第三十三話 真実が増えるほど、逃げ道が減る
「一度あればいい」
セラが言った。
ゼインの笑みが消えた。
ほんの一瞬だった。
それまで面白そうに細められていた灰色の目が、まっすぐセラへ向く。
「……それ」
声からも笑いが消えている。
「俺に言うたん?」
セラは剣を構えたまま答えなかった。
ゼインは少し待つ。
やがて、口元だけを歪めた。
「そう」
壁際へ歩いていく。
「ほな、待つんやめよか」
床に垂れていた鎖を拾い上げる。
先端には、厚い錠環がついていた。
今まで何度も目にしている。
この部屋では珍しくない。
罪人の手首を壁へ固定する。
足首を床へ留める。
身体を起こす。
執行が終わるまで、決められた姿勢から動かさない。
だから旧刑執行場には、至るところに鎖がある。
壁にも、床にも、天井にも。
戦うために作られたものじゃない。
けれど、ゼインが手首を返した瞬間、鎖の見え方が変わった。
先端の鉄環が石床を叩く。
硬い音が部屋の隅まで走る。
前世にも、鎖の先へ重い物をつけて振る武器はあった。
詳しい使い方までは知らない。
でも、理屈なら分かる。
重い先端を加速させれば、それだけで打撃になる。
剣で受けても、刃同士のようには弾き合わない。
鎖は曲がり、巻きつく。
絡めたまま引けば、剣も腕も身体も持っていかれる。
打つ。
絡める。
引く。
一つの動きが、そのまま次の攻撃につながる。
そして、この場所で鎖の長さも、重さも、固定位置も知っている人間がいる。
元刑執行官。
ゼインだ。
「トーマ」
セラが小さく呼んだ。
「はい」
「下がっていろ」
一歩だけ下がる。
ゼインの腕が動いた。
鉄環が消えた。
そう見えた。
次の瞬間には、セラの側頭部へ飛んでいる。
剣が上がった。
甲高い音。
受けた。
けれど、鉄環だけが刀身の外へ抜ける。
遅れて鎖が巻きついた。
ゼインが引く。
セラの身体が半歩前へ崩れ、右足が床を踏んだ。
《拘束条件――照合》
まずい。
「右足!」
《拘束条件――成立》
床から別の鎖が跳ね上がった。
足首へ巻きつく。
セラが踏ん張るより早い。
ゼインは自分の鎖から手を放し、そのまま懐へ入った。
拳が腹へ沈む。
鈍い音。
セラの身体が折れた。
それでも剣は離さない。
柄頭をゼインの顔へ返そうと肘を引く。
《拘束条件――照合》
「駄目です!」
遅い。
《拘束条件――成立》
天井の鎖が落ちた。
剣腕を取る。
半呼吸。
止まった身体へ、ゼインの膝が入った。
セラの身体が浮く。
けれど、右足は床につながったままだ。
吹き飛ぶことさえできない。
伸び切った鎖に引き戻され、肩から石床へ落ちた。
「セラ!」
「うるさい」
すぐに身体を起こす。
口元に血がにじんでいた。
ゼインが鎖を拾い直す。
「元気やな」
「まだ足りないか」
「そういう意味ちゃうよ」
鉄環がまた持ち上がる。
「強いやつほど、やりやすいんよ」
「何がだ」
「正しい動き」
ゼインの腕が振れる。
「よう知っとるから」
今度は低い。
足を狙っている。
セラが跳ぼうとした。
《拘束条件――照合》
床の鎖が、わずかに浮く。
セラは跳ばず、その場で身体を沈めた。
鉄環が軌道を変える。
脇腹。
剣で受ける。
また鎖が巻きつく。
引かれる。
そこへ拳。
セラが左へ逃げる。
壁の鎖が浮いた。
《拘束条件――照合》
「左も!」
セラが途中で身体を戻した。
鎖が空を切る。
ゼインの拳だけが、こめかみをかすめた。
セラの顔がわずかに振れる。
捕まってはいない。
けれど、一つ動くたびに別の鎖が目を覚ます。
ゼインは休ませない。
自分で鎖を振る。
セラが避ける。
その動きが《証言》として残されていれば、アレーテイアが拾う。
拘束条件と重なれば、鎖が来る。
避ければ次の攻撃。
防げば別の拘束。
正しい答えを選ぶほど、過去の自分が邪魔をする。
「……面倒だな」
セラが呟いた。
「今さら?」
「貴様がだ」
ゼインは答えなかった。
鉄環が走る。
―――
「三箇所ともです」
証拠保全官が広げた記録へ、リゼットが目を落とした。
司法制御を切り離した後。
東。
中央。
南。
三箇所で続いていた残留負荷の増加が止まっている。
「減ったんですか?」
「いえ」
保全官が首を振る。
「値は残っています。増えなくなっただけです」
リゼットは記録へ記した。
《残留負荷増加停止》
三箇所。
その下へ。
《残留負荷そのものの減少は未確認》
カルドが横から見る。
「細かいな」
「違うことを書けませんから」
「止まったことには変わらない」
「増加が、です」
「そうか」
親指は、いつもの向きへゆっくり回っている。
そこへ別の記録官が紙束を抱えてきた。
「ご指示の分です。当夜の遮断器操作と負荷記録を合わせました」
リゼットが顔を上げる。
机の上に三枚が並んだ。
東側。
遮断器操作。
その直後、旧経路側の値が上がっている。
中央も。
南も。
同じだった。
被告人の顔が強張る。
傍聴席から低いざわめきが広がった。
「操作前は?」
リゼットが聞く。
「この上昇はありません」
