第四十二話 南へ
翌朝、病室へ入ると、セラはもう起きていた。
昨日のように意識が混濁している様子はなく、寝台の背を少し起こして窓の外を眺めている。ただ、左肩の固定はまだ外れていない。顔色も普段より白く、身体を起こしたままでいるだけでも、ときどき呼吸が浅くなっていた。
俺が扉を閉めると、セラがこちらを見る。
「遅い」
「まだ朝ですよ」
「昨日はもっと早かった」
「昨日は勝手に入ってましたから」
「今日はなぜ入らなかった」
昨日の最後を思い出した。
一人にしてくれ。
そう言われて部屋を出たあとも、結局俺は何度か病室の前まで来ていた。治癒師に容体を聞き、まだ眠っていると分かると、そのたびに中へ入らず戻った。
「一応、病室なので。入っていいか確認した方がいいかなと」
「今さらだな」
それはそうだった。
寝台の横へ椅子を寄せようとしたところで、扉が開いた。
リゼットさんとカイだった。
「おはようございます」
「朝から全員そろったな」
セラが面倒そうに言う。
「今日は高等治癒師が来ます。その前に伝えておきたいことがあります」
リゼットさんは、いつもの書板を抱えていた。昨日まで何枚も挟まっていた資料は、もう半分ほどに減っている。
「議会ですか?」
「はい。昨日決まったのは暫定措置です。正式な文書化と各部門への引き継ぎが残っています。それが終わり、こちらが落ち着いたら、私は王国へ戻ります」
「南には来ないんですか」
「私が行く理由がありません」
迷いのない返事だった。
「それに、今回決まった保守区分と記録様式を王国側へ持ち帰る必要があります。決めただけで終われば、昨日の議論に意味がありませんから」
リゼットさんは王国記録官だ。今回の裁定では弁論補佐人として席に入っていたが、本来の仕事までなくなったわけではない。むしろ今回の一件で、王国へ持ち帰らなければならないものは増えたらしい。
セラは短く頷いた。
「そうか」
「皆さんの出発が先になれば、私は後から王国へ戻ります」
「帰りは僕たちとは別になりそうですね」
カイが言った。
「そうなります」
答えながら、リゼットさんが鞄へ手を入れた。
出てきたのは書類ではなかった。
小さな銀色の缶だった。
見覚えがある。
王国を出てから何度か鞄の中にあるのを見たし、事情聴取の席にも持ってきていた。ただ、蓋を開けるところは一度も見ていない。
リゼットさんが銀色の蓋を外す。
中には、琥珀色の小さな粒がきれいに並んでいた。
一つをつまみ、口へ入れる。
「やっと舐められますね」
カイが言った。
リゼットさんの手が止まった。
「……何がです?」
「飴ですよ」
「分かっています」
声が急に硬くなった。
カイは口元に笑いを残したまま銀色の缶を見る。
「王国を出てから、一粒も舐めてなかったでしょう」
「……なぜ知っているんですか」
「見てましたから」
「何をです」
「リゼットさんが、缶を出しては戻してるところを」
「そんなものを見ないでください」
耳が少し赤くなっている。
珍しい。
俺もつい缶へ目を向けた。
「それ、好きなんですか?」
今度は俺へ目が向いた。
「普通です」
「普通にしては、かなり入ってますけど」
「トーマさん」
「はい」
「その確認は必要ありません」
カイがとうとう吹き出した。
「本当は一粒をかなり長く舐めるんですよね」
「カイさん」
声が一段低くなる。
「何です?」
「それ以上言った場合、今後あなたの発言は一字一句、省略せず王国へ提出します」
「普段と変わらなくないですか?」
「注釈を増やします」
「それは怖いですね」
「怖がってください」
怒っている。
ただ、飴は口から出さなかった。
むしろ頬の位置が少しずつ変わっている。どうやら本当に、口の中でゆっくり転がしているらしい。
「そんなに好きなら、途中でも食べればよかったのに」
俺が言うと、リゼットさんは少し黙った。
