第三話 傷は十秒後にやってくる
急行馬車には、乗り心地という検査項目が存在しないらしい。
王都を出て四時間。
車輪が小石を踏むたび、俺の身体は座席からわずかに浮き、そのたびに腰と背中を木板へ打ちつけていた。
一度なら問題ない。
同じ衝撃でも、数百回繰り返せば壊れる。
人間も、道具も、その点は変わらない。
《座席固定金具――緩み》
《同程度の振動が継続した場合、右後部金具脱落》
視界の端に浮かんだ赤い文字を見て、俺は座席の下へ手を伸ばした。
「止めてください」
向かい側に座っていたセラが、干し肉を噛みながら俺を見る。
肩の下まで伸びた銀髪は、旅の邪魔にならないよう低い位置で一つに結ばれていた。
長い睫毛の奥にある青灰色の瞳は、眠そうにも見えるほど静かだ。だが、俺が座席の下へ手を入れた瞬間には、視線だけで工具箱と車輪の位置まで確認していた。
王国騎士の紺色の旅装。
胸や肩を覆う軽い革鎧には、飾りらしい飾りがない。腰には王宮から支給された普通の鉄剣が一本。
世界最強の剣士には、あまりに地味な装備だった。
「もう休憩か」
「座席の固定金具が緩んでいます」
「座席なら、壊れてから交換すればいい」
「壊れた瞬間に、座っている俺たちも落ちます」
「私は落ちない」
「俺は落ちます」
「なら、トーマだけ床へ座ればいい」
「そういう解決を求めていません」
御者台との仕切りから、茶色い髪の男が顔を出した。
「お二人とも、王都を出てからずっと会話が続いていますねえ」
護衛騎士のカイ・ルーデンだ。
二十七歳。
日に焼けた顔に、笑うと細くなる琥珀色の目。無造作に切った茶髪は、前髪の一部だけがいつも右へ跳ねている。
騎士らしく肩幅は広いが、身体の線は重装兵より軽い。鎧も胸と前腕だけを守る簡素なもので、走ることを前提にしているらしい。
左耳の上端が少し欠けていた。
本人によれば、小型の羽蜥蜴に「少しかじられただけ」らしい。
「意見が合わないだけです」
俺が答えると、カイは白い歯を見せて笑った。
「意見が合わなくても話が続くなら、相性は悪くありません」
「カイ」
御者台から低い声が飛ぶ。
「後ろを見るな」
「御者は別にいますよ、隊長」
「だからといって、お前が後ろを向いていい理由にはならん」
マレク・トーン。
四十二歳。
今回の護衛隊長だ。
短く刈った黒髪には白いものが混じり、四角い顎には剃り残した髭が薄く浮いている。
鼻筋は一度折れたのか、わずかに左へ曲がっていた。右の眉からこめかみにかけて古い傷が走り、そのせいで黙っているだけでも不機嫌そうに見える。
カイより一回り厚い体格。
使い込まれた革鎧の上から灰色の外套を羽織り、左腕には小型の丸盾を固定している。
王都を出てから、彼は休憩のたびに馬、人員、水、食料、車輪を確認していた。
同じことを、何度も。
それを面倒だと思う人間もいるだろう。
俺は、少し安心していた。
「固定金具が外れかけています」
俺が言うと、マレクは迷わなかった。
「馬車を止めろ」
御者が手綱を引く。
馬車は街道の端へ寄り、ゆっくり停止した。
セラがわずかに眉を上げる。
「本当に止めるのか」
「壊れると分かっている物を走らせる理由はない」
マレクは馬車を降りながら答えた。
背はセラより少し高い程度だが、地面へ立つと身体が大きく見えた。重心が低く、止まっているだけで押しても動かなそうな立ち方をしている。
「急ぐことと、雑に扱うことは違う」
前世の工場にも、設備を停止させる権限はあった。
異常を見つけた者は、誰でもラインを止めてよい。
壁にも、作業手順書にも、そう書かれていた。
実際に止めれば、その瞬間から質問が始まった。
本当に止める必要があったのか。
損失はいくらになる。
代わりの部品はあるのか。
納期には間に合うのか。
責任者へ説明できるのか。
止める権限はあった。
止めた後の責任を、一人で背負えるなら。
俺は工具箱を持って馬車を降りた。
王都周辺の平原は、いつの間にか低い丘と林へ変わっている。
街道の両脇には、一定の間隔で黒い石柱が立っていた。
魔物避けの境界石だ。
表面に刻まれた術式が、淡い青色の光を放っている。
「この先は林が街道へ近い」
マレクが馬の脚を確認しながら言った。
大きな手で蹄を持ち上げる動作は慎重だった。戦場で剣を振るう手というより、壊れやすい道具を扱う職人のように見える。
「全員、馬車から離れすぎるな」
「魔物が出るんですか」