「三箇所ともですか」
「はい」
カルドが一枚目を取る。
「東。操作した。その後、上がった」
二枚目。
「中央も」
三枚目。
「南もだ」
三枚を並べた。
「三回とも同じだ」
リゼットは何も言わず、記録へ書き加える。
《東側遮断器操作後――旧経路負荷上昇》
《中央遮断器操作後――旧経路負荷上昇》
《南側遮断器操作後――旧経路負荷上昇》
「書くんだな」
カルドが言った。
「書きます」
「随分、不利になった」
「私に、ではありません」
「被告人に」
リゼットの筆が一瞬だけ止まる。
「それでも書きます」
カルドはそれ以上何も言わなかった。
三枚の記録を被告人の前へ置く。
被告人が唇を噛んだ。
「俺は……いつも通りにやっただけだ」
「それも記録されている」
カルドの声は変わらない。
「だが、結果も記録されている」
傍聴席の視線が被告人へ集まっていく。
リゼットは三枚を見た。
一つ一つは本当。
間違っていない。
だから厄介だった。
「まだ、これだけでは――」
言いかけたところで、後ろから声がした。
「通常運用分、ありました」
別の記録官だった。
抱えている量が違う。
何十枚。
その後ろにも、さらに紙束を持った者がいる。
「どれくらいですか」
「ここにある分だけで百件を超えています」
リゼットが立ち上がる。
一枚目。
同じ型の遮断器。
同じ操作。
焼損なし。
二枚目。
焼損なし。
三枚目も。
四枚目も。
何度めくっても同じだった。
「カルド」
呼ばれた男が視線だけを上げる。
「これを見てください」
「見ている」
「同じ遮断操作は、事件前にも何度も行われています」
「そうだな」
「焼損していません」
「そうだな」
あっさり認めた。
リゼットが一瞬黙る。
カルドは嘘をつかない。
都合が悪くても、本当なら認める。
だからこそ、次に何を置くのか分からない。
リゼットは記録を机へ置いた。
「なら、遮断器を操作したことだけでは火災を説明できません」
傍聴席のざわめきが変わった。
被告人が顔を上げる。
「過去に百回以上、同じ操作が行われています。それで焼損が起きていないなら」
リゼットは三枚の当夜記録を指す。
「今回だけ燃えた理由が、別に必要です」
一拍。
カルドの親指が逆へ回った。
ほんの一瞬だけ。
すぐに戻る。
「その通りだ」
また。
認めた。
今度は傍聴席の方が戸惑った。
カルドは通常運用の紙束へ目を落とし、その横へ当夜記録を置く。
「だから」
一枚だけ指で押さえた。
「当夜だけ違ったものを見ればいい」
リゼットの目が細くなる。
「何を持っていますか」
「まだ何も」
「では」
「探す」
カルドは平然と言った。
「貴様と同じだ」
リゼットは返さなかった。
けれど、被告人へ向いていた空気が少しだけ戻っている。
―――
鉄環がセラの頭を狙う。
同じ受け方は使えない。
剣を上げれば、また巻きつかれる。
右へ踏み出す。
《拘束条件――照合》
「右!」
俺が叫ぶ。
セラが踏み込む前に足を戻した。
左も、もう見せている。
下がれば、ゼインが距離を詰める。
ほんの一瞬。
セラの選べる動きがなくなったように見えた。
ゼインが笑う。
「どれにする?」
鉄環が迫る。
セラは剣を上げなかった。
避けもしない。
前へ出た。
「え?」
俺の口から声が漏れた。
逃げる方向じゃない。
鉄環の軌道。
その内側へ、自分から入った。
金属が頬をかすめる。
皮膚が裂け、血が飛ぶ。
それでも止まらない。
セラの左手が鎖を掴む。
足で踏む。
鎖が張った。
ゼインの腕が引かれる。
「――」
初めて。
ゼインの身体が前へ崩れた。
セラは剣を使わない。
右拳。
顔面。
鈍い音が響いた。
ゼインが二歩下がる。
三歩目で壁に肩をぶつけた。
静かになった。
セラが拳を開く。
「当たったな」
返事はない。
ゼインの眉の上が切れていた。
血が一筋、頬を流れる。
そのまま目へ入った。
ゼインが片目を閉じる。
指で拭った。
赤い。
指先についた自分の血を、しばらく見ていた。
「……ああ」
笑った。
さっきまでとは違う。
口元だけが歪んでいる。
血のついた手を額へ当てる。
そのまま前髪を後ろへ撫で上げた。
金髪が赤黒く濡れ、額が露わになる。
白い外套にも一滴落ちた。
「そういうことするんや」
声は静かだった。
セラが剣を構え直す。
「痛かったか」
「ええの、もろたわ」
ゼインが笑った。
「憎たらしいくらい」
床に落ちていた鎖を拾う。
今度は、さっきまでのように軽く振らない。
握ったまま、セラを見る。
「一回あればええんやったっけ」
「何がだ」
「さっき言うてたやん」
一歩。
「一回あれば十分やって」
灰色の目から、笑いが消えた。
「ほな」
床で一本の鎖が浮く。
《拘束条件――照合》
壁から二本目。
《拘束条件――照合》
天井で三本目が鳴った。
ゼインが血のついた髪を、もう一度だけ後ろへ撫でる。
「その一回」
口元が歪む。
「もう使ったことにしよか」
鎖は、動かなかった。
それでもゼインは笑っていた。




