている」
今度はインクスがすぐに答えなかった。
背中の柄へ指をかける。
触れるだけで、抜きはしない。
「使える奴がいないから」
「使えない剣を作ったんですか?」
「使えるよ」
「でも、使える人がいないんでしょう」
「そうだよ」
「矛盾してません?」
「してないさ」
インクスは楽しそうだった。
「剣として振るだけなら、使える奴はいくらでもいた。でも、最後までこいつを武器のままで扱えた奴がいない」
意味が分からない。
セラは俺より長く、その言葉を考えていた。
「どういう構造だ」
「教えない」
「なぜだ」
「今教えたらつまらないだろう?」
「知らん」
「僕がつまらない」
やっぱり、自分の都合しか考えていない。
「誰かに頼まれて作ったんですか?」
「違うよ」
「なら何でこんなものを?」
インクスは少し考えたあと、天井を見た。
「降りてきたから」
「……何が」
「これが」
背中の剣を軽く叩く。
「朝起きたら、頭の中に形があった。どう組むかも、何を使うかも大体分かった。だから作った」
「それだけ?」
「金で神様が降りてくるのかい?」
知らない。
ただ、この人に理由を求めるだけ無駄なことは分かってきた。
「完成してから気づいたんだ」
インクスは続けた。
「僕じゃ使えない」
「作った本人なのに?」
「作れることと、使えることは別だろう?」
それはそうだけど。
何となく腹が立つ。
「何人かには渡したよ。腕のいい剣士にも、大剣使いにも、槍を使う奴にも」
「槍?」
俺が聞き返すと、インクスが口元を上げた。
「今のは忘れて」
「無理ですよ」
「なら覚えてればいい」
完全に遊ばれている。
「誰も使えなかったのか」
セラが聞いた。
「ああ」
「なら失敗作だ」
インクスの笑みが、一瞬だけ消えた。
怒ったのかと思った。
違った。
むしろ、嬉しそうだった。
「いいね」
「何がだ」
「そういう言い方」
背中の剣へ手を置く。
「僕もそう思ってる。誰にも使えない武器なんて、武器じゃない」
そして、セラを見る。
「だから探してる」
「何を」
「こいつを武器にできる奴」
工房の中が静かになった。
「それって――」
俺が口を開くと、インクスが手を上げた。
「まだだよ」
「何がまだなんです?」
「決めるのが」
「もうセラのこと、ずっと見てるじゃないですか」
「興味を持つことと、答えを決めることは別だろう?」
また。
この人まで、確認したものと結論を分けている。
少し嫌な気分になった。
そんな俺を見て、インクスが笑う。
「君も面白いね」
「俺ですか?」
「壊れてるものを見ると、すぐ直そうとする」
「普通でしょう」
「そうかな」
インクスは作業台へセラの剣を置いた。
「僕は壊れ方を見る」
「何でです?」
「そこに、使われ方が残るから」
刀身を軽く指で叩く。
「どこへ力を入れた。どこで逃がした。何を無理させた。武器は折れてなくても、全部残してる」
言い方は違う。
でも、少しだけ分かる気がした。
俺は不具合を見る。
この人は、不具合が生まれた過程を見る。
近いようで。
たぶん、かなり違う。
「だから直さないんですか」
「今直したら、続きを見られないだろう?」
「……は?」
セラもインクスを見る。
「お前」
声が低くなった。
「私の剣が折れるところを見たいのか」
「見たいよ」
即答だった。
「インクスさん」
俺まで声が低くなる。
でも、インクスは悪びれない。
「壊れないなら、それも答えだ。壊れるなら、どこで終わるのか見たい。どっちでも面白い」
「持ち主は面白くないですよ」
「君はそうなんだね」
本当に合わない。
「トーマ」
セラが呼んだ。
「はい」
「もういい。剣を返せ」
インクスは作業台から剣を取り、セラへ渡した。
今度は笑っていなかった。
「普通に振るなら、まだ持つよ。ただ、高い出力を通すな。一度でも限界を越えたら、たぶん終わる」
「分かった」
「本当に?」
俺が聞く。
セラがこちらを見る。
「聞いただろう」
「聞くことと守ることは別でしょう」
