第二十話 鎖が光っても答えではない
翌朝。
中央裁定院へ向かう道は、昨日よりさらに混んでいた。
夜のうちに到着したらしい馬車が路地に並び、各国の紋章を付けた役人が記録箱を抱えて行き交っている。
昨日まで街道を埋めていた人と箱が、今度は一つの建物へ吸い込まれていた。
白い石で造られた中央裁定院。
正面の階段を上りながら、俺は昨日最後に見上げた建物をもう一度見る。
この中にある。
第三号神造兵器、真実鎖アレーテイア。
人間が「真実」を確かめるために使い続けている神器。
「トーマさん」
先を歩いていたリゼットが振り返った。
「行きますよ」
「はい」
「昨日から上ばかり見ていますね」
「大きいので」
「転ばないでください」
「そこまで子供じゃないです」
言った直後、階段の端へ靴を引っかけた。
何事もなかったように上り直したが、リゼットは何も言わなかった。
その方がつらい。
横でカイが笑っている。
セラだけは真顔だった。
「危険だな」
「何がです?」
「お前だ」
「階段一段ですよ」
「一段で済んだ、とも言える」
朝から扱いが酷かった。
―――
受付でアルヴェリア王国の立会証を確認される。
今回、アルヴェリア側の席に入るのは俺たち四人だ。
といっても、役割は同じじゃない。
国の記録に関する受け答えと記録を担当するのはリゼット。
セラとカイは護衛。
俺は神造兵器の状態確認のための随行員だ。
政治的な条件を俺たちだけで勝手に決められるわけではない。
今回の裁定で確認された事実と、あらかじめ与えられた条件を基に条約更新の手続きを進める。
その中で、アルヴェリア側の記録について答えるのがリゼットということらしい。
案内役の書記官について奥へ進むと、廊下の左右にはいくつもの法廷が並んでいた。
閉じた扉の向こうから、人の声が漏れている。
そのうちの一つが開いた。
中から記録官が出てくる。
ほんの数呼吸だけ、扉の向こうが見えた。
中央に一人の男。
両手首から太い銀鎖が床へ伸びている。
その隣で、中年の女性が裁判官へ身を乗り出していた。
「本人が否定してるんです! その言葉を鎖で確認してください!」
「できません」
裁判官の声が返る。
「被告人は現在、裁定拘束中です。同一人物を証言枝へ接続することはできません」
「でも――」
扉が閉じた。
俺は足を止めた。
「……今の、どういう意味です?」
リゼットも立ち止まる。
「あとで説明します」
「今じゃ駄目なんですか」
「通路です」
後ろから別の一団が来ていた。
確かに邪魔だ。
俺たちは再び歩き出した。
―――
大法廷へ入って、足が止まった。
広い。
高い天井と、左右に並ぶ各国の席。
その間を埋める長机。
昨日、街道で何度も見た封印箱が壁際に積み上がっている。
だが、一番目を引いたのは、それじゃなかった。
銀色の鎖だった。
法廷中央に、人の腕より太い鎖が一本垂れている。
その周囲には、それより細い銀鎖が何本も並び、床や支柱へつながっていた。
さらに、壁や床の中へ消えているものもある。
俺が想像していた真実鎖とは、かなり違った。
一本の特別な鎖を人間へ巻きつければ、嘘か本当か分かる。
名前だけ聞いた時は、勝手にそんなものを考えていた。
実際には違う。
一本じゃない。
「……あれがアレーテイアですか?」
リゼットが俺の隣へ並ぶ。
「はい。正確には、裁定院で司法利用されている部分です」
「全部じゃない?」
「少なくとも、ここから見えているものだけが全てだとは言えません」
その答えで、ラグナを思い出した。
城護盾バスティオンもそうだった。
巨大な盾だけを見ていた時には分からなかった。
城壁。
地下を走る魔力路。
選流環。
城の外まで伸びていた徴収経路。
それら全部がつながって、初めて一つの仕組みとして動いていた。
神造兵器は、目に見える本体だけを見ても分からない。
