第四十話 空欄にはしない
裁定官が槌を置いても、被告人は立ち上がらなかった。
「故意の放火、およびそれに伴う主任殺害について、被告人を無罪とする」
もう一度告げられて、ようやく顔が動いた。
裁定官を見上げ、何か言おうとして口を開く。声は出なかった。膝の上にあった両手がゆっくり持ち上がり、そのまま顔を覆った。
リゼットは筆を止めた。
泣いているのかもしれない。
けれど、ここから涙は見えない。
裁定の文言を書き終えてから、筆を置いた。指がうまく離れず、一本ずつ柄から剥がすことになった。
傍聴席で椅子が鳴る。
閉ざされていた扉が開き、廊下の足音が入ってくる。
そこでようやく、終わったのだと分かった。
向かいの席は、もう空だった。
リゼットは書板を抱えて立ち上がった。
―――
「カルド」
回廊の先で、黒い外套が揺れた。
聞こえない距離ではない。
それでも歩調が緩まなかったので、リゼットは人の間を抜け、少し声を張った。
「負けたから逃げるんですか」
外套の裾が止まった。
振り返ったカルドは、法廷にいた時と同じ顔をしていた。
組んだ手の親指だけが、小さな円を描いている。
「お前と話すことがないだけだ。それに勝った側の話は長い。先に言っておく」
「まだ何も話していません」
「だから先に言った」
リゼットは目の前まで来ると、書板から一枚抜き出した。
『魔力収支差異に関する継続観測報告』
火災で亡くなった主任が、生前に提出していた報告書だった。
何度も証拠として開かれたせいで、紙の端が柔らかく反っている。
「最後に、これを被告人が読んでいたとは言いませんでしたね」
カルドの視線が紙へ落ちた。
「読んでいたのか」
「分かりません」
「なら、言えない」
「でも、あなたなら言わずに使えた」
カルドが顔を上げた。
リゼットは報告書を下げなかった。
「主任との口論。旧経路図の無断複写。処分される可能性。その隣に、この報告を置く」
あの法廷で並んでいた事実を、もう一度口にする。
「被告人は、主任が異常を掴んでいたことを知っていたのではないか、と」
「そこから遮断器へ戻す」
カルドが続きを取った。
「危険を知った上で三箇所を操作した。事故を起こすために。主任を黙らせるために」
淀みがなかった。
「最後に、過去の改ざんを置く。都合の悪い記録を触ったことがある人間だ、と」
リゼットの指先で紙が鳴った。
「……そこまで考えていたんですね」
「使えるものは全部見る」
「なのに、使わなかった」
「被告人がこの報告を知っていたという裏づけがない」
「読んだとは言わなくても」
「言える」
カルドはあっさり認めた。
「報告が出ていた。被告人は主任と争っていた。旧経路図を持っていた。そこまで置いて、あとは裁定官に考えさせればいい」
「なら――」
「だが、それをやれば」
カルドの指が報告書の端を示した。
「ここにない一行が、あるように見える」
リゼットは黙った。
「被告人は報告を知っていた」
カルドが言う。
「その一行は、ここにはない」
親指が一周する。
「順番は変えられる」
もう一周。
「材料は増やせない」
廊下を二人の書記官が通り過ぎた。
紙束の擦れる音が遠ざかる。
リゼットは手元の報告書を見た。
主任が異常を報告した。
それはある。
被告人がそれを読んだ。
それはない。
「負けると思っていたんですか」
カルドの眉が僅かに動いた。
「何がだ」
「この裁判です」
「思っていたら受けない」
返事は早かった。
リゼットが顔を上げる。
「受ける前に、どこまで取れるかは見る。取れないと思えば断る」
「今回は?」
「故意まで届くと見た」
「では、見誤った?」
「途中で材料が変わった」
リゼットの目が細くなる。
「材料は増やせないと言ったばかりです」
「私が勝手に増やせないだけだ」
カルドは少し面倒そうに答えた。
「現場まで黙れとは言っていない」
火災前から熱を持っていた東壁。
今の設備図には載っていなかった旧経路。
何度も同じ操作が行われ、それまで火災が起きていなかった記録。
