第二十六話 消したはずの線は残っている
翌朝。
中央裁定院の大法廷には、昨日より多くの人が集まっていた。
聖律記録院の火災。
主任の死亡。
被告人が過去に保守記録を書き換えていた事実。
そして、火災よりずっと前から続いていた小さな魔力収支のずれ。
一つ事実が増えるたびに、事件が簡単になるどころか、逆に形が見えなくなっていく。
俺は技術観察者用の席に座った。
隣にはセラ。
カイは今日も宿に残っている。
長距離の移動は許可されていても、過度な運動と戦闘は禁止されたままだ。
この法廷へ連れてきても、できることは少ない。
それより今は、きちんと休ませた方がいい。
被告人の隣にはリゼット。
向かい側にはカルド・ヴェイン。
カルドは両手を組み、いつものように親指をゆっくり回していた。
その前。
証言席へ、一人の男が案内される。
聖律記録院の院長。
昨日見つけた《魔力収支差異に関する継続観測報告》。
その最後に残されていた署名の主だ。
当時は副院長だった。
「証言枝を接続します」
裁定官の言葉に合わせ、細い鎖が院長の手首へ巻きついた。
主鎖ではない。
証言用の枝だ。
院長は鎖を一度見下ろし、静かに息を吐いた。
リゼットが立つ。
「確認します」
声はいつも通りだった。
責めるでもなく。
庇うでもない。
裁定官を通して、一冊の報告書が証言台へ運ばれる。
「こちらの報告書をご覧ください」
院長は表紙を見た。
少しだけ目を細める。
「覚えています」
「当時、あなたは聖律記録院の副院長でしたか」
「はい」
証言枝が淡く光った。
「この報告書を受領しましたか」
「はい」
また光る。
「内容を読みましたか」
「はい」
光。
一つずつ。
リゼットは確認していく。
「報告書には、アレーテイア使用後の魔力収支について、複数回、同一方向への差異が確認されたと記載されていますね」
「はい」
鎖が光った。
法廷の後ろで、ざわめきが起こる。
裁定官が視線を向けると、すぐに静まった。
リゼットは続ける。
「そして、あなたは当時、この報告に対し《経過観察》《現時点で追加対応不要》という判断を承認しましたか」
院長は一瞬だけ報告書へ目を落とした。
「はい」
鎖が光る。
今度のざわめきは、さっきより大きかった。
「知っていたのか」
後ろから声が聞こえた。
別の誰かが言う。
「異常を知って、それでも使ってたってことか」
院長の表情が固くなる。
リゼットは傍聴席を見なかった。
「当時、報告された数値は、規定された許容範囲内でしたか」
「はい」
光。
「その時点で、設備停止を必要とする異常は確認されていましたか」
「いいえ」
光った。
「報告書には、火災、崩落、あるいは人命への危険が予測されると記載されていましたか」
「いいえ」
また光る。
さっきまでのざわめきが少しずつ弱くなった。
異常を知っていた。
それは本当。
危険だと分かっていた。
それは違う。
同じ報告書から。
両方の事実が出てくる。
リゼットが次の質問へ進む。
「では、あなたはこの報告を無視したのではありませんね」
院長が答えようとした。
その前だった。
「異議」
カルド。
親指はゆっくり回り続けている。
「今の質問は評価を含む」
リゼットがカルドを見る。
「どの部分ですか」
「『無視した』だ」
カルドは立ち上がらない。
低い声だけが法廷を通る。
「報告を受け取った。読んだ。対応を記録した。それらは確認できる事実だ。だが、それをもって『無視していない』と評価するかどうかは別だろう」
一瞬。
リゼットが黙った。
「認めます」
すぐに引く。
「質問を訂正します」
院長へ向き直った。
「あなたはこの報告を受領し、内容を読み、対応判断を記録しましたか」
「はい」
鎖が光った。
それだけ。
リゼットは、
適切だった。
とは言わせなかった。
不適切だった。
とも。
今確認できるのは。
そこまでだ。
「以上です」
リゼットが座る。
入れ替わるように、カルドが立った。
「院長」
「はい」
「当時、この差異だけを理由にアレーテイアを停止すべきだと判断したか」
「いいえ」
鎖が光る。
「この報告を理由に、設備停止を提案した者はいたか」
院長は少し考えた。
「記憶している範囲では、いません」
鎖は光らなかった。
法廷が静まる。
俺は思わず証言枝を見た。
カルドは表情を変えない。
「質問を変える」
ほんの一呼吸で切り替えた。
「確認可能な正式記録上、この報告を理由とした停止申請は残っているか」
「残っていません」
鎖が光った。
記憶を聞くのをやめた。
記録へ戻した。
カルドが続ける。
「この報告の提出後も、アレーテイアは運用されたな」
「はい」
光。
「同種の魔力収支差は、その後も確認された」
「はい」
また光る。
「今回の火災まで、その差異と同じ原因によると確認された重大事故は記録されていない」
院長が口を開きかける。
止まった。
そして。
少しだけ言い方を変えた。
「……同じ原因によると確認された事故は、ありません」
鎖が光る。
その瞬間。
カルドの親指が。
ほんの短く、逆へ回った。
すぐに元へ戻る。
何か。
今の答えが、想定と少し違った?
