第三十九話 南へ行け
天井から、砂が落ちた。
最初は細い筋だった。
それが二つ、三つと増え、亀裂の隙間から途切れなく零れ始める。
《支柱――亀裂拡大》
続いて。
《上部荷重――偏在》
まずい。
セラの踏み切りで床が割れたことだけが原因じゃない。
壁に固定されていた執行具は何本も引き抜かれている。古い刑台は砕け、その背後の石壁にも大きな亀裂が走った。
ずっと荷重を受けていた場所が、あちこちで支えを失っている。
残った支柱へ。
重さが集まっていた。
「セラ、伏せて!」
叫んだ直後。
支柱の中央を走っていた亀裂が、一気に下まで伸びた。
《主支持部――破断》
石と石が擦れ合う。
低い音だった。
けれど。
地下全体が鳴った。
セラが上を向く。
天井が落ちた。
大きな石板が斜めに崩れ、その端が石床へ突き刺さる。
遅れて、周囲の石材がまとめて外れた。
「セラ!」
砂埃が広がった。
視界が消える。
俺は頭を庇いながら壁際へ飛び込んだ。
肩へ石片が当たる。
もう一度。
床が跳ねた。
目の前へ天井石が落ちる。
「セラ!」
返事がない。
俺は砂埃の中へ入った。
数歩で止まる。
無理だ。
さっきまで何もなかった場所が、崩れた石で完全に塞がれている。
人の背丈より高い。
幅もある。
正面からは抜けられない。
「セラ!」
石へ手をかけた。
《支持荷重――集中》
すぐに手を離す。
上から落ちた大きな石板が、斜めになったまま今の石へ乗っている。
ここを抜けば。
上まで来る。
「セラ!」
少し遅れて。
「……聞こえている」
瓦礫の向こうから声がした。
息を吐いた。
「動かないでください!」
「言われなくても無理だ」
声はセラだった。
でも。
弱い。
俺は正面を諦めて壁際へ移った。
何かあるはずだ。
ここは古い執行施設だ。
壁の中に刑具を通していたなら。
点検するための経路もあったはずだ。
壁を見る。
《構造壁――支持中》
違う。
その横。
半分埋まった古い石積み。
《閉塞部――支持荷重なし》
さらに奥。
薄く表示が重なる。
《旧点検路――残存》
「あった」
石積みの前へ膝をつく。
ここなら壊せる。
天井の荷重を受けていない。
全部外す必要もない。
俺一人が通れるだけでいい。
床に落ちていた鉄環を拾う。
石と石の目地へ差し込んだ。
力をかける。
古い目地が砕けた。
一個。
二個。
石を外すたびに表示を見る。
《支持荷重――変化なし》
まだいける。
「待っててください」
向こうから返事はなかった。
俺は手を止めなかった。
―――
崩落した側では。
一枚の大きな石板が、折れた支柱へ引っかかって斜めに止まっていた。
その根元。
ゼインの腰から下が、崩れた石と鉄具の間へ挟まれている。
全身を砕かれた身体で。
そこから抜け出せるはずもなかった。
背中だけを石板へ預けている。
少し離れたところでは。
セラも同じ石板へ右肩を預けて座っていた。
剣は右手にある。
左腕は垂れたまま。
胸は。
息を吸うたびに僅かに動くだけだった。
しばらく。
二人とも喋らなかった。
石の向こうから。
硬いものが石を削る音がする。
一つ外れる。
少し間を置いて。
また一つ。
ゼインがそちらへ顔を向けた。
「……あいつ」
セラは視線だけを寄越した。
「よう見えとるな」
「トーマか」
「ああ」
石が一つ転がる音。
ゼインはそれを聞いていた。
「正面の石、触った瞬間に手ぇ引いた」
セラは答えない。
「今度は横掘っとる」
もう一つ。
石が外れる。
「壁ん中まで見えとんのか」
「《不具合鑑定》だ」
「名前の話ちゃう」
セラの右手。
剣の柄を握る指が、僅かに動いた。
ゼインはその手を見た。
それ以上。
トーマの話は続けなかった。
代わりに。
「空座は、お前を調べとる」
セラの青灰色の瞳が戻る。
「私を?」
「ああ」
「なぜだ」
ゼインが息を吸う。
途中で止まり。
浅く吐いた。
「やっと見つけた鍵やからな」
セラの返事が遅れた。
「……鍵」
「俺がお前の昔を見たわけちゃうで」
ゼインは先に言った。
「会ったんも今日が初めてや」
「なら何を知っている」
「調べた奴がおんねん」
「誰だ」
「そういう仕事する奴や」
「空座にか」
「ああ」
ゼインは目を閉じた。
「どこにおった。誰が近くにおった。どこへ連れて行かれた。誰が出入りしとった」
そこで一度。
息を整える。
「そういうの拾う奴がおる」
「それを空座で共有している?」
「全部ちゃう。俺に回ってきた分だけや」