「必要なら使う」
嫌な答えだった。
「使う前に言ってください」
「なぜだ」
「止めるので」
「なら言わん」
「そう言うと思いました」
セラの口元が、ごく僅かに動いた。
笑ったのかもしれない。
それを見ていたインクスが、また観察するように目を細める。
「やっぱり面白いね」
「お前に言われると不快だ」
「ケケケ」
インクスはそれだけ笑うと、背を向けて工房の奥へ戻った。
やがて。
金属を削る音が、また始まった。
―――
それから、そう時間は経っていなかった。
ベルーガの方角から、鐘が鳴った。
一度。
続いて二度。
間を置かず、短い音が重なる。
カイが扉へ顔を向ける。
「この鳴らし方……」
「何です?」
俺が聞いた直後、林の向こうから誰かが走ってくる音が近づいてきた。
やがて、一人の男が工房へ飛び込んでくる。
街で見かけた鍛冶師だった。肩で息をし、片腕には血の滲んだ布が巻かれている。
「インクス!」
奥から返事はない。
金属を削る音だけが続いている。
「インクス! 聞こえてんだろ!」
ようやく音が止まった。
「聞こえてるよ」
「なら出てこい!」
「騒がしいね」
しばらくして、インクスが奥から姿を見せた。
さっき使っていた鑢をまだ手に持っている。
「何があったんだい?」
男は作業台へ地図を広げた。
「南の見回りがやられた。救援に出た連中も、一人しか戻ってねえ」
カイが地図の横へ寄る。
「相手は?」
「モスバックだ」
俺とセラの視線が動いた。
男の指が、ベルーガから南へ延びる道をなぞっていく。
「でかい。苔背熊なんて大きさじゃねえ。剣を入れても通らなかったって話だ」
指が止まる。
森の奥。
赤い線で囲まれた区域の北側だった。
インクスの表情から、さっきまでの気だるさが消えた。
「あそこか」
「知ってる場所なんですか?」
俺が聞く。
インクスは赤い線に沿って指を動かした。
「災厄の置き土産だよ」
災厄と聞いた途端ヴァルガルドの戦いが一瞬脳裏をよぎった。
「置き土産?」
「昔、この辺りで災厄が出現して、しばらく一帯を荒らし回ったんだ」
地図の中には、赤い線で大きく囲まれた森がある。
「災厄そのものはもういない。でも、あれだけのものが暴れた土地から、力まできれいに消えてくれるわけじゃない。地面や地下水へ残り滓が染み込んで、今も濃く残ってる場所がある」
カイが赤い線を見る。
「禍瘴域ですね」
「ああ」
聞いたことのない名前だった。
「濃い場所は結界で囲って、立入禁止にしてある。人間も入らないし、魔獣も入れない」
「中に入ったらどうなるんです?」
「入らないから大丈夫さ」
地図を持ってきた男が嫌そうな顔をする。
「冗談に聞こえねえぞ」
「冗談じゃないよ。普通は誰も近寄らない」
インクスは工房の外に見える山へ顎を向けた。
「人間だけじゃない。魔獣だって禍瘴の気配を感じれば、本能で遠ざかる。濃いのを感じたら、あっちの山まで逃げていくくらいにはね」
「じゃあ」
地図を見る。
「その近くにモスバックがいた時点でおかしい?」
「ああ」
カイの顔も険しくなっていた。
「結界の中へ入った可能性は?」
インクスは指先で赤い線を叩いた。
「それなら、それで問題だけどね」
指が線の内側から、外へ滑る。
「もっと嫌なのは逆だよ」
「逆?」
「モスバックが中へ入ったんじゃなく、中のものが外へ出た」
工房の空気が少し変わった。
セラが腰の剣へ触れる。
「場所を案内しろ」
男が顔を上げる。
「行くのか? そこは立入禁止だぞ」
「モスバックは標識を読まん」
セラはそれだけ言った。
インクスが小さく笑う。
「ケケケ。まあ、その通りだね」
俺たちが出ようとすると、インクスが声をかけた。
「そのまま行く気かい?」
「まだ何かあります?」
「あるよ」
インクスは自分の鼻先を指した。
「禍瘴に毒されるのは魔獣だけじゃない。人間だって吸い続ければ中からやられる」
「先に言ってくださいよ」
「今言っただろう?」
そう言うと、インクスはまた工房の奥へ引っ込んだ。
