第三十八話 正解の外側
「私が選ぶ」
セラはそう言って、剣を持ち直した。
右手の中で刃を返す。
逆手。
両足を肩幅ほどに開き、腰を僅かに落とす。
左腕が動いた。
さっきまで垂れたままだった腕を、痛みに耐えながらゆっくりと持ち上げる。指を開き、その掌を右手が握る柄の先へ当てた。
その形を見た瞬間、胸の奥に何かが引っかかった。
見たことがある。
ヴァルガルドを前にした時だ。
あの時、セラは一度だけ剣を逆手に持ち替え、足を広げた。左手も柄へ向かった。
けれど、完成する前にやめた。
俺がヴァルガルドをなるべく傷つけないでくれと頼んだからだ。
あれが。
この構えだったのか。
ゼインも気づいたらしい。
淡い灰色の瞳が大きく開いた。
右足。
左足。
腰。
逆手に持った剣。
柄の先へ添えられた左の掌。
視線が何度も往復する。
《拘束条件――照合》
何も現れなかった。
ゼインの右手が鎖へ伸びる。
途中で止まった。
「……?」
ゼインが自分の手を見る。
指は動いている。
鎖にも届く。
それなのに、その先へ身体がついていかない。
「なんや」
右足へ力を込めた。
踏み出さない。
「……動けや」
吐き捨てるような声だった。
それでも、目はセラから離れない。
足。
腰。
剣。
左の掌。
初めて見るものを、一つ残らず拾おうとするように動き続けている。
対するセラの瞳は、まるで違った。
青灰色。
冷たい色の奥に迷いはない。
ゼインの鎖を見ない。
逃げ道も探さない。
ただ、ゼインだけを見ている。
一点から、まったく動かない。
その構えを見ているうちに。
俺は昔の会話を思い出した。
―――
野営地で、俺はセラの剣を眺めながら聞いたことがある。
「セラって、必殺技とかないんですか?」
薪を火へ入れていたセラの手が止まった。
「ある」
「あるんですか?」
もっと馬鹿にされると思っていたから、逆に驚いた。
「見たことないですけど」
「使わんからな」
「何でです?」
「遅い」
「……セラが?」
「技がだ」
セラは焚き火へ目を向けたまま答えた。
「構えに時間がかかる。使える状態まで持っていくにもな」
「それ、実戦で使えないんじゃ」
「だから使わん」
「じゃあ、何で覚えたんです?」
少しだけ返事が遅れた。
「師匠に叩き込まれた」
「師匠いたんですか」
「ああ」
「どんな人です?」
セラは火の向こうを見た。
「……剣に関しては、うるさい人だった」
「名前は?」
今度は、もう少し間があった。
「そこまで知ってどうする」
「気になるじゃないですか」
「寝ろ」
「誤魔化しました?」
「寝ろ」
結局、それ以上は教えてくれなかった。
その時は、昔のことを話したくないのだろうと思った。
―――
「違う」
木剣が飛んだ。
まだ幼いセラは、地面へ落ちた剣を見下ろした。
「何がだ」
「全部だ」
師匠が言った。
「足を開け」
セラは木剣を拾って立つ。
「広すぎる」
足を閉じる。
「狭い」
「どっちだ」
「肩幅だ」
「最初からそう言え」
「口だけは一人前だな」
セラが睨む。
「右手で返せ」
言われた通り、刃を返した。
「逆手?」
「ああ」
「斬りにくい」
「まだ斬るな」
師匠がセラの左手を取った。
開いた掌を、柄の先へ当てる。
「ここだ」
「何の意味がある」
「今は知らなくていい」
「なら教えるな」
「身体に入れろ」
何度も繰り返した。
足の位置を直される。
腰を叩かれる。
肩を押し戻される。
剣を落とす。
拾う。
また構える。
何度やっても、すぐには次へ進ませてもらえなかった。
やがて、師匠が言った。
「この技は時間がかかる」
セラが睨む。
「なら使えん」
「そうだ」
「……何のために覚える」
師匠は笑った。
「使わずに勝てるなら、それでいい」
「なら――」
「だが」
言葉が重なった。
師匠は、セラの握る柄の先を指した。
「どうしても届かせなければならない時が来たら、ここへ戻れ」
セラは黙る。
「お前の力は、この技を選ばん」
「《完全適合》が?」
「ああ。遅すぎるからな」
「なら、間違った技だ」
「そうかもしれん」
否定しなかった。
ただ最後に、師匠は言った。
「それでも、剣を握っているのはお前だ」
―――
「セラ」
トーマの声で、現在へ引き戻された。
「離れろ」
「どれくらいです?」
「できる限りだ」
冗談を言っている声ではなかった。