「出ない日の方が多い」
「出る日もある?」
「ある」
簡潔だった。
不安を和らげるための嘘はつかないらしい。
俺は座席の金具を締め直した。
赤く見えていた亀裂が薄くなる。
完全には消えない。
すでに金具そのものが歪んでいた。
王都へ戻ったら交換が必要だ。
黒い記録帳を開き、日時と場所、異常内容を書き込む。
リゼットから渡されたものだ。
セラが横からのぞき込んできた。
銀髪が俺の肩へ触れそうな距離まで近づく。
本人には、他人との距離を測る感覚が少し欠けている。
「座席まで記録するのか」
「確認した異常は残しておきます」
「その調子では、ラグナへ着く前に紙がなくなる」
「あなたが物を壊さなければ大丈夫です」
「ふん。先に壊れかけたのは馬車だ」
「道具へ責任を押しつけないでください」
帳面を閉じようとしたとき、街道の先に細い赤線が見えた。
座席ではない。
馬車でもない。
次の境界石から、地面の中へ伸びている。
「待ってください」
俺は街道を進んだ。
三十歩ほど先。
ほかの境界石と同じ形をしているが、術式の光が弱い。
近づくにつれ、石の内部を走る亀裂が見えてきた。
《対象名称――街道境界石》
《状態――機能停止寸前》
《破損原因――内部への異物挿入》
《自然劣化ではない》
「壊れているのか」
セラが後ろからついてくる。
「壊された可能性があります」
石の根元へしゃがむ。
表面には殴った跡も、刃物の傷もない。
土を少し掘ると、石の根元に細い穴が開いていた。
その奥に黒い金属が見える。
境界石の内側から術式を乱し、亀裂を広げている。
自然に入る位置ではなかった。
前世で提出した不具合報告書を思い出した。
原因欄には、設計上の肉厚不足と書いた。
翌朝、返却された報告書には赤字が入っていた。
作業者の取扱不良。
設計を原因にすれば、図面を変更し、在庫を調べ、出荷済み製品まで確認しなければならない。
作業者を原因にすれば、注意書きを一枚増やせば終わる。
安い再発防止策とは、たいてい弱い人間へ責任を移すことだった。
「触るな」
マレクが言った。
いつの間にか、丸盾を左腕へ通している。
「罠かもしれん」
「確認します」
俺は工具箱から細い鉗子を出した。
黒い金属の周囲へ、乱れた魔力が絡みついている。
《異物除去時――残留魔力放出》
《人体への重大な影響なし》
「抜きます」
「全員、下がれ」
マレクが即座に指示する。
カイ、御者、馬丁が距離を取った。
セラだけが動かない。
彼女は俺の半歩後ろへ立ち、右手を剣の柄へ添えていた。
「セラも下がってください」
「何か起きたとき、誰が守る」
「重大な危険はないと見えています」
「なら、近くにいても問題ない」
説得を諦めた。
鉗子で黒い金属をつかみ、ゆっくり引き抜く。
指ほどの長さの杭だった。
表面には細い溝が何本も刻まれている。
最後まで抜いた瞬間、境界石から青白い光が漏れた。
乾いた音がする。
石の上部へ亀裂が走った。
セラが俺の襟をつかみ、後ろへ引く。
細い腕からは想像できない力だった。
俺の靴が地面を滑った直後、境界石の上半分が崩れ落ちた。
土煙が上がる。
「重大な危険はないと言ったな」
セラが俺を見下ろす。
風に乱れた銀髪の隙間から、青灰色の目だけが冷たく光っていた。
「当たらなければ重大ではありません」
「当たりそうだった」
「だから助かりました」
セラは何か言おうとして、やめた。
代わりに、俺の手にある黒い杭へ目を向ける。
「これを入れた者がいる」
「はい」
そのとき、林の奥で枝の折れる音がした。
一度ではない。
複数。
重い何かが、こちらへ近づいてくる。
マレクが剣を抜いた。
腰の鞘から現れたのは、刃幅の広い片手剣だった。華美な装飾はなく、何度も研ぎ直された跡がある。
「全員、馬車へ戻れ!」
御者と馬丁が馬の手綱を取る。
カイも腰の細身剣へ手を伸ばした。
普段の笑顔は消えていた。
林から最初に飛び出したのは、魔物ではなかった。
小柄な馬だ。
鞍が片側へ傾き、口元に白い泡を浮かべている。
その背に、赤茶色の髪をした少女がしがみついていた。
肩までの髪は乱れ、片側だけほどけた三つ編みが頬へ張りついている。
小麦色の肌。
鼻の周りには薄いそばかすがあり、大きな緑褐色の目は恐怖で見開かれていた。
灰色の作業着は身体に合っておらず、袖を何度も折り返している。支給された大人用を着ているのだろう。