俺には分からない。
カルドは何事もなかったように続けた。
「つまり」
低い声。
「長年、同じ差異が確認されながら、設備は運用され続けた」
「はい」
「そして今回の火災まで、その差異が火災につながると証明した者はいなかった」
「はい」
鎖が光る。
カルドがリゼットを見る。
「報告が存在した。それは事実だ」
一呼吸。
「だが、報告が存在したことと、今回の火災原因が当時から分かっていたことは同じではない」
リゼットは立たなかった。
席に座ったまま答える。
「はい」
法廷が少しざわつく。
認めるんだ。
でも。
リゼットは続けた。
「ですから、私は院長が火災を予見していたとは主張していません」
カルドを見る。
「確認したかったのは、差異そのものが今回初めて発生したものではないという事実です」
また。
カルドの親指が短く逆へ回った。
「そうか」
それだけ言って。
座る。
俺は院長を見る。
報告はあった。
読まれていた。
判断もされた。
その判断は、当時の条件なら異常とは言い切れない。
誰かが隠したわけでも。
誰かが意図的に放置したわけでもない。
少なくとも。
今の証言からは。
そこまでは言えない。
だから余計に。
嫌だった。
事故が起きたあとなら。
何を見ても、
「あの時止めるべきだった」
と言える。
でも。
何も起きていない時に。
許容範囲内の小さなずれだけで。
国際裁定に使われる神造兵器を止める。
前世の俺なら。
そんな判断ができただろうか。
たぶん。
できなかった。
だから。
今必要なのは。
誰かを責めることじゃない。
どこで判断が間違ったのか。
そもそも。
本当に判断だけが問題だったのか。
そこからだ。
―――
休廷後。
俺とセラは西棟の仮保管室へ向かった。
今度の目的は、昨日後回しにした旧系統図。
魔力入出力記録から、
「差異は本当に存在していた」
ことは確認した。
次は。
その差がどこへ行ったのか。
少なくとも、どこを見るべきなのかを探す。
証拠保全担当者が、大きな筒を机の上へ置いた。
「聖律記録院の地下書庫から回収されたものです」
「焼けてないんですね」
「地下深部の保管筒に入っていました」
革紐が外される。
中から何枚もの図面が出てきた。
現在の中央裁定院。
聖律記録院。
証言枝。
主鎖。
中継設備。
俺には分からない記号も多い。
「これが現在の系統図です」
証拠保全担当者が一枚を広げる。
昨日確認した三つの焼損区域。
東側。
中央後方。
南側。
被告人が定例作業で遮断した三系統も記されている。
「次が、前回改修前の図面です」
二枚目。
少し線が増えた。
「さらにその前」
三枚目。
また増える。
俺は図面を見比べた。
「……古い方が多い」
「何がだ」
セラが聞く。
「線です」
今の図面より。
昔の図面の方が複雑だ。
普通なら。
設備を改修すれば機能が追加されて、線が増えていきそうなものなのに。
ここは逆だった。
「新しくするたびに、減ってません?」
証拠保全担当者が頷く。
「使用しなくなった系統を順次封鎖しているためです」
「撤去じゃなくて?」
「地下深部のものは撤去が困難です。石壁の内部へ埋設されている経路もあります」
俺の手が止まる。
「封鎖」
「はい」
昨日。
聖律記録院の地下で見た表示。
《接続状態――休止》
「廃止された経路って、魔力的には完全に切れてますか?」
証拠保全担当者が少し困った顔をした。
「現在の運用規程上は、使用されていません」
「使用されていないのと、つながっていないのは別です」
男が黙った。
「そこまでは、私には判断できません」
やっぱり。
「もっと古い図面を見せてください」
さらに古いものが出てくる。
紙ではない。
薄い革へ描かれた図面。
文字も今とは違う。
「これは?」