俺は走った。
十歩。
二十歩。
もっと離れる。
背後では、セラがまだ動いていない。
途中で異変に気づいた。
音が遠い。
靴が石床を叩いているはずなのに、ほとんど聞こえない。
自分の呼吸さえ遠ざかっていく。
代わりに耳の奥で、細い音だけが鳴っていた。
キィ――――ン。
一歩。
二歩。
身体は走っている。
なのに、妙に遅く感じる。
足が床へ着くまでが長い。
腕を振る動きまで、引き延ばされて見えた。
何だ。
これ。
一瞬だけ。
胸の奥が冷えた。
知っている。
そんな感覚がした。
どこかで。
以前にも。
だが、思い出そうとした瞬間、その感覚は指の間から抜け落ちるように消えた。
「トーマ!」
セラの声だけが、はっきり届いた。
「もっと離れろ!」
考えるのをやめた。
走る。
さらに離れてから振り返った。
セラの周囲で砂が動いていた。
風が吹いているわけじゃない。
足元の細かな砂が、セラを中心にしてゆっくり外側へ流れている。
小さな石片が震える。
俺の服の裾まで、背後から押されるように強く揺れ始めた。
ゼインはまだ動いていなかった。
「……おい」
右手は鎖を握っている。
踏み出そうとする。
右足が僅かに浮く。
だが、そのまま石床へ戻った。
「もうええ」
もう一度、力を込める。
「見んでええって」
誰に言っているのか。
俺には分からなかった。
「動け言うとるやろ」
目だけがセラを見続けている。
ゼイン自身は逃げようとしている。
身体も、その命令に従おうとしている。
それでも。
《証言》が未知の動きを見逃すことを許していない。
「ゼイン」
セラが呼んだ。
「……何や」
「必殺技の意味を知っているか?」
ゼインの眉が動く。
「急に何の話や」
「そのままの意味だ」
青灰色の瞳が、ゼインを射抜く。
「さっき必殺と言っていたのでな。お前に教えといてやる。必殺とは相手を必ず殺すために放つ技だ」
ゼインの口元から笑みが消えた。
「だからなんや?」
鎖を握る指へ力が入る。
「俺を殺せるいうんか?」
「そうだ」
即答だった。
ゼインの喉が動いた。
「……それは面白ないわ」
セラは答えない。
足元で小さな音がした。
一本の亀裂が、石床を走る。
ゼインが右足を引こうとした。
動かない。
「……ふざけんな」
力任せに鎖を引いた。
腕は動く。
鎖も鳴る。
それなのに、身体はその場へ残った。
視線だけが外れない。
「動けや!あいつ殺されへんやろ!」
《証言》は答えない。
身体も動かなかった。
「……やめろ」
初めて、ゼインの声に焦りが混じった。
セラが息を吸う。
深く。
ゆっくりと。
「王国騎士セラ・ヴァルク」
足元の亀裂が増えた。
「名をここに置く」
砂が一斉に外へ流れる。
「――剣の向こう側で」
ゼインの目が限界まで開かれる。
対するセラの青灰色の瞳は。
最後まで揺れない。
「神さえ知らぬ結末を見せてやる」
踏み切った。
石床が爆ぜた。
セラの足元から太い亀裂が放射状に走る。
何枚もの石板が持ち上がり、砕け、跳ね上がった。
なのに。
音がない。
少なくとも、俺の耳には届かなかった。
セラだけが消えた。
本当に。
そこから切り取られたように。
残ったのは粉々になった踏み切り跡と、舞い上がる砂だけだった。
ゼインの見開かれた目が、消えたセラを追おうとする。
追えない。
鎖が持ち上がる。
遅い。
右へ避けようとする。
遅い。
後ろへ跳ぼうとする。
それも。
遅い。
次の瞬間には。
セラはゼインの懐にいた。
「必殺――」
逆手の剣が走った。
「極限剣――天外」
刃が届く。
その寸前。
セラの手首が返った。
峰。
それが、ゼインの胴へ叩き込まれた。
音は。
まだ来なかった。
最初に見えたのは。
壊れるゼインの身体だった。
胸が大きく沈む。
両肩が跳ね上がる。
胴が折れた。
腰だけが遅れて持ち上がり、両足が石床から完全に離れる。
白い外套が、内側から破裂したように膨らんだ。
ゼインの身体が宙へ射出される。
背後に張られていた鎖へ激突。
一本。
固定具ごと引き千切った。
次の鎖へ当たる。
鉄が弾ける。
身体は止まらない。
背中から古い刑台へ叩き込まれた。
分厚い石台が真ん中から割れた。
砕けた石の中へ身体が沈む。
それでも衝撃は抜けず。
刑台の背後にあった石壁へ。
縦に。
大きな亀裂が走った。
そこで。