背中には、本人の上半身ほどもある細長い文書筒を背負っていた。
「止めて!」
少女が叫んだ。
「後ろにいる!」
馬が壊れた境界石の前で脚をもつれさせた。
少女の身体が鞍から投げ出される。
カイが走った。
軽装の理由が分かった。
長い脚で一気に距離を詰め、落下する少女を抱える。勢いを殺すため、自分の肩から街道へ転がった。
次の瞬間、林から三頭の魔物が飛び出した。
猪に似ている。
しかし、普通の猪より二回り大きい。
背中は岩を重ねたような灰色の皮膚で覆われ、ところどころに苔のような緑色の毛が生えている。
下顎から突き出した黒い牙は、根元だけで俺の腕ほど太い。
岩牙猪。
倉庫に保管された牙なら見たことがある。
生きて動く姿は初めてだった。
一頭が馬車へ突進する。
マレクが正面へ出た。
厚い身体を沈め、丸盾を斜めに構える。
牙を真正面から止めるのではない。
盾の曲面へ滑らせ、頭の向きを外側へそらす。
同時に脇腹へ剣を入れた。
刃が灰色の皮膚に弾かれる。
衝撃でマレクの靴が土を削ったが、体勢は崩れない。
「背は斬るな! 腹か脚を狙え!」
セラはすでに動いていた。
外套が銀髪と一緒に後ろへ流れる。
普通の鉄剣を抜き、別の一頭へ向かって走る。
岩牙猪が頭を下げた。
牙の先が、セラの腹へ向く。
衝突の直前、セラは半歩だけ外へずれた。
大きく跳ばない。
ぎりぎりまで引きつけ、魔物の視界から消える。
細身の身体を牙の外側へ滑らせるように通し、すれ違いざま、前脚の内側へ剣を走らせた。
硬い背中ではなく、関節の柔らかい部分。
血が飛び、岩牙猪が前のめりに倒れた。
鉄剣に特別な光はない。
魔法も使っていない。
技術だけだった。
残る一頭が、少女へ向きを変える。
カイが少女を押し出し、自分が前へ出た。
「カイ!」
マレクが叫ぶ。
岩牙猪の牙を、カイは細身剣の腹で受けた。
マレクのように流せる角度ではない。
完全には止められない。
衝撃で身体が浮き、街道へ背中から叩きつけられた。
それでも、すぐに立ち上がった。
茶髪についた土を払う余裕もない。
「大丈夫です」
胸を押さえながら、カイは笑う。
口元は笑っているが、琥珀色の瞳は見開かれていた。
「まだ痛くない」
まだ。
その言葉と同時に、俺の視界へ赤い表示が広がった。
《右肋骨――四本骨折予定》
《右肺――損傷予定》
《損傷発現まで――八秒》
「八秒!」
俺は咄嗟に叫んだ。
カイが一瞬だけこちらを見た。
「見えるんですか」
「七秒です!」
「便利ですねえ」
「話をしている場合ですか!」
カイは少女を抱き上げた。
折れているはずの肋骨で。
傷はすでに受けているのに。
「六!」
カイが馬車へ走る。
「五!」
少女を馬車の陰へ押し込む。
「四!」
自分も身を伏せる。
「三!」
右手で胸を押さえた。
いつも上がっていた口角が落ちる。
「二!」
唇が震えた。
「一」
鈍い音がした。
カイの身体が大きく跳ねる。
十秒前に受けた衝撃が、一度に現れた。
口から短い息が漏れ、その場へ崩れる。
「動かさないでください!」
俺はカイの横へ走った。
日に焼けた顔から血の気が失われている。
呼吸が浅い。
右胸の動きが弱い。
《右肺――軽度損傷》
《急激な移動時――損傷拡大》
《現時点で死亡危険なし》
治し方は分からない。
だが、悪化する条件は分かる。
「起こさないで。身体をひねらないようにしてください」
馬丁がカイの身体を支える。
少女は青ざめていた。
そばかすの浮いた頬から色が消えている。
「私を助けたから……」
少女が震える声で言った。
「……あとで謝ってもらいます」
カイが苦しそうに答えた。
「今は、静かにしていてください」
林の奥から、さらに低い唸り声が響く。
四頭目。
それまでの岩牙猪より一回り大きい。
背中の高さは、人間の胸ほどある。
体表の灰色はさらに濃く、古い傷が何本も白く残っていた。
右目が白く濁り、首の側面には黒い杭が深く刺さっている。
境界石から抜いたものと同じ色だ。
大型個体が地面を踏み鳴らす。
先ほど倒れた岩牙猪が、痛む脚を引きずりながら再び頭を上げた。
動きが不自然だった。
傷ついた獣なら逃げる。
それなのに、馬車へ向かおうとしている。
大型個体の首に刺さった杭から、細い魔力線が伸びていた。
ほかの三頭へ。
《対象名称――魔物誘導杭》
《接続対象――四》
《行動指示――街道上の人間を襲撃》
《中継対象――大型岩牙猪》
