第四十一話 鎖を残すなら
27s考えました
第四十一話 鎖を残すなら
アレーテイアの司法運用が停止されてから、二日目の朝。
俺はセラの病室の前にある長椅子へ座り、膝の上に紙を広げていた。
昨日から何度書き直したか分からない。足元には丸めた紙がいくつか転がり、横には地下へ入った時から使っていた記録帳が開いたままになっている。
一度は寝ようとした。
けれど目を閉じると、地下で見たものが順番もなく浮かんできた。
休止と表示されていた旧執行系統。
切れていなかった接続。
主任が何度も残していた、小さな魔力収支差異。
三箇所の遮断器操作。
三箇所の焼損。
一つずつなら説明できる。
なのに、全部並べると、どこかがおかしい。
だから結局、朝まで紙と向き合っていた。
廊下の向こうから足音が近づいてくる。
顔を上げると、リゼットさんだった。
「何をしているんですか」
「あ。ちょうどよかった」
「何がです?」
「今日、議会ですよね」
「はい。アレーテイアの司法運用と、今回の事故について臨時議会が開かれます」
俺は膝の上に置いていた紙を揃えた。
「じゃあ、これ」
十数枚を紐でまとめた束を渡す。
一枚目には、
『アレーテイア旧執行系統――火災発生までに確認できた保守上の事項』
と書いてある。
リゼットさんは表題を読んでから、俺を見た。
「資料を作ったんですか」
「地下で俺が見たものと、主任が残してた報告、それから保守記録を並べ直しました」
「一晩で?」
「一回寝ようとはしたんですけど」
「寝なかったんですね」
「途中で気になるところが出てきて」
リゼットさんが一枚目をめくる。
そこには旧執行系統を簡単な図にしてあった。
今も使われている司法制御系。
休止扱いになっていた旧執行系。
どこで分かれ、どこに接続が残っていたのか。
俺自身、専門の図面を引けるわけじゃない。だから、俺が見て分かった範囲だけを、できるだけ単純にした。
その横へ、《不具合鑑定》で確認した表示も書き写してある。
《接続状態――休止》
そのすぐ下。
『物理接続――残存』
「ここです」
二つの文字を指した。
「地下で見た時、表示は確かに休止でした。でも、実際には繋がってた」
「はい」
「これ、同じものとして扱ったら駄目だと思うんです」
「休止と接続を?」
「もう少し分けると」
紙の余白へ線を引き、その左右に書く。
『どう使うことになっているか』
『実際にどうなっているか』
「休止って、こっちですよね。人間が『もう使わない』って決めた状態です」
左側を指す。
「でも、線が切れてるとか、部品が外されてるとか、本当に動かない状態になってるかは、こっちの話です」
右へ指を移す。
「使わないことと、使えないことは違う」
リゼットさんが紙を見る。
「ですが、使わないのであれば通常は問題にならないのでは?」
「普通なら、たぶん」
そこは俺にも分からない。
全部の休止設備が危険だと言うつもりはなかった。
「でも今回みたいに、別の経路から力が入る可能性が残ってるなら、話が変わると思います」
図の旧系統を指でなぞる。
「現役の設備なら、使う人がいる。見る人もいる。点検もする。でも『もう使わない』ってなった設備は、見る回数が減るでしょう」
「そうでしょうね」
「なのに接続だけ残ってたら、管理は減るのに、動ける状態だけ残ることがある」
リゼットさんの筆が動いた。
「今のは分かりやすいですね」
「議会では、もう少しちゃんと言ってください」
「今のままでは駄目ですか」
「俺が言ったままじゃない方がいいです」
俺は次の頁を開いた。
主任が残した魔力収支差異を、日付順に並べてある。
どの日も、決められた許容範囲からは外れていなかった。
「これは基準内ですね」
「はい」
「議会でも、おそらくそう言われます」
「だから並べました」
数字の横へ、小さな矢印を書いていく。
一日目。
二日目。
三日目。
日付が変わっても、矢印は全部同じ方向だった。
「一個ずつ見たら、全部問題ないんです」
「そうですね」
「でも、ずっと同じ方へ寄ってる」