主任が残した報告。
裁判が進むほど。
最初から揃っていたように見えた形の中へ、別の事実が入ってきた。
「受けた時には、取れると思った」
カルドは言った。
「途中で取れなくなった。それだけだ」
「それでも最後まで有罪へ持っていこうとした」
「請求人側に立っている」
当然のことのように言った。
「受けた仕事を、途中で気分に合わせて変える方がおかしい」
「でも、最後の一行を足せば、まだ届いたかもしれません」
「それは私の流儀ではない」
カルドの声が、少しだけ低くなる。
「私が作った事件だ」
リゼットは報告書の端を見た。
握ったところに浅い皺がついている。
「一度でそれで勝ってしまったら」
「次もやる」
「次は、もっと上手くやる」
「……自信がありますね」
「ある」
カルドは否定しなかった。
「だから、最初からやらない」
リゼットはしばらく何も言わなかった。
きれいな人ではない。
正義のためでもない。
被告人を救いたかったわけでもない。
勝つつもりで仕事を受けた。
最後まで勝とうとした。
その上で。
自分が足したものでは勝たない。
「これで用は済んだか」
カルドが身を返しかけた。
「いいえ」
リゼットは報告書を書板へ戻した。
「その指のことが、まだです」
カルドの足が止まる。
親指の円だけが、僅かに遅くなった。
「指?」
「初めて会った時から気づいていました。考えている時、ずっと回していますよね」
「人の癖がそんなに珍しいか」
「珍しいかは知りません」
リゼットは組まれた手を見る。
「でも、向きが変わることがあります」
カルドの親指は、また同じ速さに戻っていた。
「通常運用の記録を出した時です」
「何の話だ」
「同じ操作は、それまでにも何度も行われていた。なのに、今回だけ燃えた」
法廷で自分が開いた記録を思い出す。
「今回だけ燃えた理由が、別に必要ですと私が言った時」
リゼットは親指を見る。
「逆へ動きました」
カルドの目が止まった。
「それが何だ」
「考え直したのだと思いました」
「思った?」
言葉を返されて。
リゼットは黙った。
一瞬。
意味が分からなかった。
次の瞬間。
自分で言った言葉が、そのまま戻ってきた。
見たのは親指が、それまでとは逆へ動いたこと。
そのあとカルドが、別の資料へ手を伸ばしたこと。
それだけだ。
その二つの間へ。
『考え直した』
と置いたのは。
自分だった。
「……はい」
口の中が乾いた。
「思いました」
カルドは何も言わない。
リゼットは親指から視線を外した。
「確認していません」
「今さら気づいたか」
「はい」
言い訳はしなかった。
「私は、あなたの指の動きから、あなたの迷いを読んだつもりになっていました」
「それで次を警戒した」
「はい」
「だが当たった」
「それでも」
リゼットは首を横へ振った。
「当たったことと、確認したことは別です」
今度は。
カルドが黙った。
リゼットは書板を抱え直した。
革の縁が汗ばんだ掌へ貼りつく。
「……馬鹿ですね、私」
「急にどうした」
「同じことをしていました」
「何と」
「事実と事実の間へ、自分で意味を置いた」
カルドの眉が僅かに上がる。
「私が止めようとしていたことです」
口にすると。
思ったより重かった。
法廷で何度も。
そこは確認されていない。
そこから先は推論だ。
そう言ってきた。
それなのに。
自分は、相手の指一つでその先を読んだ。
しかも、それを武器にしていた。
「でも」
カルドが言った。
「使ったんだろう」
リゼットが顔を上げる。
「私の次を読むために」
「……はい」
「なら、愚かというほどでもない」
「慰めですか」
「違う」
カルドは初めて、自分の右手へ目を落とした。
親指はまだ回っている。
「私も知らなかった」
「何をです」
「向きまで変わっていたことを」
リゼットが瞬いた。
「気づいていなかったんですか」
「回しているのは知っている」
カルドは親指を一周させる。
「指を回していると思考をまとめやすい。ただそれだけだと思っていた」