俺は中央の太い鎖を指した。
「今日は、あれで誰を裁くんです?」
「誰も裁きません」
「え?」
「本日の国家間裁定は、人間一人の罪を決める審理ではありません」
リゼットは中央の鎖を見上げる。
「太い方は、個人を裁定対象として固定する場合に使う主鎖です」
さっき別の法廷で見た男を思い出す。
「あれにつながってたやつ?」
「はい」
「じゃあ、裁判官が言ってた証言枝って?」
リゼットは今度、周囲の細い鎖を示した。
「こちらです。証人の発言が客観的事実と一致しているかを確認します」
「主鎖につながってる本人には使えないんですか?」
「同時には使えません」
「じゃあ、被告人が『自分はやってない』って言っても?」
「供述としては記録されます」
「その言葉自体が本当かどうかは?」
「裁定拘束中は、証言枝では確認できません」
何でも分かる鎖だと思っていた。
むしろ、一番確かめたい相手へ使えない時があるらしい。
「不便ですね」
「万能ではありません」
リゼットはそれだけ答えた。
「それで、今日は?」
「条約を更新するために必要な事実を、一つずつ確認します」
「一つずつ?」
「見た方が早いです」
説明を切って、アルヴェリアの席へ向かう。
少しして、本当に見た方が早かったと分かった。
―――
国家間条約の更新裁定が始まった。
向かいには、青地に白い鳥の国章。
その隣には昨日見た深緑の旗。
さらに、俺の知らない紋章が並ぶ。
全員が同じ法廷で、同じ鎖を見ていた。
最初に呼ばれたのは、セレディア側の記録官だった。
証言枝がその手首へ巻かれ、裁定官が一枚の文書を示す。
「これは統一暦四〇七年、前回の条約更新時に正式受理された原本ですか」
「はい」
銀鎖が白く光った。
思わず目を見開く。
ほんの一瞬だが、はっきりと光った。
それなのに、法廷にいる誰も驚かない。
各国の記録担当が一斉に筆を動かしている。
「この文書には、当時参加した各国の正式な認証がありますか」
「はい」
また光った。
次の証人は、国境管理に携わったという男だった。
「第二国境標は、統一暦四一二年の大水害以前から現在の位置に存在していましたか」
「はい」
光らない。
一瞬、法廷が静かになった。
男の顔色が変わる。
それでも裁定官は責めなかった。
手元の記録を一枚めくり、質問の形を変える。
「質問を分けます。大水害以前、第二国境標は現在とは異なる位置にありましたか」
「……はい」
白い光。
「大水害後に再設置されましたか」
「はい」
光る。
「現在の位置は、以前より南ですか」
「はい」
「南へ十五歩ですか」
「はい」
また光った。
国境標は移動している。
南へ十五歩。
だが、誰が動かしたのかは分からない。
洪水で失われたものを置き直しただけなのか。
土地を取るために意図して動かしたのか。
今の質問だけでは、そこまで届かない。
真実鎖が示したのは、以前と位置が違うこと。
南へ十五歩であること。
そこまでだった。
次。
次。
さらに次。
橋の管理記録。
関所の使用期間。
水路。
通行税。
修繕費。
大きな問題を、そのまま鎖へ投げることはしない。
誰が費用を出したか。
誰が記録へ署名したか。
いつ使い、何日止め、どこへ移したか。
一つずつ切り分けて聞く。
鎖が光り、記録され、次へ進む。
「……なるほど」
「分かりました?」
カイが小声で聞く。
「真実鎖が国境を決めてるんじゃないんですね」
リゼットの筆が一瞬止まった。
「はい」
「材料を確かめてるだけだ」
「その言い方なら、そうです」
昨日のカルドの言葉が頭へ戻る。
材料と結論を同じにする奴が多いだけだ。
国境標は動いた。
それは真実だ。
だが、その土地がどちらの国のものなのか。
そこから先は、まったく別の話になる。
しばらくして、裁定官がアルヴェリア側を見た。