「……できるわけないでしょう」
「何でです?」
「国家間の裁定へ同行している若い記録官が、飴を舐めながら仕事をしていたら」
声が少し小さくなる。
「舐められるかもしれないでしょう」
一拍置いて、カイが首を傾げた。
「飴を?」
リゼットさんの頬まで赤くなった。
「そういう意味ではありません!」
病室に思ったより大きな声が響いた。
セラが眉を寄せる。
「うるさい」
「……申し訳ありません」
リゼットさんは一瞬でいつもの顔へ戻り、何事もなかったように書板を開いた。
ただし、耳はまだ赤い。
飴も出していない。
裁定の最中、どれだけ厄介な事実を突きつけられても表情をほとんど変えなかった人なのに、こういうことで崩れるらしい。
少しだけ、遠い人ではなくなった気がした。
―――
高等治癒師が来たのは、その少し後だった。
白髪交じりの男で、俺には見覚えがなかったが、カイとリゼットさんが揃って立ち上がったことで、かなり名のある人物だということは分かった。
王宮医官の中でも、高等治癒を扱える者は限られているらしい。
「横になれ」
「このままでいい」
「患者が決めるな」
セラが珍しく押し切られた。
治療が始まる。
淡い光が左肩から胸へ広がり、場所を変えながら身体の奥へ沈んでいった。
バスティオンの時にも一度、高等治癒を受けている。
これで二度目だった。
治療そのものが特別なのに、それを二度受けなければならないほどの戦いを、セラはもう繰り返している。
終わる頃には、昨日まで残っていた腫れが目に見えて引いていた。呼吸のたびにわずかに強張っていた顔も、かなり楽になっている。
セラが右手を握る。
「かなり違うな」
「表に出ている傷は戻した」
高等治癒師は左肩を確認しながら答えた。
「だが完全ではない。深部まで傷めている。しばらく無茶はするな」
「しばらくとは」
「その聞き方をする患者には長めに言うことにしている」
セラが何か言い返そうとしたが、高等治癒師はもう相手にせず、机へ移って治療記録を書き始めた。
俺は寝台の横からセラを見る。
顔色はいい。
呼吸も戻っている。
目に見える傷だけなら、昨日よりずっと良くなった。
それでも、安心できなかった。
昨日。
セラは俺に聞いた。
今の私は、どうなっている。
隠していることはないか。
俺は答えた。
全部ではない。
俺自身、全部を知っているわけではない。
ただ、一度だけ見たものがある。
好きな時に見られるものではない。何度確認しようとしても、それきり姿を現さなかった。
彼女が知りたいと言ったもの。
俺が、まだ渡せなかったもの。
俺は《不具合鑑定》を向けた。
見るつもりだったのは、左肩の損傷と胸郭、それから戦闘後に残っている負荷だけだった。
ところが、最初に視界へ浮かんだ文字を見た瞬間、呼吸が止まった。
《対象名称――セラ・ヴァルク》
《個体識別名称――未登録》
《分類――神造兵器・第九号》
《機能――統制鍵》
《管理状態――封印不完全》
以前と同じ表示だった。
見ようとしても出なかった。
何度試しても確認できなかった。
それが、こちらの都合など関係ないように、今になってまた現れている。
続きが浮かぶ。
《破損進行率――七十九パーセント》
指先から力が抜けた。
七十二だった。
前に見た時は。
高等治癒を受けた。
傷も戻っている。
それなのに、数字は増えていた。
最後の一行が続く。
《完全破損まで――推定九十五日》
百十五日だった。
前は。
それが、九十五。
百日を切っている。
頭の中に、そのことだけが強く残った。
推定だ。
固定された未来じゃない。
この数字だけを見て進行の速さまで変わったと決めるのは違う。そんなことは分かっている。
普段の俺なら、前回と今回の数字を並べ、間に何があったのかを考える。変化量と経過した時間を分けてから、ようやく判断する。
なのに。