「保管されている中では、かなり古いものです」
机いっぱいに広げる。
俺は息を止めた。
線が多い。
今の裁定院だけじゃない。
聖律記録院から。
中央広場。
主要街路。
門。
街の別区画。
都市のあちこちへ延びている。
「これ……裁判用じゃないですよね」
証拠保全担当者はすぐには答えなかった。
代わりに図面の端を指す。
古い文字。
俺には読めない。
「何て書いてます?」
男が読む。
「非常時執行路」
セラの目が細くなる。
「執行?」
「詳細は分かりません。現行の司法設備へ改修される以前の設計です」
「戦争用か?」
「そこまでは、この図面だけでは判断できません」
正しい。
分からないことは。
分からない。
俺は改めて図を見る。
太い幹。
そこから何本も分岐する線。
街路。
門。
広場。
建物。
アレーテイアは。
最初から法廷の中だけで使うものではなかった?
そう思った。
でも。
まだ。
図面一本では言えない。
「昨日の焼損位置と比べたいです」
「現在図と、ですか?」
「はい」
証拠保全担当者が現在系統図を横へ置く。
大きさが違う。
縮尺も違う。
そのまま重ねられない。
「位置を合わせられる場所はありますか」
「中央裁定院本体と北門なら、位置は変わっていません」
「そこを基準にしてください」
机の上へ、現在図と旧図を並べる。
俺は指を動かした。
中央裁定院。
聖律記録院。
北門。
そこを基準に。
位置関係を頭の中で合わせていく。
昨日の焼損は三か所。
東側。
中央後方。
南側。
まず。
東。
現在系統の東側補助路を追う。
そして旧図を見る。
「……ここ」
指が止まる。
古い線が。
横切っている。
《非常時執行路》。
次。
中央。
現在の中央記録路。
旧図へ移る。
また。
交わる。
俺は無言で南を見る。
現在の南側補助路。
旧図。
そこにも。
一本。
通っていた。
「トーマ」
セラが呼ぶ。
俺は答えず。
もう一度確認する。
縮尺。
建物位置。
北門。
中央裁定院。
ずれはある。
古い図面だ。
完全に同じにはならない。
でも。
三つとも。
同じ場所の近くを。
旧い線が通っている。
「昨日の焼損位置の記録を見せてください」
証拠保全担当者が帳面を開く。
東側内壁。
中央後方床下。
南側補助区画。
位置を一つずつ照合する。
合っている。
「……三か所とも?」
証拠保全担当者が言った。
「少なくとも、図面上は」
俺は頷く。
セラが現在図と旧図を見比べる。
「被告人が操作した場所だな」
「はい」
東側補助路。
中央記録路。
南側補助路。
被告人が。
定例保守で遮断した三つ。
その近くに。
強い焼損。
カルドが法廷で並べた事実。
被告人は三系統を操作した。
三か所に強い焼け跡がある。
系統図上。
対応している。
全部。
本当だった。
でも。
もう一本。
ある。
被告人が触っていない。
今は使われていないことになっている線。
「火元ですか」
証拠保全担当者が聞いた。
俺は首を振る。
「まだ分かりません」
三つの焼損地点を通っている。
だから火元。
そんなことは言えない。
今度は。
俺たちが。
事実を並べて答えを作る側になる。
それじゃ。
カルドと同じだ。
俺は現在図を見る。
被告人が操作した三本。
それから。
旧図を見る。
その三本を横切る。
古い線。
「三つの焼け跡は」
俺は言った。
セラが俺を見る。
「三本の線の終わりじゃない」
旧図へ指を置く。
「交差点です」
部屋が静かになった。
被告人が三つの系統を操作した。
それは変わらない。
三か所に強い焼損がある。
それも変わらない。
位置も対応している。
全部。
本当だ。
ただ。
そこには。
もう一本あった。
今は使われていないことになっている。
消したはずの線。
その線が。
三つの焼け跡すべてを通っていた。