戻ってきた手には、革と薄い金属を組み合わせた半面状の道具がある。
鼻と口を覆う形で、正面には黒い濾材がはめ込まれていた。
「浄気面」
作業台へ置き、今度は銀線の巻かれた灰白色の石を取り出す。
「こっちは護瘴石。二つ合わせて防瘴具って呼ぶ」
「これを着ければ平気なんですか?」
「平気にはならないよ」
インクスはあっさり答えた。
「吸い込む量を減らして、身体へ入った禍瘴の影響を弱めるだけ。完全に防げるなら、わざわざ立入禁止にはしないだろう?」
確かに。
「人数分あります?」
「境界の管理所に非常用が置いてある。これは見本」
護瘴石を指で弾く。
「最初は白っぽい。禍瘴を受けるほど黒くなっていく。真っ黒になる前には出る。それが決まり」
セラが石を見る。
「真っ黒になったら?」
「そこまで残るなって話だよ」
「分かった」
「君は分かってても進みそうだから言ってるんだけどね」
「その時はその時だ」
「セラ」
俺が呼ぶ。
「冗談だ」
一拍遅かった。
絶対に嘘だ。
―――
ベルーガを南へ出ると、道はすぐに深い森へ入った。
最初のうちは、街へ来る途中に通った森と大して変わらなかった。湿った土と苔の匂いがして、木漏れ日が街道へ落ちている。鳥の鳴き声も聞こえている。
けれど奥へ進むにつれ、少しずつ音が減った。
鳥が消えた。
虫の声もいつの間にか聞こえなくなった。
代わりに、鼻の奥へ残る妙な臭いが濃くなっていく。煙とも腐臭とも違う。息を吸うたび、喉の内側へ薄い膜が貼りつくような不快さがあった。
やがて、木々の間に石柱が見えた。
腰ほどの高さの石が一定の間隔で森を横切るように並び、その一本一本に古い術式が刻まれている。石柱の間には薄い光の膜が張られていた。
その横には、風雨に晒された木札が立っている。
『立入禁止』
文字はそれだけだった。
「ここから先です」
カイが足を止めた。
結界の少し手前には、小さな石造りの管理所が建っている。普段はほとんど使われていないのか、窓にも扉にも薄く埃が積もっていた。
先ほどの男から預かってきた管理札をインクスが扉へ差し込む。
錠が外れた。
「勝手に入っていいんですか?」
「こういう時のための管理所だよ」
中には木箱がいくつも並んでいた。
蓋を開ける。
工房で見せてもらった浄気面と護瘴石が人数分収められている。
俺たちはそれぞれ装着した。
浄気面を顔へ固定すると、息を吸うたびに少しだけ抵抗がある。胸元へ下げた護瘴石は、服越しにも冷たさが伝わってきた。
「外すなよ」
インクスが言う。
「苦しくなっても?」
「苦しくなる前に出るんだよ」
「その判断は何です?」
「石を見る」
護瘴石を指す。
「灰色ならまだ余裕がある。黒くなるほど危ない。濃い場所へ入るほど、色が変わるのも早くなる」
セラも胸元の石を見る。
「分かった」
「だから君の『分かった』が一番怖いんだけどね」
インクスが呟いた。
管理所を出る。
セラが光の膜を見る。
「強い結界だな」
「ああ。魔獣なら、まず越えられない」
インクスが石柱へ近づいた。
「本来なら、外にいるモスバックが中へ入り込むことはない」
「なら、やっぱり安全なんじゃ」
そこまで言ったところで、カイがしゃがんだ。
結界の内側。
黒ずんだ土から、細い筋が一本伸びている。
光の膜を越えて。
こちら側へ。
「……漏れてる」
カイの声が低くなった。
俺は結界を見る。
「でも、どこも切れてませんよ」
光の膜は途切れていない。
インクスも黒い筋の横へしゃがんだ。
「結界は足のあるものを止めるには強い。モスバックが正面からここを越えるのは難しい」
靴先で土を軽く削る。
「でも、地面の下っていうのは、人間が引いた境界線ほど行儀よくないんだ」
地下水。
地脈。
木の根。
岩の亀裂。
地上に線を引いても、その下まで同じように分けられるわけではない。
「禍瘴は地中の禍瘴溜まりに沈んでる。でも地下水の流れが変わったり、地脈がずれたりすれば、結界の下を抜けて外へ滲むことがある」
カイが黒い筋を見る。
