第三十話 鎖は嘘をついていない
暗い通路の奥へ、ゼインの足音が消えていく。
セラはすぐには追わなかった。
俺の手にある旧系統図を見る。
「間違いないのか」
「はい」
停止室から伸びる古い線。
今は使われていない通路。
その先に記された文字。
刑執行場。
しかも、その線は《非常時執行路》へつながっている。
「俺も行きます」
「当然だ」
思っていた返事と違って、俺は一瞬黙った。
セラがこちらを見る。
「旧系統を見られるのは、お前だけだ」
それから、暗い通路へ視線を戻す。
「ただし、私の後ろから離れるな」
「はい」
「何か見えたら、その場で言え。勝手に確かめに行くな」
「分かってます」
「分かっている顔ではない」
「そんな顔あります?」
「今している」
言い返そうとした俺を無視して、セラは残った証拠保全官を見る。
「同行できるか」
男は暗い通路へ目を向け、頷いた。
「保全命令の対象と旧系統が接続している可能性があります。私も確認します」
「保守技師はここに残れ」
「分かりました」
セラがもう一度、俺を見る。
「トーマ」
「はい」
「お前が斬られたら、誰が旧系統を見る」
「……俺です」
「なら守られろ」
反論できなかった。
セラが先に通路へ入る。
俺。
証拠保全官。
その順に続いた。
古い石階段は、想像していたより深かった。
壁にはところどころ金属の輪が埋め込まれている。
輪から垂れる、途中で切られた鎖。
壁の奥へ消える古い導線。
もう何にも使われていないはずなのに。
《不具合鑑定》を向ける。
《旧系統接続――待機》
さらに奥でも。
《旧系統接続――待機》
進むたび、同じ表示が現れる。
休止じゃない。
待機。
何かを待っている。
何を。
誰を。
前を歩くセラが止まった。
「扉がある」
階段の終わり。
大きな石扉。
片側だけが、すでに開いている。
ゼインが通った跡だ。
セラが隙間から中を確認する。
剣を持つ手は下げない。
「入るぞ」
静かに中へ入る。
俺たちも続いた。
広かった。
地下にこんな空間があるなんて思わなかった。
円形の石床。
壁に沿って並ぶ古い鎖。
床を走る何本もの溝。
中央には低い石造りの台。
その正面に、鎖を通すための太い支柱が立っている。
派手な装飾はない。
血の跡も残っていない。
むしろ、異様なくらい整っている。
人を殺すための場所なのに。
仕事場みたいだった。
「……処刑場」
俺が呟く。
「だった場所です」
証拠保全官が答えた。
「現在は封鎖されています」
「どんな刑に使ってたんです?」
「私も詳しくは。司法制度の改正前に閉鎖されたとしか聞いていません」
セラは答えない。
中央を見ている。
ゼインがいた。
石台の横。
こちらへ背中を向けている。
「追いついたぞ」
セラが言う。
「見たら分かる」
ゼインは振り返らない。
「ここなら満足か」
「何が」
「私を見る場所だ」
そこで。
ゼインがようやく振り返った。
「まだ分からん?」
「何がだ」
「俺が見たいんは」
ゼインの視線がセラを越える。
俺。
証拠保全官。
そして。
処刑場全体。
「お前だけやない」
笑っていない。
「人間が、どこまで自分で決められるんか」
セラの眉がわずかに動く。
「随分と大きな話になったな」
「最初からや」
「なら説明しろ」
「嫌や」
相変わらずだ。
セラが剣を上げる。
ゼインはそれを見ても構えない。
俺は中央の石台を見る。
何かがおかしい。
鎖。
床の溝。
停止室から続いていた経路。
全部。
ここへ集まっている。
《不具合鑑定》。
表示が浮かぶ。
《非常時執行路――待機》
《司法制御――優先》
そして。
中央の石台の足元。
《執行接続端――有効》
「……接続端?」
「何だ」
セラが聞く。
「ここ、ただの処刑場じゃない」
俺は床を指す。
