第二十三話 真実は、並べ替えられる
日が昇る頃には、中央裁定院の大法廷は人で埋まっていた。
昨日までとは違う。
国家間裁定のために残っていた各国の立会人。
聖律記録院の職員。
保守担当者。
火事の話を聞きつけたらしい市民までいる。
俺は傍聴席の端に座り、法廷中央を見た。
太い銀鎖。
主鎖。
その先に、昨日まで名前すら知らなかった男が座っている。
正式な裁定対象。
今はもう、被告人だった。
「多いな」
隣でセラが言った。
「昨日より多い気がします」
「人が死んだ」
短い言葉だった。
それだけで十分だった。
事故かもしれないものが。
誰かが起こした事件として、裁かれ始める。
今日カイはここにはいない。
中央裁定院へ戻ったあと、結局セラに宿へ返された。
本人は最後まで、
「座っているだけなら平気ですよ」
と言っていたが。
セラが、
「なら宿で座っていろ」
と返して終わった。
あれには俺も反論できなかった。
―――
法廷中央。
被告人の少し横に、リゼットが座っている。
昨日までアルヴェリア王国の王室記録官として座っていた席とは違う。
今日は被告人の弁論補佐人。
机の上には、彼女自身が昨夜から書き続けた記録が置かれていた。
その中には被告人に不利な事実もある。
火災前に記録院へ入った。
三系統を操作した。
主任と口論した。
過去に一度、保守記録を書き換えた。
全部リゼット自身が記録した。
その人が今被告人側にいる。
変な構図だと思う。
でも本人が選んだ。
リゼットも引き受けた。
なら、それも事実だった。
裁定官が書類を開く。
「審理開始前に、双方の代理資格を確認する」
「被告人側。弁論補佐人、リゼット。法務代理資格は」
「ありません」
法廷がざわついた。
リゼットは王室記録官だが、法務代理人ではない。それでもセレディアでは、被告人本人が指名する弁論補佐人に法務資格は必須ではない。
裁定官が被告人へ確認し、本人指名を認めると、すぐ次の書類へ移った。
「裁定請求側。資料整理および法廷代理、カルド・ヴェイン」
一人の男がゆっくり立ち上がった。
黒い長髪。痩せた身体。目の下の濃い隈。
門前で、血の付いた手と破れた手紙だけを見せ、周囲に勝手な結論を作らせた男だった。
カルド・ヴェイン。
「法務代理資格は」
「ない」
ざわめきが、今度は一段大きくなった。
「所属は」
「ない」
「法務機関への登録は」
「ない」
「事務所は」
「持っていない」
裁定官が木槌を鳴らす。
「静粛に。裁定請求側との代理契約は有効だ。セレディア法上、法廷代理人にも法務資格登録は必須ではない。よって代理を認める」
双方とも無資格。
ただし、被告側は王室記録官。請求側は無所属の男。
妙な裁定だと思った。
片方は、事実を書くことを仕事にしてきた人間。
もう片方は、事実を並べることを仕事にしている人間。
カルドがリゼットを見る。
「そうか、貴様も無資格か」
「そうですが」
「ならば都合がいい。だが、貴様には王室記録官という肩書きがある。もっとも、それで事実が変わるわけでもない」
「私は資格や肩書きで事実を変えるつもりはありません」
「そうだろうな。だから面倒だ」
カルドは両手を組み、親指をゆっくり回し始めた。
―――
「裁定を開始する」
裁定官の声が響く。
法廷が静かになった。
「対象事件は、聖律記録院火災および同火災に伴う保守主任死亡事案」
死亡。
その言葉で胸が少し重くなる。
「現時点において、意図的な出火行為および死亡との因果について審理する」
まだ殺人と決まったわけでも、放火と決まったわけでもない。それでも、もうそこを調べる裁定になっている。
最初の証人は、聖律記録院の夜間出入口を管理していた職員だった。
細い証言枝が手首へ巻かれる。
カルドが立つ。
「火災当日の夜。被告人が聖律記録院へ入るのを見たな」
「はい」
白く光る。
「そして、その時点で主任は院内にいた」
「はい」
光る。
「その後、被告人が退出した」
「はい」
また光った。
「だが、被告人の退出後に主任が出るところを見たか」
「いいえ」
白い光。
カルドは一呼吸置く。
「さらに。被告人の退出から火災警鐘までの間、正面または北側出入口から、別の保守担当者が入るのを見たか」
職員が考える。
「いいえ」
鎖が光った。
