第三十六話 後は執行だけだ
「何もかもしまいや」
ゼインの足元で、古い鎖が鳴った。
床の隙間で一本が震え、それに応えるように壁の奥から別の音が返る。続いて天井、その向こうの通路。重い金属音は少しずつ遠ざかりながら、地下を伝っていった。
ガシャン。
少し離れた場所で鳴る。
間を置いて、さらに遠くから同じ音が返った。
何十年も止まっていた歯車が、順番に噛み合っている。
俺の視界に文字が浮かんだ。
《非常時執行路――接続開始》
「ゼイン」
セラが剣を上げた。
「何をした」
「昔のもん、起こしただけや」
ゼインは自分の左腕を見る。
手首から肘へ走る古い傷。その上に右手を重ねた。
この場所へ入った時から、消えていない表示がある。
《執行者接続――成立》
「空座にはいってから。この街は残したろ思っとった」
傷の上へ指が食い込む。
「人間が選ばんでもええようにして、間違わんようにして。それでも、街そのものは残したろって」
壁の中で、重いものが動いた。
ゼインは指先に滲んだ血を見る。
「……何を守っとったんやろな」
「手を離せ」
「もうええ」
ゼインが顔を上げた。
「勇者も、正義も、空座も」
手のひらを、壁際に残された古い鉄環へ押しつける。
「全部いらん」
《非常時執行路――接続拡大》
床が大きく揺れた。
俺は倒れそうになって壁へ手をつく。
揺れは一度で収まらない。
ゴン。
ゴン。
一定の間隔で、低い振動が遠ざかっていく。
地下通路を抜けて。
裁定院の外へ。
街の方へ。
やがて、遥か頭上から悲鳴が届いた。
「……え?」
一人じゃない。
いくつもの叫びが重なり、その後を石の砕ける音が追った。
馬の嘶きまで聞こえる。
何か大きなものが倒れ、また誰かが叫んだ。
セラも天井を見る。
「市街か」
ゼインの口元が歪んだ。
「ああ」
「何をつないだ」
「昔はな、ここだけで人殺しとったわけやない」
「どういう意味だ」
「騒乱が起きた時とか、捕まえた人間が多すぎた時や。いちいち裁定院まで運ばんでも、その区画で拘束して、そのまま刑を執行できるようになっとった」
背中が冷えた。
「そんな設備が、まだ街に……」
「残っとるみたいやな」
また上で何かが壊れた。
今度はさっきより近い。
「止めろ」
セラが踏み込んだ。
ゼインは避けなかった。
刃が肩口を裂き、白い外套が開く。
血が走った。
それでもゼインは下がらない。
「もう遅いで」
セラの足元で鉄環が跳ねた。
「セラ!」
右足首へ鎖が巻きつく。
セラが剣を返した直後、反対の足にも一本。
さらに腰。
右腕。
左腕。
床、壁、天井に残されていた古い鎖が、一斉にセラへ集まった。
俺は反射的に表示を探す。
何も出ない。
《拘束条件――照合》がない。
「これは……」
「刑具や」
ゼインが言った。
「裁きが終わった人間に、もう条件なんかいらん」
鎖が張った。
右腕が右へ。
左腕が反対へ引かれる。
両足首も、それぞれ別の固定環へ持っていかれた。
腰には前後から二本。
胸の下にも太い一本が回る。
「っ……!」
セラが身体を捻った。
その瞬間、天井の巻き上げ機が動き始める。
ジャラジャラと重い音を立てながら、鎖が巻き取られていった。
右足の爪先が浮く。
すぐに左も。
「セラ!」
足裏が床から離れた。
セラの身体が宙へ持ち上げられる。
両腕は左右へ引き開かれ、足も別々の方向へ張られている。腰と胸を締める鎖が、身体を中央へ固定していた。
ただ吊られているわけじゃない。
腕も足も胴も、別々の方向から引かれている。
身体を振ることも、衝撃に合わせて身を引くこともできない。
セラが右手の剣を振ろうとする。
右腕を縛る鎖がさらに短くなった。
「くっ……」
刃が止まる。
左肩を少し動かしただけで、セラの顔が歪んだ。
治りきっていない場所だ。
