第十九話 真実だけで、嘘は作れる
セレディアへ向かう街道は、国境を越えた頃には道ではなく列になっていた。
最初に増えたのは馬車だった。
アルヴェリア王国を出た直後までは、前を走る荷車を追い越し、反対から来た商人へ道を譲る程度だった。それが昼前には、前方から馬車の姿が消えることの方が珍しくなっている。
二頭立ての立派な客車。
布を何重にも掛けた荷車。
見慣れない国章を掲げ、武装した騎士に前後を守られた一団。
その間を縫うように、徒歩の旅人や白い法衣を着た聖職者まで南西へ向かっていた。
行き先は、ほとんど同じらしい。
中立宗教司法都市セレディア。
第三号神造兵器、真実鎖アレーテイアが置かれている街だ。
「また来ますよ」
俺が窓の外を見ながら言うと、隣に座っていたカイも身体をずらした。
後方から、青地に白い鳥を描いた旗を掲げた一団が近づいてくる。
先頭に騎馬。
その後ろに三台の客車。
さらに後ろには、同じ形の木箱を積んだ荷車が何台も続いていた。
木箱の中央には、どれも赤い封蝋が押されている。
「使節団ですかね」
「使節も混じっています」
向かいで資料を読んでいたリゼットが顔を上げた。
窓の外へ一度だけ目を向ける。
「ですが、後ろは記録馬車だと思います」
「記録?」
「封が裁定院式です」
それだけ答えると、リゼットはまた資料へ視線を戻した。
俺は通り過ぎていく荷車を目で追う。
一台につき、箱が十以上。
それが何台もある。
「リゼットさん」
「はい」
「あれ、全部セレディアへ持っていくんですか?」
今度はリゼットも少し長く外を見た。
「少なくとも、あれだけではありません」
「え?」
その言葉を確かめるように、横道から別の一団が合流してきた。
今度は深緑の旗。
その後ろにも、同じような封印箱を積んだ荷車が続いている。
俺は思わず黙った。
王都で予定表を見た時には、「国家間条約の更新」という数文字でしかなかった。
けれど、その数文字の向こうには、これだけの人間がいる。
使節。
役人。
記録官。
証人。
護衛。
何年も前の裁定記録。
条約締結時の文書。
国同士で食い違っている記録もあるだろう。
昔の出来事を証言するため、遠くから呼び寄せられた人間だっているかもしれない。
紙に書けば一行。
実際に動かせば、街道一つを埋める。
前世の仕事でも同じだった。
報告書に「全数検査」と一行書くのは簡単だ。
実際に千個を見るのは、一行では終わらない。
「全員、裁定に行くのか?」
セラが窓の外を見たまま呟いた。
「まさか」
御者が笑った。
「大きな裁定がある時期は商人も寄ってきますよ。宿も飯も紙も売れる。馬の餌まで値が上がりますからね」
「毎回こんなに?」
「条約更新の年はね。今年は特に多いって話ですが」
御者は気にした様子もなく、手綱を操る。
毎回ある。
今までもやってきた。
予定されたことだ。
珍しくない。
そう聞けば安心できそうなのに、俺には少しだけ引っかかった。
前世でも、事故のあとによく聞いた。
今までも同じ使い方をしていた。
これまでは壊れなかった。
いつも通りだった。
だから、今回も大丈夫だと思った。
もちろん、今のところは人と荷物が多いというだけだ。
アレーテイアがどんな構造なのか、俺はまだ見てもいない。
見えていないものに、勝手な理由を付けるべきじゃない。
そう考えて窓から顔を戻したところで、カイと目が合った。
「トーマさん」
「何です?」
「今、私を見ました?」
「見てません」
「見ましたよね」
「後ろの馬車を見てたんです」
「本当に?」
「なんでそんなに疑うんですか」
「王都を出てから、トーマさんが私を見る時って、大体傷のことなんですよ」
当たっている。
カイは王都へ戻った直後に比べれば、随分動けるようになっていた。