「それ自体を異常だと?」
「分かりません」
そこは断言したくなかった。
「俺が決める話じゃないです。ただ、一回の数字が基準の中にあるかを見ることと、同じ方向へ変わり続けてないかを見ることって、別だと思うんです」
「もう少し説明してください」
新しい紙を引き寄せ、間隔を空けて横線を二本引いた。
「この間なら使っていい、って範囲があるとします」
二本の線の真ん中辺りへ点を打つ。
「一回目。正常」
その少し上へ、二つ目。
「二回目も正常」
さらに上へ、三つ目。
四つ目。
五つ目。
どれも上の線までは届かない。
「全部、基準の中です」
「ですが、少しずつ上へ寄っている」
「はい。その日の数字だけ見るなら全部正常です。でも並べると、何かが同じ方向へ変わり続けてるかもしれないって分かる」
「なら、基準を厳しくする?」
「それも違うと思います」
小さい差が出るたびに止めれば安全になる。
たぶん、それは簡単だ。
でも、それで設備そのものが使えなくなれば意味がない。
「止める基準と、調べ始める基準を分けたらいいんじゃないですか」
リゼットさんの筆が止まった。
「止める基準と、調べる基準」
「まだ止めるほどじゃない。でも、同じ方向が続いたら一回調べる。それなら、小さい差が出るたびに全部止めなくていいし、基準を越えるまで何もしないってことにもならない」
言いながら、自分でも妙にしっくりきていた。
どうしてそこまで引っかかるのかは分からない。
でも、一つずつ合格だから大丈夫だ、という見方だけは、ひどく気持ちが悪かった。
「主任は気づいていた」
リゼットさんが言う。
「たぶん」
「報告もした」
「はい」
「でも、数字は基準内だった」
「だから、その次に何をするかが決まってなかったんじゃないかと思います」
主任の報告書を指先で軽く叩いた。
「記録が残ってることと、記録を使えてることも別なんですよ」
「どういう意味です?」
「書いてあっても、それを見た時に何をするかが決まってなかったら、書いたところで止まります」
主任は書いていた。
差異も残っていた。
旧系統が休止だったことも記録にある。
全部が分かっていたわけじゃない。
それでも、事故の前から存在していた情報はある。
なのに、それぞれが次の確認につながらなかった。
俺は次の頁を開いた。
「まだあります」
「これ以上?」
「一番気になってるところです」
火災へ至るまでに確認された事実を、今度は時間順に並べている。
旧執行系統は休止扱いだった。
物理接続は残っていた。
魔力収支差異は以前から同じ方向へ続いていた。
主任は複数回、報告していた。
一部の壁面では、被告人が侵入する以前から温度上昇が確認されていた。
そして最後に、通常時にも行われていた遮断器操作。
「俺、最初はこれが原因だと思ってました」
最後の行を指す。
「操作した場所と燃えた場所が重なってたから」
「私もです」
「でも、同じ操作は前にもやってる」
「はい」
「本人が入る前から熱を持ってた場所もある」
「確認されています」
「だったら」
指を最後の操作から一つ前へ戻す。
さらに、その前へ。
「最後に起きたことを、そのまま全部の原因にしたら駄目なんじゃないかと思うんです」
「遮断器操作が原因ではないと?」
「それも分かりません。最後のきっかけにはなったかもしれない」
少し考える。
言いたいことは頭の中にあるのに、うまく形にならない。
「でも、普通にやってた操作を一回しただけで火事になるなら、先に見るべきなのは操作した人より、普通の操作で火事になる状態が、なんでそこまで残ってたのかじゃないですか」
リゼットさんが顔を上げた。
「操作した人を替えても、こっちが残ったままなら、いつか別の誰かが同じことをする」
紙の上には、旧系統、収支差異、残った接続、追加調査へ進まなかった報告が並んでいる。
「最後に触った人だけ見ても、同じ事故は止まらないと思います」
そう言った瞬間だった。
頭の奥で、何かが引っかかった。
白い作業灯。
遠くで回っている機械の音。
紙の上に並んだ数字。
