第二十七話 正常なのに、壊れていく
三つの焼け跡すべてを、非常時執行路が通っている。
それが分かったからといって、火災の原因が分かったわけじゃない。
むしろ、次に確かめなければならないことが増えた。
図面の上で交わっている。
それだけなら、ただの線だ。
実物がどうなっているのか。
そこを見なければならない。
翌朝。
俺とセラは、裁定院の証拠保全担当者二人と一緒に、聖律記録院へ戻っていた。
火災現場へ入る許可は、昨日確認した三地点だけ。
東側補助路、中央記録路、南側補助路。
どれも被告人が定例保守で遮断した経路であり、強い焼損が残っている場所だ。
俺は巻いた旧系統図を抱えたまま、東側の焼け跡の前に立った。
壁はまだ黒い。
表面の煤は一部取り除かれているが、石の奥まで色が変わっている。
「ここで間違いありません」
証拠保全担当者が記録を確認する。
俺は現在図と旧図を床へ広げた。
二つの図面を見比べてから、壁を見る。
「使います」
誰に言うでもなくそう言って、《不具合鑑定》を発動した。
視界の中で、壁や床を走る魔力経路が浮かび上がる。
手前に一本。
現在使われている東側補助路。
そのさらに奥に、もう一本。
昨日、図面で確認した位置と近い。
「……あります」
セラが俺の横から壁を見る。
「旧い方か」
「たぶん」
「断定しないのか」
「鑑定に『非常時執行路』って名前が出るわけじゃないので」
俺に見えるのは、そこに経路があるということ。
何のために作られたのか。
いつ作られたのか。
誰が使ったのか。
そういう履歴までは出てこない。
旧図と位置が合う。
だから、旧執行路の可能性が高い。
今言えるのはそこまでだ。
俺は視線を少しずつ動かした。
現在経路と旧い経路は、ずっと接触しているわけじゃない。
離れている場所もあれば、近くを並んで走る場所もある。
そして。
焼損が最も深い場所で、二本の距離が急に近くなった。
表示が浮かぶ。
《局所絶縁――劣化》
「……絶縁」
俺が呟く。
「何だ」
「二つの経路を隔ててる部分が傷んでます」
証拠保全担当者が壁へ近づこうとした。
「触らないでください」
俺が言うと、男が足を止めた。
「失礼」
「いや、俺も人のこと言えないんですけど」
横で、セラの口元が少し動いた。
俺はもう一度、二本の経路へ意識を戻した。
完全につながっているわけじゃない。
少なくとも、今見えている状態では。
ただ、その間にある絶縁部分が劣化している。
「火事で傷んだのか?」
セラが聞いた。
「可能性はあります」
「他には?」
「前から傷んでた可能性もあります」
どちらなのか。
ここだけでは分からない。
だから次だ。
「中央へ行きましょう」
―――
中央後方。
ここでも似た状態が見つかった。
現在の記録路。
その奥を通る旧い経路。
強い焼損の近くで二つが近接し、その間の絶縁に損傷が出ている。
ただし、東側とまったく同じではない。
経路の位置も違う。
間に使われている素材も違う。
損傷の深さも違う。
共通しているのは、二本の経路が近づく場所で強い焼損が起きていることだった。
「二つ」
セラが言う。
「はい」
「三つ目も同じなら?」
「疑う理由は増えます」
「原因だとは?」
「言えません」
セラが頷く。
最近。
俺より先に答えるようになってきた気がする。
それはそれで、少し複雑だ。
最後。
南側補助区画。
ここは床の損傷が一番ひどかった。
崩落こそしていないが、石板の一部は撤去され、下の支持材と魔力経路が露出している。
俺は旧図の位置を確かめてから、《不具合鑑定》を使った。
現在経路。
その近くを通る旧い経路。
やっぱりある。
しかも、ここは二つの距離が他より近い。
間にある絶縁層も薄い。
表示が出る。
《絶縁性能――低下》
その下に、もう一行。
《反復負荷――蓄積》
俺は動きを止めた。
「トーマ?」
「待ってください」
もう一度見る。
表示は消えない。
《反復負荷――蓄積》
反復。
一度ではない。
繰り返している。
「何かあったか」
「ここ」
俺は床の奥を指した。
「負荷が繰り返しかかってます」
証拠保全担当者の顔が変わった。
「今回の火災以前からですか?」
「いつからかは分かりません」
「では、火災以前かどうかも?」
「そこまでは言えません。ただ、一回だけの負荷ではありません」
昨日の火災の最中に、何度も負荷が変動した可能性だってある。