ゼインはそこを見た。
だが、さっきまでのように次の動きを読んでいる目ではなかった。
人間をどこまで固定すれば抵抗できなくなるのか。
それを知っている男の目だった。
ゼインは部屋の奥へ歩いていく。
壁際から垂れていた一本の鎖を掴んだ。
他とは太さが違う。
両手で扱うほどの鎖で、先端にはいくつもの鉄環を重ねた巨大な錠環がついていた。
引きずるたびに、石床が削れる。
じゃり。
じゃり。
ゼインがゆっくりと後ろへ引いた。
セラは宙へ固定されたまま、それを見ている。
「随分と手間のかかる殺し方だな」
ゼインは答えなかった。
鎖を引き切ると、背筋を伸ばした。
怒りも。
笑いも。
その時だけは、何も残っていなかった。
「被執行者」
灰色の目がセラを見る。
「セラ・ヴァルク」
右腕。
左腕。
右足。
左足。
順に視線だけで確かめる。
「四肢拘束、確認」
続いて腰と胸。
「胴部固定、確認」
天井の巻き上げ機が、もう一段動いた。
セラの身体が強く引き伸ばされる。
「執行姿勢」
鎖が一斉に張った。
《執行姿勢――成立》
ゼインは太い執行鎖を握り直した。
「これより」
静かな声だった。
「刑を執行する」
そこで初めて、口元がわずかに歪んだ。
「――俺の必殺や」
その言葉だけが妙に耳に残った。
勇者になりたかった男が、人を殺す手順をそう呼んでいる。
ゼインが鎖を引き絞る。
「刑鎖――帰結」
巨大な錠環が飛んだ。
狙いは胸の中央。
セラには避けようがない。
鈍い衝突音が地下へ響いた。
金属と鎧がぶつかった音。
その奥で、もっと嫌な音がした。
「――っ」
セラの口が開く。
声は出なかった。
息だけが漏れる。
普通なら、あの重さをまともに受ければ身体ごと後ろへ飛ばされる。
だが、飛べない。
腕も。
足も。
腰も。
胸も。
すべての鎖が、セラをその場へ縫いつけている。
逃げるはずだった衝撃が、そのまま身体の中へ残った。
セラの頭が前へ落ちる。
唇の端から血が垂れた。
「セラ!」
ゼインが鎖を引き戻す。
巨大な錠環が石床を削りながら戻ってきた。
「第二打」
今度は脇腹。
横からまともに叩き込まれる。
セラの身体が折れようとした。
だが、胴を締める鎖がそれすら許さない。
「がっ……!」
潰れた声が漏れた。
次の瞬間、セラが血を吐いた。
赤い飛沫が胸元へ散り、石床を汚す。
「やめろ!」
俺は走り出した。
「来るな!」
セラの声が飛んだ。
弱い。
それでも俺の足を止めるには十分だった。
「でも!」
「来るな!」
動けなかった。
セラの呼吸は浅い。
胸がまともに広がっていない。
それでも意識はある。
ゼインはもう三度目の鎖を引いていた。
その向きを見て、狙いが分かった。
左肩。
「ゼイン!」
「第三打」
錠環が横から迫る。
セラも身体を逃がそうとする。
右へ。
ほんのわずか。
腰と両足を縛る鎖が、それを許さなかった。
直撃した。
ごき、と。
今までとは違う音。
「――あっ!」
セラの悲鳴が響いた。
左腕が垂れる。
右手からも力が抜けた。
指が開く。
剣が落ちた。
石床を跳ね、遠くへ滑っていく。
「セラ……」
左肩はもう、自分の腕を支えられていない。
それでも鎖は、セラを宙へ吊ったままだった。
ゼインが錠環を下ろす。
終わった。
そう思った。
違った。
ゼインが天井を見る。
「最終処置」
壁の中で歯車が噛み合った。
右腕。
左腕。
右足。
左足。
腰。
胸。
それぞれを縛る鎖が、別々の方向へ巻き取られていく。
「何を……」
セラの身体が張った。
肩。
肘。
膝。
足首。
関節が動ける限界まで引かれる。
足首へ鎖が食い込み、皮膚が裂けた。
血が足を伝う。
壊れた左肩まで容赦なく引き上げられる。
「っ……ぐ……!」
胸の鎖が締まった。
息を吸おうとしても、胸が広がらない。