『規格内です』
誰かの声。
知っている。
俺は、この声を知っている。
続きを掴もうとした。
その瞬間、景色ごと途切れた。
何もない。
「トーマさん?」
「……何でもないです」
額へ手を伸ばしかけて、やめた。
今は、出てこないものを追うより、目の前にあるものの方が確かだ。
資料の最後を開く。
『確認してほしいこと』
その下へ、四つ並べてあった。
『休止と物理切断を、別の状態として管理していたか』
『単独値の異常判定とは別に、同方向への継続変化を調査開始条件としていたか』
『非稼働設備の実際の接続状態を、定期的に確認する仕組みがあったか』
『休止設備が別系統から再び作動可能になった場合、接続状態を再確認する手順があったか』
最後だけは質問にしていない。
『事故原因を、最後に行われた操作だけで閉じないこと』
「これは意見ですね」
「はい」
「珍しいですね」
「俺もそう思います」
笑う気にはならなかった。
「発言する機会があったら、これを使ってほしいんです」
「そのまま読み上げるつもりはありませんよ」
「もちろんです」
「必要がないと思えば使いません」
「それでいいです」
そこは最初から決めていた。
「答えを預けるつもりじゃないので」
リゼットさんの指が資料の上で止まった。
「では、何を?」
「俺が見たものを預けます」
閉じた病室の扉を見る。
この向こうで、セラはまだ眠っている。
「そこから何を言うかは、リゼットさんが決めてください」
しばらく資料を見ていたリゼットさんが、それを自分の書板と重ねた。
「分かりました」
「お願いします」
「確認してきます」
俺は頷いた。
――――
中央議事堂には、普段の臨時議会よりも多くの人間が集められていた。
司法官、各国の立会人、魔力設備技師、保守部門の責任者。アレーテイアの司法運用停止が各国へ伝わった以上、単に一件の裁定をやり直せば済む話ではなくなっている。
議題は、神器を残すか廃止するかだけではなかった。
なぜ火災が起きたのか。なぜ旧執行系統が動いたのか。なぜ主任が残した報告は事故を防げなかったのか。そして真実鎖を再び司法へ戻すなら、人間側は何を変えなければならないのか。
リゼットは議員席ではなく参考人席に座り、目の前に今回の裁定記録と主任の報告書を置いていた。その一番下には、朝トーマから預かった資料がある。
議論が旧系統へ移ったのは、開会から一時間ほど経った頃だった。
「旧執行系統を完全に撤去すれば、同じ経路から再起動することはなくなる。それで問題は解決するのではないか」
一人の議員がそう述べると、設備技師の何人かが資料へ目を落とした。
保守責任者が立ち上がる。
「少なくとも、同じ旧経路を通じた執行系統の作動は防げます。司法制御側に異常がないことを確認したうえで旧系統を物理的に切断すれば、技術的には復旧可能です」
「ならば、司法運用まで止め続ける必要はない」
「国際裁定が滞れば別の問題が起きる」
賛同する声がいくつか上がった。
リゼットは発言を記録しながら、その中の「問題は解決する」という言葉だけは自分の結論として書かなかった。
「リゼット記録官」
議長がこちらを見る。
「今回の裁定に立ち会った記録官として、運用について意見はありますか」
「あります」
リゼットは立ち上がった。
最初に手にしたのは、トーマの資料ではなく法廷記録だった。
「私は、現在の方法のままアレーテイアの司法利用を再開することには反対します」
議場の空気がわずかに変わった。
「今回、真実鎖が確認した事実の中に、虚偽だったと確認されたものはありません」
奥の議員が眉を寄せる。
「それなら、神器には問題がなかったということでは?」
「いいえ。鎖が事実を正しく確認したことと、その鎖を使った司法運用に問題がなかったことは別です」
被告人が遮断器を操作したこと。被害者と口論したこと。旧経路図を複写していたこと。過去に記録を改ざんしたこと。
どれも確認された事実だった。
だが、それらを並べた時、人間は一度、「だから火をつけた」という結論へ進みかけた。