もう一度。
今度は意識しているのか。
途中で止めた。
逆へ。
ほんの僅かに返す。
自分の手を見ながら。
カルドが小さく息を吐いた。
「……なるほど」
「何ですか」
「これはまずいな」
「今さらですか」
「今さらだ」
カルドは手を下ろした。
「次から直す」
「え」
「見られていると分かった癖を、そのまま残す理由がない」
あまりに当然のように言うので。
リゼットは一瞬、返事が遅れた。
「それは困ります」
「知るか」
「私が読めなくなるじゃないですか」
「別のものを見つけろ」
リゼットはカルドを見る。
カルドもこちらを見ていた。
「今日のお前なら、それくらいするだろう」
言われて。
胸の奥で何かが動いた。
褒められたとは思わなかった。
たぶん。
カルドも、そんなつもりではない。
ただ。
次も同じ場所に立つことを、当然のように言われた。
「……見つけます」
「そうしろ」
「今度は言いません」
「それが普通だ」
「今回は言ってしまいました」
「愚かだな」
リゼットが睨む。
「さっきは、愚かというほどでもないと言いました」
「それとこれは別だ」
腹が立った。
けれど。
少しだけ。
笑いそうにもなった。
「あなた、本当に嫌な人ですね」
「ようやく分かったか」
「最初から分かっています」
カルドが鼻から短く息を抜いた。
それから今度は少しだけ真顔になる。
「だが」
リゼットを見る。
「お前がそれを見ていたなら、話は別だ」
「何がですか」
「私が思っていたより、ずっと面倒だった」
「それは褒めていますか」
「好きに取れ」
「確認できません」
「なら未確認で残せ」
返された。
リゼットは口を閉じた。
カルドの口元が僅かに歪む。
今度こそ。
負けた気がした。
「それでも」
リゼットは言った。
「今日は、私が勝ちました」
親指が止まった。
「……そこへ戻るのか」
「戻ります」
「しつこいな」
カルドがしばらくリゼットを見る。
逃げなかった。
書板はまだ少し震えている。
怖くなかったことにするつもりもない。
法廷で何度も追い詰められた。
自分が残した記録を使われた。
一つ崩しても。
別の順番で繋ぎ直された。
それでも。
最後まで事実を捨てなかった。
「あなたが出したものは、一つも消していません」
リゼットが言った。
「口論も」
「ああ」
「旧経路図の複写も」
「ああ」
「改ざんも」
「ああ」
「全部、残しました」
「知っている」
「その上で」
息を吸う。
「殺したという結論だけは、通しませんでした」
カルドの親指は。
まだ止まったままだった。
「だから」
リゼットは言った。
「教える側の顔で帰らないでください」
カルドの眉が寄る。
「ちゃんと負けてください」
しばらく。
何も返ってこなかった。
回廊の向こうで扉が開く。
外から荷車の車輪の音が入ってきた。
通りかけた書記官が二人を見て、何も言わずに歩調を速める。
やがて。
カルドが組んでいた手をほどいた。
「……私の負けだ、リゼット」
聞き落としようのない声だった。
リゼットは返事をしようとした。
けれどすぐには出なかった。
裁定が出た時に勝ったことは分かっていた。
なのに。
足に溜まっていた力が抜けたのは。
今だった。
「……はい」
それだけ答えた。
カルドが眉を寄せる。
「言わせた割に、嬉しそうではないな」
「嬉しいです」
「そうは見えない」
「顔だけで決めないでください」
一拍。
カルドが黙った。
リゼットの口元に、ようやく小さな笑みが戻った。
「あなたのやり方は、やっぱり嫌いです」
「私も、お前の仕事には何度も腹が立った」
「それは嬉しいです」
「今度は顔で分かる」
「さっき注意したばかりですが」
「これは推測だ」
「……そうですか」
「たぶん当たっている」
「当たったことと、確認したことは別です」
「面倒だな」
「あなたが言ったんです」
カルドは何も返さず、歩き出した。
今度はリゼットは追わなかった。
「請求人には、何と伝えるんですか」
背中へ聞く。
「失敗したと」