「漏出が確認されたら、この区画は至急封鎖し直す必要があります」
「どうするんです?」
「漏れている地点を特定して、周囲へ追加結界を張ります。必要なら既存の結界そのものも組み直します」
「広がり切る前に見つけられれば、だけどね」
インクスが続けた。
風が吹いた。
浄気面越しでも分かるほど、不快な臭いが強くなる。
胸元の護瘴石を見る。
白かった石に、薄く灰色が混じっていた。
「もう反応してる」
「ここはまだ薄いよ」
インクスの視線は、結界の向こうへ向いている。
「中はもっと濃い」
人が通るための管理口は、少し先にあった。
インクスが封印具を操作すると、光の膜が人一人分だけ薄くなる。
「長居はしない。石が濃くなったら戻る」
念を押してから、一人ずつ中へ入った。
最後にインクスが通り、背後で結界が閉じる。
その瞬間。
空気の重さが変わった。
浄気面を着けているのに、息を吸ったものが胸の奥へ残るような感覚がある。
「これを魔獣が浴びたらどうなるんです?」
歩きながら聞く。
カイが答えた。
「普通なら死にます。魔力循環を乱されて、筋肉や内臓が耐えられなくなる。濃度が高ければ、それほど時間もかからないはずです」
「普通なら?」
その言葉が引っかかった。
インクスがこちらを見る。
「極稀にいるんだよ」
「何がです?」
「負けない奴が」
「禍瘴に耐える?」
「違う」
インクスは首を横に振った。
「禍瘴に耐えられるよう、自分の方を変える」
カイが小さく息を呑んだ。
「禍蝕……」
「ベルーガじゃ、そう呼ぶ」
インクスの声から笑いは消えていた。
「もっとも、生き残ったから助かったって意味じゃないけどね」
その先で。
セラが止まった。
「血の臭いがする」
言われて気づいた。
禍瘴の臭いに混じっている。
生臭い。
鉄に似た匂い。
セラが道を外れ、木々の間へ入っていく。
俺たちも追う。
少し進んだところで、俺は足を止めた。
最初は、大きな岩がいくつも転がっているように見えた。
違った。
モスバックだった。
木の根元。
倒木の横。
藪の中。
何頭もの苔背熊が、森の中に倒れている。
ベルーガへ来る途中で見た群れと同じ種類。
腹を裂かれた個体。
喉を大きく噛み砕かれた個体。
身体を木へ叩きつけられたのか、背中が不自然な方向へ曲がっているものまでいる。
ただ。
全部が同じ死に方ではなかった。
一頭は前脚だけが異様に膨らみ、苔の下から黒い殻のような皮膚が露出していた。
別の個体は背骨の周囲が大きく盛り上がり、骨が皮膚を突き破る寸前まで変形している。
爪が捻じれ、途中から枝分かれしたものもあった。
それらは。
何者かに殺された形跡もないまま死んでいる。
そして、その変形した個体の中にも。
喉を噛み潰されたモスバックが混じっていた。
カイが一頭の前へしゃがむ。
傷には触れない。
しばらく見たあと、別の死体へ視線を移した。
「……もしかして」
「何です?」
「この群れ」
カイは変形した前脚を見る。
「禍瘴が漏れた場所に巻き込まれたんじゃないですか」
インクスが隣へ立った。
「ああ。たぶんそうだね」
「でも」
カイの目が、喰い殺された個体へ向く。
「こっちは違う」
俺にも分かった。
喉へ食い込んだ牙が太すぎる。
骨まで砕かれている。
「禍瘴で死んだんじゃない?」
「ああ」
インクスが低く息を吐いた。
「死ななかった奴がいる」
俺は黒い殻に覆われた前脚を見る。
「さっきの」
「禍蝕した個体だろうね」
「でも、禍瘴を克服できたなら」
言いかけて。
喰い殺された仲間を見る。
インクスも同じものを見た。
「生き残ることと、元のまま生き残ることは別だよ」
森の奥で。
太い木が折れる音がした。
全員が顔を上げる。
次の瞬間。
木々の間から、一つの巨体が飛んできた。
地面へ叩きつけられ、土と枯れ葉を巻き上げながら何度も転がる。
「セラ!」
叫ぶより先に、セラが前へ出た。
飛んできたのはモスバックだった。
まだ若い。
腹を深く裂かれ、片方の後脚があり得ない方向へ曲がっている。