「今回混ざっていたのは、鎖が確認した事実と、人間がそこから導いた意味や因果関係です」
リゼットは三枚の紙を机へ並べた。
『確認事実』
『判断・推論』
『未確認事項』
「今後も司法利用を続けるのであれば、この三つは記録上も審理上も分けるべきだと考えます」
「分ければ、誤判がなくなると?」
「分かりません」
質問した議員が僅かに黙った。
「なくなるとは言えません。ですが、間違えた時に、事実が間違っていたのか、人間の判断が間違っていたのか、それとも未確認のものを確認済みとして扱ったのかを遡ることができます」
「それだけのために運用を止める?」
「それだけ、ではありません」
リゼットは法廷記録を閉じた。
「今回の設備事故でも、同じ種類の混同がありました」
そこで初めて、トーマから預かった資料を取り出した。
「こちらは、現場へ入った王命調査官トーマ・リードが、自身で確認した状態と既存記録を整理したものです。技術的な原因を断定した資料ではありません。保守側へ確認すべき点をまとめたものです」
保守責任者へ目を向ける。
「まず、旧執行系統について確認します。今回、この系統は休止扱いだったのですね」
「はい」
「物理的には?」
「接続が残っていました」
「休止と物理切断は、保守記録上、別の状態として管理されていましたか」
保守責任者の返答が僅かに遅れた。
「旧様式では、どちらも非稼働系統として管理されています」
「では、記録だけを見て、接続が残った休止設備なのか、物理的に切断済みなのかを判別できますか」
「できません」
議場にざわめきが起こった。
リゼットは収まるのを待った。
「もう一点。休止設備の物理接続を、定期的に実地確認する規定はありましたか」
「ありません」
「理由は?」
「非稼働設備であるため、通常の運転点検対象から外れます」
リゼットは一度息を置いた。
「休止になったことで点検の対象から外れた。しかし、接続自体は残り続けた。それで間違いありませんか」
「……はい」
今度のざわめきは先ほどより小さかった。
代わりに、筆を取る者が増えている。
「次に、主任が報告していた魔力収支差異について伺います。一回ごとの値は?」
「すべて許容範囲内です」
「同じ方向への偏りが継続していますね」
「記録上はそうです」
「その場合、追加確認を行う規定は?」
「ありません」
「なぜです?」
「異常値ではないためです」
リゼットは紙へ目を落とした。
朝、トーマが二本の線の間へ打った点を思い出す。
「異常値ではないことと、状態が変化していないことは同じですか」
保守責任者の目が上がった。
「……同じとは言えません」
「では現在の規定には、数値が許容範囲を越えた時の対応とは別に、同方向の変化が継続した時点で調査を始める基準がありますか」
「ありません」
設備技師の一人が手を上げた。
「しかし、小さな変動まで全て異常として扱えば、保守業務そのものが成立しなくなります」
「私も、全てを異常として扱うべきだとは言っていません」
リゼットはその技師を見る。
「止める基準と、調べ始める基準を分けることはできますか」
技師は少しだけ姿勢を変えた。
「……できます」
「一件ごとの値は許容範囲内でも、同じ方向への偏りが一定回数、あるいは一定期間続いた場合に、追加確認へ移る」
「技術的には可能です。ただし回数や期間は設備ごとに定める必要があります」
「それを私が決めるつもりはありません」
リゼットは主任の報告書を机へ置いた。
「ですが今回、主任は数字を残していました。記録そのものは存在していた。それでも、次の確認へ進む条件がなかったため、記録は記録のまま止まった」
議場が静かになる。
「記録を残す仕組みと、記録から行動を起こす仕組みは別です。今回必要なのは、後者も含めた見直しだと考えます」
保守責任者は答えなかった。
リゼットは最後の資料を開いた。
「そして、事故原因についてです」
議場の空気が変わった。
「今回、火災直前に遮断器が操作されています」
「それが発火につながったのではないか」
