第三十七話 消えていたのではない
古い鉄環が、石畳を突き破った。
逃げる人の波から取り残された少年は、その場に尻もちをついたまま動けない。
鎖が地面を這う。
足首へ届く、その寸前。
横から拳が入った。
鉄環がひしゃげ、鎖ごと石壁へ叩きつけられる。
少年が目を見開いた。
一人の女が、その前に立っていた。
「怪我は?」
少年は何度も首を振る。
「なら走れ」
立ち上がろうとする。
だが、足が震えて動かなかった。
女が一度だけ振り返る。
「大丈夫だ」
壁の中から、二本目の鎖が飛び出した。
「私がいる」
女が半歩踏み込んだ。
拳が消えた。
遅れて、轟音が響く。
鎖の根元ごと石壁が大きく陥没した。
その奥に埋め込まれていた巻き上げ機が外れ、石片と一緒に通りへ転がり出る。
鉄の塊が石畳を跳ね、露店の柱をへし折って止まった。
周囲にいた人間まで足を止める。
女はもう見ていなかった。
「行け」
少年はようやく立ち上がり、人の流れへ向かって走った。
数歩進んで。
振り返る。
「待って!」
女が足を止めた。
「何だ」
「あの……名前」
「……」
「助けてもらったから」
少しだけ間があった。
「ラウだ。」
「ラウ……?」
近くにいた年配の男が反応した。
女を見る。
壊れた巻き上げ機を見る。
「……拳聖」
少年が振り向く。
「知ってるんですか?」
「拳聖ラウだ」
男の声が掠れた。
「世界一の武道家だよ」
少年がもう一度、その名を口にする。
「拳聖……ラウ」
遠くで悲鳴が上がった。
ラウはもう、そちらへ歩き出していた。
誰にも道を空けろとは言っていない。
それでも、人の流れは彼女の進む先だけ自然に二つへ分かれていく。
やがて姿が人波へ紛れた。
数呼吸もしないうちに、広場の向こうから何か巨大なものが石壁へ叩きつけられる音がした。
―――
南門近くでは、黒い鎖が通りを横切った。
逃げていた男が肩から弾かれ、石畳を転がる。
二撃目が来る。
「伏せて!」
風が鳴った。
《鎮風》
鎖が持ち上がり、人々の頭上を抜けて向かいの壁へぶつかった。
「早く! ここから離れて!」
ユリアが両手を伸ばしたまま叫ぶ。
転んだ男へ何人かが駆け寄った。
女が腕を引き、反対側を別の男が支える。
子供を抱えた母親がその横を駆け抜けた。
壁へ押さえつけられていた鎖が震え始める。
ユリアの靴が滑った。
「っ……!」
鎖が風を押し返してくる。
「何だこれ!」
誰かが叫んだ。
「知りません!」
ユリアも叫び返す。
「でも、そこから動いてます!」
壁の割れ目を指した。
錆びた固定具が、鎖に引かれるたび周囲の石を削っている。
近くにいた商人がそれを見た。
足元には、倒れた露店から転がった石槌がある。
拾う。
「ここか」
返事を待たずに振り下ろした。
甲高い音。
外れない。
もう一度。
「手ぇ貸せ!」
今度は近くにいた男が加わった。
二人で叩く。
ユリアの腕が震え、鎖が少しずつ壁から離れ始める。
「もう少し!」
三度目。
石が割れた。
固定具が半分飛び出す。
そこへ、さっき転がされた男まで戻ってきた。
「貸せ!」
石槌を受け取り、横から叩き込む。
鉄具が抜けた。
鎖が石畳へ落ちる。
風が止まった。
ユリアは壁へ手をついた。
「……止まった?」
誰も答えられない。
その時、少し離れた通りから悲鳴が上がった。
全員がそちらを見る。
ユリアが息を整えるより先に、石槌を持った商人が走り出した。
「おい!」
「同じ鎖があるかもしれん!」
もう一人も続いた。
ユリアは一瞬だけ呆気に取られたが、すぐ後を追った。
―――
広場では、古い石柱が傾いていた。
根元へ巻きついた鎖が、柱を無理やり引いている。
その下に、逃げ遅れた親子がいた。
「動くな!」
若い男が駆けた。
柱が倒れる。
男が跳ぶ。
届かない。
空中で、もう一度足を踏み込んだ。
何もない場所を。
《空踏》
身体が横へ飛ぶ。
親子を抱えたまま地面を転がった直後、石柱が石畳を砕いた。
「走れますか」
母親が何度も頷く。
「なら行って!」