高位治癒士の治療を受け、その後も数日間経過を見て、長距離移動の許可までは出ている。
ただし、完全に治ったわけではない。
出発前に渡された診療札には、
長距離移動可。
過度な運動禁止。
戦闘は再診後。
と書かれていた。
本人だけ、一番下の一行は見えないことにしている。
「痛みは?」
「ありません」
答えが早かった。
「じゃあ、深く息を吸ってください」
「……少しあります」
「ありますよね」
「少しですよ」
セラが窓の外を向いたまま口を挟んだ。
「剣を振れないなら重傷だ」
「セラは黙っててください」
「なぜだ」
「怪我の基準がおかしい人を増やしたくないんです」
「私は普通だ」
「その台詞、昨日も聞きました」
「では覚えているな」
「そこじゃないです」
カイが笑った。
その直後、右の胸元へ手が動く。
ほんの一瞬だった。
笑ったことで、まだ傷へ響いたのだろう。
俺と目が合うと、何事もなかったように手を下ろした。
そういうところまでセラに似なくていい。
カイを見ているうちに、王都を出た朝のことを思い出した。
―――
出発の日。
王宮前へ馬車が用意されても、マレクは最後までカイの診療札を睨んでいた。
「本当に行くのか」
「医官の許可は出てますよ」
カイが札を持ち上げる。
マレクの視線は、その一番下へ向いた。
「戦闘許可とは書いていない」
「戦わなきゃいいんでしょう」
「お前がそれを守れるとは思えん」
「信用ないですね」
「実績がある」
即答だった。
カイは苦笑しながら荷物を肩へ掛ける。
「今回は大丈夫ですよ」
「ラグナへ行く前も聞いた」
「今度こそ」
「それも聞いた」
俺は荷物を積みながら、どちらが年上を叱っているのか分からなくなっていた。
御者が出発準備の完了を告げる。
俺とリゼットが先に馬車へ乗った。
セラも続く。
最後にカイが乗り込もうとした時だった。
マレクの横を通り過ぎる瞬間、その声が少しだけ低くなる。
「王都の方、頼みます」
マレクは表情を変えなかった。
「お前に言われるまでもない」
「何かあれば、いつもの手順で」
そこで一度だけ間があった。
「……分かっている」
「お願いします」
カイが馬車へ足を掛ける。
今度はマレクが呼び止めた。
「カイ」
振り返る。
「そっちこそ、頼んだぞ」
「はい」
短いやり取りだった。
王都にはヴァルガルドの捜索情報が集まる。
ラグナとの連絡も続いている。
王都側でマレクに任せることなら、いくらでもある。
その話だと思えば、何もおかしくはない。
それなのに。
最後に二人の視線が向いた先に、セラがいたように見えた。
ほんの一瞬だった。
気のせいかもしれない。
俺が何か聞く前に、カイはいつもの顔へ戻って馬車へ乗り込んだ。
「何です、トーマさん」
「いや……何でもないです」
その時は、それ以上聞かなかった。
―――
昼を過ぎる頃には、街道沿いの宿場まで人で溢れていた。
「四人?」
宿屋の主人は人数を聞いただけで首を横へ振った。
「無理だよ。部屋どころか厩の横まで埋まってる」
「まだ昼ですよ?」
「昨日からだ。セレディアへ行く連中が前倒しで入ってきてる。次の宿も似たようなもんだと思うぞ」
俺たちは食事だけ取って、先へ進むことになった。
宿の前にも人が多い。
違う国章を付けた役人たちが一枚の地図を囲んでいる。
その横を聖職者らしい老人が通り過ぎる。
少し離れた場所では、若い男が封印箱を一つずつ数えていた。
「十一、十二……そっちの三箱は第二便だ! 混ぜるな!」
荷車の横へ、さらに三箱が積まれる。
一箱を運び終えた男が額の汗を拭い、その横から別の二人が次の箱を抱えてくる。
終わる気配がない。
紙の上では数行だった条約裁定が、街道も宿場も埋めていた。
俺はその光景を、何となく覚えておこうと思った。
―――
セレディアの白い塔が見え始めても、人の数は減らなかった。