カルドは証人ではなく、法廷全体を見る。
「被告人は入った。そして主任は中にいた。その後、被告人は出た。だが主任の退出は確認されていない。さらに警鐘まで、正面と北側から別の保守担当者が入った事実も確認されていない」
そこで止めた。
犯人だとは。
言わない。
なのに。
俺の頭の中にも一つの形が浮かぶ。
被告人が入った。
主任が残った。
被告人が出た。
火事が起きた。
横を見る。
周囲の人たちも。
たぶん同じものを見ている。
「確認があります」
リゼットが手を上げた。
「許可する」
「あなたが管理していたのは、正面および北側出入口で間違いありませんか」
「はい」
光った。
「聖律記録院には、それ以外に非常用出入口がありますか」
「あります」
白い光。
「そこを人が通った場合、あなたは必ず確認できますか」
「できません」
光った。
リゼットが記録する。
「以上です」
カルドが彼女を見る。
「そうだ。だから私は『他に誰も入っていない』とは言っていない」
「はい」
「だが、正面と北側から入った者は確認されていない。それも消えない」
「消すつもりもありません」
「ならばいい」
親指は。
同じ方向へ回っている。
―――
次に呼ばれたのは、保守班の責任者だった。
昨日。
火災現場でも見た男だ。
証言枝がつながれる。
カルドが尋ねる。
「被告人が操作した三系統を答えろ」
「東側補助路。中央記録路。南側補助路です」
「そして、三系統すべてを被告人本人が操作した」
「はい」
白い光。
「行なった操作は遮断だったな」
「はい」
また光る。
カルドは次の資料へ移る。
「では、火災後に強い焼損が確認された場所はいくつだ」
俺の背中が少し固くなる。
「現時点では三か所です」
「位置は」
「東側区画。中央記録区画。南側区画」
ざわめき。
三つ。
三つ。
また重なる。
カルドが続ける。
「そして、被告人が操作した三系統と、強い焼損が確認された三区域は、系統図上で対応するか」
責任者が少し迷う。
「系統図上では」
「答えろ」
「……はい」
白く。
証言枝が光った。
俺は唇を噛んだ。
三系統を操作した。
三つの焼損区域がある。
位置が重なる。
だから。
操作で燃えた。
違う。
まだ。
そこまでは言えない。
でも、カルドは真実をただ述べている。
「質問があります」
リゼットが立つ。
「その三系統の操作は、火災当日に予定された定例作業でしたか」
「はい」
白い光。
「被告人でなくても、当日の担当者であれば同じ操作を行う予定でしたか」
「はい」
また光った。
「操作手順そのものに、現時点で規定違反は確認されていますか」
「……いいえ」
光る。
リゼットが一行書く。
「現時点で、三つの遮断操作が出火原因だったと確認する試験は行われていますか」
「いいえ」
白く光った。
「以上です」
リゼットが座る。
カルドが口を開く。
「定例だった。しかも手順違反は確認されていない。だが、三系統を操作した事実はある。そして三区域に強い焼損がある。さらに系統図上では対応する」
一つ。
一つ。
接続詞が事実の間へ入っていく。
「だから原因だ、と私は言ったか?」
リゼットが答える。
「言っていません」
「ならば、今はそれでいい」
言っていない。
でも。
聞いた側が続きを作る。
門前と同じだ。
―――
次に出されたのは、小さな透明瓶だった。
昨日。
地面へ落ちたものと同じ。
鎖脂。
そして。
黒く焼けた布片。
「火災現場の焼損部から採取された油分について説明しろ」
鑑定を担当した職員が証言枝につながれている。
「鎖式設備の保守に使用する潤滑油と同系統です」
「そして、被告人の工具袋に入っていた鎖脂と成分は一致する」
「はい」
鎖が光る。
またざわめき。
リゼットはすぐ手を上げた。
「その鎖脂は、被告人だけに支給されたものですか」
「いいえ」
白い光。
「同じ保守班の担当者も使用しますか」
「はい」
光る。
「聖律記録院内にも常備されていますか」
「はい」
また光った。
「火災以前から、鎖脂が付着している可能性のある設備ですか」
職員が考える。
「はい」
光った。
リゼットが座る。
カルドが言う。
「同系統だ。だが専用品ではない。だから、これ一つで誰の油かは決まらない」
俺は思わずカルドを見る。
自分で。
自分の証拠を弱くした?
