第二十四話 火は消えたのに、壁が熱い
休廷は、一刻ほどで終わる予定だった。
だが、その予定は変わった。
「午後の審理を延期します」
裁定官の声が大法廷に響いた。
理由は二つ。
一つは、聖律記録院の火災現場から新しい保全対象が見つかったこと。
もう一つは、俺たちが提出した閲覧申請だった。
真実鎖アレーテイア使用後に記録された魔力収支差。
その異常報告。
そして、報告を受けた側が何を判断したのかを示す対応記録。
火事でどこまで残っているかは分からない。
それでも、申請そのものは受理された。
「早かったですね」
俺が言うと、リゼットは机の上の書類を揃えながら答えた。
「事件との関連性がありますから。ただし、受理と閲覧許可は別です」
「まだ見られるとは決まってない?」
「はい」
やっぱり。
「それと」
リゼットが一枚の紙を俺へ差し出した。
「私は行けません」
「え?」
「火災現場です」
言われて、気づいた。
昨日までのリゼットなら、アルヴェリア王国の王室記録官として俺たちと一緒に現場へ行けた。
だが今は違う。
被告人の弁論補佐人だ。
「私が保全区域へ入り、まだ提出されていない証拠へ自由に触れれば問題になります」
「でも昨日までは普通に入ってましたよね」
「昨日までと今日では、私の立場が違います」
きっぱりと言われた。
そういうものらしい。
いや。
そうでなければ困るのか。
都合のいい時だけ「王室記録官です」と言い、都合が悪くなった時だけ「弁論補佐人です」と使い分けたら、それこそ事実と立場を混ぜることになる。
「代わりに、裁定院から証拠保全担当者が同行します」
「俺は入っていいんですか?」
「トーマさんは裁定当事者ではありません。神造兵器の状態確認を目的とした随行観察者です。ただし、勝手に物を動かさないでください」
「分かりました」
「本当に?」
「なんで疑うんですか」
隣からセラが口を挟んだ。
「お前は気になる物を見つけると近づく」
「それは否定しませんけど」
「そして触る」
「毎回じゃないですよ」
リゼットが俺を見る。
「今回は触らないでください」
「はい」
二対一だった。
―――
中央裁定院を出ると、火の臭いがまだ街に残っていた。
昨日よりは薄い。
それでも風向きが変わるたび、煤と焦げた木の臭いが鼻へ入ってくる。
聖律記録院の周囲には、赤い封印縄が張られていた。
入口には裁定院の証拠保全担当者が二人立っている。
そのうち一人が俺たちを見る。
「アルヴェリア側の技術観察者ですね」
「はい」
「許可された区域以外には入らないでください。物へ触れる必要がある場合は、先に申告を」
「分かりました」
「騎士殿も同様です」
セラが頷く。
「承知した」
昨日、炎に包まれていた建物は静かだった。
黒く焼けた窓。
崩れた壁。
水を吸った床。
焦げた紙。
どれを見ても、火事はもう終わったように見える。
だが。
中へ入った瞬間、俺は足を止めた。
「どうした」
セラが聞く。
「いや……」
臭いじゃない。
音でもない。
昨日とは何かが違う。
俺は右手を壁へ向けた。
触れずに、視線だけを固定する。
《不具合鑑定》。
視界が切り替わる。
焼けた柱。
ひび割れた石。
床下へ落ちた瓦礫。
その間を縫うように、細い線が浮かび上がった。
現在使われている経路の多くは切断、焼損、停止。
その中に一本だけ、地下へ続く線がある。
昨日、中央裁定院で見たものに似ていた。
《接続状態――休止》
俺は息を止める。
そこまでは同じだった。
だが、その下へ新しい表示が浮かぶ。
《残留負荷――微量》
「……残ってる」
「何がだ」
「魔力です」
証拠保全担当者も足を止めた。
「この建物は火災後に主要経路を遮断しています」
「俺も、そのつもりでした」
危険防止のため、主要な魔力経路は全部切った。
そう聞いている。
なら。
今も建物側へ負荷が残っている理由は何だ。
「どの辺りだ」
セラが聞く。
俺は線を目で追った。
床下へ沈み、東へ伸び、途中で中央側へ曲がっている。