親子が逃げる。
倒れた柱の向こうで、別の鎖が動いた。
今度は地面を這ってくる。
一人の男が前へ出た。
「触るな!」
掌を石畳へつける。
《重縛》
鎖が落ちた。
急に重さを増したように石畳へ叩きつけられ、そのまま地面へ食い込む。
男の腕が震えた。
「誰か、あれ壊せ!」
返事の代わりに、一人の女が走り込んだ。
固定具へ掌を当てる。
《震砕》
鉄の内側で鈍い音がした。
もう一度。
亀裂が走る。
その横から石槌が入った。
誰が振ったのか、もう分からない。
固定具が割れた。
鎖が止まる。
「次!」
声が飛んだ。
それが誰の声だったのかも分からなかった。
すでに広場のあちこちで同じようなことが起きている。
風で鎖を逸らす者。
人を抱えて飛び越える者。
鉄を壊す者。
倒れた人間を引きずって逃がす者。
何が起きているのか、誰にも分かっていない。
なぜ街の中から刑具が出てきたのか。
どこまで続いているのか。
どうすれば全部止まるのか。
そんなことを知っている者は、ここにはいなかった。
ただ、目の前で鎖が人を襲っている。
だから、動ける者から動いていた。
条約更新でこの街を訪れていた異能力者の中にも、逃げる人波とは逆の方向へ向かう者が出始めている。
悲鳴が聞こえた方へ。
鉄の鳴った方へ。
一人。
また一人と走っていった。
―――
地下。
《市街執行端――断絶》
表示が消えた。
ほどなくして、もう一つ。
《市街執行端――断絶》
別の枝からも反応が返る。
セラはまだ立っていない。
片膝を石床につき、右手の剣を杖代わりにして身体を支えていた。
左腕は垂れたまま。
呼吸するたびに胸が僅かに動く。
ゼインの視線が天井へ向いた。
「……勝手に動いとる」
「ああ」
「誰にも命令されてへん」
「ああ」
遠くで鉄の砕ける音がした。
《市街執行端――断絶》
ゼインは黙った。
何が起きているのか。
地下にいる俺たちにも全部は分からない。
それでも、市街のあちこちで執行端が止まっている。
ゼインが低く呟いた。
「……昔は」
セラが顔だけを向ける。
「そういうのを」
続きがなかなか出なかった。
「勇者やと思っとった」
セラは何も言わない。
ゼインの口元が僅かに歪んだ。
笑ったわけではなかった。
《市街執行端――断絶》
また一つ。
―――
中央裁定院。
「主任の報告を、もう一度お願いします」
リゼットの声に、記録官が紙束を取り直した。
外ではまだ人が走っている。
遠くから、鉄や石の壊れる音も届いていた。
それでもリゼットが見ているのは、机の上の一枚だった。
『魔力収支差異に関する継続観測報告』
今回の火災で死んだ主任が、生前に提出したものだ。
「どのような差異でしたか」
記録官が内容を追う。
「入力値と使用記録の間に、僅かな差があります」
「どちらが多いんです」
「入力です」
リゼットの指が止まった。
「つまり、使った量の方が多いのではない」
「はい」
「入れた量の方が多い」
「そうです」
カルドの組んだ手の中で、親指の動きが僅かに遅くなった。
「一度だけですか」
「いいえ。主任が報告した時点で、複数回確認されています」
「差の向きは」
記録官が紙を繰る。
「ほぼ同じです」
リゼットは紙面へ視線を落としたまま、問い直した。
「入れたのに、使用されたことになっていない」
「……はい」
「その魔力は」
顔を上げる。
「どこへ行ったんでしょう」
誰も答えなかった。
差は小さかった。
運用を止めるほどではない。
原因も分からない。
だから継続観測になった。
それだけだった。
カルドの親指が、ほんの少しだけ逆へ動く。
「……消えていたのではないのか」
リゼットが見る。
「何がですか」
「収支差だ」
カルドの視線が旧経路図へ落ちる。
「系統から失われていたと考えていた」
「そう考えていました」
「だが」
窓の外から鉄の砕ける音がした。
何人かがそちらを見る。
使われていないはずの旧執行端が、今も現実に動いている。
カルドが言った。
「旧経路は、生きていた」