むしろ増えた。
城塞都市ラグナとは、壁の作りから違う。
ラグナの外壁が敵を拒むためのものなら、セレディアの門は大勢の人間を飲み込むために作られているように見えた。
中央大門。
その左右にも複数の門。
さらに荷車だけを通すらしい入口まである。
それでも列は途切れない。
「あれがセレディアです」
リゼットが窓の外を見る。
俺は街より先に、その門へ吸い込まれていく人間を見ていた。
各国の旗。
聖職者。
役人。
護衛。
旅人。
そして、何台もの記録馬車。
人が真実を確かめるために、これだけのものが集まる。
「進みます!」
門衛の声が上がった。
アルヴェリア王国の印章を確認され、俺たちの馬車も少しずつ前へ動き出す。
その直後だった。
前方で悲鳴が上がった。
馬が嘶く。
何かが倒れる重い音。
列が一気に乱れた。
「止めろ!」
御者が手綱を引く。
セラが最初に馬車を降りた。
俺たちも続く。
人垣の中央に、一人の女が倒れている。
脇腹の服が赤く染まっていた。
その横に、一人の男がしゃがみ込んでいる。
痩せた長身。
肩より長い黒髪。
目の下には、何日寝ていないのかと思うほど濃い隈がある。
男の両手は血で汚れていた。
片方の手には、一通の封書。
倒れた女の上着は、懐のあたりが開いている。
「動くな!」
門衛が剣を抜いた。
男は女の傷へ布を押し当てたまま、顔だけを上げる。
「動いてない」
「その女から離れろ!」
「離せば血が出る」
「封書を置け!」
「断る」
門衛の剣先が男の喉元へ向く。
周囲から声が飛んだ。
「刺したのか?」
「手が血だらけだぞ」
「女の荷物まで取った!」
一つずつ聞けば、それらしく聞こえる。
俺も最初の一瞬はそう思った。
隣で、リゼットが人垣をゆっくり見回す。
見ているのは倒れた女でも、血まみれの男でもなかった。
声を上げた三人を、一人ずつ見ている。
「どうしました?」
俺が小さな声で聞く。
「今の三人は、後から来た人たちです」
「え?」
「門の内側から出てきています」
リゼットの視線が三人の足元から、それぞれが出てきた方向へ動いた。
「少なくとも、女性が倒れるところは見ていません」
言われてみれば、三人とも俺たちと一緒に門へ並んでいた人間ではない。
後から騒ぎを聞きつけて来ただけだ。
それでも、
血。
倒れた女。
封書。
三つを見ただけで、一つの話を作った。
俺は男から視線を外した。
女の少し先に、荷車が横倒しになっている。
片方の車輪が外れていた。
路面には長い擦り跡。
折れた車軸。
その先に赤いものが付いている。
女の袖と膝にも土がついていた。
「お前がやったのか」
門衛が男へ聞く。
男は眉一つ動かさない。
「何を」
「この女をだ!」
「質問が雑だな」
「貴様――」
「俺はこの女の横にいる」
男は淡々と続ける。
「手には血がついている。封書も俺が持っている」
一度、門衛を見る。
「全部、本当だ」
「なら――」
「で」
男が遮った。
「誰が、俺がこの女を傷つけるところを見た」
門衛が周囲を振り返る。
大勢いる。
それでも誰も手を上げなかった。
少し遅れて、後ろから老人が声を上げる。
「荷車が倒れるところなら見ました!」
人垣が割れた。
老人は横倒しになった荷車を指差す。
「車輪が外れたんです。馬が暴れて、その女の人が避けようとして……折れた車軸が飛びました」
女の脇に、折れた木片が落ちている。
門衛の顔色が変わった。
「では、その封書は何だ」
「俺のだ」
「その女の懐に入っていただろう」
「俺宛ての荷物を運んできた女の懐に入っていた」
男が封書を返した。
表面に名前がある。
カルド・ヴェイン。
「受け取る契約だった」
「それで勝手に取ったのか」
「受領物だからな」
「血は」
「押さえなければ死にそうだった」
カルドは傷へ当てた布をほんの少し浮かせた。