セラの数字だけは駄目だった。
九十五日。
三桁だった数字が、二桁になっている。
その事実だけが、他の考えを押し退けてしまった。
「トーマ」
反応できなかった。
「トーマ」
二度目で、ようやく顔を上げる。
セラが俺を見ていた。
「何が見えた」
心臓が大きく鳴った。
「……え?」
「今だ」
視界の表示はもう消えている。
もう一度《不具合鑑定》を向けると、出てきたのは左肩の損傷、胸郭、残っている負荷だけだった。
七十九も。
九十五日も。
どこにもない。
また消えた。
俺が見たい時には出てこない。
「トーマ」
セラの声が低くなる。
隠せる顔をしていないのは分かっていた。
昨日。
隠すなと言われたばかりだ。
それでも。
「やっぱり」
俺は高等治癒師の方を見た。
「これだけ名のある高等治癒師でも、全部を元通りにはできないんですね」
口にした瞬間、自分でもひどい誤魔化し方だと思った。
高等治癒師が記録から顔を上げる。
「当然だ。治癒術は時間そのものを巻き戻す術ではない。修復できるものにも限度はある」
「ですよね」
笑おうとした。
うまくできなかった。
視線を戻すと、セラが俺を見ていた。
冷たい目だった。
怒っているわけではない。
むしろ、その方が怖かった。
俺が言ったことではなく、言わなかったことを見ようとしている。
「何でもないです」
言ってから、自分でも最悪だと思った。
セラはしばらく俺を見ていた。
やがて視線を外す。
「そうか」
それだけだった。
責められる方が、まだ楽だった。
―――
カイが水差しを持って寝台へ近づいた。
「水、飲みます?」
「ああ」
セラが手を伸ばす。
途中で止まった。
ほんの一瞬だけ、カイを見る。
昨日までなら、そこにはなかった間だった。
ゼイン。
その名前が頭をよぎる。
二人きりで何を話したのか、俺は知らない。
戻ってきたセラも話さなかったし、俺も聞かなかった。
ただ、あれ以来、ときどきカイを見る目が違う。
「置いておけ」
「持ちますよ」
「自分で飲める」
カイの手が止まる。
「……分かりました」
水差しを机へ置く。
セラは自分で取った。
前なら気にも留めなかったやり取りなのに、今は妙に引っかかった。
「カイ」
「はい」
「王国へ送っている報告について聞く」
カイの表情は変わらない。
「何でしょう」
「私の負傷だけか」
「どういう意味です?」
セラは水を一口飲んでから、机へ戻した。
「どう戦ったか。アレーテイアが私にどう反応したか。何ができて、何ができなかったか」
一つずつ聞く。
「そこまで送っているのか」
カイはすぐには答えなかった。
「任務上、必要な範囲は報告しています」
「誰が読む」
「王国の担当部署です」
「それだけか」
僅かな間があった。
「……必要な人間も」
セラはカイを見ていた。
怒ってはいない。
敵を見る目でもない。
ただ、前より少し遠かった。
一歩ではない。
ほんの半歩。
それくらい。
セラの方から、カイとの間に見えない線を引いたようだった。
「そうか」
それ以上追及しなかった。
その方が、かえって空気が重くなる。
カイも何も足さない。
リゼットさんは二人を見ていたが、口を挟まなかった。
聞いていないことを勝手に埋めない。
たぶん、この人はここでもそれを守っている。
しばらくして、高等治癒師が記録を閉じた。
「今日はここまでだ。少なくとも明日までは安静にしていろ」
「明後日は?」
「お前は人の話を聞いているのか」
「聞いている。だから次を聞いた」
「面倒な患者だ」
本気で嫌そうな顔をして、高等治癒師は部屋を出ていった。
リゼットさんも立つ。
「私も議会へ戻ります」
「まだ続くんですか」
「決めたことを文書にして、引き継ぐところまでが仕事です」
銀色の缶を鞄へ戻す。
俺が少し見ただけで、すぐ奥へ押し込まれた。
「何です?」
「何でもないです」