違う。
「しかし」
カルドが続ける。
「被告人が同じ鎖脂を所持していた事実まで消えるわけでもない。つまり、証拠の一つとして残る」
そういうことか。
弱点まで自分から言う。
その上で。
捨てさせない。
次の資料が出された時。
被告人の顔が変わった。
一枚の紙。
焼けてはいない。
古い。
何度も折り畳まれた跡がある。
広げられた瞬間。
俺にも分かった。
系統図だ。
ただ、昨日見た裁定院の現在系統図とは違う。
線が多い。
今は存在しないはずの接続まで書かれている。
カルドが紙を持ち上げる。
「これは被告人の私物保管箱から発見された」
リゼットの視線が鋭くなる。
「出所は?」
「聖律記録院保管の旧系統図だ。だが原本ではない。複製だ」
「複製許可は」
「だから今から確認する」
記録管理担当者へ証言枝がつながれる。
カルドが問う。
「被告人に、この旧系統図の複製許可を出したか」
「いいえ」
白い光。
法廷のざわめきが。
今までより大きくなった。
俺は図を見る。
床下へ伸びる線。
外壁へ。
さらに。
建物の外へ。
一部は途中で切れている。
一部は薄い。
そして。
一本。
見覚えのある向きがあった。
昨日、中央裁定院で《不具合鑑定》した時。
床下から外へ伸びていた。
あの使われていない接続。
《接続状態――休止》
完全に同じとは言えない。
縮尺も違う。
位置も。
ここからでは細かく見えない。
でも似ている。
「……古い線」
声が漏れた。
セラが俺を見る。
「知っているのか」
「分かりません」
俺は首を振る。
「でも、昨日見た休止接続と……方向が近い」
「同じか?」
「まだ」
セラはそれ以上聞かなかった。
カルドが被告人を見る。
「許可なく複製したのか」
被告人の手首には主鎖。
だから、今の答えを証言枝では確認できない。
「そうだ」
当然。
何も光らない。
「しかし、無断複製した理由はあると言うんだな」
「数字が合わなかった」
法廷の空気が少し揺れた。
俺の指が止まる。
数字。
「何の数字ですか?」
リゼットが聞く。
被告人は彼女を見る。
「魔力の収支だ」
昼。
死んだ主任の声が頭の中で重なった。
――入った分と、戻った分。
「使った後だけ、ほんの少し合わないことがあった」
俺は息を止めた。
同じだ。
「主任が言ってた……」
昼に。
確かに。
何度も出ていると。
上へも出したと。
許容範囲。
経過観察。
現時点で追加対応なし。
被告人が続ける。
「今の系統図だけじゃ説明できなかった」
カルドが言う。
「だから旧図を無断で写した」
「数字を追うためだ」
「しかし、許可は取っていない」
「……そうだ」
「そして、火災前から現在使われていない経路を調べていた」
被告人がカルドを睨む。
「数字が合わなかったからだ」
「それは今のお前の説明だ」
カルドは主鎖を見る。
「だが、お前はもう証言枝へつなげない。ゆえに、その理由を鎖で確認することはできない」
被告人の顔が固まった。
法廷中央。
太い主鎖が。
ただ黙っている。
これが今の彼の立場だった。
―――
「異議があります」
リゼットが立った。
「旧系統図を無断で複製したことと、火災の原因はまだ接続されていません」
カルドが彼女を見る。
「私は接続したか?」
「直接はしていません」
「ならば何が問題だ」
「提示順です」
リゼットの声は変わらない。
「火災直前の入館。三系統の操作。三つの焼損。鎖脂。そして旧系統図。続けて提示すれば、一つの因果関係があるように見えます」
カルドの親指が回る。
「確かに、順番は選んだ」
法廷が静かになる。
認めた。
「だが、事実は変えていない。しかも貴様は、私が出していない事実を追加できる。ならば追加すればいい。そして全部を出した上で、人間が考える」
一呼吸。
「違うか?」
リゼットは黙らない。
「順番による影響がないとは言っていません」
「しかし、順番を変えても個別の事実は変わらない」
「はい」
「だから私は事実を出す。貴様も出す。それでも足りないなら、さらに調べる。つまり今ある材料だけで、まだ結論が出ないと言いたいんだろう?」
「そうです」
「ならば」
カルドがわずかに顎を引く。
「私も結論を言っていない」