すぐに赤が滲む。
また布を押し当てる。
「治癒士を呼べ。俺は治せない」
門衛がようやく部下へ指示を出した。
さっきまでカルドへ向いていた人々の目が、少しずつ変わっていく。
血のついた手。
倒れた女。
封書。
そこにあったものは、一つも変わっていない。
変わったのは、それをどうつないだかだけだった。
「一つ、確認してもよろしいですか」
リゼットが口を開いた。
カルドがこちらを見る。
「勝手にしろ」
「女性を助けたのは、契約に含まれていたからですか?」
俺はカルドの顔を見ていた。
リゼットは違った。
一度だけ顔を確認したあと、その視線がゆっくり下がる。
つられて俺も同じ場所を見た。
血のついていない方の手だ。
カルドは指を軽く組んでいる。
その上で、両方の親指がゆっくり回っていた。
「含まれてない」
「では、なぜ助けたのですか?」
親指が止まった。
「死なれると面倒だ」
「何が面倒なのですか?」
「受領確認」
リゼットはすぐに返事をしなかった。
カルドの手を見ている。
やがて、顔を上げた。
「そうですか」
「何だ」
「いいえ。確認しただけです」
治癒士たちが走ってきた。
カルドは女を任せて立ち上がる。
両手の血を布で拭い、封書を懐へ入れた。
門衛も剣を下げる。
「……悪かった」
「何がだ」
「疑ったことだ」
カルドは自分の手を見る。
「血がついていた。倒れた女の横にいた。封書も持っていた」
そして門衛へ視線を戻す。
「疑う材料にはなる」
一呼吸。
「材料と結論を同じにする奴が多いだけだ」
リゼットが尋ねた。
「カルド・ヴェインさんで間違いありませんか?」
「封書を見ただろ」
「見たことと、本人へ確認したことは分けます」
カルドが初めて、わずかに目を細めた。
「そうか」
それ以上は何も言わない。
俺たちの横を通り過ぎる。
数歩進んでから、足を止めないまま言った。
「真実は便利だ」
それだけ残して、人混みへ消えていった。
俺はその背中を見送る。
「嫌な人ですね」
「そうでしょうか」
リゼットはまだカルドが消えた方向を見ていた。
「興味持ってません?」
「少しだけ」
「やっぱり」
リゼットは懐から小さな帳面を取り出した。
何かを短く書き込む。
「今、何を書いたんですか」
「観察したことです」
「何か分かったんです?」
「いいえ」
帳面から顔を上げる。
「意味はまだ推測の段階です」
「じゃあ、何で書くんです?」
「忘れないためです」
リゼットは当然のように答えた。
「見たことまで捨てる必要はありません。推測と混ぜなければいいだけです」
帳面を閉じる。
同じ場所にいた。
同じ光景を見ていたはずなのに、俺には帳面へ書くことが何も浮かばなかった。
俺は荷車を見た。
車輪を見た。
車軸を見た。
傷の位置を見た。
リゼットは、人がどこから来たかを見た。
誰が何を見ていないかを見た。
カルドが答える時に、どこが動いたかまで見ていた。
同じ「見る」でも、随分違う。
横からセラが言った。
「似ているな」
「誰と誰がです?」
「今の男とリゼットだ」
「似ていません」
「似てませんよ」
俺とリゼットの声が重なった。
カイが吹き出した。
直後に右胸を押さえる。
俺が見る。
「今のは違います」
「何も言ってません」
―――
セレディアの中へ入ると、門の外以上に人が多かった。
白い尖塔を持つ礼拝堂。
その隣に、何本もの柱を並べた巨大な裁定院。
向かいには各国の連絡所が並び、軒先には見たことのない国旗まで掲げられている。
祈る場所。
裁く場所。
国同士が話す場所。
それらが一つの街の中心に固まっていた。
到着の登録を済ませ、中央広場へ出る。
人の流れは四方から絶えず入り込んできていた。
法衣を着た聖職者。
勲章を下げた軍人。
いかにも貴族らしい一団。