別の議員が口を挟んだ。
「その可能性はあります」
「ならば原因は操作では?」
「同じ操作は通常運用でも行われていました」
議員の口が止まった。
「さらに、一部の焼損箇所では、操作を行った人物が侵入する以前から温度上昇が記録されています。旧系統の接続も残っていた。魔力収支の偏りも以前から続いていました」
リゼットは、それぞれの資料を机の上へ順番に並べた。
「最後の操作が火災を起こすきっかけになった可能性は否定できません。ですが、普段から行われていた操作で事故が起きる状態が、なぜその時まで残っていたのか。それを調べず、最後の操作だけを原因として扱えば、同じ状態は残ります」
「操作した者を替えても、か」
議長が言った。
「はい。同じ設備状態のままなら、別の誰かが同じ操作をするだけです」
議場の奥で、誰かが筆を置く音がした。
「今回の事故は、一つの異常だけが見逃された結果ではありません」
休止という管理。
残った物理接続。
基準内だった収支差異。
継続していた偏り。
残された報告。
そして、追加確認へ進まなかった運用。
その最後に、通常の操作が入った。
「一つずつ見れば、直ちに事故を起こすほどではなかったものが、それぞれ別の問題として残り続けた。その結果、最後に通常の操作が入った時、火災へつながった可能性があります」
「可能性?」
「私は設備技師ではありません。ですから原因だとは断定しません」
リゼットは保守責任者を見る。
「ただし、再発防止として確認すべきことはあります」
「何でしょう」
「休止と切断を分けること。非稼働設備でも接続が残る場合は、実際の状態を確認すること。基準値を越えたかどうかだけではなく、同方向への変化が続いた場合に調査へ移る条件を作ること。そして、最後に起きた操作だけで事故原因を閉じないことです」
保守責任者はしばらく何も言わなかった。
隣の設備技師と資料を見比べ、小声で何かを確認する。別の技師もそこへ加わり、旧系統図を開いた。
やがて、保守責任者が顔を上げた。
「休止、物理切断、撤去は、今後別の状態として管理します」
議場に筆の音が広がった。
「非稼働系統についても、物理接続が残るものは定期確認の対象とします。また、再投入または他系統から力が流入する可能性が生じる場合は、事前に接続状態を再確認する手順を設けます」
一度資料を見る。
「収支差異については、単独値が基準内であっても、同方向への偏りが一定期間継続した場合に追加調査へ移る基準を策定します」
「分かりました」
リゼットはそれ以上求めなかった。
決めるべき者が答えた。
それを記録すればいい。
「では」
議長が机の上の資料を整理した。
「暫定措置を確認する」
司法利用は当面停止。
現行系統を含めた全接続の再調査。
休止、物理切断、撤去の管理区分を分離。
非稼働系統の実接続確認および再投入前確認の手順を策定。
同方向の継続差異について、異常判定とは別に調査開始基準を設ける。
そして司法側については。
「確認事実、判断・推論、未確認事項を分離する新たな記録様式を検討する」
議長が読み上げ終えると、すぐに異論が上がった。
停止期間が長すぎる。
国際裁定が止まる。
神器を人間側の規則で制限してよいのか。
いっそ廃止すべきだ。
リゼットは、そのすべてを書いた。
今日決まったこと。まだ決まっていないこと。反対されたこと。今後検討するとされたこと。
それらを同じ欄へ入れないよう、紙の上で分けていく。
記録すること自体は昨日までと何も変わらない。
ただ、記録されていることと、それが正しく扱われていることは同じではない。
今日、そのことだけは以前よりよく分かっていた。
――――
リゼットさんが治療院へ戻ってきたのは、窓から差し込む光が赤くなり始めた頃だった。
俺はセラの寝台の横へ小さな机を寄せ、朝とは別の紙を広げていた。
セラはまだ目を覚まさない。
左肩は固定され、胸にも治療用の布が巻かれている。
時々呼吸を確認する。
ちゃんと息はしている。
治癒師にも何度も同じことを言われた。