「アルヴェリア王国提出記録について、記録確認者の接続を求めます」
「はい」
リゼットが立った。
俺は思わず彼女を見る。
今まで横で記録していたリゼットが、法廷中央へ歩いていく。
係官が証言枝を手首へ巻いた。
リゼットは一度だけそれを確認すると、正面を向く。
向かい側の国の代理人が、一冊の記録を開いた。
「こちらはアルヴェリア王国より提出された、南西街道第四橋の維持記録で間違いありませんか」
「はい」
白く光った。
「あなた自身が、王室保管原本との照合を行いましたか」
「はい」
また光る。
「提出記録の内容に、原本と異なる箇所はありませんか」
「あります」
白い光。
法廷の何人かが顔を上げた。
俺も同じだった。
代理人がページをめくる。
「どこです?」
「要約部です」
リゼットは平然と答える。
「アルヴェリア王国が第四橋の維持費を全額負担したと読める記載がありますが、原本から確認できるのは、アルヴェリアが維持費の一部を負担したという事実までです」
法廷が少しざわついた。
「つまり、アルヴェリア王国が全額を負担したという事実は確認できない?」
「はい」
鎖が白く光った。
俺は息を止めた。
それ、言わなくてもよかったんじゃないか。
いや、聞かれた以上は答えなければならない。
でも、リゼットは聞かれる前から、原本と違うところがあると自分で言った。
代理人が続ける。
「他国からも維持費の負担があったことを示す記録がありますか」
「あります」
光る。
「その記録も、アルヴェリア王国の保管原本に存在しますか」
「はい」
また光った。
代理人が席へ戻る。
リゼットは証言枝を外され、何事もなかったように俺たちの席へ帰ってきた。
そして自分の記録用紙へ、今のやり取りをそのまま書き始める。
俺は声を落とした。
「リゼットさん」
「はい」
「今の、アルヴェリアに不利ですよね」
筆は止まらない。
「そうかもしれません」
「そうかもしれないって……」
「条約上の評価は、私が決めることではありません」
「でも、こっちの資料の間違いですよね」
そこで筆が止まった。
リゼットが俺を見る。
「違います」
「え?」
「原本そのものが間違っていたとは確認されていません」
一呼吸。
「提出時の要約では、原本から確認できる範囲を超えた表現になっていた。それが、今確認された事実です」
言われて気づいた。
俺はもう「間違い」とまとめていた。
リゼットは違う。
どこまで確認できたのかと、そこから先を、はっきり分けている。
「それでも、自国には不利ですよね」
「有利か不利かで、確認された事実は変わりません」
リゼットは再び筆を動かした。
「私は、アルヴェリアに都合のいい記録を残すために来たわけではありません」
紙へ一行を書き足す。
「何が確認され、何が確認されなかったかを残すために来ています」
昨日、カルドとリゼットは似ているとセラが言った。
あの時は違うと思ったし、今も同じだとは思わない。
それでも、事実を自分に都合のいい形へ変えない。
そこだけは、少し似ているのかもしれなかった。
―――
昼前、一度目の休廷が入った。
俺たちが法廷脇の回廊へ出ると、証言枝の支柱では数人の保守担当が状態を確認していた。
その中に、一人だけ随分と年上の男がいる。
白髪交じりで腰も少し曲がっているのに、鎖を扱う手は速かった。
一節ずつ指でなぞり、支柱の刻印を順に確認していく。
俺は何となく足を止めた。
男がこちらを見る。
「何だ」
「すみません。見てただけです」
「見るだけならな」
ぶっきらぼうだった。
男は支柱についている小さな計器を覗き込む。
俺もつい視線を向けた。
細い針が、目盛りの少し手前で止まっている。
「何を測ってるんですか?」
「魔力の収支だ」
「収支?」
「入った分と、戻った分」
胸の奥に引っかかった。
「合わないことがあるんですか?」
男の手が止まった。
