第二十八話 危険だから止めるんじゃない
法廷へ戻った時、リゼットはまだ被告人の隣にいた。
休廷中。
主鎖は緩んでいるが、外れてはいない。
被告人の両腕には鎖が残り、その周囲を裁定院の警備官が囲んでいる。
俺は傍聴席へ戻らなかった。
証拠保全担当者と一緒に、裁定官の前へ向かう。
リゼットがこちらを見る。
俺の顔。
証拠保全担当者が持つ記録。
その二つを見て、すぐに立ち上がった。
「何か確認できましたか」
「はい」
俺は記録を渡そうとした。
リゼットの手が途中で止まる。
「あ」
俺も気づいた。
彼女は今、被告人の弁論補佐人だ。
未提出の証拠を自分で受け取り、先に内容を確認する立場ではない。
証拠保全担当者が代わりに裁定官へ提出する。
リゼットは一歩下がった。
「内容の説明をお願いします」
裁定官が言った。
俺は頷く。
「聖律記録院の焼損地点で、裁定再開後に変化を確認しました」
法廷に残っていた者たちの視線が集まる。
カルドもこちらを見た。
両手を組み、親指をゆっくり回している。
「何が変化した」
裁定官が聞く。
「旧い魔力経路に残っていた負荷です」
「旧い経路?」
「現在は使用されていないことになっている経路です。三つの焼損地点すべてを通っていることを確認しています」
「非常時執行路ですね」
リゼットが確認する。
「はい」
傍聴席から小さなどよめきが起きた。
裁定官が手を上げる。
静まる。
俺は続けた。
「裁定再開前は《残留負荷――微量》でした。それが、裁定再開後に《残留負荷――増加》へ変わりました」
「再開と同時か」
「完全な同時とは言えません」
即答した。
「中央塔の鐘を基準にしました。法廷側では、鐘から六呼吸後に裁定開始が宣言され、その直後に主鎖が強く張ったことをカイが確認しています」
壁際の椅子に座っているカイへ視線が集まる。
カイは軽く頭を下げた。
今日はちゃんと座ったままだ。
よし。
「聖律記録院側では?」
「鐘から七呼吸後に、旧経路の負荷増加を確認しました」
裁定官が眉を寄せる。
「一呼吸の差か」
「はい。ただ、鐘が二地点へ届く時間も、数え始めるタイミングも同じとは限りません」
「つまり?」
「近い時刻に起きたことは確認できます。でも、同時だったとまでは証明できません」
少し静かになった。
裁定開始。
負荷増加。
同時。
だから主鎖が原因。
そう言えれば簡単だ。
でも。
まだ言えない。
カルドが口を開いた。
「ならば、今の話だけでは因果は成立しないな」
「はい」
俺は答えた。
ざわめきが起こる。
カルドの眉がわずかに動いた。
「認めるのか」
「確認できてないことは認めます」
「なら、何を提出しに来た」
「もう一つあります」
証拠保全担当者が二枚目の記録を開いた。
俺は言う。
「旧経路の負荷が増えたあと、焼損部に変化が出ました」
「どのような」
「《熱変性――進行》」
法廷の空気が変わった。
「それは何を意味する」
「火災で熱を受けた部分の状態が、今も変わっているということです」
「火は?」
「ありません」
「現場で作業は?」
「していません」
「現在経路は?」
「遮断されたままです」
裁定官が証拠保全担当者を見る。
男が頷いた。
「立会いのもと確認しています。技術観察者の表示そのものは我々には見えません。ただし、観察時刻、対象地点、周辺で作業が行われていなかったことは記録しています」
「その変化は、火災原因を調べる上で影響するか」
俺は一度考えた。
「する可能性があります」
「可能性?」
「どこまで影響するかは、まだ分かりません」
俺は焼けた壁を思い出す。
焼けた深さ。
損傷した絶縁。
残留した負荷。
それらが。
今も変わっている。
「でも」
俺は言った。
「火災当時の状態と、今の状態が同じではなくなっていくことだけは確かです」
今度は誰も喋らなかった。
リゼットが静かに立つ。
「裁定官」
「何か」
「証拠保全に関する申し立てがあります」
カルドの親指を見る。
いつも通り、ゆっくり回り続けている。
「内容を」
「本件裁定に使用されているアレーテイアについて、一時的な《保全停止》を求めます」
法廷が一気にざわついた。
被告人が顔を上げる。
院側の関係者も立ちかける。
「静粛に」
裁定官の声が響く。
カルドだけは座ったままだ。
「理由を」
リゼットが答える。
「裁定中に、事件現場の証拠が変質しているためです」