《構造上の弱点――第三刻溝》
魔物が群れを率いているのではない。
杭が大型個体を中継点として、ほかの個体を動かしている。
「セラ!」
彼女が大型個体へ向き直る。
右手の鉄剣は低く下げられていた。
肩に力は入っていない。
銀髪の間からのぞく横顔にも、焦りはなかった。
「魔物ではなく、首の杭を壊してください!」
「どこを斬る」
「右耳の後ろ! 杭の中央から三本目の溝です!」
大型個体が突進した。
セラは剣を正面に構える。
「正面から受けないでください!」
「受けない」
岩牙猪の牙が迫る。
セラは直前まで動かなかった。
あと一歩。
あと半歩。
牙が身体へ届く寸前、彼女は魔物の右側へ踏み込んだ。
外へ逃げるのではない。
牙と首の間へ入り込む。
銀髪が牙の先をかすめる。
鉄剣の刃を杭へ当てる。
一撃目。
甲高い音が響く。
杭は折れない。
大型個体が首を振る。
セラの肩へ牙が近づく。
彼女は剣を引かず、鍔を杭へ押し当てたまま身体を沈めた。
魔物が自分で振った首の力が、剣を通じて杭へ加わる。
三本目の溝に亀裂が入った。
セラが手首を返す。
二撃目。
黒い杭が折れた。
大型個体の脚から、突然力が抜ける。
巨体が街道を滑り、土煙を上げて横倒しになった。
同時に、ほかの岩牙猪も動きを止める。
一頭は周囲を見回し、林へ逃げた。
脚を負傷した個体は、その場で怯えるように後退する。
マレクが剣を下げた。
「追うな」
「殺さないのか」
セラが尋ねる。
乱れた銀髪を耳へかけながらも、視線は魔物から外していない。
「必要がない」
マレクは倒れた大型個体を見る。
呼吸はある。
「操られていただけなら、魔物だから殺す理由にはならん」
セラも剣を納めた。
俺は少し意外だった。
魔物は危険だ。
人間を襲うこともある。
だが、危険だからといって、すべてが同じではない。
前世では、不良品と判定された部品は赤い箱へ入れられた。
原因が設計でも、設備でも、輸送でも、最後には同じ札が貼られる。
不適合品。
分類は必要だ。
だが、分類だけで原因まで決めた気になると、次も同じ物ができる。
「名前は?」
マレクが少女へ尋ねた。
少女は一度息を整えた。
乱れた三つ編みを背中へ払い、泥のついた作業着の襟を正す。
まだ膝は震えているのに、背筋だけは無理に伸ばした。
「ネネ・アシュ。十五歳。第四伝信塔所属の伝信士です」
「その格好……見習いですか」
カイが地面に横たわったまま言う。
ネネが緑褐色の目をつり上げ、彼をにらむ。
「見習いでも伝信士です」
「元気そうで何よりです」
「あなたは元気じゃないでしょ」
「それは確かに」
マレクがネネの前へしゃがむ。
大柄な彼が目線を合わせると、威圧感が少しだけ薄れた。
「塔で何があった」
ネネの表情が変わった。
眉間に力が入り、そばかすの浮いた鼻がわずかに震える。
「今朝、灰色の外套を着た人たちが来た」
「人数は?」
「五人。巡回官だと言った。身分証も持ってた。でも塔長が、印の位置が違うって気づいた」
「それから?」
ネネは唇を強く結んだ。
「塔長が扉を閉めようとした。でも、一人が先に中へ入ってた」
「塔の者は?」
「分からない」
声が小さくなる。
「塔長は倒れた。動いてなかった。私は荷物用の通路から逃げた」
「追ってきたのは魔物だけか」
「灰色の外套の一人が、黒い杭を魔物に刺してた。刺されたら、みんな同じ方向を向いた」
俺は折れた誘導杭を拾った。
表面に、見慣れない紋章が刻まれている。
円。
内側に九つの小さな刻み。
ただし、一か所だけが空白だった。
マレクの曲がった鼻筋の脇へ、深いしわが寄る。
「知っている紋章ですか」
「情報書で一度だけ見た」
マレクは杭へ触れずに答えた。
「欠番結社《空座》」
「空座?」
「古代遺物や神造兵器を、人間が所有することへ反対している集団だ」
セラが杭を見る。
「神造兵器を破壊する組織か」
「いや、違うらしい」
マレクは首を横へ振った。
「彼らは、神造兵器を人間から取り上げ、本来の管理へ戻すべきだと主張している」
「本来の管理?」
「神造兵器は九つで一つ。人間が勝手に分けて使ったため、世界に戦争と魔物災害が生まれた、と」
セラの視線が止まる。
青灰色の瞳が、欠けた九つ目の刻みを映していた。
「神造兵器は八つだろう」
「王国の公式記録ではな」
「空座は九つあると?」
「九つ目の空席があると主張している」