リゼットは答えず、記録官へ尋ねた。
「休止経路に流れた魔力は、通常の使用記録に入りますか」
「……入りません」
「なぜです」
「使用対象ではありませんから」
リゼットは旧経路図へ指を置く。
「現在の系統からこちらへ流れた場合は?」
記録官の表情が変わった。
「入力した魔力は減ります」
「でも、使用記録には出ない」
「……はい」
そこまで聞いて、リゼットは止めた。
カルドが低く言う。
「流れていた」
「……」
「旧経路へ」
「少なくとも、その可能性があります」
「なら差異は――」
「まだです」
カルドが黙った。
「流れたことと、残ったことは別です」
記録官が別の記録へ手を伸ばした。
「……残留負荷」
火災が消えた後も、壁の中には負荷が残っていた。
経路の一部が崩れても減らない。
一時は、むしろ上昇した。
司法側との接続を切った後、ようやく増えることだけが止まった。
リゼットはその記録を、主任の報告の横へ置いた。
小さな収支差。
休止しているはずの経路。
火が消えた後も残った負荷。
そして、今も市街で動いている旧執行端。
カルドの親指が完全に止まった。
「……消えていたのではない」
「はい」
「残っていた」
「その可能性が高いです」
記録官が息をのむ。
「では……何年も?」
「そこまでは分かりません」
リゼットは即座に止めた。
「主任の報告より前からかもしれませんし、後からかもしれません。量も分かりません」
報告書へ指を置く。
「分かるのは、消失として扱っていた差が、別の経路へ移っていた可能性があることだけです」
カルドが口を閉じた。
少しして。
「貴様は、こういう時まで慎重だな」
「こういう時だからです」
リゼットは焼け跡の記録を引き寄せた。
東。
中央。
南。
その下へ現在の司法経路図を置く。
さらに旧経路図を重ねる。
少しずらす。
合わせる。
三つの焼け跡が、二つの経路の交点へ重なった。
リゼットの手が止まる。
「……違う」
「何がだ」
「この三つです」
焼け跡を指す。
「私たちは、ここから火が始まったと思っていました」
「三つの焼け跡があったからな」
「はい」
リゼットは旧経路をなぞった。
「でも、こちらに負荷が残っていたなら」
指を現在経路との交点へ移す。
記録官が図面へ身を寄せる。
「発火点では……」
「違います」
リゼットは三つの印を見た。
「火が始まった場所じゃない」
「では?」
「逃げた場所です」
法廷が静まった。
「旧経路に残っていた負荷が、現在経路へ耐えきれず噴き出した場所です」
三つの焼け跡。
三箇所を操作した被告人。
だから、その二つを結んだ。
だが。
結んだのは鎖ではない。
人間だった。
「三箇所に」
リゼットが言う。
「火をつけた人間はいません」
ざわめきが広がった。
「待て」
カルドがすぐに返す。
「被告人は三箇所の遮断器を操作している」
「はい」
「その直後に旧経路の負荷が上がった」
「はい」
「なら、操作が引き金になった可能性は残る」
「残ります」
法廷のざわめきが大きくなった。
リゼットは声を変えなかった。
「被告人が遮断器を操作しなければ、あの瞬間には起こらなかった可能性があります」
「だが?」
「同じ操作は、通常運用でも行われています」
過去の記録を開く。
「過去の条約更新期間にも行われています」
旧経路図。
「この経路も以前から存在していました」
主任の報告。
「収支差も、当夜だけではありません」
一枚ずつ戻していく。
「それでも、あの夜まで燃えなかった」
カルドは何も言わない。
「遮断器を動かしたから燃えたのではありません」
リゼットは重なった資料を見る。
「動かした時に、燃える条件が全部重なっていた」
しばらく誰も声を出さなかった。
「被告人がやったのは、いつもの操作です」
「だが、それが最後の条件になった」
「はい」
「なら原因だ」
「原因の一つです」
リゼットは譲らなかった。
「でも、罪とは別です」
カルドが僅かに視線を外した。
