第三十二話 一度目だけは、縛れない
「こっちの番や」
鎖が鳴った。
一本じゃない。
壁。床。天井。
旧刑執行場に残されていた鎖が、いっせいにセラへ向きを変える。
証拠保全官が息をのんだ。
「退避する!」
命令通りだ。異常な系統稼働を確認した。ここから先は、記録を持ち帰る方が優先される。
セラが言う。
「行け」
「あなたたちは‥‥」
「私は残る」
証拠保全官が俺を見る。
「技術観察者も退避しろ」
「無理です」
「命令は人員の安全確保を――」
「今の接続を見られるの、俺だけです」
俺はゼインを見る。
《執行者接続――成立》
その下。
《局所執行系――稼働》
旧系統が動いた。
でも、何が条件になって、どこまで動くのか。まだ分からない。
「ここで俺まで出たら、セラが何に縛られてるのか分からなくなります」
「トーマ」
セラが低く呼ぶ。
怒られると思った。
「石台の後ろへ行け」
「え」
「残るなとは言わん。私より前に出るな」
「……はい」
「今の間はなんだ」
「何でもないです」
証拠保全官が俺たちを見比べ、それから命令書と記録板を抱えた。
「状況を裁定院へ報告する」
「お願いします」
「異常が拡大したら、お前たちも退避しろ」
俺は頷いた。
足音が遠ざかる。
旧刑執行場に残ったのは、俺とセラ。それから石扉の向こうに立つゼイン。
そして、鎖だけだった。
「ええん?」
ゼインが言う。
「何がだ」
「帰らせんで」
「記録を持ち帰る者まで巻き込む理由はない」
「自分らは?」
「必要だから残る」
「また決めよったな」
セラの眉が動く。
「黙れ」
「はいはい」
その言い方とは裏腹に、ゼインの目は笑っていなかった。
見ている。
また、セラを。
足。腰。肩。
今度はゼインだけじゃない。
鎖まで見ているように感じた。
セラが動く。
右へ。踏み込まず、剣だけを少し上げる。
鎖は動かない。
左足を半歩。
動かない。
腰を落とさず、剣先をゼインへ向ける。
それでも動かない。
「なんや?試してるんか?」
ゼインが聞く。
「そうだ」
セラが答えた。
隠さない。
「どの動きで鎖が来るのかをな」
「本人が言うんかい」
「聞かれて困ることではない」
少し前まで、俺がゼインに対してやっていたことを、今度はセラがやっている。
セラが右足を前へ出した。
ただ歩く。
鎖は動かない。
もう一歩。
何もない。
三歩目。
右足へ体重が乗る。腰が沈みかける。
その瞬間、俺の視界で床の表示が切り替わった。
《拘束条件――照合》
照合。
まだ動いていない。
何かを確かめている。
《拘束条件――適合》
「セラ!」
床が鳴った。
石の隙間から鎖が跳ね上がる。狙いは右足首。さっきと同じ場所だった。
セラは踏み込みを途中で捨てた。前へ出そうとしていた力を、そのまま剣を落とす動きへ変える。
刃が鎖を打った。
火花が散り、鎖の先が横へ逸れる。
弾いたんじゃない。
向きを変えただけだ。
だから、次が来た。
天井から二本目。
「上!」
セラは受けなかった。上体をひねって鎖の内側へ入り、そのまま横へ抜ける。
避けた。
そこまでは、いつものセラだった。
でも、抜けきった直後。
左肩がわずかに沈んだ。
顔には出ない。声も変わらない。ただ、次の構えへ戻るまでが一拍だけ長かった。
「セラ、肩――」
「後だ」
天井から落ちた鎖が、遅れて石床を叩く。砕けた破片が足元まで飛んできた。
セラが距離を取る。
ゼインは、一歩も動いていない。
「今のです」
俺は言った。
「やっぱり全部じゃない」
「何がだ」
「右足へ体重を乗せて、腰を沈めた時だけ反応した」
セラが剣を構え直す。