これだけで、何年も前からだとは言えない。
ただ。
昨日見つけた継続観測報告が頭に浮かぶ。
何年も前から。
アレーテイアを使用したあと、投入量と帰還量がほんの少しだけ合わない時があった。
毎回じゃない。
差も小さい。
でも、同じ方向へずれる。
もし。
その消えた分が、この旧い経路へ――。
そこまで考えて、止めた。
まただ。
まだ接続していないものを、頭の中でつなぎかけた。
「トーマ」
セラの声。
「はい」
「また答えを作った顔をしている」
「顔で分かるんですか」
「分かる」
嫌なところだけ観察力が高い。
「まだです」
俺は言った。
「魔力収支の差と、この負荷が同じものだとは確認できてません」
「なら?」
「比べます」
一度見ただけで分からないなら。
次に同じことが起きた時、何が同じで、何が違うのかを見る。
設備でも同じだ。
「何と比べる」
セラが聞く。
「被告人がやった遮断作業です」
証拠保全担当者が眉を寄せた。
「火災当日の?」
「それだけじゃありません」
被告人の作業は定例だった。
つまり。
同じ作業は以前にも何度も行われている。
火災が起きなかった日にも。
「過去の作業記録が残ってるなら、遮断前と遮断後の値を見たいです」
「規定値の記録ならあります」
「規定内かどうかじゃなくて、前と後です」
男が少し考える。
「変化量を見るということですか」
「はい」
正常。
異常。
二つに分けるんじゃない。
正常の中でも、動いているものはある。
―――
午後。
西棟の仮保管室へ戻ると、過去の定例保守記録が机の上へ積まれた。
さすがに全部は見られない。
だから条件を揃える。
アレーテイアを使用した日。
その後に三系統の定例遮断が行われた日。
記録が途中で欠けていないもの。
まず直近。
次に数年前。
さらに古いもの。
俺は一つずつ数字を追った。
「これ」
遮断前。
規定内。
遮断後。
規定内。
問題なし。
でも、数字は同じじゃない。
ほんの少しだけ帰還側が下がっている。
次。
変化なし。
その次。
また少し下がる。
全部ではない。
昨日見た継続観測報告と同じだ。
「別の日を」
証拠保全担当者が帳簿を替える。
また、ある。
そして。
ない日もある。
「規定範囲を超えたものはありません」
男が言った。
「そうですね」
だから、誰も止めなかった。
むしろ。
止められなかった。
全件、規定内。
全部、許容範囲内。
数字だけ見れば。
「なのに気になるのか」
セラが聞いた。
「はい」
「なぜだ」
俺は帳簿を指した。
「正常だからです」
セラが眉を寄せる。
「分からん」
「規定内って、安全って意味じゃないんです」
「違うのか」
「決められた範囲から外れていない。それだけです」
セラは帳簿へ目を落とした。
「範囲の中なら、問題はないのではないか」
「その範囲を決めた時に、今起きてる壊れ方を想定してなかったら?」
セラが黙った。
俺も記録された数字へ目を戻す。
前世の工場でも、何度も見た。
規格内。
許容範囲。
異常なし。
だから大丈夫。
そう判断された設備が、あとになって壊れる。
数値が嘘をついていたわけじゃない。
見ている側が、その数値に何を保証させているのかを間違えていただけだ。
「だから」
俺は言った。
「正常な値の中でも、変化は見ます」
「外れたかどうかではなく?」
「はい。前と比べて、何が動いたかです」
俺は記録をさらに追った。
遮断前と遮断後。
使用回数。
三系統の値。
何度も調べていくと、やはり同じ方向へ動く日がある。
「火災当日の作業記録を」
証拠保全担当者が別の記録を出す。
被告人が確認したものだ。
値は全部、規定内。
あの時の聴取でも、真実鎖が確認した。
記録に残された値は、すべて規定の範囲内だった。
被告人自身も、作業終了時に異常を認識していない。
その記録を見る。
東側。
中央。
南側。
全部、規定内。
でも。
作業前と作業後を並べると、ほんの少し動いている。
「……同じだ」
「何が」
「方向です」
過去に差が出た日と。
火災当日。
小さい。
規定内。
でも。
同じ方向。
証拠保全担当者が覗き込む。
「これが火災を起こしたと?」
「まだ言えません」
記録は結果だ。
途中で何が起きたかまでは残っていない。
遮断したから減ったのか。
別の負荷が同時に入ったのか。
もっと前からずれていたのか。
「ただ」
俺は言った。
「次に見るものは決まりました」
「何だ」
セラが聞く。