それでも、見ないでいる方が落ち着かなかった。
カイは窓際の椅子に座っていた。
「戻りました」
「あ、ちょっと待ってください」
書きかけの一行だけを最後まで書いてから、筆を置く。
「どうでした?」
「長引きました」
「それは見れば分かります」
言ってから、やめた。
「……いや。見ても分からないですね」
「はい」
「今のはなしで」
リゼットさんが机へ近づいた。
「今度は何をしているんです?」
「まとめてました」
「朝とは別に?」
「はい」
一番上には、三つの名前を書いている。
『断界剣アーク』
『城護盾バスティオン』
『真実鎖アレーテイア』
その下を、
『確認した現象』
『発生条件』
『影響』
『未確認』
に分けていた。
「これまでの神器ですか」
「はい。今まで、見たものを頭の中で勝手に繋いでたんですけど、やめようと思って」
「なぜです?」
「今回、外したので」
アレーテイアの紙を引き寄せる。
『三箇所の焼損』
『三箇所の遮断器操作』
その横に書いていた、
『操作による発火』
には線を引いた。
代わりに、
『因果関係――未確認』
と書き直してある。
「最初、俺も繋いでました。場所が同じだから、操作したせいで燃えたんだって」
別の余白へ、先に『推測』と書く。
その横へ、
『一つ確認しただけで、全部分かったと思わない』
と続けた。
「ずいぶん大きな括りですね」
「俺用なんで」
「記録というより注意書きでは?」
「同じことをやらかさないためのです」
机の端には、もう一つ別の束がある。
リゼットさんの目が、その表題で止まった。
『セラ・ヴァルク 神器戦闘後状態』
「これは?」
「セラのです」
一枚めくる。
『左肩――深部損傷』
『胸郭――損傷』
その先にも、これまで俺が確認してきた状態だけを書いている。
原因だとは書かなかった。
分からないからだ。
「最初、神器のせいだって書きそうになったんです」
「だから直した?」
「はい。今回、それで痛い目見ましたから」
窓際で椅子が鳴った。
カイが水差しを取りに立ち上がる。
机の横を通った時、視線が一瞬だけ俺の紙へ落ちた。
『セラ・ヴァルク 神器戦闘後状態』
そこを見た。
ように見えた。
でも、何も言わずに水差しを取って戻っていく。
「それで」
俺はリゼットさんを見る。
「聞けました?」
「はい」
「休止と切断」
「同じ区分でした」
やっぱり。
「今後は分けます。撤去も別にします。接続を残した休止設備は、実際の接続状態も確認することになりました」
「本当に?」
「継続差異についても、単独値が基準内かどうかとは別に、同じ方向への偏りが続いた時点で追加調査へ移る基準を作るそうです」
返事が出なかった。
胸の奥にずっと残っていたものが、少しだけほどけた。
「……よかった」
自分でも思ったより小さな声になった。
「本当に」
何を安心しているのか、自分でも全部は説明できない。
ただ。
同じ見落とし方を、もう一度しなくて済むかもしれない。
それだけでよかった。
その時、寝台の方から布が擦れる音がした。
俺は椅子を蹴りそうな勢いで立ち上がった。
「セラ?」
右手が僅かに動いている。
青灰色の瞳が、ゆっくり開いた。
でも、俺を見ていない。
目は開いているのに、焦点がどこにも合っていなかった。
呼吸が浅い。
何度か瞬きをして、ようやく視線が横へ流れる。
「セラ。聞こえますか」
唇が動いた。
声にならない。
もう一度。
「……ここは」
掠れた声だった。
「治療院です」
「治療……」
意味がつながるまでに時間がかかっている。
急に身体を起こそうとした。
「待ってください」
すぐに手を伸ばす。
ほとんど起き上がれなかった。
左肩へ力が入った瞬間、セラの顔が強張る。少し遅れて胸にも痛みが走ったらしく、呼吸が止まり、右手が寝台の布を強く掴んだ。
「動かないでください」
「……離せ」
声にも力がない。
「離したら倒れます」
「倒れん」
言い終わる前に、右腕の力まで抜けた。
支えていなかったら、そのまま倒れていた。