「攻撃の始まりか」
「たぶん」
「たぶん?」
「同じ姿勢を他の目的で取った時も反応するか確かめないと」
ゼインが小さく笑った。
「細かいなあ」
「大事なんで」
「仕事?」
「仕事です」
「三回目やな」
数えてるのか。
いや、こいつなら覚えている。
セラが俺を見る。
「試すぞ」
「何をです」
「同じ姿勢を取る」
「待ってください」
「なぜだ」
「拘束されます」
「分かっている」
「分かってやるんですか」
「確認するのだろう」
無茶苦茶だ。
でも、必要ではある。
「無理はしないでください」
「分かった」
セラが剣を下げた。
そして、右足へ体重を乗せる。
腰を沈める。
剣は下げたまま。
攻撃する気配はない。
それでも。
鎖が動いた。
床から右足へ。
「やっぱり!」
セラは最初から分かっていたように半歩引く。
鎖が空を噛み、石床へ落ちる。
「攻撃するつもりがあるかどうかは関係ない」
俺はゼインを見る。
「あなたが見たのは、動きだけだから」
ゼインは答えない。
「《証言》は意図を見てない」
今度は鎖を見る。
「アレーテイアも、そこから先を勝手に足してない」
セラが言った。
「つまり」
「攻撃の所作をした。それだけが条件です」
本当に攻撃するか。
どこを斬るか。
途中で止めるか。
そんなことまでは鎖は知らない。
一つの事実。
それだけだ。
セラが床の鎖を見る。
「使えるな」
「何にです?」
「分かっている条件なら」
剣先が上がる。
「来る場所も分かる」
次の瞬間、セラが踏み込んだ。
「セラ!」
右足。体重。腰。
条件が揃う。
《拘束条件――適合》
床の鎖が跳ね上がった。
でも、今度のセラはゼインへ向かっていない。
半身を開いて、左の石柱側へ入っている。
鎖が右足首を狙う。その軌道の途中へ、セラは剣の腹を差し込んだ。
止めない。押し返さない。
刃の面に沿わせて、来た力をそのまま横へ流す。
鎖の先が石柱へ向いた。
一周。
二周。
巻きついた鎖が締まり、柱の表面が乾いた音を立てて欠ける。
「……なるほどな」
ゼインの声が低くなる。
セラはもう動いていた。
床の鎖が一本、柱に取られている。その分だけ、条件を張っていない足場が生まれた。
そこへ入る。
踏み込みじゃない。柱に巻きついた鎖の、たわんだ部分へ足を置く。
一瞬だけ乗って、身体を横へ投げ出した。
これまで一度も見せていない入り方だった。
「それは――」
ゼインの声が遅れる。
剣が走った。
ゼインが身を引く。
読んで下がったんじゃない。
見てから下がった。
だから半歩足りない。
白い外套が肩口で裂け、薄く血がにじむ。
初めて届いた。
ゼインが裂けた布を見る。
「……おもろ」
「私は面白くないな」
セラは追わなかった。
柱へ巻きついた鎖が緩み始めている。足場が消える前に戻る。
俺の前へ。
「今のは」
俺は言った。
「見てなかった」
「ああ」
「だから鎖も動かなかった」
「そうだな」
石扉の向こうで、ゼインがこちらを見る。
今度はさっきより強く。
セラの足。
鎖。
柱。
剣。
全部を。
「でも」
嫌なものが背中を走った。
「ただ、今ので見られました」
セラも分かっている。
「次は使えないか」
「試さないと断定できません」
「なら試す」
「本当に?」
「それしか確認する方法がない」
この人は、そういうところだけ妙に真面目だ。
セラが再び鎖へ足を置いた。
さっきと同じ角度。
同じ重心。
同じ抜け方。
俺の視界で表示が切り替わる。
《拘束条件――照合》
ほとんど間を置かず。
《拘束条件――適合》
「セラ、駄目です!」
遅かった。