「根拠は」
「訳あって結社の一人を捕らえ尋問したが、詳しくは知らなかった。古代の管理盤に九つの席があり、一つだけ空いている。その程度だ」
「九つ目も武器なのか」
「武器ではない、と言っていた」
セラは折れた杭から目を離した。
「根拠のない話だな」
そう言った彼女の隣で、俺だけが返事をできなかった。
神造兵器・第九号。
統制鍵。
断界剣が折れた直後、王宮の大広間で見た表示が頭の中に浮かぶ。
空座は知っている。
どこまでかは分からない。
だが、少なくとも九つ目が存在することを知っている。
「ほかに聞いたことは?」
俺はネネへ尋ねた。
少女は額へ手を当て、記憶を探った。
細い指の爪には、伝信板の煤らしい黒い汚れが残っている。
「剣が折れたって言ってた」
全員が黙る。
「そのあと、一人が……空いていた席が歩き出したって」
「席が歩くのか」
セラが真顔で言う。
「私に聞かないでよ」
「責めていない」
「責めてる顔だった」
「普通の顔だ」
ネネは納得していなかった。
俺も笑えなかった。
空いていた席。
歩き出した。
王都を出たセラを指しているのだとしたら、空座の目的はラグナだけではない。
彼らは、俺たちがここを通ることを知っていた。
境界石を壊し、魔物を配置し、反応を見ていた。
誰が。
どこから。
林の上で、羽音がした。
一羽の黒い鳥が、街道を見下ろす枝へ止まっている。
黒嘴烏。
濡れたような黒い羽と、名前の由来になった太い嘴。この辺りでは珍しくない鳥だ。
だが、その右目から細い赤線が伸びていた。
線は鳥の身体へつながっているのではない。
右目の少し上、枝との間に小さな結び目を作り、そこから林の奥へ消えている。
《対象名称――黒嘴烏》
《状態――観測契約接続中》
《視覚情報――外部共有》
《契約結節点――右眼上方、枝との交差部》
《破断条件――結節点への瞬間衝撃》
「セラ」
俺は声を落とした。
「木の上の黒い鳥。誰かが、あの鳥の目を通してこちらを見ています」
セラが顔を動かさず、視線だけを枝へ向ける。
黒嘴烏がこちらの気配に気づき、翼をわずかに広げた。
「落とすか」
「鳥は狙わないでください」
「では、何を狙う」
「右目から、指二本分ほど上です」
俺は黒嘴烏を刺激しないよう、さらに声を落とした。
「枝と重なる位置に、契約の結び目があります。そこを切れば、鳥を傷つけずに接続だけを外せます」
セラが目を細める。
「私には見えない」
「俺には見えます。ただ、俺では接続を断つことはできません」
セラは黒嘴烏を見上げたまま、足元へ右手を伸ばした。
街道に落ちていた小石を一つ拾い上げる。
親指の爪ほどの大きさしかない、何の変哲もない石だった。
「何を?」
思わず尋ねると、セラは小石を掌の上で一度だけ転がした。
「黙って見ておけ」
短く答える。
それから半歩、左へ移動した。
俺が示した位置を確かめるように、黒嘴烏と枝を見比べる。
「鳥の右目から上へ指二本。そのまま枝と重なる場所です」
「分かった」
セラは小石を小指の先へ載せた。
曲げた小指を、親指で上から押さえる。
妙な構えだった。
石を投げるなら、普通は腕を振る。
指で弾くにしても、人差し指や中指を使うはずだ。
だが、セラの手には迷いがない。
まるで、その小石を使うための正しい構えが、最初から決まっていたようだった。
《完全適合》。
あらゆる武器を、手にした瞬間に使いこなす異能。
俺はこれまで、剣や槍、弓のように、武器として作られた物へ働く能力だと思っていた。
だが、違う。
セラが小石を武器として選んだ瞬間、《完全適合》はその扱い方を導き出している。
石の重さ。
わずかに偏った重心。
表面の凹凸。
砕けずに耐えられる力。
空気の中で姿勢を崩さない回転。
狙った一点へ届かせるための射出角度。
普通の人間なら何度試しても分からない条件を、セラの指は最初から知っている。
小指の角度が、わずかに下がった。
俺にだけ見える赤い結び目と、小石の進行方向が重なる。
「そこです」
黒嘴烏が翼を広げた。
飛び立とうとした、その瞬間。
セラの親指が小指を解放した。
破裂音がした。
何が起きたのか、目では追えなかった。
セラの指先から、小石が消えている。
次の瞬間、黒嘴烏の右目の上で、赤い結び目が弾けた。
契約線が、強く張った糸のように切断される。
小石は鳥の羽にも、止まっていた枝にも触れていなかった。