「なら見ないでください」
まだ少し耳が赤かった。
「引き継ぎが終われば王国へ戻ります。その前に、もう一度こちらへ来ます」
俺は少し驚いた。
「来るんですね」
「なぜ来ないと思ったんです?」
「必要なら、って言いそうだったので」
「必要だと判断しました」
リゼットさんはセラを見る。
「南へ行く前に、記録について確認したいこともあります」
セラは短く頷いた。
「分かった」
カイへ向けた時ほどの距離はなかった。
リゼットさんが部屋を出る。
カイも王国への連絡があると言って、少し遅れて病室を出た。
扉が閉じる。
俺もここにいない方がいい気がした。
さっきまた誤魔化したばかりだ。
「じゃあ、俺も――」
「トーマ」
止められた。
振り返る。
セラは俺を見ている。
さっきと同じ、冷たい目だった。
「何です?」
「今後も」
そこで言葉が途切れた。
セラが一度だけ視線を外す。
「私の状態は、お前が確認しろ」
意味を理解するまで、一瞬かかった。
「俺が?」
「ああ」
「でも」
さっき隠した。
セラは分かっている。
「信用できないなら、他の人に頼んだ方が――」
「誰が信用できないと言った」
「いや」
言ってはいない。
でも、以前と同じように信用している顔でもなかった。
セラの眉が少し寄る。
「お前は隠す」
胸の奥が痛んだ。
「……はい」
「聞いても、すぐには答えん」
「はい」
「誤魔化す」
「……はい」
全部、その通りだった。
セラはしばらく俺を見た。
「だが」
続きまで、少し時間がかかった。
「最後には答える」
昨日のことだ。
俺がずっと避けていた身体の状態を。
最後には話した。
「なら、お前でいい」
返す言葉が出なかった。
信用されているのか。
疑われているのか。
たぶん、両方だった。
直ることを期待されているわけでもない。
俺がちゃんとした人間になるまで待つと言われたわけでもない。
隠す。
誤魔化す。
すぐに答えない。
それを知った上で。
お前でいい。
その方が、妙に重かった。
「分かりました」
セラは頷いた。
「今の返事も」
「はい?」
「何か隠している顔だ」
心臓が跳ねる。
セラは、それ以上追及しなかった。。
俺は机へ目を落とす。
七十九。
九十五日。
まだ言えない。
いや。
言わなかった。
その違いくらい、自分でも分かっている。
「セラ」
「何だ」
「南へ行くのは変わらないんですよね」
「ああ」
即答だった。
「俺も行きます」
セラは黙った。
「置いていくって言われても行きます」
「まだ何も言っていない」
「先に言いました」
ほんの僅かに、表情が緩んだように見えた。
でも、すぐに戻る。
「……そうか」
俺は立ち上がった。
今度こそ部屋を出ようとする。
「トーマ」
また呼ばれた。
振り返る。
セラはこっちを見ていなかった。
窓の外へ目を向けたまま。
「南へ行く時」
そこで一度だけ言葉が止まる。
「来るんだろうな」
さっき答えたばかりなのに。
確認する必要なんてない。
それでも。
「行きます」
迷わず答えた。
セラが小さく頷く。
俺から目を逸らしたままだった。
疑っている。
それでも、離れることまでは望んでいない。
俺には、その理由までは分からなかった。
―――
出発の許可が出たのは、それから二日後だった。
正確には、治癒師が許可したのは馬車での移動だけで、戦闘をしていいとも長旅をしていいとも言っていない。
セラは都合よく前半だけを受け取った。
「移動はできる」
「馬車なら、です」
「馬車で南へ行く」
「目的地も決まってないのに?」
「南だ」
それしかない。
ゼインが残した言葉は、
南に、お前の知りたいことがある。
それだけだった。
場所もない。
誰に会えとも言われていない。
神造兵器があると決まったわけでもない。
地図を広げても、目的地には印をつけられなかった。
カイも同行することになった。