一度目とは違う。
照合から適合までが、ほとんどない。
もう同じ条件を一度見ているからだ。
柱へ巻きついていた鎖が、セラの体重を受けた瞬間に動く。
足首へ。
蹴って外そうとしたセラより、鎖の方が早かった。外側から回り込み、一周してから締める。柱に巻きついた時と同じ動きだった。
支えを失った身体が片側へ流れる。
天井から二本目。
セラは剣を胸の前へ立てた。刃の腹ではなく、鍔の近く。一番折れにくい場所で受ける。
鎖が刃を叩いた瞬間、靴底が石床を削った。
押し返さない。
押されながら、力を右の踵へ逃がしていく。
いつもなら、そのまま角度を変えて外側へ抜ける。
抜けなかった。
足首の鎖が、逃がす先を先に塞いでいる。
行き場を失った衝撃が、そのまま身体を通った。
左肩が沈む。
「セラ!」
「問題ない!」
そう言った直後、剣を構え直す動きが一拍遅れた。
鎖は待たない。
床から三本目。
セラは左腕を使わなかった。右手だけで剣を振る。
一本。
二本。
弾く。
三本目は間に合わない。
腰へ巻きついた。
「くっ……!」
引かれる。
石床を靴底が滑った。
ゼインは、やっぱり動いていない。
「一回目は通った」
俺は言った。
「二回目は駄目だった」
鎖。
ゼイン。
セラ。
順番に見る。
「今見た動きが、そのまま新しい《証言》になった」
ゼインが口元を上げる。
「御名答」
「教えるんですか」
「もう分かったやろ」
鎖がセラを引く。
セラは剣を床へ突き立てて止める。
「セラ!」
「見えているなら、次を言え!」
次。
考えろ。
同じ動きは駄目。
違う動きなら、最初は通る。
でも見せれば、次から縛られる。
一度。
一度しか使えない。
「新しい動きです!」
「分かっている!」
「一回見せたら、もう捨ててください!」
「簡単に言うな!」
セラが腰の鎖へ刃を入れた。
一本が外れる。
そこから、右足で踏み込まない。
剣を逆手へ持ち替える。
まだ一度も見せていない握りだ。
ゼインの目が動いた。次に何を読むか、探している目だった。
セラはそのまま、剣を投げた。
「は?」
ゼインが初めて間の抜けた声を出す。
剣が回りながら飛んだ。
狙いはゼインじゃない。
石扉の横。壁に残っていた鎖の根元。
刃が食い込み、鎖が一本、床へ落ちた。
セラは走っていた。
武器を手放したまま。
素手で。
「お前――」
ゼインが下がる。
右の拳。
直線。
避けられる。
左。
これも避けられた。
三発目は打たなかった。
セラは止まり、床の剣まで戻って拾う。
無理に当てにいかない。
見せる数を増やさないためだ。
「今のも」
「見られました」
「二度目は?」
「たぶん駄目です」
「使い捨てか」
「そうなります」
セラが小さく息を吐く。
肩を一度だけ回そうとして、途中でやめた。
ゼインはそれも見ている。
「しんどそうやな」
セラの目が鋭くなる。
「心配しているのか」
「まさか」
「なら黙れ」
「でも」
ゼインが壁から身体を離した。
初めて、自分から一歩。
処刑場へ戻る。
止まった鎖の間を歩く。
鎖はゼインへ触れない。
「一回しか使えへん答えを」
一歩。
「何個持っとる?」
セラは答えない。
「十個?」
もう一歩。
「百個?」
石扉を越える。
「全部出したら」
ゼインは中央を見る。
「終わりやで」
鎖が鳴る。
今度は、セラが何もしていないのに。
床の何本かが、別々の場所でわずかに浮いた。
攻撃じゃない。
待っている。
右足。腰。肩。剣。
これまで見せた始まりを。
「トーマ」
セラが小さく呼ぶ。
「はい」
「こいつの《証言》は、いくつ残せる」
「分かりません」