さらに奥にある木の幹へ、半分以上めり込んでいる。
黒嘴烏は驚いて枝を蹴り、林の向こうへ飛び去った。
俺はしばらく、幹に刺さった小石を見つめていた。
前世で本物の銃を撃ったことはない。
それでも、今のものが投石ではなかったことは分かる。
セラの指から放たれた瞬間、ただの小石が銃弾になった。
魔法で硬くしたわけではない。
小石そのものが変化したわけでもない。
形も、重さも、拾い上げる前と同じだった。
変わったのは、扱う者だけだ。
力が強いだけなら、石は指の間で砕ける。
狙いが正確なだけなら、あの速度は出ない。
速いだけなら、鳥まで傷つける。
必要な一点へ。
必要なだけの力を。
最も適した方法で通した。
それらすべてが、完全に一致していた。
「切れました」
ようやく声が出た。
セラは小指を一度曲げ、黒嘴烏が消えた方角を見る。
「鳥は無事か」
「はい。接続だけが切れています」
「ならいい」
何事もなかったように手を下ろす。
俺には、契約の結び目が見えた。
だが、それを切る技術がない。
セラには結び目が見えなかった。
それでも、俺が示した見えない一点を、拾ったばかりの小石で正確に撃ち抜いた。
セラ・ヴァルクは、あらゆる武器を使いこなすのではない。
彼女が武器として手に取った瞬間、どんな物でも武器として完成してしまう。
剣でなくてもいい。
槍でなくてもいい。
小石一つあれば、それで十分だった。
断界剣アークを折った姿を見て、彼女の力を理解したつもりでいた。
違った。
世界最強の剣士という呼び方さえ、この人の力を狭く説明しすぎている。
「見ていた者には、こちらが気づいたと伝わったでしょう」
俺が言うと、セラは小石がめり込んだ幹を一度だけ見た。
「それでいい」
「次は鳥の目を借りず、自分の目で見に来いという警告だ」
セラは林へ背を向けた。
―――
夕方、俺たちは街道沿いの中継宿駅へ到着した。
石造りの小さな宿舎と、馬を交換するための厩舎。
伝信塔ほど高くはないが、屋根には短符号を受け取るための受信板が立っている。
治療室へ運ばれたカイは、寝台へ横たえられた。
白髪の治療師が、彼の首から金属札を外す。
七十歳に近い女性だった。
小柄で背は丸まっているが、薄い茶色の目は針のように鋭い。白髪は後頭部で固くまとめられ、腕まくりした袖からは、薬草の染みがついた細い腕が伸びていた。
「異能登録札を確認する」
札の表面を節くれだった指でなぞり、刻まれた文字を読む。
「第一級異能《後払い》。物理損傷の発現を十秒遅延。毒、窒息、魔力枯渇は対象外」
ネネが驚いた顔をする。
「第一級なの?」
「何です、その顔」
カイが答える。
日に焼けた頬は青ざめ、額には汗が浮いている。それでも、軽い口調だけは崩さない。
「第一級って、弱い能力じゃないの?」
治療師が鼻を鳴らした。
「影響範囲の区分だ。本人一人へ作用するから第一級。弱いという意味ではない」
治療師は札を裏返す。
「登録時は、刃物による損傷だけではなかったか」
「最初はそうでした」
カイが息を整えながら言う。
「今は打撃も、傷として送れます」
「時間は伸ばせたのか」
「いいえ。十秒は変わりません。何を損傷として扱えるかが増えただけです」
「再検査を受けろ。登録と実態が違えば、次の治療師が判断を誤る」
「王都へ戻ったら」
「今回、生きて戻れればな」
治療師はカイの胸へ手を当て、回復魔法を流し始めた。
乾いた掌の下から、淡い緑色の光が広がる。
カイが小さく顔をしかめる。
「能力を使った時は平気なのに、治療は痛いんですねえ」
「痛いのは治療ではない。十秒前に受けた傷だ」
「分けて考えてもらえませんか」
「身体は分けて考えない」
能力者本人が知っている説明。
登録札に書かれた説明。
実際に起きた現象。
三つが同じとは限らない。
前世の設備台帳にも、正常と書かれた機械が何台もあった。
点検した時点では正常だった。
その後に条件が変わった。
改造された。
使い方が変わった。
記録だけが古いまま残った。
記録が間違っているとは限らない。
正しかった時期が、過ぎているだけだ。
「カイはここへ残す」
治療室の外で、マレクが言った。
廊下の狭さのせいで、厚い肩が壁へ届きそうだった。
「治療師の許可が出るまで動かさん。明日以降の移動には耐えられない」
「護衛が一人減ります」
俺が言う。
「怪我人を一人増やしたまま進むよりいい」
マレクは迷わなかった。
