第十四話 時間が来るまで
ヴァルガルドの前脚が床へ沈んだ瞬間、セラは正面から踏み込んだ。
避けるためではない。振り下ろされる脚の角度と、着地の衝撃で床へ走る亀裂、その直後に首がどちらへ振れるかまで見た上で、攻撃が完成するより先に内側へ入り込む。
剣の腹を前脚の関節へ当てた。
止めるつもりはない。
あの巨体を正面から止められるはずがない。
落下する力へほんのわずかな角度だけを与え、本来ならセラを踏み潰していた爪を外側へ落とす。
前脚が床を砕いた。
石片が舞い上がる。
その向こうから大角が迫った。
セラは剣を返さない。代わりに鞘を角の側面へ滑らせ、首の回転に自分の身体を合わせる。押し返すのではなく、ヴァルガルド自身の力を利用して身体を逃がした。
そこへ雷が走る。
青白い光が床を這うより早く、セラは右足を半歩だけ内側へ入れた。雷は踵のすぐ後ろを焼き、石床へ黒い筋を残す。
それでもヴァルガルドは止まらなかった。
右前脚を引き戻すと同時に左肩を沈め、そのまま巨体ごとセラへ押し込んでくる。
セラは横へ逃げず、剣を寝かせて肩へ当てた。
衝撃を受ける。
両足が床を滑る。
靴底が石を削り、身体が押される。
それでも転ばない。
最後に剣の角度を変え、ヴァルガルドの肩をわずかに横へ流す。その隙間から身体を抜き、巨体の側面へ回り込んだ。
斬れる。
首筋が目の前にある。
刃を立てれば届く。
それでもセラは剣を返さなかった。
柄頭を首の付け根へ叩き込み、その反動だけで距離を取る。
黄色い瞳が、セラを追った。
「カギ……」
ヴァルガルドの声は、さっきまでより明瞭だった。
「斬ラヌ」
セラは剣を低く構えたまま答える。
「そうだ」
「ナゼ」
「約束した」
ヴァルガルドの瞳がわずかに細くなった。
「約束……」
言葉の意味を探るように繰り返す。
セラはそれ以上説明しなかった。
「お前には関係ない」
次の瞬間、ヴァルガルドが踏み込んだ。
―――
そこから、戦い方が変わった。
ヴァルガルドはセラの剣を避けなくなった。
それまでは首筋へ刃が近づけば角で弾き、前脚を守れば身体を引いていた。だが、今はセラが深く斬らないと理解している。
だから守らない。
むしろ、斬られないことを前提に、自分の身体そのものを武器として押しつけてくる。
大角が横から薙いだ。
セラは剣の腹を沿わせて軌道を外へ流す。
その瞬間、ヴァルガルドは首の力を抜いた。
支えを失ったセラの剣が前へ滑る。
身体がわずかに流れた。
そこへ額。
角ではない。
頭そのものが飛んできた。
「――っ」
セラは両腕で剣を横に構えた。
衝突。
身体が浮く。
そのまま石床を滑り、背中から壁へ叩きつけられた。
鈍い音が地下空洞へ響く。
「セラ!」
マレクが叫ぶ。
壁際へ崩れた銀髪が動いた。
セラはすぐに立ったが、左肩の鎧には大きな亀裂が走っていた。
ヴァルガルドは追撃する。
雷を一本。
セラが右へ動く。
二本目。
逃げ道を塞ぐ。
三本目はセラではなく頭上の岩盤へ落ちた。
天井が砕け、大きな石塊が進路へ落ちてくる。
セラは石の下から抜けるため左へ身体を傾けた。
そこには、もう大角が待っていた。
剣の腹で触れる。
流す。
しかし、ヴァルガルドは途中で首を止めた。
押し流すために使っていた力そのものが消え、セラの重心が崩れる。
その空白へ前脚が入る。
セラは身体を捻った。
完全には避けられない。
爪の先が脇腹の鎧を削り、衝撃だけで身体が横へ回った。
肩から床へ落ちる。
剣が手から抜けかけた。
それでも握る。
転がりながら起き上がる。
呼吸を吸った瞬間、セラの表情がわずかに歪んだ。
マレクが低く呟く。
「肋骨までいったか」
城主が横を見る。
「助けられないのか」
「俺が入れば邪魔になる」
マレクは即答した。
悔しさがないわけではない。
それでも、分かっている。
今の速度へ割り込めば、守るどころかセラの選択肢を減らすだけだ。
その間にもヴァルガルドは前へ出る。
もう剣を恐れていない。
それが、何より厄介だった。
―――
地下深く。
選流環へ流れ込む力は増え続けていた。
《不具合鑑定》の視界では、城外の無数の魔物から伸びる細い流れが束となり、バスティオンへ吸い込まれている。
同時に、古い導管へかかる負荷も上がっている。
「ネネ!」
俺は伝声管へ声を入れた。
『聞こえてる!』
「外は!」
『前の方はかなり止まってる! でも後ろがまだ動いてる!』
「まだ来てるんですか!」