「制限は」
「まだ見えてません」
「なら」
セラはゼインを見る。
「全部残るものとして考える」
一番悪い条件で考える。
そういうことだ。
「それがいいです」
ゼインが笑う。
「慎重やな」
「貴様が言うな」
俺は《不具合鑑定》を向ける。
ゼイン本人。
駄目だ。
人間そのものから異能の答えが出るわけじゃない。
鎖。
床。
接続。
《局所執行系――稼働》
《執行者接続――成立》
さらに。
条件が成立するたび、鎖の一部に短い表示が出ている。
《拘束条件――照合》
そして、成立したものだけ。
《拘束条件――適合》
適合。
完全に同じじゃない。
条件に合った部分だけ。
だから、全部を変える必要はなかった。
逆に言えば、一部分でも同じなら、そこから縛られる。
「……最悪だ」
「何が」
セラが聞く。
「今までのやり方だと、変える量が少なすぎます」
「半歩では足りないか」
「はい」
少し前、通路で。
俺たちは一つだけ外した。
最適解から。
半歩。
一動作。
それでゼインの判断を遅らせた。
でも、今は違う。
相手はその先まで読む必要がない。
過去と同じ部分が一つ成立すれば、鎖がそこを拾う。
「じゃあ全部変えるか」
セラが言った。
「それも駄目です」
「なぜだ」
「全部変えた動きを一回見せたら」
俺はゼインを見る。
「次は、それも使われます」
沈黙。
セラが理解する。
「動くほど」
「はい」
「選択肢が減る」
「たぶん」
ゼインが静かに笑った。
「よう分かったな」
嬉しそうじゃない。
当たり前のことを確認しただけみたいな声。
「一回見たら」
ゼインが言う。
「同じことせんかったらええ」
鎖に触れることなく、その間を歩く。
「間違えたら覚える」
「次は間違えへん」
「それを繰り返したら」
灰色の瞳がセラを見る。
「最後には、間違わん答えだけ残る」
セラが言った。
「それを貴様は正しいと思っているのか」
「楽やろ」
「聞いているのは、正しいかだ」
ゼインの足が止まる。
「人間に決めさせるよりはな」
静かだった。
「人間は、分かっとっても間違える」
ゼインは続ける。
「見えてへんことを、見えたことみたいにつなぐ。都合のええことだけ残す」
ほんの少し、声が冷えた。
「最後は、誰かに殺させる」
旧刑執行場。
その言葉だけが、妙に重かった。
セラはしばらく黙っていた。
ゼインが、かつて刑執行官だった。
俺が知っているのは、それだけだ。
何があったのか。
なぜ、
「最後は、誰かに殺させる」
と言ったのか。
俺は知らない。
今の言葉だけで、過去まで埋めることはできない。
事実の間を、勝手につないだら駄目だ。
「セラ」
「何だ」
「一つだけ分かりました」
ゼインがこちらを見る。
「言え」
「見たことしか使えない」
ゼインの目が細くなる。
「《証言》は」
俺は続ける。
「見てないことを作れない」
鎖も同じだ。
存在しない証言を、勝手に拘束条件にはできない。
セラが聞く。
「なら」
「一度も見せていない動きなら」
俺は言った。
「まだ、鎖の拘束条件にはありません」
セラの視線がゼインへ向く。
「一度目は通るか」
「今まで確認した限りでは」
一呼吸。
「一度だけです」
ゼインは否定しなかった。
それが答えだった。
「ただし」
セラを見る。
「見せた瞬間に終わりです」
「二度目はない」
「はい」
セラが剣を握り直す。
左肩が、ほんの少しだけ震えた。
それでも剣先は下がらない。
「一度あればいい」
セラはゼインを見る。
それから。
「十分だ」
短く言った。
ゼインの表情から、初めて笑みが消えた。