喉から細い音だけが漏れる。
「昔な」
ゼインが言った。
「ここまでやっても、生きとる奴がおった」
巻き上げ機がさらに回る。
セラの身体が震えた。
「せやから」
鎖が軋む。
「最後まで確認する」
「やめろ!」
右肩まで限界まで引かれている。
足首から血が落ちる。
胸の辺りでも、何か嫌な音がした。
ゼインが片手を上げた。
迷いのない動きだった。
昔、何度も同じことをしてきたのだろう。
「執行」
手が下りる。
「完了」
すべての鎖が外れた。
支えを失ったセラの身体が落ちる。
受け身は取れない。
左腕は動かない。
胸にも、脇腹にも、力が入らない。
そのまま石床へ叩きつけられた。
どん、と低い音が響く。
身体が一度だけ跳ねた。
それきりだった。
「セラ!」
俺は駆け寄った。
膝をつき、手を伸ばしかけて止める。
どこを触っていいのか分からない。
胸。
脇腹。
左肩。
足首。
どこもひどい。
「セラ」
返事がない。
口元へ顔を寄せる。
呼吸は浅い。
あまりにも浅い。
それでも。
止まってはいない。
「セラ」
もう一度呼んだ。
その時。
遥か頭上から、また悲鳴が届いた。
―――
市場脇の古い石壁が、突然内側から弾け飛んだ。
通りにいた人々が、飛び散る石を避けて身を伏せる。
砕けた壁の奥から、黒く錆びた鎖が飛び出した。
荷車の車軸へ巻きつき、そのまま強く引く。
「うわっ!」
荷車が横倒しになった。
積み荷が石畳へ散らばり、驚いた馬が暴れる。
「何だ!?」
「離れろ!」
今度は地面が盛り上がった。
埋められていた鉄環が石畳を突き破り、逃げようとしていた男の足首へ巻きつく。
「ぐっ!」
男が倒れた。
そのまま石畳の上を引きずられていく。
隣にいた女が慌てて腕を掴んだ。
「誰か! 手を――」
頭上を別の鎖が走った。
屋台の柱がへし折れ、屋根布と木材が落ちる。
人の流れが崩れた。
悲鳴が重なる。
一箇所ではない。
旧拘置区。
南門。
広場。
商人街。
長い間、壁や地面の中へ埋められていた刑具が、街のあちこちで動き始めていた。
腕を縛る鉄環。
足を留める鎖。
人を吊り上げる巻き上げ機。
かつて、人を逃がさないために作られたもの。
刑を執行するために残されたもの。
それが今は、誰が罪人かも知らないまま、目の前にいる人間へ向かって動いていた。
―――
中央裁定院にも揺れは届いた。
机の上の筆が転がる。
記録官が顔を上げた。
「今のは……」
床の下を、何か重いものが走っていく。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
その直後、外から人の叫びが聞こえた。
リゼットは窓へ向かった。
通りの人間が、一方向へ走っている。
何かから逃げている。
その先で古い石柱の側面が崩れ、中から黒い鎖が伸びていた。
「……執行端」
年長の記録官の声が掠れた。
リゼットが振り返る。
机の上には、旧経路図が広げられたままだった。
裁定院。
旧拘置区。
広場。
南門。
騒ぎが起きている場所と重なる。
「切り離されていません」
誰かが言った。
カルドは図面から目を上げない。
「そういうことになるな」
リゼットは旧改修記録を開いた。
そこに残っているのは、一行だけだった。
『休止経路につき施工対象外』
撤去とは書かれていない。
切断とも書かれていない。
使っていなかった。
ただ、それだけだ。
リゼットの指が止まる。
現在の司法経路。
古い経路。
非常時執行路。
条約更新による高い稼働。
改修から外された旧設備。
どれも、それ単体なら以前から存在していた。
だが、それらすべてが同じ夜、同じ場所で重なったことまでは確認できていない。
「当夜だけ重なった条件……」
リゼットが呟いた。
カルドが目を上げる。
「まだ結論にするな」