護衛に囲まれた役人。
名前を知らなくても、周囲の視線だけで普通の人間ではないと分かる者が何人もいる。
「今年はすごいですね」
カイが周囲を見渡した。
「知ってる人がいるんですか?」
「何人かは」
「有名人だらけってことです?」
「国家間裁定ですから。立会人や護衛で呼ばれる人もいますよ」
そう話していると、広場の端で人の流れが一瞬乱れた。
荷車の車輪が石畳の窪みに落ち、大きく傾いたらしい。
積み荷を覆っていた布が外れ、乾いた砂が舞い上がる。
俺は反射的に顔を背けた。
けれど、砂埃は途中で妙な動きをした。
白い外套を着た一人の女性を中心に、風が二つへ割れたように左右へ流れていく。
本人は何事もなかったように、近くの役人と話を続けている。
「あれ……」
「《鎮風》ですね」
カイが言った。
「知ってるんですか?」
「ユリア・ネス。災害現場じゃ有名ですよ。第三級の異能者です」
「第三級……」
思わず聞き返す。
「それって、第一級より上でしたっけ?」
カイがこちらを向いた。
しばらく俺の顔を見る。
「トーマさん」
「何です?」
「まさかと思いますけど、異能の級について説明を受けてません?」
少し考えた。
「……ちゃんとは」
「ちゃんと?」
「俺も異能が分かった時に登録はしたんですけど」
あの時のことを思い出した。
《不具合鑑定》。
物の悪いところが分かる。
壊れそうな場所が見える。
当時の俺は、それくらいしか説明できなかった。
鑑定官は最初こそいくつか質問した。
戦闘に使えるのか。
傷を治せるのか。
物を動かせるのか。
何かを強くできるのか。
俺は全部、正直に答えた。
できない。
悪いところが分かるだけだ、と。
それを聞いた途端、鑑定官の質問は減った。
「使い道がないって感じで、ハズレ異能扱いされました」
「……それだけですか?」
「最後に札を渡されて終わりです」
カイの顔から、少しだけ笑みが消えた。
「随分、雑な担当ですね」
「当時の俺も、役に立たないと思ってたので」
「本人がそう思っていたことと、説明しなくていいことは別ですよ」
珍しく真面目な声だった。
カイは自分の胸を指す。
「私の《後払い》は第一級です」
「それは知ってます」
「第一級だから弱いわけじゃありません」
「そこがよく分からないんですよ」
リゼットが、先ほどの白い外套の女性へ目を向けた。
舞い上がった砂は、まだ彼女の周囲を避けるように流れている。
「異能の級は、何に作用するのか。本人の外へ影響するのか。複数へ及ぶのか。そうした範囲を見るための区分です」
それだけ聞けば、さっきの光景で大体分かった。
「じゃあ、カイの《後払い》は?」
「傷を送る先は私だけですから」
「刃物だけだったのが、打撃まで送れるようになっても?」
「そこは能力の内容が変わった話ですね」
カイが苦笑する。
「だから治療師に再検査を受けろと言われました。登録と実態が違えば、次に私を扱う人が困りますから」
そこで、ふと思った。
「……俺の札にも、級って書いてあるんですか?」
カイが目を瞬いた。
「当然ですよ」
懐を探る。
出てきたのは、ずっと持ち歩いている異能登録札だった。
何度も見た金属札。
能力名ばかり気にしていた。
けれど端の方に、小さな刻印がある。
これが級を示しているらしい。
俺は親指で、その刻印をなぞった。
今まで一度も意味を考えたことがなかった。
説明されなかったから。
役に立たないと言われたから。
それ以上知る必要もないと、自分でも思っていたからだ。
登録された時の《不具合鑑定》。
今の《不具合鑑定》。
名前は同じだ。
でも。
あの頃の俺は、神造兵器の負荷経路を読むことなんてできなかった。
正確には、できると知らなかった。
能力が変わったのか。
使い方を知らなかっただけなのか。
それすら、まだ分からない。
