第二十一話 三つの焼け跡
宿を飛び出した時には、もう通りに人が溢れていた。
鐘が鳴り続けている。
短く。
何度も。
夜の静けさなんて、とっくに消えていた。
中央裁定院の奥から、赤い光が空を染めている。
「道を空けろ!」
警備兵が叫ぶ。
水桶を抱えた人間。法衣姿の聖職者。記録箱を抱えて走る書記官。逆方向へ逃げる住民。
全部が狭い通りへ集まっていた。
「セラ殿!」
カイが呼ぶ。
「分かっている」
セラが先へ出た。
人の流れが詰まっている場所へ入る。
「壁際へ寄れ! 走るな!」
怒鳴ったわけじゃない。
それでも声が通った。
セラだと気づいた者から、人の流れが割れていく。
俺が知らなかっただけで他国でも顔が割れるくらい有名だったみたいだ。
俺とリゼットはその後ろを走った。
カイも続く。
一度だけ、右胸へ手を添えたのが見えた。
「カイ」
「大丈夫です」
「まだ何も言ってません」
「言う顔でした」
息は乱れている。
大丈夫には見えない。
でも、今ここで止まれと言っても聞かないのは分かった。
「戦わないでくださいよ」
「火事と戦う予定はありません」
「そういう意味じゃないです」
「分かってます」
ならいい。
たぶん。
―――
聖律記録院が見えた。
昼間は中央裁定院の奥に、静かに建っていたはずの石造りの建物。
今は違う。
上階の窓から炎が噴き出している。屋根の一部はすでに崩れ、赤い火の粉が夜空へ舞っていた。
「水列、切らすな!」
「西側の窓を閉じろ!」
「記録庫二階! まだ人がいる!」
怒声が飛び交っている。
建物の前には長い人の列ができていた。
桶から桶へ、水が渡される。別の場所では水系統の魔法を使えるらしい人間が数人並び、窓へ向けて水を叩き込んでいた。
それでも火勢が落ちない。
おかしい。
石の建物なのに。
燃えているのは棚や紙だけじゃない。
窓枠。
梁。
内部の床。
奥から次々に炎が上がっている。
「トーマ」
セラが俺の前へ腕を出した。
「入るな」
「まだ入るって言ってません」
「顔に書いてある」
俺は顔をこすり
「そんなにですか??」
「かなり」
反論できなかった。
俺は建物を見上げる。
昼の保守官。
――昼から記録院へ戻る。
確かにそう言った。
「中に何人います?」
リゼットが近くの警備兵へ聞いた。
「確認中だ!」
「職員名簿は?」
「持ち出している! だが夜勤と残業者が混ざってる!」
その言葉で胃が重くなった。
まだ中にいるかもしれない。
「東側!」
誰かが叫んだ。
「一人出るぞ!」
扉から二人の警備兵が出てくる。
間に若い男を抱えていた。
煤だらけだった。咳き込みながら地面へ座り込む。
「他は?」
「分からない……!」
男が息を吸う。
「奥が……奥が急に……」
咳。
「三番庫の方から?」
「違う……」
顔を上げる。
「東の壁だ」
俺は反応した。
「東?」
警備兵も聞き返す。
男は何度も頷いた。
「最初に煙を見た時には……東の壁が熱かった」
「炎を見たのか?」
「いや……」
「なら火元とは限らん」
別の警備兵が遮る。
それは正しい。
熱かった。だから、そこが火元。そうはならない。
俺は男を見る。
「それ、いつです?」
警備兵が俺を見た。
「誰だ」
「アルヴェリア王国の随行調査員です」
今の肩書きで通るか分からない。
リゼットが横から立会証を見せた。
「王室記録官リゼットです。今の発言を確認したいです」
警備兵が少し迷った後、男へ向き直る。
「火災警鐘の前か?」
「前だ」
「どれくらい」
「記録箱を一つ運んで……戻った時には熱かった。まだ煙もほとんど出てなかった」
「誰かに言ったか?」
「保守の人を呼びに行った」
「誰を?」
男が答えようとした。
その時、建物の中から大きな音がした。
石が砕ける。
炎が一気に窓から吹き出した。
「下がれ!」
セラが俺の肩を掴んだ。
強く引かれる。
半呼吸遅れて、焼けた木片がさっきまで立っていた場所へ落ちた。
俺は木片を見る。
「……ありがとうございます」
「礼はいい」
セラが手を離す。
「次は私が掴む前に下がれ」
「善処します」
「善処ではなく、やれ」
厳しい。
でも正しい。
―――
火勢が弱まり始めたのは、それからしばらく後だった。