セラが一瞬、自分の身体に何が起きたのか分からないような顔をした。
「セラ」
リゼットさんが呼ぶ。
視線が声を探し、少し遅れてリゼットさんを捉えた。
「……リゼット」
名前が出た。
それだけで少しだけ息が戻った。
「ゼインは」
「戦闘は終わっています」
俺が答える。
「終わった……」
言葉を確かめるように繰り返す。
「裁定は」
「終わりました」
今度はリゼットさんが答えた。
「被告人は?」
「故意の放火と殺害については無罪です。別件については、確認された事実に基づいて裁定されました」
セラは目を閉じた。
また意識が落ちたのかと思った。
名前を呼ぼうとした時。
「南だ」
小さい。
でも、さっきよりはっきりしていた。
セラが目を開く。
まだ顔色は悪い。
それでも今度は、俺を見ていた。
「南へ行く」
「……何の話です?」
「ゼインが言った」
一度、呼吸を整える。
「南に、私の知りたいことがある」
カイが窓際から離れた。
「場所は聞いてるんですか」
「聞いていない」
「何があるかは?」
「知らん」
「それで南へ?」
「ああ」
俺は何も言えなかった。
普段なら止めている。
でも今のセラは、起き上がることすらできなかった。
「いつ行くつもりですか」
「治り次第だ」
思わず口を開きかけた。
やめた。
今ここで言うことじゃない。
「水を」
杯を取り、身体を少しだけ支える。
一口飲んだところで、セラが顔を背けた。
「もういい」
「治癒師、呼んできます」
カイが立ち上がる。
「私も行きます」
リゼットさんも扉へ向かった。
「議会の決定も伝えておいた方がいいでしょう。移動できる状態なのかも、改めて診てもらいます」
俺も立とうとした。
「トーマ」
弱い声だった。
それでも、はっきり俺を止めた。
「何です?」
「残れ」
カイとリゼットさんがセラを見る。
セラはそれ以上何も言わなかった。
「先に呼んできます」
カイが扉を開ける。
リゼットさんも短く頷き、二人で病室を出ていった。
扉が閉じる。
――――
部屋に、俺とセラだけが残った。
何となく椅子へ戻れなかった。
寝台の横に立ったまま、セラを見る。
「どうしました?」
返事はない。
目を閉じ、呼吸を整えている。
「セラ?」
「一つ聞く」
「はい」
目が開いた。
さっきまでのぼんやりした感じは薄れていた。
身体には力が戻っていない。
でも目だけは、真っ直ぐ俺を見ていた。
「今の私について」
そこで一度言葉を切る。
「隠していることはないか」
心臓が一つ、大きく鳴った。
「何のことです?」
「分からないふりをするな」
怒鳴っていない。
そもそも今のセラに、そんな力は残っていない。
なのに逃げられなかった。
「起きたばかりです。今は治療を――」
「トーマ」
名前だけだった。
続きが出なくなる。
「私は、自分の身体のことを聞いている」
机の上に置いた紙が目に入った。
『セラ・ヴァルク 神器戦闘後状態』
セラも見ていた。
「それは何だ」
「記録です」
「何の」
「これまでの戦闘のあとに、俺が確認したことをまとめてました」
「私のか」
「……はい」
セラはしばらく紙を見ていた。
「なぜ今まで見せなかった」
「隠してたわけじゃありません」
「では見せろ」
俺は動けなかった。
「見せられないのか」
「そうじゃないです」
「なら」
「数字とか表示だけ見ても、分からないことが多いんです」
思ったより声が強くなった。
「原因が分からないものもある。今後どうなるか分からないものもある。だから、余計なことまで心配させたくなかった」
「それを決めるのはお前か」
何も返せなかった。
セラがゆっくり息を吐く。
その動きだけでも痛むのか、眉が僅かに寄った。
「もう一度聞く」
今度は、ゆっくりだった。
「今の私は、どうなっている」
逃げるのはやめた。
机の紙へ目を落とす。
どこから言えばいい。
何を言えばいい。
数字なら出せる。
表示もある。
でも、セラが聞いているのはそんなことじゃない。
「前より」
ようやく口にする。
「戻るのが遅くなってます」