口元から血が流れていた。
それでも。
顔を見た瞬間。
分かった。
「こいつ……」
ベルーガへ来る前。
成人の儀式でセラへ向かってきた二頭のうちの一頭だ。
セラも同じものを見たらしい。
腰の剣へ手をかけず、ゆっくり近づいた。
若いモスバックは、まだ息をしていた。
呼吸するたび、口元で血が泡立つ。
セラを見ると、前脚を動かそうとした。
一度。
動かない。
もう一度。
爪が土を僅かに掻く。
「動くな」
セラがしゃがんだ。
街へ来る前。
二頭の若いモスバックの前へ立った時と同じ声だった。
モスバックの目が、セラを見る。
それから。
森の奥へ動く。
もう一度。
セラを見る。
言葉はない。
何を求めているのかも分からない。
助けてほしいのか。
止めてほしいのか。
あの奥へ行ってほしいのか。
俺には決められなかった。
セラも勝手に意味を与えなかった。
ただ。
モスバックの目を見返している。
やがて。
前脚から力が抜けた。
胸が一度だけ大きく上下する。
それきり、動かなくなった。
セラはしばらくその場から立ち上がらなかった。
森の奥から。
咆哮が響いた。
空気が震えた。
近くの枝から鳥が一斉に飛び立ち、頭上の葉がざわめく。
俺はすぐに思い出した。
ベルーガへ来る前。
群れの長が、若い二頭を止めた時の声。
同じ個体なのかもしれない。
けれど。
今の声は、あの時とはまるで違った。
若い二頭を制した低い一声には、状況を見て止めるものがあった。
今、森の奥から響いてくるのは。
ただの激昂だった。
セラが立ち上がる。
「行く」
迷いはなかった。
「待ちなよ」
インクスが呼び止めた。
セラが振り返る。
インクスは森の奥を見ていた。
ここから先は、地面の黒ずみがさらに濃くなっている。胸元を見ると、護瘴石の灰色も、さっきより明らかに深くなっていた。
「この先はもっと濃いよ」
インクスが言う。
「禍瘴が噴き出してる中心に近づく。防瘴具だって万能じゃない」
セラは答えない。
インクスの視線が、腰の剣へ移った。
「それに、その剣」
俺も見る。
《刀身内部――亀裂進行》
《魔力伝導部――損耗》
《高負荷斬撃――非推奨》
もう《不具合鑑定》を使わなくても、表示を思い出せた。
「次に本気で振ったら、折れるかもしれない」
インクスは続けた。
「身体も戻りきってない。それでも行くのかい?」
セラは死んだ若いモスバックへ目を向けた。
少しだけ。
それから森の奥を見る。
「行く」
「今のモスバックに頼まれたから?」
「分からん」
「何を求めてたかも?」
「ああ」
「なら、どうして行くんだい?」
セラはすぐには答えなかった。
森の奥から。
もう一度、咆哮が響く。
腰の剣へ右手を置く。
「分からないから放っておく理由にはならん」
インクスが黙った。
セラは続ける。
「それに」
手の下にあるのは。
もう限界に近い剣だ。
「剣が足りないから行かない、という理由にもならない」
インクスの目が僅かに動いた。
「その剣は、もう限界だよ」
「ああ」
「折れるかもしれない」
「知っている」
「それでも?」
セラがインクスを見る。
「剣は、行く理由を決めるものじゃない」
風が吹いた。
黒ずんだ葉が一枚、二人の間を横切る。
「行くと決めた者についてくるものだ」
インクスは何も返さなかった。
この男が黙るのを。
初めて見た。
質問を返さない。
笑わない。
ただ、セラを見ている。
やがて。
右手が自分の背中へ伸びた。
布で何重にも巻かれた剣。
柄へ触れる。
けれど。
まだ抜かなかった。
「……そうかい」
小さな声だった。
セラはもうインクスを見ていなかった。
森の奥へ歩き出す。
俺とカイも後を追った。
数歩進んで、振り返る。
インクスは死んだ若いモスバックの横に立ったまま、セラの背中を見ていた。
やがて。
背中の剣の柄を握る。
「行くと決めた者に、剣がついてくる……か」
独り言のように呟いた。
そして。
今度は手を離さないまま。
俺たちの後を追ってきた。