完全には消えていない。それでも、人が入れる場所が少しずつ増えてきた。
持ち出された記録箱が道路脇へ並べられている。
全部が焼けたわけじゃない。金属板を巻いた箱。石造りの保管庫。防火扉の奥にあった記録。燃えずに残ったものもある。
その事実に、少しだけ息が戻った。
「保守記録は?」
俺が聞く。
リゼットが職員へ確認する。
「どの保管区画ですか」
「旧記録は地下。直近十年分は二階東側です」
二階。
炎が最も強かった場所の一つだ。
「地下は?」
「防火扉は閉じています。ただ、まだ確認できていません」
全部消えたわけじゃない。
まだ、何が残っているか分からないだけだ。
「トーマ」
カイが声を落とす。
「今、少し安心しましたね」
「顔に出てました?」
「かなり」
今日二人目だ。
「でも、人はまだです」
自分で言った瞬間、安心したことが恥ずかしくなった。
記録が残っているかもしれない。そう思って、先に安心した。昼に会った人間の安否も分かっていないのに。
カイは何も言わなかった。
ただ、俺と同じ方向を見た。
―――
「一名発見!」
声が飛んだ。
空気が変わった。
東側の入口から、担架が出てくる。
布が掛けられていた。
その形だけで、分かった。
生きている人間の運び方じゃない。
俺の足が止まった。
担架の横を歩いていた保守担当が、泣きそうな顔をしている。
「主任……」
誰かが呟いた。
主任。
その言葉で、昼の男の手を思い出した。
一節ずつ鎖をなぞっていた指。
目盛りを見る目。
――俺も分からないから残してる。
「……あの人ですか」
声が出た。
近くにいた保守担当が俺を見る。
「知り合いか?」
「昼に、少し話しました」
男は俯いた。
それだけで十分だった。
布の隙間から、焼けた革の工具帯が見えた。
昼、あの人が腰につけていたものと同じだった。
何か言おうとした。
言葉が出ない。
明日。
朝に来い。
そう言っていた。
俺は、明日も会えると思っていた。
名前すら聞かなかった。
明日会うから。
そんな理由で。
「トーマ」
セラが隣に立っていた。
触れてはこない。慰める言葉もない。ただ、そこにいる。
それでよかった。
今は。
―――
火がほぼ消えた頃、聖律記録院の周囲へ縄が張られ始めた。
赤い封札。
昼に見たものと同じだ。
証拠保全則。
今度は、昼の欠けた支柱とは比べものにならない。
「消火に必要な範囲以外、触るな!」
記録官が叫んでいる。
「動かした物は場所を記録しろ!」
「持ち出した箱は番号順に並べろ!」
「勝手に開封するな!」
リゼットの顔が変わった。
昨日までの旅の顔じゃない。完全に仕事の顔だった。
「トーマさん」
「はい」
「現時点で見たことだけ、覚えていてください」
「分かってます」
「推測は後です」
「……はい」
昨日、リゼット自身が言っていた。
見たことまで捨てる必要はない。推測と混ぜなければいいだけ。
俺は聖律記録院を見る。
火は消えた。
でも、壁の一部は黒く焼けている。
一か所じゃない。
東側。
中央奥。
さらに南寄り。
少なくとも外から見える範囲だけでも、強く焼けた場所が離れている。
普通に火が広がっただけかもしれない。内部の通路でつながっているのかもしれない。保管物の違いかもしれない。
まだ分からない。
だから、見たことだけ。
三か所。
離れている。
それだけ。
「鑑定します」
俺が言った。
リゼットがこちらを見る。
「安全な範囲からなら」
セラも頷く。
「入るなよ」
「分かってます」
今回は本当に。
俺は縄の外から建物へ意識を向けた。
《不具合鑑定》。
視界が切り替わる。
焼けた壁。崩れた梁。砕けた床。熱で歪んだ金具。
火災による損傷が一気に浮かぶ。
多すぎる。
一つずつ追ったら終わらない。
見る場所を絞る。
強い熱変性。
そこだけを追う。
東。
一つ。
中央奥。
二つ。
南側。
三つ。
やっぱり、三か所。
しかも、周囲の焼け方と少し違う。
表面から燃え広がっただけではない。もっと内側。壁や床の内部に近いところまで、強く熱が入っている。
「三つ……」
俺が呟く。
リゼットがすぐに聞く。
「何がです?」
「焼け方が強い場所です」
「火元ですか?」
「分かりません」
即答した。
「三か所とも、他より内部まで熱が入ってます。でも、だから火元とは言えません」