全部、その通りだった。
カルドは一度も、この男が火をつけたとも、主任を殺したとも、三系統操作が原因だとも言っていない。
ただ、真実だけを並べている。
リゼットが言う。
「では、こちらも出します」
「なら出せ」
「被告人が来る前から、東側内壁には異常発熱がありました」
「そうだ」
「遮断作業は定例作業でした」
「それも事実だ」
「確認記録に残された値は規定内でした」
「そうだな」
「本人も、確認作業終了時点で異常を認識していませんでした」
「それも証言枝で確認されている」
カルドは。
一つも否定しない。
「だから」
リゼットが言う。
「私は、まだ結論を出せないと言っています」
その瞬間。
カルドの親指が。
逆へ回った。
ほんの少し。
俺は。
それを見た。
「そうか」
それだけだった。
でも、初めてカルドの流れが一度だけ途切れたように見えた。
―――
カルドが次の紙を取り上げる。
見覚えがある。
俺にも。
リゼットにも。
昨日、彼女自身が書いた記録だ。
嫌な予感がした。
「王室記録官リゼット」
「はい」
「これは貴様が記録したものだな」
紙が示される。
被告人が。
過去に一度だけ。
保守記録を書き換えたと認めた供述。
「はい」
「そして、被告人本人が事実と異なる内容へ保守記録を書き換えたと認めた」
「はい」
「その発言に証言枝が反応した」
「はい」
「ならば、この記録は真正だな」
一呼吸。
「真正です」
「ふっ‥。お前は嘘をつかない。だから読みやすい」
リゼットを見る。
「しかも、自分に不利な真実まで消さない」
初めてリゼットの表情がほんの少しだけ変わった。
「褒めていますか?」
「まさか」
カルドは紙を置いた。
「だから、使いやすいと言っている」
俺は、腹の奥が冷たくなった。
リゼットが正しく残したものが。
今。
被告人を追い込む材料に使われている。
間違っていないし、消すべきでもなかった。
それでも不利になる。
正しい記録だからこそ、使える。
―――
裁定官が休廷を告げた。
人の声が一気に戻る。
被告人は主鎖につながれたまま。
リゼットは机へ座り、記録を整理している。
俺は傍聴席から立った。
頭の中にいくつもの線が残っている。
被告人が来る前の異常発熱。
規定内だった確認値。
三系統の遮断。
三つの焼け跡。
微小な魔力収支のずれ。
無断複製された旧系統図。
そして昨日見た休止接続。
「トーマ」
セラが呼ぶ。
「考える顔になっている」
「今は考えていいところですよ」
「そうか」
「ただ」
俺は法廷中央を見る。
カルドが資料を片づけている。
さっきからずっと引っかかっていた。
あの男の話し方。
だが。
しかし。
だから。
ならば。
つまり。
一つ一つの事実の間に。
言葉を置く。
その言葉自体は嘘じゃない。
でも事実と事実の距離が縮まる。
まるで鎖をつなぐみたいに。
「一つ分かりました」
「何だ」
「昨日、門前でやってたこと」
「血の付いた手の話か」
「はい」
あの時、カルドは偶然そう見えただけかと思った。
今は違う。
「あの人は」
俺は声を落とす。
「真実を隠すだけじゃない」
一枚の旧系統図を見る。
「真実を並べる順番と、つなぎ方まで選んでる」
セラは少し考える。
「なら、お前は?」
「え?」
「順番を変えるのか」
すぐには答えられなかった。
変えれば。
俺も同じになる。
都合のいい順に並べるなら。
カルドと変わらない。
違う。
俺がやるべきなのは。
「……全部、時系列に戻します」
「時系列?」
「何が先に起きたか。誰が何をしたか。その時、設備側では何が起きていたか」
俺は旧系統図を見る。
「人が話した順じゃなくて」
「起きた順に?」
「はい」
セラが小さく頷いた。
「お前らしい」
その時、背後から声がした。
「しかし、それだけで答えが出るなら楽だろうな」
振り返る。
カルドがいた。
いつの間に。
俺たちのすぐ後ろまで来ていた。
「聞いてたんですか」
「聞こえた。だから答えただけだ」
「趣味悪いですね」
「だが、貴様に言われたくはない」
俺を見る。
「壊れた物ばかり覗いている男にな」
言い返そうとして。
止まった。
こいつ。
どこまで知ってる?