セラは黙った。
ゼインも。
余計なことは足さなかった。
石の向こうから。
また音がした。
「その中にな」
ゼインが言う。
「王国側の人間もおった」
「何の話だ」
「お前を見とる奴や」
セラの瞳が止まる。
「誰だ」
「カイ」
ほんの少し間を空けて。
「マレク」
今度は。
石の向こうの音まで遠く感じるほど、沈黙が落ちた。
セラの右手が。
剣の柄から離れた。
「根拠は」
声は変わっていない。
「お前が神造兵器とやり合った後だけ増える連絡」
ゼインが言う。
「行き先も何回か拾っとる」
「何を報告している」
「そこまでは掴めてへん」
「監視だというのは?」
「そこは、ほぼ間違いない」
「目的は」
「知らん」
すぐだった。
セラが見ている。
「知らない?」
「ああ」
「では――」
「監視しとることと、何のために見とるかは別やろ」
ゼインが掠れた息を吐く。
「俺が持っとるんは前の方だけや」
セラはそれ以上聞かなかった。
石の向こうから。
石が外れる。
一つ。
もう一つ。
やがて。
「……トーマもか」
セラが聞いた。
ゼインは少しだけ目を動かした。
「そこは知らん」
「知らないなら――」
「せやから、知らん」
声は弱かったが。
言い切った。
「ただ」
ゼインが瓦礫の向こうへ顔を向ける。
「あいつ、お前の横に置いとくには都合よすぎる」
セラは答えない。
「壊れる前に見つける」
少し息を吸う。
「傷んだら分かる」
もう一度。
「神造兵器にも通る」
途中で咳き込んだ。
口元に血が滲む。
「これは俺の推測や」
セラの瞳がゼインへ戻った。
「でも」
ゼインは石の向こうを顎で示した。
「そんなあいつには」
一拍。
「何が見えてんのやろうな」
セラの指が。
一度だけ動いた。
それから。
視線が瓦礫の向こうへ向く。
トーマがいる方へ。
硬いものが石を削る。
少し間を置いて。
また一つ外れる。
セラがゼインへ視線を戻す。
「俺が知っとるんは、そこまでや」
「なら、そこまでで話せ」
ゼインの口元が僅かに動いた。
「……ほんま、その言い方好きやな」
「何だ」
「いや」
ゼインは目を閉じた。
「その方がええ」
少しの間。
誰も喋らなかった。
天井から。
細かな砂だけが落ち続ける。
やがて。
ゼインが目を開いた。
「南へ行け」
セラが顔を向ける。
「南?」
「ああ」
「何がある」
「空座の調べ屋が」
呼吸を挟む。
「そっちで一個拾っとる」
「何を」
「の話や」
セラの瞳が止まった。
「どの神造兵器だ」
「そこまでは聞いてへん」
「……またか」
「しゃあないやろ」
ゼインが小さく息を吐く。
「それと」
「まだあるのか」
「お前の名前も出とる」
セラの表情が。
ほんの僅かに変わった。
「私の?」
「ああ」
「何が」
「知らん」
今度は。
セラがしばらくゼインを見た。
「それで南へ行けと?」
「行ったらええやろ」
「理由になっていない」
「お前」
ゼインが苦しそうに息を吸った。
「知りたいんちゃうんか」
セラは答えない。
「自分のこと」
天井から落ちた砂が。
セラの髪へ一筋ついた。
ゼインが言う。
「南や」
淡い灰色の瞳が。
セラを見る。
「お前の知りたいこと」
少し間を置く。
「そこにあるかもな」
「なぜ私に教える」
今度は。
ゼインが黙った。
目だけが。
セラを見ていた。
「空座の役目か」
「……半分くらい」
「残りは」
ゼインの口元が。
ほんの少しだけ上がる。
「今日」
言葉の途中で息が切れる。
それでも続けた。
「お前、見てしもたからや」
「意味が分からん」
「俺もよう分からん」
ゼインは天井へ目を向けた。
「ただ」
また。
セラへ戻す。
「次、何選ぶんか」
一呼吸。
「ちょっと見たなった」
セラは何も言わなかった。
「見届けたいなら、生きろ」
「無茶言うな」
「私に峰打ちされた程度で死ぬな」
ゼインの喉から。
掠れた笑いが一つ漏れた。
「程度て」
それが。
最後の笑いだった。
上から。
小さな石が落ちる。
ゼインの肩へ当たり。
そのまま床へ転がった。
セラが上を見る。
斜めに止まっている石板の上。
新しい亀裂が走っていた。
位置は。
ゼインの真上。
「ゼイン」
セラが剣を放した。
右手を床につく。
身体を引きずるようにして近づいた。
「おい」
「黙っていろ」
ゼインの脇にある瓦礫へ右手をかける。
押す。
動かない。
もう一度。
肩を入れる。
胸が止まったように。
セラの身体が一瞬固まる。