「ある」
短い答えだった。
「使った後だけ、ほんの少し数字が合ない時がある」
使った後だけ。
その一言で、指先が止まりかけた。
「毎回ですか?」
「毎回ではない」
男は計器へ目を戻す。
「だが、何度も出ている」
「原因は?」
「分からない」
「調べなかったんですか?」
今度は少しだけ嫌そうな顔をした。
「調べた」
「結果は?」
「許容範囲」
男は計器を指で軽く叩いた。
「昔、一度まとめて上へ出した。経過観察。現時点で追加対応なし」
聞き覚えのある言葉だった。
前世でも何度も見た。
許容範囲。
基準内。
経過観察。
それ自体は、間違った判断じゃない。
数字が基準を超えていないのに設備を全部止めれば、そちらの方が問題になることもある。
ただ、許容範囲は安全と同じ意味じゃない。
今の基準を超えていない。
それだけだ。
「その記録って残ってます?」
男が俺を見る。
「古い保守記録か?」
「はい。できれば、そのズレが出た日の分も」
「聖律記録院にある」
「見られます?」
「一般に出せる分ならな。申請がいる」
「今日でも?」
男が法廷の方を見た。
人。
鎖。
記録箱。
「今日は無理だ」
確かに。
「明日なら?」
「朝に来い」
「いいんですか?」
「見て何か分かるならな」
男が少し笑った。
「俺も分からないから残してる」
俺も笑いかける。
「じゃあ、お願いします」
「昼から記録院へ戻る。申請だけ先に出しとけ」
「分かりました」
男は工具を持ち直した。
「それと」
「はい?」
「勝手に鎖へ触るなよ」
「触りませんよ」
横からセラの声が飛ぶ。
「信用しない方がいい」
「なんで初対面の人の味方するんですか」
「事実を言っただけだ」
今日は、そういう言葉に敏感になる。
―――
少し先では、別の支柱の根元で若い作業員が工具箱を開いていた。
石材の一部が欠けている。
工具へ手を伸ばしたところで、女性の記録官が早足で近づいてきた。
「待ってください」
「何だ?」
「そこはまだ直さないでください」
「修繕依頼が出てるんだが」
「昨日、荷運びの方が転倒した件について検分が終わっていません」
女性は支柱の周囲へ細い縄を張り、赤い封札を下げた。
「証拠保全則が優先です。検分終了まで現状を変えないでください」
「壊れたまま置けって?」
「今は」
作業員は不満そうだったが、工具を戻した。
俺は赤い封札を見る。
壊れている。
直せる。
それでも直さない。
直せば、壊れ方まで消えてしまうからだ。
前世でも同じだった。
事故品を先に分解するな。
破損部品を交換するな。
清掃するな。
良かれと思って元へ戻した瞬間、原因まで消えることがある。
正常へ戻すことと、原因を調べること。
二つは同じじゃない。
「トーマ」
セラの声がした。
「触るなよ」
「触りません」
「ならいい」
疑われると思っていたので、逆に拍子抜けした。
「信用してくれるんです?」
「いや」
「じゃあ何で」
「手を出したら止めればいい」
信用ではなかった。
―――
午後、国家間裁定が再開された。
証言。
発光。
記録。
次の証言。
また発光。
最初は珍しかった白い光も、何十回と見ているうちに日常の風景みたいになってくる。
それが少し怖かった。
国が違う。法律も違う。利益に至っては、むしろ互いに争っている。
それでも、鎖が光った事実だけは全員が受け入れる。
「すごいですね」
俺が呟くと、カイがこちらを見た。
「何がです?」
「これだけの国が、同じものを信用してる」
「アレーテイアですか」
「はい」
もしある日突然、この鎖がなくなったら。
この国々は、どうやって同じ事実を共有するんだろう。
そう考えた時、もう一つ思った。
だからこそ、この鎖に何かあった時、誰が最初に疑うんだろう。
安心するための仕組みほど、正常であることを前提に使われ続ける。