「人間を、まだ動けるという理由だけで戦力に数えるな」
その言葉が、胸に刺さった。
前世では、歩けるかどうかが出勤可能の基準だった。
熱があっても。
手首を痛めていても。
昨日の夜勤から眠っていなくても。
倒れていない人間は、働ける人間として数えられた。
マレクは治療室の扉の前に立つネネへ顔を向けた。
乱れていた三つ編みは結び直されていたが、左右の長さが少し違っている。
「お前も、ひとまずこの宿駅に残れ」
「私はラグナへ行く」
即答だった。
「明朝、西へ戻る公用便が出る。宿駅の護衛をつけて王都の伝信局まで送る。第四伝信塔が襲われたことを、正式に証言しろ」
「王都へ戻っている時間なんてない」
「襲撃を生き延びた証人を、さらに危険な場所へ連れていく理由もない」
「ある」
ネネは背負っていた文書筒を胸の前へ抱えた。
「第四塔とラグナの受信塔で使う非常符号は、七日ごとに変わる。今週の符号表を作ったのは塔長だけど、清書を手伝ったのは私」
「符号表も奪われたのか」
「確認できてない。でも、灰色の外套の人たちは、配置図が入った保管箱を開けてた。同じ箱に符号台帳もあった」
マレクの目が細くなる。
「符号を奪われていたら、空座はラグナへ偽の信号を送れる」
ネネは言った。
「退避命令も、開門の合図も」
「符号の内容を、ここで報告書に書け」
「内容だけじゃ足りない」
ネネは首を横へ振った。
「本物の信号には、塔ごとの癖がある。第四塔は送信板の三列目が少し遅れる。塔長が何度直しても、半呼吸だけ遅れるの」
「記録を見れば分かるのか」
「第四塔から送ったものか、誰かが符号だけをまねたものかは分かる」
「お前にしか判断できない?」
「塔長なら分かる。でも、塔長は……」
そこで声が止まった。
ネネは一度唇を噛み、無理に続けた。
「今、動ける第四塔の人間は、たぶん私だけ」
「それに、兄がラグナにいる」
ネネはマレクを見上げた。
大人用の作業着の袖から、握りしめた小さな拳だけが出ている。
「守備隊の伝令。今朝、ラグナへ戻る予定だった」
「それは任務上の理由ではない」
「分かってる!」
ネネの声が廊下へ響いた。
すぐに唇を噛む。
緑褐色の目には涙が浮かんでいた。
泣かないように、無理に見開いている。
マレクはしばらく少女を見た。
厳つい顔のどこにも、分かりやすい同情は浮かばない。
「宿駅長に、西行きの公用便と、ラグナ方面の街道状況を確認する」
「じゃあ、連れていってくれるの?」
「まだ決めていない」
「今決めて」
「今のお前は、襲撃から逃げてきた直後だ。恐怖と疲労の中で判断している」
「大人だって同じでしょ」
マレクは答えなかった。
否定できなかったのかもしれない。
「同行させるなら、保護する子どもとしてではない」
マレクは言った。
「偽の信号を見分けるための伝信士として、任務と危険を理解した上で連れていく。必要性を確認し、明朝に決める」
ネネはまだ何か言いたそうにしていた。
「それまでは食べて、眠れ」
「眠れるわけない」
「眠れなくても横になれ。それも任務だ」
ネネは不満そうに顔を伏せたが、それ以上は言い返さなかった。
セラが宿駅の食堂から戻ってきた。
両手に、湯気の立つ木椀を持っている。
銀髪は結び直され、戦闘で乱れた跡はほとんど残っていない。だが、旅装の左肩には岩牙猪の牙がかすめた泥が細く付着していた。
「食事ができた」
「今、その話をしますか」
俺が言うと、セラは当然のように答えた。
「食べずに考えると、判断を誤る」
一つの椀をネネへ渡す。
豆と根菜のスープだった。
ネネは受け取らない。
「いらない」
「手が震えている」
「寒いだけ」
「なら温かいものを持て」
セラは強引に椀を握らせた。
ネネはしばらく抵抗したが、やがて小さく息を吐いた。
「ありがとう」
「礼は食べてからでいい」
セラは残った椀を俺へ差し出した。
「これは俺の分ですか」
「違う。私の二杯目だ」
「では、なぜ渡したんです」
「帳面を書くなら持っていろ」
俺は木椀を持たされた。
セラは立ったままスープを飲み始める。
細身の身体のどこへ入っているのか分からない速さで、椀の中身が減っていく。
少しだけ、宿駅の空気が緩んだ。
旅がずっと悲惨なことばかりなら、人間は進めない。
食事をして。
くだらない話をして。
次の日の支度をする。
さきほどの鳥の一件を思い出す。
誰かが、今もこちらを見ているかもしれない。