「動いてる最中です」
帳簿じゃない。
今、実際にアレーテイアが使われている時。
旧い経路の負荷がどう変わるか。
それを見たい。
問題が一つある。
俺は一人しかいない。
中央裁定院で主鎖を見る。
同時に、聖律記録院で旧経路を見る。
そんなことはできない。
「二か所か」
セラが言った。
「はい」
「だが、私はお前のように負荷までは見えないぞ」
「分かってます」
必要なのは。
両方で《不具合鑑定》を使うことじゃない。
裁定院側では、アレーテイアがいつ強く使われ始めたのか。
それだけ分かればいい。
「見届けるだけなら」
背後から声がした。
振り返る。
扉のところに、カイが立っていた。
「俺でもできますかね」
「カイ?」
「宿で寝てろって顔ですね」
「そういう顔です」
即答した。
カイが苦笑する。
右胸を庇うように立っている。
顔色は悪くない。
でも。
治ったわけじゃない。
「走りませんよ」
「戦闘も」
「しません」
「重いものも」
「持ちません」
「無理も」
「できるだけ」
「帰ってください」
「厳しくないですか?」
セラが横から口を挟む。
「トーマ。話くらい聞いてやれ」
「セラがそっち側に行くんですか」
「私は優しいからな」
初めて聞いた。
カイが笑う。
その直後、少しだけ胸を押さえた。
「ほら」
「今のは笑っただけです」
「笑うのも禁止です」
「そんな診断はされてませんよ」
証拠保全担当者が困った顔で俺たちを見ている。
俺は息を吐いた。
「……どうしてここに?」
「リゼットさんから、あなたがまた現場に籠もってるって聞きました」
また、という言葉に悪意を感じる。
「それで?」
「俺にもできることがあるならと思って」
カイが言う。
「戦う以外で」
その言葉だけ。
少し軽さが消えた。
俺は黙った。
カイはずっと戦う側だった。
《後払い》で。
十秒だけ。
自分の傷を先送りして。
身体を削って。
今は、戦えない。
だからこそ。
「あります」
俺は言った。
「本当ですか?」
「ただし、座っててもできます」
「そこ重要です?」
「重要です」
俺は現在図を引き寄せた。
「明日、裁定が再開されます」
「はい」
「カイには法廷側にいてほしいです」
「何を見るんです?」
「主鎖です」
被告人につながった裁定用の鎖。
休廷中も接続そのものは続いている。
だが、正式な裁定が再開されれば、証言や記録確認が始まり、アレーテイアの使用状態が変わる。
「裁定が始まった瞬間と、主鎖の状態を見てください」
「俺には魔力は見えませんよ」
「見えなくていいです」
必要なのは、目で確認できる事実。
開廷。
裁定開始の宣言。
主鎖が張る。
それをカイに見届けてもらう。
「俺は聖律記録院にいます」
カイの目が少し細くなる。
「同じ時間に、地下を見る」
「はい」
セラが腕を組んだ。
「どうやって時刻を合わせる」
そこが問題だった。
裁定院と聖律記録院は離れている。
走って伝えてもらうのは論外だ。
証拠保全担当者が口を開いた。
「開廷鐘なら、記録院からも聞こえます」
「鐘?」
「正式裁定の再開時には中央塔で一度鳴らします。法廷内の進行と完全に同時ではありませんが、その直後に裁定開始宣言が行われます」
使える。
完全な時刻一致を証明するには弱い。
でも、最初の観察には十分だ。
「カイ」
「はい」
「鐘が鳴ってから、裁定開始まで何呼吸かかったか覚えられます?」
「そのくらいなら」
「主鎖に変化があったら、それも」
「分かりました」
俺は証拠保全担当者を見る。
「記録院側でも、鐘から何呼吸後に負荷が変わったか記録してください」
「承知しました」
これで。
二か所を見ることができる。
俺じゃなくても、見られるものはある。
―――
翌日。
俺は聖律記録院の南側補助区画にいた。
隣にセラ。
証拠保全担当者が二人。
一人は記録。
もう一人は立会い。
俺の前には、現在経路と、その奥を通る旧い経路がある。
昨日、
《反復負荷――蓄積》
と表示された場所。
今は。
《残留負荷――微量》
変わっていない。
「始まるぞ」
セラが言った。
俺も聞こえている。
遠く。
中央塔から鐘の音が響いた。
一度。
低い音が、焼けた建物の中まで届く。
記録担当者が筆を構えた。
俺は壁から目を離さない。
一呼吸。
二呼吸。
三呼吸。
変化なし。
四。
五。
表示がわずかに揺れた。
《残留負荷――微量》
まだだ。
六。
七。
その瞬間。