「また難しい顔をしているな」
セラが言った。
「そんなに分かりやすいですか」
「神器を見る時のお前は大体同じだ」
「壊れると思ってるわけじゃないですよ」
「そうなのか」
「人も多い。使う回数も多い。昼に聞いた小さなズレもある。でも、それだけで危険だとは言えません」
バスティオンに欠陥があったから、アレーテイアにもある。
そう決めた瞬間、昨日の門前で他人がやったことと同じになる。
いくつかの事実を、自分の作りたい結論へつなげてしまう。
「まだ分かりません」
セラは一度だけ頷いた。
「なら、それでいい」
最近、俺が「分からない」と言っても、セラはそれ以上答えを求めなくなった。
分からないものを無理に分かったことにしないところも、少しは信用してくれているのかもしれない。
―――
その日の予定分が終わった頃には、空が赤くなっていた。
記録官たちは疲れた顔をしている。
それでも、もう明日の記録箱を並べ始めていた。
証言枝が外され、白い光も止まる。
俺は法廷中央へ目を向けた。
ずっと気になっていた。
真実鎖。
名前だけなら、鎖そのものが神器に思える。
でも今日一日見て分かった。
違う。
主鎖。
証言枝。
支柱。
裁定席。
それぞれをつなぐ魔力路。
バスティオンと同じだ。
目に見える一つの物体ではなく、つながった仕組み全体で動いている。
「見るだけですよ」
先に言った。
セラが眉を寄せる。
「まだ何も言っていない」
「言いそうだったので」
「では、見るだけにしろ」
「はい」
俺は中央の鎖へ意識を向けた。
《不具合鑑定》。
視界が切り替わる。
銀鎖、支柱、裁定席。
その下の床、壁、地下。
何本もの魔力経路が一気に浮かび上がった。
やっぱり、見えているものだけが全部じゃない。
ただし、構造はバスティオンとは違った。
バスティオンは城外へ伸び、外から集めたものを一つの防護へ流し込んでいた。
アレーテイアは逆で、法廷各所から伸びた経路が大きな中央系統へ集まっている。
何をどう処理しているのか、そこまでは分からない。
さらに追う。
現在使われている接続は濃く、停止しているものは薄い。
その中に、一本だけ妙な線があった。
証言枝へ向かっていない。
主鎖でもない。
今使われている司法設備のどこにも、直接つながっていない。
床下へ沈み、法廷の外へ抜け、さらに都市の奥へ伸びている。
表示が浮かんだ。
《接続状態――休止》
「……休止?」
声が漏れた。
「何か見えたか」
セラが聞く。
「使われていない接続があります」
「壊れているのか?」
表示を確認する。
破断ではない。
漏出でもない。
「壊れてません」
「なら何だ」
「ただ、使われてない」
使われなくなった設備なら、前世でも珍しくなかった。
増設。
用途変更。
更新。
新しいものへ切り替えたあと、古い配線や配管だけが残る。
撤去するほどでもないから。
支障がないから。
そういう理由で残るものはいくらでもある。
ただ、神造兵器でも同じ理由なのかは分からない。
「明日、保守記録を見れば――」
「三番枝、張りすぎやで」
上から声が落ちてきた。
俺もセラも顔を上げる。
二階の回廊で、一人の男が欄干へ肘をついていた。
金色の髪。
耳にはいくつもの銀の環。
白いゆったりした上着の隙間から、黒い袖のない内衣が見えている。
周囲の役人も聖職者も記録官も忙しなく動いているのに、その男だけが、そこへ遊びに来たように力を抜いていた。
「三番?」
若い書記官が支柱を見る。
「そのまま締めたら、次つないだ時に一節噛むで」
近くにいた保守担当が確認した。
留め具へ触れ、一度外す。
銀鎖がわずかに沈んだ。
保守担当の顔が変わる。
「……張りすぎてる」
「せやろ」
男は気のない返事をした。
そこで終わるかと思った。
「そこ、前も直したやろ」
保守担当が顔を上げる。
「え?」
「同じとこや」