「トーマさん?」
「いや」
登録札を懐へ戻す。
「ちょっと気になっただけです」
カイの札だって、最初から間違っていたわけじゃない。
刃物の傷を十秒後へ送れる。
当時はそれで正しかった。
そのあと、打撃まで送れるようになった。
記録が間違っているとは限らない。
ただ。
正しかった時期が、もう過ぎていることはある。
その時だった。
「トーマ」
セラの声がした。
返事をする前に、彼女が足を止めた。
そして突然、別の方向を振り向いた。
誰かに呼ばれたわけではない。
大きな音がしたわけでもない。
俺には、何も分からなかった。
ただセラだけが、広場の反対側を見ている。
「どうしたんです?」
答えない。
俺もそちらを見る。
リゼットが続く。
カイも、セラの視線の先を追った。
広場の向こう。
大勢の人間の間を、一人の女が歩いていた。
旅装だった。
騎士のような鎧は着ていない。
腰にも、目立つ武器は見当たらない。
特別大柄なわけでもない。
それなのに妙だった。
女が道を空けろと言っているわけじゃない。
護衛が人を押し退けているわけでもない。
それでも女が歩く先だけ、人の流れが自然に二つへ分かれていく。
女自身は、それを気にしている様子もない。
隣でカイが小さく息を吐いた。
さっき《鎮風》を見つけた時とは、声が違った。
「……あれは」
「知ってるんですか?」
「拳聖ラウですよ」
「拳聖?」
「世界一の武道家です」
思わず、もう一度見る。
世界一。
そう言われても、俺には武器も持たない旅人にしか見えない。
けれど。
セラはまだ視線を外していなかった。
女――ラウが歩みを止めた。
ゆっくりこちらを見る。
俺でもなく。
カイでもなく。
セラを見た。
二人の視線が重なる。
一呼吸。
それだけだった。
構えない。
名乗らない。
何も言わない。
人で溢れた広場の中で、そこだけ時間が少し止まったように感じた。
先に目を逸らしたのは、どちらでもなかった。
誰かが二人の間を横切り、視線が切れた。
セラが再び歩き出す。
「セラ」
「何だ」
「知り合いですか?」
セラは前を向いたままだった。
「さあな」
「さあなって」
「会った覚えはない」
「じゃあ、なんで振り向いたんです?」
少しだけ間が空いた。
「知らん」
本当に、それ以上言う気はないらしい。
俺は振り返った。
ラウもすでに歩き出している。
人の流れがまた自然に分かれ、その背中は少しずつ遠ざかっていった。
「世界一なんですよね?」
「少なくとも、武道家としてそう呼ばれている人です」
カイが答える。
「異能がすごいとか?」
「トーマさん」
今度はリゼットだった。
「今、級と強さは別だと説明したところです」
「あ」
セラが小さく笑った。
「聞いていなかったのか」
「聞いてました」
「なら、なぜすぐ異能を聞く」
「確認です」
「忘れただけだろう」
言い返せなかった。
もう一度振り返った時には、拳聖ラウの姿は人混みの中へ消えている。
会話すらしていない。
ただ一度、セラと視線を交わしただけだ。
それなのに。
セラが何の前触れもなく足を止めたことだけが、妙に頭へ残った。
セレディアには、いろんな人間が集まっている。
使節。
証人。
役人。
記録官。
名の知れた異能者。
世界一と呼ばれる武道家まで。
そして門前では、目の前にあったいくつかの事実から、誰かが一つの間違った話を作りかけた。
俺は広場の向こうへ顔を上げた。
白い石造りの巨大な建物が、街の中心にそびえている。
中央裁定院。
あの中にある。
真実鎖アレーテイア。
人間が「真実」を確かめるために使い続けてきた、第三号神造兵器。
明日から俺たちは、その鎖を見る。
真実だけを集めても、正しい答えになるとは限らない。
その時の俺は、それを門前で少しだけ見た。
まだ、少しだけだった。