ようやく。
音が追いついた。
地下が爆発した。
轟音より先に、空気そのものが俺へぶつかった。
見えない壁に殴られた。
胸が潰される。
肺の空気が一気に抜けた。
足が床から離れる。
耳の奥で何かが弾ける。
身体が後ろへ飛んだ。
壁が迫る。
背中から叩きつけられた。
視界が白く染まる。
床へ落ちた。
何も聞こえない。
ただ。
キィィィィィ――――ン。
耳鳴りだけが残った。
砂埃が横殴りに流れていく。
割れた石片が何度も床を跳ねる。
少し遅れて、今度は空気が逆向きへ引き戻された。
舞い上がった埃が、セラのいた方へ流れていく。
俺は壁へ手をついた。
息ができない。
何度か咳き込み、ようやく顔を上げる。
セラがいた。
剣を振り抜いた先で。
片膝を石床につき、右手の剣で身体を支えている。
そして。
そのさらに向こう。
砕けた刑台の中に。
ゼインがいた。
―――
ゼインが動けなかった理由は、セラが速すぎたからだけではない。
《証言》は、見た真実を残す。
一度目を記録し。
二度目を外さない。
それはゼインが生き残るための、優秀すぎる防衛機構でもあった。
だからこそ。
未知の動きを前にした時。
しかも、一度見逃せば次がないかもしれないほどの危険を前にした時。
その性質は過剰に働いた。
逃げろ。
防げ。
先に攻撃しろ。
ゼイン自身が身体へ出した命令より。
見ろ。
記録しろ。
という《証言》の要求が先に立った。
それは拘束ではない。
誰かに操られたわけでもない。
強すぎる異能が持ち主を守ろうとした結果、その意思を越えて働いた。
過剰な防衛反応。
それが。
ほんの一瞬だけ。
ゼイン自身の身体を止めた。
一瞬で十分だった。
《証言》が求めたのは。
一度目。
だが。
この技には。
二度目などなかった。
―――
俺は壁を支えに身体を起こした。
まだ耳はまともに聞こえない。
それでも、《不具合鑑定》は働いた。
ゼインを見る。
表示が重なる。
《右上肢――多発粉砕骨折》
《左上肢――多発粉砕骨折》
《胸郭――多数骨折》
《骨盤――粉砕骨折》
《右下肢――多発粉砕骨折》
《左下肢――多発粉砕骨折》
まだ終わらない。
最後に。
《全身骨格――重度多発粉砕骨折》
息をのんだ。
剣の峰で。
これだった。
刃を立てたまま入っていたらどうなったか。
考える必要さえなかった。
ゼインが動いた。
いや。
動こうとした。
右腕へ力を入れたらしい。
肩が僅かに浮く。
それだけで、全身から力が抜けた。
瓦礫の中へ沈む。
掠れた息が漏れた。
叫ぶことさえできない。
それでも、瞳だけはセラを見た。
「……必殺」
声は、ほとんど空気だった。
「技……やろ」
セラは剣を石床へついたまま答える。
まだ立つためではない。
身体を支えるためだ。
「そうだ」
「……なんで」
一度、呼吸が途切れる。
「生きとんねん」
セラは手元の剣へ目を落とした。
刃に。
血はついていない。
「安心しろ」
ゼインを見る。
「峰打ちだ」
瞳が僅かに動いた。
「……これが?」
「ああ」
セラが剣へ体重を預けた。
右足へ力を入れ、ゆっくりと立ち上がる。
身体が揺れる。
それでも倒れず。
一歩だけ進んだ。
その一歩さえ。
今のセラには重い。
もう一歩。
ゼインの前で止まる。
「加減もした」
ゼインは何も言わない。
言えないのかもしれない。
セラの青灰色の瞳が、瓦礫の中のゼインを見下ろした。
「貴様は」
静かな声だった。
「殺すに値しない」
ゼインの喉が僅かに動いた。
怒りでも。
恐怖でもない。
何かを返そうとしたのだろう。
けれど、言葉にはならなかった。
セラは剣先を下げた。
「勇者になりたかったのなら」
ゼインの目が動く。
「死んで終わるな」
一呼吸。
「自分が何をしたのか」
青灰色の瞳は逸れない。
「生きて見ろ」
ゼインは、もう笑わなかった。
次の答えを探すように動き続けていた目も。
今はただ。
セラを見ていた。
その時。
足元から。
低い音がした。
俺の視界に表示が浮かぶ。
《支柱――亀裂拡大》
続けて。
《天井荷重――限界接近》
「セラ!」
セラが踏み切った場所から。
床の亀裂がさらに伸びる。
壁へ。
柱へ。
そして、天井へ。
細かな石片が落ち始めた。
一本の支柱が。
嫌な音を立てて軋む。
古い刑場全体が。
ゆっくりと崩れ始めていた。