「アレーテイアが変質させていると立証されたのか」
「いいえ」
即答。
カルドの目が少し細くなる。
「では、なぜ止める」
裁定官より先に、カルドが聞いた。
リゼットが彼を見る。
「裁定再開後に、旧経路の負荷増加と現場の熱変性進行が確認されています」
「相関だ」
「はい」
「因果ではない」
「はい」
「ならば、アレーテイアを停止する根拠には足りない」
カルドは淡々としている。
「火災現場の変質原因が別にある可能性もある。崩落による影響かもしれない。残留熱かもしれない。別系統からの流入かもしれない」
全部。
あり得る。
俺も同じことを考えた。
「原因を確定せずに裁定を止めるなら、今度は裁定そのものを損なう」
カルドが言う。
「被告人はすでに正式裁定の対象だ。主鎖を外せば、現在の裁定状態は中断される。証言、記録、審理の進行にも影響する」
正しい。
カルドがこちらを見る。
「技術観察者」
「はい」
「主鎖が火災現場を変質させていると断言できるか」
「できません」
「アレーテイアが原因だと断言できるか」
「できません」
「ならば」
「でも」
カルドが言葉を切る。
俺は続けた。
「今、原因を調べてる途中です」
「だから?」
「原因を調べるための証拠が、調べてる間にも変わってるんです」
カルドの親指が。
短く。
逆へ回った。
一度だけ。
リゼットが俺の言葉を引き取る。
「私は、危険だから止めろとは言っていません」
裁定官を見る。
「この事件の証拠だから止めろと言っています」
静かな声だった。
「現在進行している変質の原因がアレーテイアであるかどうか。それ自体が、今から確認すべき事項です」
一呼吸。
「その確認が終わる前に証拠の状態が変わり続ければ、原因を確かめる手段そのものを失う可能性があります」
カルドが言う。
「だからといって、被告人に利益のある停止を、被告人側の補佐人が要求するのか」
「要求します」
リゼットは迷わなかった。
「利益相反では?」
「あります」
法廷が静まる。
リゼットは続けた。
「ですから、私に停止の執行権を与えてほしいとは言っていません」
裁定官を見る。
「第三者を指定してください」
「……第三者」
「私は被告人の弁論補佐人です。停止によって被告人が有利になる可能性があります。その判断と執行を、私が行うべきではありません」
「ならば、申し立ても撤回すべきでは?」
カルドが言う。
「いいえ」
「なぜだ」
「証拠が変質しているという事実を知ったからです」
リゼットは机の上の記録を見る。
触れない。
ただ、見る。
「被告人に有利だから提出しない。それも、事実を選ぶことになります」
カルドの親指が、また短く逆へ回った。
「私は」
リゼットが言う。
「証拠が今も変質しているという事実を提出しています」
それだけ。
止めるか。
続けるか。
判断するのは彼女じゃない。
裁定官が長く黙った。
そして俺を見る。
「技術観察者」
「はい」
「停止した場合、原因確認は可能か」
「少なくとも比較できます」
「比較?」
「今は、裁定中に負荷が増えてます」
俺は答える。
「止めたあとに負荷が下がるのか。変わらないのか。それを見れば、一つ条件を外して比べられます」
「下がれば、アレーテイアが原因か」
「そこまでは言えません」
裁定官の眉が動く。
「まだか」
「はい」
「なぜ」
「アレーテイアの使用停止と同時に、別の何かも変わるかもしれないからです」
俺は言う。
「でも、関係を疑う材料は増えます」
逆に。
止めても変わらなければ、主鎖や裁定運用との関係は弱くなる。
どっちでもいい。
欲しいのは、都合のいい結果じゃない。
比較できる条件だ。
「停止によって設備へ危険は?」
裁定官が聞く。
「分かりません」
今度は院側からざわめきが出た。
「分からないのか」
「旧経路がどこまで生きているのか、確認できてないので」
俺は旧図を思い出す。
街路。
広場。
門。
今は使われていないことになっている線。
「だから、いきなり全部を落とすのは反対です」
「では?」
「通常の停止手順で、司法側の使用を一段ずつ落としてください。その間、俺が旧経路の負荷を見ます」
リゼットがすぐに言う。
「その手順の執行も第三者でお願いします」
「当然だ」
裁定官が答える。
カルドが口を開いた。
「もう一点」
全員が見る。
「停止中、被告人の拘束はどうする」
主鎖。