カルドは旧系統図を一度見る。
「順番だけで足りるなら、楽だろうな」
「じゃあ、何が足りないんです?」
「それを調べるのが貴様の仕事だろう」
「教えてくれないんですか」
「契約外だ」
即答だった。
歩き出す。
「待ってください」
呼び止める。
「この旧系統図。何のための経路か知ってます?」
カルドが止まる。
振り返らない。
数呼吸。
「知っていたとしても」
少し間を置く。
「契約外だ。だから話さない」
それだけ言って。
行ってしまった。
俺は旧系統図を見る。
休止していた一本の線。
昼。
主任は言っていた。
使った後だけ。
ほんの少し数字が合わない。
被告人も。
同じことを言った。
そしてその数字を追って。
この古い図へたどり着いていた。
偶然かもしれない。
でも、確かめる価値はある。
「リゼットさん」
俺は机へ戻る。
彼女が顔を上げた。
「何です?」
「火事から残った記録」
「はい」
「主任が言っていた、魔力収支の記録を探したいです」
リゼットはすぐに答えなかった。
弁論補佐人になった今。
昨日までとは立場が違う。
「私の立場で、直接取りに行くのは難しいです」
やっぱり。
でも、彼女は続けた。
「閲覧申請はできます」
「通ります?」
「分かりません」
「ですよね」
「ですが」
一枚の紙を取り出す。
「申請しなければ、通る可能性もありません」
それを渡される。
俺は受け取った。
セラが横から覗く。
「書け」
「今ですか」
「今だ。字は書けるだろう」
厳しい。
俺は申請書を机へ置いた。
名前。
目的。
閲覧を求める記録。
そこで手が止まる。
何を探す?。
全部では広すぎる。
主任が言っていた。
使った後だけ。
数字が合わない。
だから俺は書いた。
神造兵器アレーテイア使用後に記録された魔力収支差。
一度。
筆を置く。
それからもう一つ加えた。
当該差異について提出された過去の異常報告および対応記録。
リゼットがそれを見る。
「対応記録まで?」
「報告したって言ってました」
「主任が?」
「はい」
――昔、一度まとめて上へ出した。
――経過観察。
――現時点で追加対応なし。
あの言葉がずっと残っている。
「誰かは」
俺は言った。
「一度、気づいてたはずです」
リゼットの視線が申請書へ落ちた。
「そして、記録に残した」
「たぶん」
「なら」
彼女が言う。
「探しましょう」
法廷の向こう。
主鎖につながれた男が座っている。
火をつけていない。
主任を殺していない。
そう言った言葉を。
今のアレーテイアは確かめてくれない。
だったら残っているものを調べるしかない。
人の記憶じゃない。
印象でもない。
並べられた順番でもない。
火事になる前から。
そこにあった記録を。
俺は申請書を握った。
そして初めて。
この事件で探すべきものが。
犯人だけじゃない気がした。