旧い経路の奥で、細かった負荷がわずかに太くなった。
表示が変わる。
《残留負荷――増加》
「今」
俺が言う。
筆が走った。
「鐘から七呼吸」
証拠保全担当者が記録する。
俺は見続けた。
一度増えて終わりじゃない。
ゆっくりと、さらに上がっていく。
現在の補助路は遮断されている。
昨日から誰も操作していない。
火もない。
作業員もいない。
それでも。
旧い線の負荷が増えている。
「トーマ」
セラが低く呼ぶ。
「はい」
「裁定が始まったからか」
俺は首を振った。
「まだ言えません」
同じ時刻に起きた。
それだけだ。
原因と結果は、まだ別。
でも。
偶然で済ませるには、確認する価値がありすぎる。
「東も見ます」
俺たちは移動した。
東側。
そこでも、
《残留負荷――増加》
中央。
同じ。
三つとも、鐘が鳴ったあとに旧い経路の負荷が増えている。
俺は南側へ戻る。
表示をもう一度見る。
すると。
その下に、見たくないものが追加されていた。
《熱変性――進行》
喉が詰まる。
「……進んでる」
「何が」
「焼けたところです」
火はない。
誰も触っていない。
それなのに。
証拠が。
今。
変わっている。
「記録してください」
俺は言った。
「《熱変性――進行》。裁定再開後に確認」
証拠保全担当者の顔が固くなる。
「それは……」
言いたいことは分かる。
ここは。
主任が死んだ現場だ。
火災原因を調べるための証拠そのもの。
その証拠が、今も変質している。
「法廷へ戻ります」
俺は立ち上がった。
「原因が分かったのか」
セラが聞く。
「いいえ」
まだ。
主鎖が原因だとは証明していない。
アレーテイア全体の使用。
別の系統。
別の負荷。
考えられるものはいくらでもある。
でも。
一つだけ。
今すぐ伝えなければならないことがある。
「原因じゃないです」
俺は答えた。
「証拠です」
―――
中央裁定院へ戻ると、法廷は一度休廷に入っていた。
カイは廊下の椅子に座っていた。
本当に座っている。
よし。
「どうでした?」
俺が聞く。
「鐘が鳴って」
カイが指を折る。
「六呼吸目で裁定開始の宣言。その直後に主鎖が一度強く張りました」
俺は足を止めた。
「六呼吸?」
「俺が数え間違えてなければ」
証拠保全担当者が記録を開く。
聖律記録院側。
鐘。
七呼吸後。
負荷増加。
一呼吸。
ずれている。
俺は少しだけ安心した。
完全一致じゃない。
その方がいい。
無理に答えへ合わせていない。
「主鎖が張ったあと?」
「はい」
カイが言う。
「ほぼすぐです」
法廷側では、鐘から六呼吸後に裁定開始と主鎖の変化。
記録院側では、七呼吸後に旧経路の負荷増加。
近い。
かなり近い。
「同時ですね」
証拠保全担当者が言いかける。
「ほぼ、です」
俺が止めた。
「完全に同時とは言えません」
「一呼吸なら誤差では?」
「そうかもしれません。でも、そうじゃないかもしれない」
鐘の音が届く時間。
数え始めるタイミング。
人間の呼吸。
全部ずれる。
だから。
言えることだけ言う。
「裁定が始まった直後に、聖律記録院の旧い経路で負荷増加が確認された」
それだけ。
カイが俺を見る。
「それで?」
「火災現場の熱変性も進みました」
カイの表情が消えた。
「今?」
「はい」
「火は消えてるんですよね」
「消えてます」
誰も喋らなかった。
法廷の扉の向こうでは。
被告人を裁くために、アレーテイアが使われている。
火をつけたのか。
主任を殺したのか。
その答えを探すために。
でも。
その間にも、焼けた壁は変わっている。
昨日より今日。
今日の朝より今。
もし、この変化が続けば。
火災当時に残っていたものが、少しずつ失われていく。
俺は記録を握った。
「リゼットさんに渡します」
「何と説明する」
セラが聞いた。
俺は法廷の扉を見た。
危険だから止めたい。
それだけなら弱い。
主鎖が原因とは証明できていない。
でも。
止めなければならない理由は、もうある。
「裁定を続けてる間に」
俺は言った。
「事件現場が変わってます」
それが。
確認できた事実。
そして、もう一つ。
被告人を裁くための裁定が始まった直後に、その変化は強くなった。
疑えば疑うほど。
鎖につないでおくほど。
裁定を続けるほど。
火災当時の状態から、現場が遠ざかっていく。
俺は扉へ手をかけた。
この裁判は。
証拠を調べながら。
証拠を壊している。