「旧系統を操作するための場所でもあります」
証拠保全官が息をのむ。
「そのような記録はありません」
「今の記録には、ですよね」
「はい」
「でも残ってます」
中央。
ゼインが立っている場所。
そこへ何本もの経路が集まっている。
偶然とは思えない。
「ゼイン」
俺は聞いた。
「ここで何をするつもりです」
ゼインが俺を見る。
「何も」
「またそれですか」
「まだ何もしてへん」
まだ。
その一語が引っかかった。
何もしていない、じゃない。
まだ何もしていない。
俺が聞き返そうとした時。
セラが一歩前へ出た。
「そこから退け」
「嫌や」
「なら退かせる」
ゼインの視線が落ちる。
足。
腰。
肩。
セラも、もう分かっている。
右足を。
わずかに外へ置いた。
さっき覚えたばかりの。
気持ちの悪い半歩。
ゼインの目が細くなる。
その時。
遠くで鐘が鳴った。
一度。
二度。
地上から低く響いてくる。
証拠保全官が顔を上げた。
「裁定院の招集鐘……?」
セラも動きを止める。
俺は床を見る。
表示は変わらない。
《司法制御――優先》
《非常時執行路――待機》
まだ。
何も起きていない。
―――
地上では、古い記録が運び込まれていた。
厚い帳面。
封蝋の割れた記録筒。
人事簿。
刑執行記録。
リゼットは一つずつ確認する。
ゼイン。
名前だけでは足りない。
同名の別人かもしれない。
だから、つながない。
「該当が一件あります」
書記官が一冊の古い人事簿を開いた。
リゼットが見る。
そこに名前がある。
ゼイン。
所属。
中央裁定院刑執行部。
職務。
刑執行官。
リゼットはしばらく黙っていた。
カルドが横から記録を見る。
「同一人物と確認できるか」
「まだです」
即答だった。
「名前が一致しただけです」
「そうだな」
カルドの親指は、いつも通りゆっくり回っている。
リゼットが記録をめくる。
身体的特徴。
金髪。
灰色の瞳。
年齢。
在籍時期。
銀の耳飾りについては記録にない。
可能性は高い。
でも。
断定するには足りない。
「当時を知る人はいますか」
書記官が答える。
「一人います」
「誰です」
「元刑執行記録官です。条約更新に伴う旧記録整理のため、現在は聖律記録院に来ています」
「呼んでください」
「今からですか」
「お願いします」
カルドが口を開く。
「真実鎖は使わないのか」
リゼットが彼を見る。
「使いません」
「なぜだ」
「アレーテイアの使用と現場変質の関係を確認している途中です」
視線を外さない。
「そのために《保全停止》を求めました。ここで証言枝を使用すれば、自分で作った比較条件を崩します」
カルドの親指が短く逆へ回った。
一度だけ。
それ以上、何も言わなかった。
しばらくして。
老人が法廷へ入ってきた。
背は曲がっている。
白い髪。
胸には古い裁定院の徽章。
リゼットは立つ。
「お呼びして申し訳ありません」
「構いません」
老人が空いている席へ座る。
「ゼインという人物について確認したいことがあります」
その名前を聞いた瞬間。
老人の目が止まった。
リゼットは、それだけでは判断しない。
「この人物です」
人事記録を差し出す。
老人は紙を見る。
長い沈黙。
「……どこにいる」
「中央裁定院の地下です」
老人が顔を上げる。
「地下?」
「旧刑執行場へ入った可能性があります」
老人の顔色が変わった。
「なぜ、あそこへ」
「それを調べています」
リゼットは続ける。
「このゼインを知っていますか」
老人はゆっくり頷いた。
「知っている」
法廷が静まる。
「どういう人物でしたか」
「刑執行官だ」
記録と一致した。
それでも。
リゼットは筆を動かすだけ。
「あなたは一緒に勤務していたのですか」
「ああ」
「どのような立場で」