男が三番支柱を指差す。
「前は誰が締めた」
誰も答えなかった。
書記官と保守担当が顔を見合わせる。
男はもう興味を失ったように視線を外した。
俺は三番支柱を見る。
同じ場所。
前にも。
昼の保守官が言っていた言葉が浮かんだ。
何度も出る。繰り返す。
俺は全体ばかり見ていた。地下へ伸びる経路。大きな負荷。休止した接続。
それなのに、同じ場所が以前にも調整されていたかどうかなんて、一度も見ていない。
前世なら、一度壊れた場所がまた同じように壊れることは、真っ先に気にすることだった。
構造なら自分の方が見えている。
どこかで、そう思っていたのかもしれない。
なのに、先に気づいたのはあの男だった。
少し腹が立った。
自分に。
「リゼットさん」
「はい」
「あの人、誰です?」
リゼットも二階を見る。
「分かりません」
「ここの人じゃないんですか?」
「少なくとも、私が確認した国外立会者名簿にはいません」
男がこちらを向いた。
俺と一瞬だけ目が合い、その視線が横へずれてセラで止まる。
気の抜けたような目が、ほんの少しだけ細くなった。
「……へえ」
セラも男を見る。
何も言わない。
男はそれ以上何もしなかった。
白い上着を揺らし、回廊の奥へ歩いていく。
名前は分からない。
何者なのかも分からない。
でも、あの男はアレーテイアを知っている。
少なくとも、俺よりずっと長く。
―――
宿へ戻った頃には、完全に日が落ちていた。
夕食の席で、カイが椅子の背へ身体を預ける。
「疲れました」
「座ってただけじゃないですか」
「移動可と、一日裁定院にいていいは別だと思うんですよ」
「それ、俺が言おうとしてました」
「先に言いました」
「じゃあ今日は早く寝てください」
「子供じゃないですよ」
「怪我人です」
カイが黙った。
勝った。
リゼットは今日の記録を机いっぱいに広げている。
自国に不利になり得る証言も、真実鎖が反応しなかった回答も、全部が同じ字で残されていた。
俺は昼に提出した閲覧申請の控えを取り出す。
アレーテイア保守記録。
過去の魔力収支。
異常報告。
明日の朝、あの保守官が聖律記録院で見せてくれる。
昼に聞いた微小なズレ。
休止した接続。
三番支柱の再調整。
気になるものは増えた。
それでも、まだ何一つ原因にはなっていない。
明日、記録を見てから考えよう。
そう決めて、部屋へ戻った。
―――
どれくらい眠ったのか、低い音で目が覚めた。
一度。
二度。
三度。
鐘だ。
時刻を知らせる鐘じゃない。
間隔が短く、強い。
廊下で扉が開く音。
誰かが走る足音。
俺も起き上がり、上着を掴んだ。
部屋を出ると、ほぼ同時にセラの扉が開いた。
カイ。
リゼットも出てくる。
「何です?」
リゼットは答えず、廊下の窓へ向かった。
外を見て、その表情が変わる。
「火災警鐘です」
窓を開けると、冷たい夜気が入り込んだ。
遠く、中央裁定院のさらに奥。
夜の街の一角が赤く染まっている。
黒い煙。
走る人影。
馬の蹄の音。
「どこです?」
リゼットは炎の位置を確かめた。
一呼吸。
「……聖律記録院です」
頭の中で、昼の声が戻ってきた。
――古い保守記録なら、聖律記録院にある。
――朝に来い。
明日読むはずだった記録。
そして、昼から記録院へ戻ると言っていた、あの保守官。
「……あの人」
声が漏れた。セラがこちらを見る。
俺は上着を羽織った。
休止した接続。
繰り返し調整されていた支柱。
何度も出ていた微小なズレ。
燃えている聖律記録院。
いくつもの事実が頭の中に並ぶ。
つなげようと思えば、いくらでもつなげられる。
でも、まだ駄目だ。
ここで答えを作れば、昨日の門前で見た人たちと同じになる。
「行きましょう」
原因は分からない。
だったら、分からないまま現場を見る。
明日調べるはずだったものが、今夜、消える前に。