「知ることができたでしょうか」
「何をだ」
「自分がいつもの遮断器を操作した時、改修対象外の旧経路へ、記録にも出ない負荷が流れていることを」
返事はない。
「その負荷が三つの交点へ集まっていることを」
沈黙。
「条約更新の高い運用と重なった時だけ、限界を越えることを」
カルドは資料を見ていた。
やがて。
「無理だな」
法廷の空気が揺れた。
「少なくとも、今ここにある記録だけならば」
カルドの親指が再び動き始める。
いつもの方向へ。
「予見できたとは言えない」
被告人が遮断器を操作した。
本当。
被害者と揉めていた。
本当。
古い図面を複写した。
本当。
過去に記録を偽った。
それも本当。
けれど、その全部を並べても、火をつけたという事実にはならない。
リゼットは裁定官へ向き直った。
「以上です」
「結論は」
「私が決めることではありません」
机の上の資料へ視線を落とす。
「私が言えるのは、被告人が故意に火災を起こしたとする説明より、今ある事実はこちらの方が矛盾なくつながるということです」
裁定官が資料を見る。
長い沈黙があった。
やがて口を開く。
「被害者の死亡についても、被告人が故意に火災を発生させたことを前提とする構成は維持できない」
記録官が筆を取る。
被告人は正面を見たまま動かなかった。
「故意の放火、およびそれに伴う被害者殺害について」
裁定官が告げる。
「被告人を無罪とする」
鎖は光らなかった。
誰も、鎖に答えを求めていなかったからだ。
集めた事実を前にして、最後に判断したのは人間だった。
―――
―――ん
「……なあ」
地下で、ゼインが言った。
《市街執行端――断絶》
また一つ。
セラは片膝をついたまま、剣を杖にしている。
「あいつら、いつまで保つと思う」
「知らん」
「今はたまたま上手いこといっとるだけや」
ゼインの声が少しずつ荒くなる。
「次は間違う」
天井を見る。
「助けよう思て、殺すかもしれへん」
一歩。
「正しいと思って選んで」
言葉が詰まった。
「俺みたいになるかもしれへんやろ」
セラが答えた。
「そうだな」
ゼインの足が止まる。
「……何?」
「間違うかもしれん」
セラは否定しなかった。
「あの中の誰かが判断を誤るかもしれん。助けられない奴も出る」
「なら――」
「それでも」
遠くで、また鉄の砕ける音がした。
「だから選ぶな、とはならん」
「綺麗事や」
「違う」
セラがゼインを見る。
「貴様が一度間違えたことは、人間全部から選ぶことを取り上げる理由にはならん」
ゼインは言い返さなかった。
セラが市街の方へ目をやる。
「昔の貴様なら」
《市街執行端――断絶》
「あそこにいたんじゃないか」
ゼインは答えなかった。
セラは剣を支えに、立とうとする。
右足へ力を入れる。
途中で膝が落ちた。
俺は反射的に手を伸ばす。
「セラ」
もう戦わないでください。
そこまで出かかった。
胸は壊れている。
左肩も動かない。
立つことさえできていない。
ここからさらに戦えば、何が起きる。
俺には、止める理由ばかりが見える。
前なら止めていた。
壊れるなら動かすな。
危険なら止めろ。
それで事故を防げるなら、それが正しい。
でも。
目の前にいるのは、壊れかけた道具じゃない。
セラだ。
俺が勝手に決めていいことじゃない。
「……セラ」
セラが俺を見る。
俺は出かかった言葉を飲み込んだ。
「どうするんですか」
ほんの少しだけ間があった。
セラが剣を握り直す。
「決まっている」
もう一度、右足へ力を入れた。
剣を杖にして身体を持ち上げる。
膝が伸びる。
身体が大きく揺れた。
それでも、今度は倒れなかった。
「勝つ」
ゼインが乾いた笑いを漏らした。
「まだやるんか」
「当然だ」
「その身体で?」
「この身体でだ」
「正解、もう残ってへんで」
セラが笑った。
「まだ分からんのか」
「何がや」
セラは剣を杖から戻した。
今まで見たことのない。
妙に静かな構えだった。
「残るのではない」
ゼインを見る。
「私が選ぶ」