「私は刑の記録を担当していた。執行が行われれば立ち会い、その内容を記録した」
「ゼインの執行にも?」
老人が一度だけ目を伏せる。
「……立ち会った」
声が変わった。
リゼットが気づく。
「何かあったのですね」
老人はすぐには答えなかった。
書記官が別の帳面を置く。
古い判決記録。
その後ろに、再審査記録が束ねられている。
老人がそれを見る。
「まだ残っていたか」
「何の事件ですか」
「誤判だ」
その一言で、傍聴席がざわめいた。
「静粛に」
裁定官が命じる。
リゼットは老人を見る。
「アレーテイアが誤ったのですか」
老人はすぐに首を振った。
「違う」
強い声だった。
「鎖が嘘をついたわけじゃない」
老人は机の上の古い記録を見る。
「確認されたことは、本当だった」
一枚目。
「被告人は被害者と争っていた」
二枚目。
「現場へ入った」
三枚目。
「凶器に触れた」
もう一枚。
「殺してやる、と口にした」
老人の指が止まる。
「全部、本当だった」
リゼットの筆が静かに動く。
「では」
老人を見る。
「なぜ、誤判に」
「つないだからだ」
老人が答える。
「争った」
「現場にいた」
「凶器に触れた」
「殺すと言った」
一つずつ。
机上の記録を指で示す。
「それを並べて」
老人は目を伏せた。
「殺した、と決めた」
誰も喋らなかった。
机の反対側には。
今扱っている事件の記録がある。
三つの遮断操作。
三つの焼け跡。
過去の記録改竄。
主任との対立。
形が。
あまりにも似ていた。
リゼットが聞く。
「無実だと分かった理由は」
「執行の後だ」
老人の声が低くなる。
「別の記録が見つかった。被告人が現場を離れた後にも、被害者が生きていたことが分かった」
「それまで確認されていなかった?」
「ああ」
「なぜです」
「聞かなかったからだ」
老人が言った。
「必要な事実だと、誰も思わなかった」
リゼットの手が止まる。
聞かなかった。
鎖が隠したんじゃない。
鎖は、問われたことに答えただけ。
「その人は」
リゼットが聞く。
「すでに処刑されていたのですね」
老人が頷く。
「ゼインが執行した」
法廷が静まり返る。
「その後、どうなりましたか」
老人はしばらく答えなかった。
書記官が再審査記録を開く。
判決過程。
証言整理。
裁定官の判断。
執行命令。
誰か一人だけの誤りではない。
「責任の所在について議論になった」
老人が言う。
「当然だ」
裁定官。
記録官。
証言を整理した者。
執行命令を承認した者。
制度そのもの。
そして。
最後に手を下した者。
「ゼインは?」
リゼットが聞く。
老人の顔が少しだけ歪んだ。
「あいつは、自分から前へ出た」
「自分から?」
「一度も言わなかった」
老人の声が震える。
「命令に従っただけだとは」
リゼットは黙っている。
「判決を下したのは、あいつじゃない」
「はい」
「証言を集めたのも違う」
「はい」
「それでも」
老人は古い記録へ手を置く。
「人を殺したのは自分だ、と言った」
「なぜです?」
老人は首を振った。
「分からん」
しばらくして。
「いや」
老人が言い直す。
「一度だけ、聞いた」
リゼットの筆が止まる。
老人は遠いものを見るような目をした。
「あの日だ」
「ゼインが刑執行官の徽章を外した時」
沈黙。
「誰かが血をかぶらなあかんのやったら」
老人が、昔聞いた言葉をそのまま置く。
「俺でええ」
リゼットはすぐには書かなかった。
「それは、あなたの記憶ですね」
「ああ」
「記録には?」
「その言葉自体は残っていない」
「分かりました」
そこで初めて。
リゼットは紙に書く。
――元刑執行記録官の記憶による証言。
事実と。
記憶を。
同じ欄には置かない。
老人が言った。
「あいつは、鎖を恨んでいなかった」