リゼットさんは議会の引き継ぎが残っているため、この街に残る。
治療院を出る朝、見送りには来てくれた。
「王国で会いましょう」
「はい」
「それまでに、記録を増やしすぎないでください」
「それ無理じゃないですか?」
「では、分類だけはしてください」
「分かりました」
「確認事実と」
「推測と」
「未確認」
俺が答えると、リゼットさんは満足そうに頷いた。
鞄から銀色の缶が少しだけ見えている。
俺がそこへ目を向けると、すぐ奥へ押し込まれた。
「何です?」
「何でもないです」
「なら見ないでください」
少しだけ耳が赤くなった。
セラが馬車から顔を出す。
「長い」
「今行きます」
リゼットさんと別れ、馬車へ乗った。
御者が手綱を動かす。
中央議事堂の尖塔が、少しずつ遠ざかっていく。
アレーテイアで起きた事件は、一応の区切りを迎えた。
裁定は終わった。
事故を受けて変わる仕組みも決まった。
でも俺の中には、七十九と九十五という二つの数字が残ったままだった。
―――
南へ進んで二日目の午後、街道が深い森へ入った。
それまで乾いた草地が多かった景色が一気に変わり、道の両側から太い木々が迫ってくる。枝葉が空を覆い、昼間なのに林の中は薄暗い。
馬車の速度も自然と落ちた。
「静かですね」
御者台の横からカイが周囲を見る。
鳥の声はする。
遠くでは虫も鳴いている。
ただ、ときどき馬が落ち着かないように首を振った。
森へ入ってしばらく進んだ頃。
右手の藪が大きく揺れた。
御者が手綱を引く。
馬車が止まった。
「何です?」
答えが返るより先に、低い唸り声が聞こえた。
木々の間から、一頭。
続いて、もう一頭。
熊が出てきた。
普通の熊より一回り大きい。
背には濃い緑色の苔のような毛が生え、肩から背中へかけて土と植物を貼りつけたような姿をしている。
「《苔背熊モスバック》です」
カイが小声で言った。
二頭とも、こちらへ顔を向けている。
まだ完全に成長しきってはいない。
それでも、人間なら十分すぎるほど大きかった。
「危険なんですか」
「通常なら低ランクです。こちらから群れへ入らなければ――」
最後まで言わせなかった。
二頭が左右へ分かれる。
馬車を挟むように回り始めた。
「……これ、襲う気ですよね」
「少し待ってください」
カイの声が変わった。
何かを見ている。
二頭の若い熊は、すぐには飛びかかってこなかった。
こちらへ近づいては止まり、鼻を鳴らし、また一歩進む。
怖がっているようにも見える。
なのに。
退かない。
セラが馬車から降りた。
「セラ」
「動くな」
俺ではなく、熊へ言ったようだった。
剣には手をかけていない。
ただ、二頭の前へ立つ。
その瞬間。
森の空気が変わった。
セラが何かをしたわけじゃない。
構えも取っていない。
けれど二頭の熊が、同時に足を止めた。
鼻先が上がる。
耳が伏せられる。
背中の毛が逆立った。
セラの殺気を感じた。
たぶん。
俺でも分かる。
目の前の人間へ飛びかかれば。
死ぬ。
二頭にも、それくらいは分かったはずだった。
それでも。
一頭が前脚を踏み出した。
もう一頭も続く。
怖がっている。
明らかに。
それなのに、逃げようとはしない。
「何なんです、あれ」
俺が聞いた瞬間だった。
森の奥から。
低い音が響いた。
吠え声とは少し違う。
腹の底から震わせるような、
「グゥゥ……」
という音だった。
二頭の若い熊が、ぴたりと止まった。
木々の奥で、何か大きなものが動く。
枝が押し広げられた。
現れた熊を見て、息を呑んだ。
でかい。
さっきの二頭より、さらに二回り以上大きかった。
背中は厚い苔に覆われ、ところどころに小さな草まで生えている。右耳の先が大きく欠けていて、肩には古い傷が一本走っていた。
若い二頭と同じ種類には見える。
でも。
同じ生き物とは思えないほど、身体の厚みが違った。