「分かっています」
返事は早かった。
「だから確認します」
リゼットは記録官へ向き直る。
「市街の避難を。それと、執行端を物理的に止められる人を集めてください」
記録官が走り出した。
カルドは窓の外を見る。
「随分、大きな証拠が動き出したものだ」
リゼットは答えなかった。
―――
「……ああ」
地下で。
ゼインが上を見た。
遠くから届く破壊音を聞いている。
「つながっとる」
俺はセラの横からゼインを見る。
「何人巻き込むつもりだ」
「知らん」
「知らんって……」
「もうええやろ」
ゼインの口元が歪んだ。
「俺は正しくやろうとした」
ゆっくり歩き出す。
「人間が間違わんようにしたろ思った。選ばんでええようにしたろ思った」
両手を広げる。
「それで駄目なんやったら、もう俺が全部決めたらええ!」
頭上で何かが砕けた。
悲鳴が続く。
「誰も選ばん! 誰も迷わん!」
ゼインが倒れているセラを見る。
「俺が終わらせたらええ!」
低い笑いが漏れた。
「ほら」
「やっぱ俺が正しかったんや」
何も返せなかった。
セラは倒れている。
街では人が襲われている。
旧執行路はどこまで伸びている。
何本ある。
どこを切れば止まる。
何から確かめればいい。
考えようとするほど、頭の中で全部が絡まった。
「……セラ」
返事はない。
「セラ」
右手の指が動いた。
「……え」
石床を掴む。
爪が擦れる。
ゼインも気づいた。
「は?」
セラが息を吸った。
途中で咳き込み、口元から血が落ちる。
それでも右肘を床へついた。
身体が上がらない。
一度、崩れる。
「セラ、動かないでください」
返事はない。
もう一度。
また崩れた。
三度目。
ようやく上半身が少し浮いた。
左腕は垂れたまま。
胸を庇うことすらできない。
セラは右手を伸ばした。
剣は少し遠い。
指先が届かない。
身体を引きずる。
もう一度。
ようやく柄へ触れた。
握る。
剣を杖代わりにして、片膝まで起き上がる。
そこまで上体を起こすだけで、呼吸が何度も乱れた。
ゼインが呆れたように見る。
「……バケモンか」
セラがゼインを見る。
口元は赤い。
息をするたび、胸の痛みに眉がわずかに動く。
それでも目だけは死んでいなかった。
「ふっ」
鼻で笑う。
「何がおかしい」
「もう勝った気でいるのか」
「……は?」
セラは剣へ体重を預けたまま言った。
「身体を壊した」
一度息を整える。
「街まで巻き込んだ」
そしてゼインを見る。
「それで、私の心まで折ったつもりか」
ゼインの頬が引きつった。
「お前……今、自分がどうなっとるか分かっとるんか」
「分かっている」
「立つことすらできてへんやろ」
「だから何だ」
「何ができんねん!」
ゼインが声を荒げた。
「俺を倒せてへん! 街も救えてへん! 外で何人死ぬかも分からへん!」
セラの前まで来る。
「その身体で、何ができる!」
セラは答えなかった。
わずかに首を傾ける。
何かを聞いている。
俺も耳を澄ませた。
悲鳴。
鎖。
石が割れる音。
その中に、違う音が混じった。
遠い。
硬いものを叩き壊す音。
一つ。
少し間を置いて、別の方角からもう一つ。
ゼインの視線が天井へ向いた。
「……何や」
俺の視界に文字が浮かんだ。
この部屋の鎖は、市街へ伸びた執行路とつながっている。
だから、ここまで状態が返ってきた。
《市街執行端――断絶》
「……え?」
表示が消える。
ほどなくして、また。
《市街執行端――断絶》
外で。
誰かが止めている。
一箇所じゃない。
別々の場所で。
別々の誰かが。
セラが小さく笑った。
「そういうことだ」
ゼインが振り返る。
「……何がや」
セラは剣を握り直した。
まだ片膝をついたままだ。
それでも声には迷いがなかった。
「私たちの勝ちだ」