「昨日の三つの焼け跡とは違う?」
「重なっている場所もあります。でも全部じゃありません」
これが現在の経路なのか。
古い経路なのか。
休止状態で残留負荷があること自体が異常なのか。
比較する記録がない。
「主任なら」
考えて、言葉が止まった。
聞けば答えてくれたかもしれない。
この程度なら普通なのか。
過去にもあったのか。
何を調べればいいのか。
昨日までなら聞けた。
でも。
名前すら知らないままだ。
「トーマ」
セラの声で意識を戻す。
「はい」
「今見えているものだけ言え」
少し驚いた。
リゼットが言いそうな言葉だった。
「休止状態の経路があります」
「うむ」
「そこに少量ですが、魔力負荷が残っています」
「原因は?」
「分かりません」
「火事との関係は?」
「まだ分かりません」
「なら、それでいい」
そうだ。
分からないところを、勝手に埋めるな。
俺は頷いた。
―――
二階へ上がる階段は、途中で封鎖されていた。
東側の一部が崩れている。
俺たちは代わりに、一階から地下保管区画へ続く通路へ向かった。
昨日、古い記録の多くは地下へ保管されていると聞いた場所だ。
入口の前には焼け焦げた扉が残っている。
ただし、完全には燃えていない。
石造りの枠と厚い防火扉のおかげだった。
「地下の確認は今朝から始めています」
証拠保全担当者が説明する。
「浸水はありますが、記録箱の一部は無事です」
「魔力関係の記録は?」
「現在分類中です」
「昔の系統図も?」
「残っている可能性はあります。ただし、勝手に探さないでください」
「……分かってます」
先回りされた。
横を見ると、セラの口元がわずかに動いた。
「笑いました?」
「笑っていない」
絶対笑った。
地下へ降りる。
三段。
四段。
五段。
途中で、空気が変わった。
「待ってください」
俺は立ち止まる。
頬に当たる空気が、上より少し暖かい。
「熱か?」
セラが聞く。
「たぶん」
証拠保全担当者が首を傾げた。
「地下では大きな燃焼は確認されていません」
俺は壁と床を見回した。
《不具合鑑定》。
熱そのものが見えるわけじゃない。
だが。
負荷の流れは追える。
階段下。
通路。
左壁。
その向こうに。
さっきより濃い線が見えた。
「奥です」
俺は指した。
「左の壁の向こう」
証拠保全担当者が見る。
「この先は保管区画だ」
「入れますか?」
「現在は閉鎖中だ。昨日の消火水が残っている」
「じゃあ外側から――」
ぱき。
乾いた音がした。
全員の視線が左壁へ向く。
もう一度。
ぱき。
石の継ぎ目に、細い亀裂が走った。
「下がって!」
俺が叫ぶ。
次の瞬間。
壁の一部が内側から割れた。
「下がれ!」
セラが俺の肩を掴む。
轟音。
石片が飛び散る。
証拠保全担当者の一人が腕で顔を守った。
奥にいた若い作業員だけが、逃げ遅れる。
天井の石材が落ちた。
「セラ!」
言う前に、もう動いていた。
銀髪が走る。
セラが作業員の襟を掴み、身体ごと引く。
同時に剣へ手をかけた。
「待って!」
セラの動きが止まる。
「そこを斬ったら駄目です!」
落ちてくる補強材。
その奥。
鑑定表示が赤く走った。
《支持荷重――集中》
《破断時――連鎖崩落》
正面を斬れば。
天井まで持っていかれる。
「右!」
「どれだ!」
「割れた柱の奥! 斜めに入ってる細い支柱だけ!」
半呼吸。
セラの剣が走った。
支柱だけを切断する。
落ちかけていた石材の重みが逃げ、天井側ではなく壁側へ滑った。
轟音が響く。
砂埃が通路を埋める。
俺は腕で口元を覆った。
数呼吸。
音が止まる。
「……全員います?」
咳をしながら聞く。
「いる」
セラの声。
証拠保全担当者。
二人。
作業員。
いる。
誰も下敷きにはなっていない。
俺は息を吐いた。
「助かった……」
証拠保全担当者が崩れ残った天井を見る。
「お前が止めなければ、もっと大きく崩れていたのか」
「はい」
「どうして分かった?」
「壊れ方が見えました」
「それが《不具合鑑定》か」
「はい」