それでも。
手を離さない。
「やめとけ」
「黙れ」
「その身体で無理や」
「うるさい」
石は動かなかった。
ゼインの腰から下へ。
完全に噛み込んでいる。
セラは位置を変えた。
白い外套の胸元を掴む。
「引くぞ」
「骨、もうまともに残ってへんで」
「知るか」
右腕だけで引く。
ゼインの身体が。
ほんの僅かにずれた。
顔が歪む。
それでも声は出さなかった。
もう一度。
セラが引く。
今度は。
上半身が少し動いた。
だが。
腰から下は抜けない。
「……ほんまに」
ゼインが言った。
「何だ」
「助けるんやな」
セラは外套を握り直した。
「当たり前だ」
もう一度。
引く。
左腕は動かない。
右脚も震えている。
呼吸するたび。
身体が僅かに崩れる。
それでも。
手は離さなかった。
瓦礫の向こうから。
声が響いた。
「セラ!」
トーマ。
「そこから離れて! 上が落ちます!」
セラは振り返らない。
「もうええ」
「まだだ」
「セラ」
「黙れ!」
上の石板が動いた。
今までとは違う。
目で分かるほど。
大きく。
ゼインが上を見る。
次に。
自分の外套を掴んでいるセラの手を見る。
残っていた指が。
ゆっくり動いた。
セラの手首へ触れる。
「何を――」
押した。
ほんの僅かな力だった。
普段のセラなら。
動くはずもない。
けれど。
今は違った。
胸に痛みが走ったのか。
セラの腕から一瞬だけ力が抜ける。
外套が手から滑った。
「ゼイン!」
セラの身体が横へ崩れた。
その瞬間。
天井が落ちた。
轟音。
巨大な石塊が。
ゼインのいた場所へ叩き落とされる。
砂埃が噴き上がった。
セラが腕で顔を庇う。
しばらく。
何も見えない。
「ゼイン!」
咳き込みながら這う。
その先は。
もう近づける状態ではなかった。
石。
鉄。
砕けた刑台。
全部が重なっている。
瓦礫の隙間から。
白い外套の端だけが覗いていた。
「ゼイン」
返事はない。
セラが手を伸ばす。
届かない。
指先が。
空を掻いた。
「おい」
もう一度。
届かない。
セラの右手が。
ゆっくり下りた。
―――
「抜けた」
最後の石を外した。
奥に暗い空間が開く。
身体を横にすればどうにか通れる。
《旧点検路――閉塞解除》
俺は鉄環を捨てた。
隙間へ身体を滑り込ませる。
狭い。
肩が石へ擦れる。
途中で腰が引っかかった。
息を吐く。
身体を捻る。
抜けた。
数歩進む。
行き止まり。
いや。
壁が薄い。
《旧点検路壁――支持荷重なし》
手を当てる。
目地が崩落の衝撃で割れている。
石を一つ外した。
二つ。
三つ。
向こうから僅かに光が差した。
「セラ!」
穴を広げる。
肩を押し込む。
石が服へ食い込む。
無理やり身体を抜いた。
「セラ!」
すぐに見つけた。
大きな石板へ背を預けるようにセラが座り込んでいる。
剣は手から離れていた。
左腕は垂れたまま。
顔色が悪い。
呼吸も浅い。
俺は駆け寄り、膝をついた。
《左肩――深部損傷》
《胸郭――複数箇所損傷》
《右側腹部――損傷》
《呼吸負荷――上昇》
《全身負荷――限界》
見える。
どこが壊れているかは分かる。
でもどう触れば傷を増やさずに済むかまでは出ない。
左肩は駄目だ。
胸も圧迫できない。
右の脇腹にも損傷がある。
「セラ」
青灰色の瞳がゆっくりこちらを向いた。
焦点が合うまで少し時間がかかった。
「聞こえますか」
「……ああ」
声が掠れている。
「もう喋らなくていいです」
右側へ回る。
左肩へ触れないように背中と右肩を支える。
その時セラの瞳が俺の顔で止まった。
長い。
いつもより明らかに長かった。
「……トーマ」
「はい」
「お前……」
続きは出なかった。
唇だけが僅かに動く。
「セラ?」
青灰色の瞳が揺れる。
俺を見て何かを言おうとして。
止まる。
身体が傾いた。
「セラ!」
受け止める腕の中で。
一気に力が抜けた。
「セラ、聞こえますか」
返事はない。
呼吸を確認する。
浅い。
でも。
ある。
俺は身体を支え直した。
左肩を潰さない。
胸を締めつけない。
右側にも体重をかけすぎない。
少し向こう崩れた瓦礫が見えた。
石の隙間から白い布が僅かに出ている。
誰のものか聞く必要はなかった。
俺は一度だけそちらを見た。
それから腕の中のセラへ視線を戻す。
今はこっちだ。
「……帰りましょう」
聞こえているかは分からない。
セラは答えなかった。
青灰色の瞳も、もう開かなかった。