アレーテイアの裁定対象としてつないでおく鎖。
そこを止めるなら、被告人をそのままにしておくわけにはいかない。
裁定官が警備責任者を見る。
「通常拘束へ移行できるか」
「可能です」
「逃走防止に支障は?」
「ありません。警備を増やせば対応できます」
裁定官が頷いた。
被告人は何も言わない。
最初から逃げようとしていない。
それでも。
そこを信用だけで済ませない。
カルドも異議を出さなかった。
裁定官が立つ。
「本件について」
法廷全体が静まる。
「現場証拠が現在も変質している可能性があり、その変質が裁定再開と近接した時刻に進行したことは、複数の立会記録により確認された」
言葉を区切る。
「原因は未確定」
そこを、はっきり言う。
「したがって、本裁定は証拠保全のため一時中断する。神造兵器アレーテイアについて、司法運用系統に限り《保全停止》を命じる」
リゼットが小さく息をのんだ。
裁定官は続ける。
「執行は裁定院直属の証拠保全官が行う。被告人は通常拘束へ移行。トーマは観察のみ。セラ・ヴァルクは執行者を護衛し、妨害があれば排除せよ」
「承知した」
セラの声から、それまでの軽さが消えた。
―――
停止作業は、中央裁定院の地下で行われることになった。
俺。
セラ。
裁定院直属の証拠保全官二名。
それから、設備を操作するために選ばれた本件とは無関係の保守技師一名。
リゼットは来ない。
カルドも来ない。
被告人はすでに通常拘束へ移されている。
主鎖が外された時、男は何も言わなかった。
ただ。
手首に残った赤い跡を見ていた。
地下へ降りる。
石の階段。
さらに下。
空気が冷たい。
壁の中を通る鎖の音が、時々遠くで響く。
「緊張してるか」
セラが聞く。
「してます」
「珍しいな」
「いつもしてますよ」
「そうは見えん」
「セラの前で慣れただけです」
「どういう意味だ」
「そのままです」
証拠保全官が振り返ったので、俺たちは黙った。
停止室は、重い鉄扉の向こうにあった。
扉には裁定院の紋章。
その中央を、太い鎖の意匠が横切っている。
保守技師が鍵を差し込む。
回す。
開かない。
「……おかしい」
もう一度。
鍵は回る。
でも、扉が動かない。
証拠保全官が聞く。
「封印されているのか」
「いいえ。通常の保全鍵です」
技師が扉へ手を当てる。
「内側から固定されています」
俺とセラが目を合わせた。
「中に誰か?」
証拠保全官が剣へ手をかける。
「停止室は無人のはずだ」
その時。
扉の向こうから、金属が一度鳴った。
続いて。
声。
「わざわざ止めるん?」
俺の背中が冷たくなった。
聞いたことがある。
静かな。
少しだけ訛った声。
セラの目が鋭くなる。
「開けろ」
扉の向こうで、小さく笑う気配。
「嫌や」
「裁定院の正式な保全命令だ」
証拠保全官が言った。
「扉を開放しろ。従わない場合は拘束する」
沈黙。
それから。
「正式な命令、なあ」
金属が、もう一度鳴る。
俺は扉を見る。
《不具合鑑定》。
表示が浮かぶ。
《司法制御系――稼働》
《停止入力――未到達》
その下。
見たことのない表示が出た。
《旧系統接続――待機》
息が止まる。
待機。
休止じゃない。
「セラ」
「見えたか」
「はい」
「何だ」
俺が答えようとした。
その前に、扉の内側から錠が外れた。
ゆっくり。
扉が開く。
白い上着。
金髪。
銀色の耳飾り。
中央裁定院の二階で会った男が、停止装置の前に立っていた。
俺たちを見る。
最初に俺。
次に証拠保全官。
最後に。
セラ。
男の視線が動く。
足元。
腰。
肩。
その順番。
「また会ったな」
セラが言った。
「せやな」
「今度は逃がさない」
「逃げるって言うたか?」
セラが一歩前へ出る。
男の視線が、その足へ落ちる。
「命令に従え」
「嫌や言うたら?」
セラの右手が剣の柄へ伸びた。
その動きに合わせて、左肩がわずかに沈む。
高位治癒士の治療を受けた傷は、もう日常の動きを妨げるほどではない。
それでも。
深いところに残った痛みまで、完全に消えたわけじゃない。
セラは何も言わず、立ち位置を半歩だけ変えた。
男の視線が。
その肩を追う。
今度は拘束だけじゃない。
裁定院の正式命令がある。
証拠保全を妨害する者を、排除する命令。
男はまだ笑っていた。
「ほな」
金髪の男が言う。
「今度は、ちゃんと見せてもらおか」
セラの剣が、鞘から抜けた。