男は俺を見た。
「役に立たない異能だと聞いていたが」
「俺もそう聞いてました」
証拠保全担当者が、何とも言えない顔をした。
セラは助けた作業員を立たせる。
「怪我は?」
「だ、大丈夫です」
「無理に立つな。座っていろ」
「はい」
俺は崩れた左壁を見る。
さっき。
崩れる前に。
この向こうが熱いと見当をつけた場所。
偶然じゃない。
少なくとも。
俺が追っていた負荷と、壁が崩れた位置は重なっている。
ただし。
それだけで崩落原因とは言えない。
火災による熱損傷。
消火による急冷。
経年劣化。
浸水。
いくらでも候補はある。
「確認してもいいですか」
証拠保全担当者を見る。
「接触なしなら」
「十分です」
俺は崩れた壁の向こうへ視線を固定する。
《不具合鑑定》。
石の奥。
銀色の細い経路。
やっぱりある。
《接続状態――休止》
その下。
さっきと同じ表示。
《残留負荷――微量》
俺は目を凝らす。
表示が揺れた。
一度薄くなり。
次の瞬間。
文字が変わる。
《残留負荷――増加》
「……増えた」
「何が?」
セラが聞く。
「負荷です」
「火は?」
「ありません」
「今の崩落で何かが接続されたか?」
俺は経路を追う。
外から入ってきているのか。
内部から漏れているのか。
今の鑑定だけでは分からない。
「分かりません」
ただ。
一つだけ。
確実なことがある。
「でも、これ」
俺は壁の向こうを指した。
「火災が終わったあとも変化しています」
証拠保全担当者の顔が変わった。
「昨日の火の残熱では?」
「残熱だけなら、普通は時間と一緒に減るはずです」
そこまで言って。
止める。
普通は。
そうだ。
でも。
この設備に同じ常識が通る保証はない。
「……少なくとも、負荷が減らず、今その場で増えた理由は別に確認する必要があります」
断定するな。
熱を持っているから、また燃えるとは限らない。
旧軍事経路だとも。
まだ言えない。
それでも。
今の変化は。
残すべき異常だ。
「ここ、封鎖範囲を広げてください」
「理由は」
「休止している経路の負荷が増えています。壁も熱を持っている。さっきの崩落との因果はまだ確認できていません」
証拠保全担当者はすぐに頷いた。
「記録する」
その言葉に。
少しだけ胸が詰まった。
主任も。
残していた。
分からないから。
数字を残した。
いつか。
次に同じことが起きた時のために。
そして今。
本当に。
同じようなことが起きている。
―――
外へ出た頃には、昼をかなり過ぎていた。
セラの肩には白い埃が付いている。
俺の服も同じだった。
「また怒られますね」
「誰にだ」
「リゼットさん」
「なぜだ」
「現場で崩落に巻き込まれかけたから」
「巻き込まれてはいない」
「そこ、言い方の問題ですか?」
「事実の問題だ」
完全にリゼットの影響を受けている。
「それ本人の前で言ってくださいよ」
「嫌だ」
即答だった。
中央裁定院へ戻る前。
俺は一度だけ聖律記録院を振り返った。
黒く焼けた建物。
炎はない。
煙もほとんど残っていない。
消火は終わっている。
それでも。
地下では。
休止しているはずの経路へ流れる負荷が、目の前で増えた。
昨日。
東側の壁は、被告人が記録院へ入る前から熱を持っていた。
今日。
火が消えたあとも。
別の壁が熱を持っている。
時間。
順番。
原因。
まだ全部はつながらない。
むしろ。
分からないことが増えた。
でも。
一つだけ。
法廷へ持ち帰れる事実も増えた。
火災は終わった。
それなのに。
異常は終わっていない。
俺は建物へ背を向けた。
「セラ」
「何だ」
「この事件」
少しだけ考えてから言う。
「火事が起きたところで、終わってないかもしれません」
セラは聖律記録院を振り返らなかった。
「なら」
「はい」
「終わるところまで見ろ」
俺は小さく頷いた。
それでいい。
まだ。
答えを出す段階じゃない。
今は。
増えていく異常を、一つずつ残す。
それが。
主任が最後までやっていたことだった。