「報酬は?」
「ない」
あまりにあっさりしていて。
リゼットは少し驚いた。
「途中までは、ほとんどあなたの主張が通っていたのに」
「途中まで勝て、という契約ではない」
「請求人は怒りますよ」
「知っている」
「嫌じゃないんですか」
カルドが扉の前で止まった。
「嫌に決まっている」
「そこは普通なんですね」
「お前は私を何だと思っている」
「嫌な人です」
「さっき聞いた」
カルドが扉の取っ手へ手を伸ばした。
その途中で右手を止める。
リゼットへ見せるように親指は動いていなかった。
「次は」
声が変わった。
法廷で被告人の逃げ道を一つずつ潰していた時と同じ声だった。
「これは使えないぞ」
リゼットの笑みが消える。
「もう直したんですか」
「意識すれば止められる」
「……ずるいですね」
「対策だ」
「では」
リゼットは書板を抱え直した。
「別のものを見つけます」
「見つけろ」
「今度は、今日より早く」
「無理だな」
「まだ始まっていません」
「だから言える」
リゼットが息を吸う。
「覚えておいてください」
カルドが半分だけ振り返った。
「何を」
「今日」
リゼットは言った。
「一度は、間に合ったことを」
カルドは何も言わなかった。
ただ止めていた親指が。
ほんの一度だけ動いた。
どちらへ動いたのか。
リゼットは見なかった。
もうそこへ意味を足さない。
「……次は見るなよ」
「嫌です」
「即答か」
「見ます」
「そうか」
カルドの口元が、僅かに歪んだ。
「なら、好きにしろ」
扉が開く。
差し込む光の中へ黒い外套が出ていく。
重い蝶番の音とともに。
見えなくなった。
―――
記録机へ戻ると、若い書記官が綴じ紐を手に待っていた。
「リゼットさん。ここだけ確認をお願いします」
差し出された用紙には、主任の報告についての記載があった。
『被告人による事前認識』
その欄だけが。
空いている。
「読んでいたかどうか、結局分からなかったんですよね」
「はい」
「では、空欄で綴じても?」
リゼットは椅子を引いた。
主任の報告書を机へ置く。
証拠記録を一枚ずつめくった。
もう一度。
確かめる。
被告人が報告を読んだという記録はない。
誰かが見せたという証言もない。
内容を事前に知っていたと確認できるものもない。
だから読んだとは書けない。
同時に読んでいないとも確認できていない。
「筆を貸してください」
「はい」
渡された筆は、自分のものより少し太かった。
空いていた欄へ筆先を置く。
『未確認』
その下へ続ける。
『当該報告を被告人が事前に認識していたことを裏づける証拠は、確認できず』
書き終える。
若い書記官が横から覗き込んだ。
「知らなかった、とは書かないんですね」
「そこまでは分かっていませんから」
「でも、これなら」
書記官が『未確認』の文字を見る。
「あとから、勝手に読んでいたことにはされにくいですね」
リゼットの筆が止まった。
「……それは」
書記官がこちらを見る。
「私が、そう考えているだけです」
「え?」
「後から誰がどう読むかまでは、確認できません」
書記官は少し困った顔をした。
「そこまで分けるんですか」
リゼットは一瞬だけ黙った。
回廊で。
逆へ動く親指を見た。
そのあとに続いた行動を見た。
そこへ自分で意味を入れた。
「……分けます」
今度は迷わなかった。
「分からなかったなら、分からなかったと残します」
書記官が紙を見る。
「空欄では駄目なんですか」
「空欄では」
リゼットも同じ場所を見る。
「なぜ何も書かれていないのか、それも分かりません」
調べなかったのか。
書き忘れたのか。
消されたのか。
確かめたけれど分からなかったのか。
空白は何も言わない。
だから後からいくらでも意味を置ける。
リゼットは書き終えた一文を、最初から読み直した。
『未確認』
読んだとも。
読んでいないとも。
それ以上のことは。
今ここにはない。
消す文字はなかった。
筆先を、その一行の下へ移す。
記録者の欄に自分の名を書いた。