「原因は?」
「まだ」
「つながっていますか?」
休止接続を思い出す。
でも、ここからでは判別しきれない。
「分かりません」
それでいい。
今は。
分からないものを、分かったことにしない。
―――
「おい!」
少し離れたところで声が上がった。
警備兵が、一人の男を止めている。
三十前後だろうか。保守用の上着。手には工具袋。顔は煤で汚れている。
「入れてください!」
「駄目だ」
「中に主任がいるんです!」
一瞬、胸が詰まる。
知らないのか。
まだ。
警備兵も言いにくそうにした。
「もう確認された」
男の動きが止まった。
「……何を」
「一名、死亡が確認された」
男は何も言わない。
工具袋が手から落ちた。
鈍い音。
中から金属工具が転がる。
一本。
二本。
小さな油瓶も出た。
保守担当の一人が、それを見た。
「鎖脂……?」
透明に近い油が、瓶の口から少し漏れている。
鼻を刺す独特の匂い。
昼、証言枝の留め具を保守していた時にも嗅いだ。
同じものだ。
だから何だ。
保守担当なら持っていて当然かもしれない。
俺は自分へ言い聞かせる。
材料。
まだ材料だ。
男が警備兵の腕を振り払おうとした。
「主任に会わせてください」
「遺体は検分前だ」
「確認だけでも――」
「駄目だ」
男の顔が歪んだ。
怒っているのか。泣きそうなのか。分からない。
そこへ、別の保守担当が走ってきた。
男を見る。
「あんた、戻ってきたのか」
「……ああ」
「どこにいた」
「北側の中継室だ」
「火事の前は?」
男が黙る。
ほんの一瞬。
「記録院にいた」
周囲の空気が変わった。
警備兵が聞く。
「何時までだ」
「警鐘の少し前まで」
「何をしていた」
「定例の遮断作業だ」
俺の耳が、その言葉を拾った。
遮断。
「どこを?」
警備兵が聞く。
男は建物を見る。
「三系統」
「どの三つだ」
「東側補助路。中央記録路。南側補助路」
三つ。
俺は焼け跡を見る。
東。
中央。
南。
頭の中で、三つの場所が並びかける。
待て。
同じだと決まったわけじゃない。
「作業は正常に終わったのか」
警備兵が聞く。
「終わった」
「異常は?」
「なかった」
「誰か確認したか」
「主任が」
男の声が掠れた。
「最後に確認した」
別の保守担当が顔を背けた。
警備兵は黙らない。
「主任とは、その時話したのか」
男が目を閉じる。
「話した」
「何を」
答えない。
「何を話した」
「……揉めた」
周囲が静かになる。
「何についてだ」
男は唇を噛んだ。
そして。
「俺の記録だ」
と答えた。
俺は男を見る。
警備兵も。リゼットも。カイも。
全員が、同じ男を見た。
昼に会った古参の保守官は、異常な数字を残し続けていた。
今、その男は死んだ。
火災の直前、記録について口論した保守担当がいた。
その男は、火災直前に記録院へ入り、三つの系統を操作した。
現場には、三つの強い焼け跡がある。
全部、今のところ、本当のことだ。
だからこそ、怖かった。
もう、一つの答えに見え始めている。
まだ何も証明していないのに。
ただ。
一つだけ、どうしても決まらないものがあった。
東の壁が熱くなったのは、いつだ。
若い職員は、警鐘の前だと言った。
この男も、警鐘の少し前までいたと言う。
どちらが先か。
三系統の遮断より前に壁が熱かったのなら、順番はまるで違う話になる。
だが、今ある証言だけでは決まらない。
前世でも、そこを間違えた報告書を何枚も見た。
結果と原因を、時刻で並べ直さないまま書いたものだ。
「トーマさん」
リゼットの声がした。
俺は彼女を見る。
「はい」
「今、何を考えました?」
言いかけて、止まる。
犯人かもしれない。
そう言いそうになった。
「……時刻が分かりません」
リゼットの目が、わずかに動いた。
「何のです?」
「壁が熱くなった時刻と、遮断作業の時刻です」
一呼吸。
「どっちが先か、まだ誰も確かめてません」
リゼットは一度だけ頷いた。
そして、帳面へ何かを書き込んだ。
その時、警備兵が男へ告げた。
「事情を聞く」
男は抵抗しなかった。
落ちた工具袋だけを見た。
その横で、鎖脂の瓶から落ちた一滴が、黒く焼けた石の上へ広がっていった。