巨大な熊はセラを見る。
セラも見返す。
しばらく。
どちらも動かなかった。
「グゥ」
熊がもう一度、短く鳴いた。
今度は若い二頭へ向けてだった。
一頭が鼻を鳴らす。
まだセラを見ている。
巨大熊が地面へ前脚を落とした。
鈍い音が森へ響く。
それだけだった。
若い熊たちが、ようやく後ろへ下がった。
セラへ背中を見せる直前まで、二頭とも悔しそうにこちらを見ている。
巨大熊も最後までセラを見ていた。
敵意はない。
少なくとも。
今は。
やがて身体を返す。
若い二頭を連れ、三頭は森の奥へ消えていった。
枝葉が揺れる音も、少しずつ遠くなる。
俺はようやく息を吐いた。
「……何だったんです?」
セラが馬車へ戻る。
カイは熊が消えた方向を見ながら答えた。
「成人の儀式ですね」
「熊にあるんですか、そんなの」
「モスバックにはあります。群れを出られる年齢になった若い個体が、格上の相手へ一度向かうんです」
「勝つんですか?」
「勝てる相手は選びません」
カイが苦笑する。
「逃げずに向かって、長が認めたところで終わりです。あの二頭はセラさんを選んだみたいですね」
「最悪の相手じゃないですか」
「だから長が止めたんでしょう」
俺は森の奥を見る。
あの巨大な熊。
最後までセラから目を逸らさなかった。
人間みたいに考えているとは思わない。
それでも。
少なくとも、若い二頭よりは状況を分かっていた。
「あれも普通のモスバックなんです?」
「大きすぎますけどね。ただ、長く生きた群れの長なら、あれくらいになる個体もいるそうです」
「セラ」
「何だ」
「戦わなかったのですか」
「襲ってこなかった」
それだけだった。
セラにとっては、それで十分らしい。
馬車へ乗り直したところで、カイが地図を広げた。
「それと」
「まだ何か?」
「モスバックが出たということは、もう国境を越えてます」
俺は地図を見る。
いつ国境を通ったのか全然分からなかった。
「関所とかないんですか」
「昔の国境線なので、今は街道上に標識がある程度です。森へ入る前に小さい石柱があったでしょう」
「見てませんでした」
「でしょうね」
カイが地図の一点を指す。
「この先にあるのが、武具の街ベルーガです」
「武具の街」
「王国軍が使っている武器の一部も、あそこで作られてます。鍛冶師なら大陸でもかなり集まっている街ですよ」
セラが腰の剣へ一度だけ目を落とした。
俺もそれを見る。
アークの時も。
バスティオンの時も。
アレーテイアの時も。
ずっとセラが使ってきた剣だった。
外から見れば、まだ使える。
ただ。
さっき二頭の熊を前にした時。
セラは一度も抜かなかった。
偶然なのか。
それとも。
何か感じていたのか。
今はまだ分からなかった。
馬車が再び動き出す。
森の奥で。
一度だけ。
低い熊の声が聞こえた気がした。
―――
ベルーガが近づいていることは、街が見えるより先に分かった。
音がした。
金属を打つ音。
一つではない。
遠くからでも分かるほど、いくつもの硬い音が重なっている。
馬車が坂を上りきると、その先に街が見えた。
高い城壁より目につくのは、街の中から突き出した煙突だった。黒い煙、白い煙、薄い灰色の煙が空へ上がり、風向きが変わるたび、炭と油と熱した鉄の匂いまで流れてくる。
門へ近づくほど荷馬車が増えた。
積まれているものも変わっていく。
剣身だけを何十本も並べた荷台。
槍の穂先。
盾。
鎧。
巨大な獣の角。
何の生き物か分からない牙。
中には、何に使うのか想像もできない金属の輪まで積まれている。
門をくぐる。
音はさらに大きくなった。
右から金槌。
左から研磨。
通りの奥では炉が唸っている。
宿屋の隣が鍛冶屋で、その向かいも鍛冶屋だった。
「すごいな」
思わず口に出る。
「何がだ」
セラが隣を歩いている。
「武器ばっかりだなと思って」
「武具の街だからな」