欠番結社《空座》。
九つ目の空席。
ラグナを覆った城護盾。
俺は窓の外を見た。
北東の空に、薄い灰色の雲が広がっている。
その向こうにラグナがある。
到着まで、まだ二日。
―――
街道から離れた岩山の上で、一人の女が右目を押さえていた。
ノア・ヴェイド。
二十四歳。
腰まで届く淡い灰色の髪を、黒い紐で緩く束ねている。
細面の白い顔にはほとんど血色がなく、伏せた左目の睫毛まで灰色に近い。黒い旅装は身体の線が分からないほどゆったりとしており、首元から鼻の下まで薄い布で覆っていた。
指の間から、一筋の血が頬へ流れている。
ノアはゆっくりと右目を開いた。
本来は薄い紫色の瞳だった。
今は白い霞がかかり、焦点が定まっていない。
「黒嘴烏との接続を切られました」
隣に立つ男が振り返った。
「女騎士にか」
男――ユーリク・ヘインは三十九歳。
痩せた長身で、灰色の外套の下には作業用の革衣を着ている。
短い暗褐色の髪には煤が染みつき、削げた頬と深くくぼんだ目元が、実年齢より老けて見せていた。
「切ったのは女騎士です」
ノアは目元の血を拭った。
「ですが、接続の位置を見つけたのは少年でした」
「王命調査官、トーマ・リード」
「はい。女騎士には、私の契約線が見えていませんでした。少年が位置を細かく伝え、その指示どおりに切った」
ユーリクは硬くなった右手の指を、左手で一本ずつ曲げた。
節の太い技師の手。
関節は石のように固まり、動かすたび小さな音がした。
「物の亀裂を見るだけではないということか」
「契約の接続と、切れる位置まで見ています」
「厄介だな」
「使い方によっては、私たちよりも」
ノアは霞んだ右目を閉じた。
「女騎士が第九号である可能性は?」
ユーリクが尋ねる。
「高いままです」
ノアは答えた。
「断界剣アークが破壊された時刻に、地下管理盤の第九席が点灯しました。その直後、女騎士は少年と共に王都を出た。そして城護盾バスティオンは、彼女がラグナへ近づくほど出力を上げています」
「まだ確定ではない」
「城護盾バスティオンの中枢が、彼女を上位権限として受け入れれば確定します」
ユーリクは北東へ顔を向けた。
その先に、城護盾バスティオンに閉ざされたラグナがある。
「だから、あの二人を中枢まで導く」
ノアが言った。
「捕らえないのですか」
「無理に連れていけば、第九号は抵抗する。傷つければ、城護盾バスティオンがどう反応するかも分からない」
「では、本人たちの意思で中へ入らせる?」
「少年には、城護盾バスティオンの欠陥が見える」
ユーリクの声は平坦だった。
「外側で何が起きているかを見れば、必ず中枢へ向かう」
ノアは彼の右手を見る。
「あなたは《固定》で、城護盾バスティオンの非常展開を維持している」
「ああ」
「停止命令が出ても、解除されないように」
「三日間だけだ」
ユーリクは硬化した指を外套の中へ隠した。
「その間に、第九号と少年を中枢へ入れる」
風が外套の裾を持ち上げた。
裏側には、小さな文字が何列も縫いつけられている。
六十八年前、地図と記録から消された村人たちの名前だった。
「真実を見せるためですか」
ノアが尋ねた。
「ラグナが守られた代わりに、外の村々が何を失ったかを」
「それだけではない」
ユーリクは否定した。
「第九号を城護盾へ接続する。管理盤の記録が正しければ、彼女には中枢へ上位命令を通す権限がある」
「彼女自身の意思に関係なく?」
ユーリクはすぐには答えなかった。
「選ばせるためには、まず真実を見せる必要がある」
「選んだ結果が、私たちの望むものと違っても?」
今度は、ユーリクが黙った。
ノアはそれ以上追及しなかった。
遠くで、ラグナの方角から低い振動が伝わってきた。
地の底で、巨大な機構が回転している。
ノアが、借りた別の鳥の視界を確かめるように左目を細めた。
「北側の村で井戸の水位が下がっています」
ユーリクの表情がわずかに曇る。
「ラグナの市内は?」
「無傷です」
「そうか」
「このままなら、二日以内に外側の井戸から枯れます」
ユーリクは目を閉じた。
外套の裏側に縫いつけた名前が、風に揺れる。
「だから、彼らには間に合ってもらわなければならない」
ノアは血の跡が残る右目を押さえた。
北東の空を、灰色の雲が覆っていた。
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