リゼットが顔を上げる。
「恨んでいない?」
「最後まで言っていた」
老人の目が古い判決記録へ落ちる。
「鎖は嘘をついてへん」
妙に静かな声だった。
「嘘をついたんは」
老人は続ける。
「人間や、と」
―――
旧刑執行場。
ゼインは中央の石台の横に立っている。
足元。
何本もの古い線が、そこで交わっている。
俺には、さっきまでと違うものが見え始めていた。
《執行接続端――有効》
《司法制御――優先》
《非常時執行路――待機》
優先。
つまり。
今は司法制御が上にいる。
だから。
旧系統は待っている。
もし。
司法制御がなくなったら。
「……そういうことか」
「何が見えた」
セラが聞く。
「もう一度見ます」
俺は表示を追う。
停止室では通常停止を入れた。
《停止入力――受理》。
操作そのものは通った。
なのに。
司法制御は落ちなかった。
そして、ここでは。
司法制御が旧系統より優先されている。
二つは完全に別々じゃない。
「セラ」
「言え」
「普通に止めるだけじゃ駄目かもしれません」
「では、どうする」
「まだ分かりません」
答える前に結論を作らない。
まず。
つながり方を見ないと。
ゼインが笑った。
「そこまで来た?」
俺を見る。
「何を知ってるんです」
「お前が今見た分くらい」
「嘘ですね」
「なんで」
「ここに先に来てる」
ゼインの笑みが少しだけ消えた。
「それだけや」
「それだけじゃない」
俺は床を見る。
「停止室の装置だけ見ても、ここがあるなんて分からない」
返事はない。
「あなた」
俺は言った。
「この設備を使ったことがあるんですか」
初めて。
ゼインの目が冷たくなった。
でも。
答えなかった。
セラが一歩出る。
「答えなくていい」
「ええん?」
「貴様の過去に興味はない」
ゼインが目を細める。
セラは剣を向けたまま言った。
「今、何をしようとしているかだけ答えろ」
ほんの少し。
ゼインの口元が動く。
「ほんま」
低い声。
「そういうとこやな」
「何がだ」
「変わらへん」
セラの眉が動く。
「貴様は以前から私を知っているのか」
「どうやろ」
また答えない。
その時。
後ろの通路から足音が響いた。
証拠保全官が振り返る。
「止まれ!」
「裁定院からの伝令です!」
若い書記官だった。
息を切らしている。
証拠保全官が前へ出る。
「内容は」
「地下で名乗ったゼインについて、旧記録との照合結果が出ました」
俺とセラが見る。
書記官は一度だけゼインを見た。
顔色が変わる。
それでも読み上げた。
「旧中央裁定院刑執行部所属」
一度、息を整える。
「刑執行官、ゼイン」
セラの目がゼインへ戻った。
俺も中央の石台を見る。
《執行接続端――有効》
ゼイン。
刑執行官。
ここが旧刑執行場。
停止室から伸びていた《非常時執行路》。
全部がつながっていく。
でも。
まだ一つ、足りない。
――まだ何もしてへん。
さっき。
ゼインは確かにそう言った。
まだ。
あの一語は何だ。
何もしていない。
ではなかった。
まだ何もしていない。
なら。
こいつは。
これから何かをするつもりだった。
俺は中央の石台を見る。
《執行接続端――有効》
その先。
《司法制御――優先》
《非常時執行路――待機》
待機。
ゼインの「まだ」と。
同じだ。
どちらも。
次を待っている。
「なるほど」
セラが言った。
ゼインは笑わない。
「戻る、と言ったな」
返事はない。
「ここへか」
沈黙。
セラの剣先は下がらない。
「貴様は」
低い声。
「ここで人を殺していたのか」
長い間。
ゼインは答えなかった。
やがて。
中央の石台へ視線を落とす。
「……鎖は」
小さな声だった。
「嘘ついてへん」
地上で老人が口にした言葉と。
同じ言葉。
ゼインが顔を上げる。
「一回もな」