「知ってたんですか?」
「今聞いた」
「ですよね」
歩き方だけ見れば、もう普段のセラとほとんど変わらない。
左肩の固定も、治療院を出る頃には軽いものに変わっている。
ただ。
俺は知っている。
動けることと、元に戻っていることは同じじゃない。
それとは別に、もう一つ気になっていた。
腰に下げている剣だ。
森で熊と向き合った時から、何となく引っかかっている。
「セラ」
「何だ」
「剣、一回見せてください」
足が止まった。
「なぜだ」
「ここ武具の街でしょう。せっかくだから点検してもらった方がいいです」
「必要ない」
「必要あるかどうか確認するんです」
青灰色の目が少し冷たくなる。
最近、この目を向けられることが増えた。
以前なら、ただ面倒そうだった。
今は俺の言葉の後ろまで見ようとしている。
「また何か隠しているのか」
「今度はまだ何も見てません」
本当だ。
セラは数秒俺を見たあと、腰から剣を外した。
「見ろ」
受け取る。
重さそのものは変わらない。
鞘から少しだけ抜く。
刃にも、致命的な異常は見えなかった。
《不具合鑑定》
こちらはすぐに出る。
《刀身内部――亀裂進行》
眉が寄った。
《魔力伝導部――損耗》
続けて。
《高負荷斬撃――非推奨》
「……セラ」
「何だ」
「これは駄目です」
「何が」
「中で亀裂が進んでます」
セラが剣を見る。
「折れてはいない」
「まだ、です」
剣を持ったまま言う。
「今使えることと、壊れてないことは違います」
口にしてから、少し引っかかった。
数日前。
アレーテイアの旧系統について、似たようなことを言った。
使わないことと、使えないことは違う。
あの時は、人間が「使わない」と決めたことを、設備そのものの状態と混ぜていた。
今度は逆だ。
使えている。
だから正常。
それも同じ間違いだった。
状態そのものを見ていない。
「少なくとも、この街で見てもらいましょう」
セラはすぐには返事をしなかった。
俺の顔を見る。
「今度は隠していないな」
胸が少し痛んだ。
「……これは全部言いました」
「そうか」
それだけ言って、剣を俺へ預けたまま歩き出した。
信用されたわけじゃない。
確認されただけだ。
今は、それでいい。
―――
街の中にある王国軍指定の工房を二軒回った。
一軒目は剣を抜いた時点で難しい顔をした。
二軒目の鍛冶師は、刀身を何度か叩いたあとで首を横に振った。
「直すだけならできる」
「じゃあお願いします」
俺が言うと、鍛冶師は剣ではなくセラを見た。
「また同じように使うのか?」
「ああ」
「なら、直しても長くはもたん」
セラの眉が寄る。
鍛冶師はそれ以上説明せず、剣を俺へ返した。
「この街に一人だけ、こういうのを喜んで見る馬鹿がいる」
「馬鹿?」
「腕はいい。ただし、まともじゃない」
横にいたカイが苦笑した。
「たぶん僕が考えている人と同じですね」
「知ってるんですか」
「噂だけは」
鍛冶師が街の外れを指す。
「西門を出て、林へ入れ。道が一本ある。その奥だ」
「店の名前は?」
「ない」
「看板は?」
「ない」
「どうやって見つけるんです」
「折れた剣が逆さに吊ってある」
嫌な予感しかしなかった。
―――
ベルーガの西門を出て、林の中へ入る。
街中の金属音が遠ざかると、急に静かになった。
細い道をしばらく進む。
本当にこんなところに鍛冶師がいるのかと思い始めた頃、木々の間に一軒の建物が見えた。
工房と住居がくっついたような、小さな建物だった。
看板はない。
入口の横に。
折れた剣が一本、逆さまに吊られている。
「本当にあった」
「だから言ったでしょう」
カイが言う。
「カイは何も言ってないですよ」
「場所は知ってました」
「先に言ってください」
扉を開けた。
中は思ったより広い。
完成した武器はほとんど見当たらなかった。