セラは何も言わなかった。
「戦ったあと、前なら休めば消えてた負担が、残ることが増えました。左肩だけじゃありません。身体の何箇所かで、前の負荷が抜けきらないまま次の負荷が重なってます」
青灰色の瞳が僅かに細くなる。
「治っていない?」
「治ってるところもあります」
そこはすぐに答えた。
「ただ」
言葉を選ぶ。
「動けることと、元に戻ってることが、同じじゃなくなってきてます」
セラが右手を持ち上げようとした。
肘が寝台から少し離れたところで止まる。
力を込めれば、動く。
でも遅い。
明らかに、いつものセラの動きじゃなかった。
「これもか」
「今は戦闘直後の損傷もあります」
「今だけではないものもある」
質問じゃなかった。
黙るしかなかった。
「前にも言いましたよね。左肩。動かせるからって、治ったわけじゃないって」
セラの視線が少し揺れた。
「……それを言ったのは」
一瞬。
「お前だったか」
俺はセラを見る。
「俺ですよ」
「そうだったか」
それだけ言って、セラは目を閉じた。
胸の奥に小さな引っかかりが残った。
でも、今は目を覚ましたばかりだ。
意識も混乱していた。
あれだけ傷を負ったあとなら、こんな取り違えくらいあってもおかしくない。
そう思うことにした。
「どこまで進む」
セラが聞いた。
「分かりません」
「止められるか」
「それも、まだ」
言い切れる材料がない。
「でも、今までと同じように無理を続けて、大丈夫だとは言えません」
セラが目を開いた。
「戦うなと言うのか」
「それを俺が決めるつもりはありません」
今度は迷わなかった。
「危ないものは危ないって言います。やめてほしい時は、やめてほしいって言います。でも最後に決めるのは、セラです」
しばらく見つめられた。
「なら」
声が低くなる。
「なぜ黙っていた」
答えが出なかった。
隠したつもりはなかった。
そう思っていた。
でも、本当にそうだったのか。
「……怖かったからです」
口に出してから、自分でも驚いた。
「何が」
「言ったら、本当になる気がして」
机の上の紙を見る。
最初は左肩だけだと思っていた。
休めば戻ると思った。
次も。
その次も。
動けているから、まだ大丈夫だと思いたかった。
「俺が一番、見たくなかったのかもしれません」
セラは何も言わなかった。
「でも今回」
紙から目を上げる。
「もう、前と同じだとは言えません」
それ以上はつけなかった。
大丈夫ですとも言えない。
きっと治りますとも言えない。
セラが聞いたのは、俺が確認したことだった。
なら、そこだけは曲げたくなかった。
セラは自分の右手を見る。
ゆっくりと指を開く。
握る。
もう一度、開く。
動いている。
でも、動くことと治っていることは同じじゃない。
さっき俺が言ったばかりだった。
「治るのか」
答えが出るまでに時間がかかった。
分からない。
本当に分からない。
ここで希望だけを言えば、セラはたぶん信じる。
でも、それをしたら。
分かっていないものを、勝手に埋めることになる。
「……分かりません」
セラは右手を下ろした。
「そうか」
それだけだった。
怒らなかった。
何かを決めることもしなかった。
いつものセラなら、もう次の話をしている。
南へ行く。
治す。
戦う。
何でもいい。
必ず次を決める。
でも今は、何も言わなかった。
その沈黙が、苦しかった。
「セラ」
「何だ」
「俺、まだ調べます」
返事はない。
「原因も。負担を減らす方法も。戻せる方法があるなら、それも探します」
「そうか」
「だから――」
「トーマ」
遮られた。
セラの目は、もう俺を見ていなかった。
天井へ向いている。
しばらく、そのまま何も言わなかった。
そして。
「少し、一人にしてくれ」
俺はすぐには動けなかった。
何か言わなきゃいけない気がした。
でも、どんな言葉も違う気がした。
「……分かりました」
机の上の紙をそのままにして、扉へ向かう。
開ける前に、一度だけ振り返った。
セラは天井を見たままだった。
俺は何も言わず、部屋を出た。
扉を閉める。