代わりに、作業台には分解された機構や金属片が並び、何に使うのか分からない部品が箱ごと積まれている。
奥から、金属を削る音が聞こえていた。
音が止まる。
「客?」
顔を出したのは、少年だった。
十代後半くらい。
肩まで伸びた青い髪は適当に括られ、頬には煤がついている。身体つきは細く、ここが鍛冶場だと知らなければ、鍛冶師には見えなかったと思う。
そのくせ。
背中には一本の剣を背負っていた。
鞘ではなく、何重もの布で刀身ごと巻かれている。
作業をしている間も、外していなかったらしい。
少年の視線が俺たちを順番に通る。
カイ。
俺。
セラ。
最後に。
俺が持っている剣で止まった。
「それ」
少年が言った。
「誰が使ってるんだい?」
セラが答える。
「私だ」
視線が剣からセラへ移る。
足。
腰。
右手。
まだ完全には戻っていない左肩。
最後に顔を見る。
随分と長かった。
「何だ」
セラの声が低くなる。
少年は答えず、笑った。
「ケケケ」
変な笑い方だった。
「なるほどね」
「何がです?」
俺が聞く。
少年がようやくこちらを見る。
「先に剣を見せなよ」
差し出す。
でも、受け取らなかった。
鞘に入ったままの剣へ耳を寄せ、指先で柄頭を軽く叩く。
小さな金属音が鳴る。
次に鞘の中央。
さらに少し位置をずらす。
一音ごとに、少年の表情が変わった。
「中までいってるね」
俺は思わず顔を見る。
「分かるんですか」
「分からなきゃ鍛冶屋なんてやってないよ」
もう一度、軽く叩く。
音を聞く。
「芯に亀裂。魔力を流すところもかなり減ってる。高い出力を無理に通したら、いつ折れてもおかしくない」
《不具合鑑定》とほとんど同じだった。
「直せます?」
少年は俺ではなく、セラを見る。
「直すことはできる」
「じゃあ」
「ただし」
口元が上がった。
「同じように使えば、また壊れる」
セラの眉が寄る。
「私の使い方が悪いと言うのか」
「逆だよ」
少年が笑った。
「剣の方が、君についていけてない」
セラは言い返さなかった。
いつもなら。
武器のせいにするな、とでも言いそうなのに。
ただ、自分が使ってきた剣を黙って見ている。
少年の目が変わったのは、その時だった。
さっきまで見ていたのは、壊れた剣だった。
今は。
セラを見ている。
「……へえ」
小さな声が漏れる。
セラが顔を上げた。
「何だ」
「いや」
少年が、もう一度笑った。
「君、自分でも分かってるんだね」
「何をだ」
「その剣じゃ足りないってことをさ」
セラは答えなかった。
少年の笑みが深くなる。
客を見つけた鍛冶師の顔ではなかった。
もっと前から探していた何かを、ようやく見つけたように見えた。
「名前は?」
俺が聞く。
少年は背中の剣へ手を伸ばした。
布で巻かれた柄へ触れる。
抜きはしない。
「インクス」
それだけ答えた。
「その剣を直すかどうかは、あとで決める」
「あと?」
「ああ」
インクスはセラを見たまま、楽しそうに笑った。
「先に、君がどれくらい剣を壊す奴なのか聞かせてくれないかい?」
「断る」
即答だった。
「ケケケ。いいね」
「何がいい」
「そういうところ」
セラの目がさらに冷たくなる。
俺は嫌な予感がした。
たぶん、この人とは長くなる。
インクスは気にした様子もなく、工房の奥へ戻りかけた。
数歩進んだところで止まる。
背中の、布で巻かれた剣へ触れた。
それからセラを振り返る。
「……やっと」
小さな声だった。
聞き返す前に、インクスは奥へ消えた。
再び、金属を削る音が始まる。
俺はカイを見る。
「何です、あの人」
「変わってるとは聞いてました」
「腕は確か、しか言ってませんでしたよね」
「嘘は言ってません」
確かに。
でも、絶対に何か知っていた。
俺が工房の奥を睨んでいる横で。
セラは何も言わなかった。
ただ。
インクスの背中にあった、布巻きの剣だけを見ていた。