『来てる! 速度は落ちてるけど、全部じゃない!』
まだ止められない。
今ここで徴収を止めれば、後方の群れが残る。
一方で、選流環も無限に耐えられるわけじゃない。
右側第二層の接続部に、明らかな歪みが出ていた。
「右の第二層、持ちません!」
盾守が振り返る。
「どこだ!」
「外側の接続部です。負荷が集中してる!」
ユーリクも円環を見る。
「第三層へ分ける」
「できますか」
「やるしかない」
その右手は、もうほとんど握れない。
ユーリクは古い操作棒へ指を引っかけ、左手を重ねた。
盾守が隣の棒へ手をかける。
「同時に下げるぞ」
「分かった」
俺は流れを見る。
「今です!」
二人が操作棒を落とした。
円環を走っていた光の一部が別経路へ分かれ、張り詰めていた接続部の負荷がわずかに下がる。
「通った!」
だが、ユーリクはすぐに手を離せなかった。
右手の指が操作棒へ絡みついたまま動かない。
左手で一本ずつ外していく。
「ユーリク、その手……」
「今はいい」
「でも」
「トーマ」
ユーリクが俺を見る。
「上を見ろ」
言われるまでもなく。
頭上から伝わってくる振動は、さっきより大きくなっていた。
―――
セラの呼吸が明らかに変わっていた。
肩で息をしている。
右脚の外側には雷で焼かれた跡があり、左肩の鎧はもう半分以上砕けている。
それでもヴァルガルドは止まらない。
前脚が来る。
セラは内側へ入る。
今度は流さない。
柄を関節へ当てて、その一瞬だけ動きを鈍らせる。
抜ける。
そこへ大角。
剣の腹で受ける。
角を逸らす。
成功した。
だが、そのままヴァルガルドは角を壁へ叩きつけた。
壁が崩れ、背後へ石が落ちる。
退路が消えた。
前から前脚。
横には雷。
正しい答えは分かっている。
それでも。
その答えを選べる場所がない。
セラは前脚を受けた。
剣が軋む。
両足が床を滑る。
背中が崩れた壁へぶつかった。
そこから、さらに体重をかけられる。
「……ぐ」
初めて、セラの口から苦痛の声が漏れた。
右腕が震える。
左肩はもうほとんど使えない。
片足も十分には踏ん張れない。
それでも剣は折れない。
セラも折れない。
ヴァルガルドの目が近づく。
「カギ」
「……何だ」
「斬レ」
「嫌だ」
「斬レバ……逃ゲラレル」
セラの目がわずかに見開いた。
こいつは。
分かっている。
自分を斬れば、この状況から逃げられることまで。
「斬ラナケレバ」
前脚へさらに体重が乗る。
「死ヌ」
セラの顔が歪んだ。
それでも。
口元だけが少し上がった。
「それは困る」
ヴァルガルドが前脚を引く。
その瞬間、セラは身体を横へ倒した。
潰される寸前で抜ける。
立とうとする。
右膝が落ちた。
剣を床へ突き、どうにか身体を支える。
マレクが前へ出ようとした。
「来るな」
セラが言った。
「だが!」
「邪魔だ」
声は弱い。
でも。
命令そのものは変わらない。
マレクが足を止める。
ヴァルガルドが低く唸った。
「ナゼ」
セラは剣を杖代わりにしながら立ち上がる。
「何がだ」
「ナゼ……斬ラヌ」
セラは答えるまでに、一度呼吸を整えた。
「言っただろう」
剣を持ち上げる。
「約束した」
「約束……トーマ?」
セラの目が。
一瞬だけ変わった。
「そうだ」
セラは短く答える。
「だから斬らない」
ヴァルガルドが、初めてわずかに首を傾けた。
理解できない。
そんな仕草だった。
「死ヌ、のに?」
「そうならないように戦ってる」
「非合理」
「知るか」
次の瞬間。
セラが自分から前へ出た。
―――
ここからは、守る戦いですらなかった。
セラは余力を残していない。
身体能力も、判断も、《完全適合》も、今使えるすべてを投入している。
ただし。
斬らない。
その一点だけ。
絶対に変えない。
ヴァルガルドが角を振る。
セラは刃を立てず、剣の平で触れる。
角の勢いを流しながら、自分の身体まで押し出させる。
飛ばされた先へ雷。
空中で鞘を投げる。
鞘へ雷が落ちる。
その一瞬に着地位置をずらす。
前脚。
受けない。
床へ転がる。
起きる。
後脚。
間に合わない。
剣の柄を足首へ叩き込み、完全に止めるのではなく、一瞬だけ踏み込みを遅らせる。
その一瞬で身体を抜く。
正解を出し続ける。
それでも。
追いつかれていく。
ヴァルガルドの出力が高すぎる。
セラが完璧に避けても、雷の余波が皮膚を焼く。
完璧に角を流しても、振り抜かれた風圧だけで姿勢が崩れる。
前脚の落下位置をずらしても、砕けた床そのものが次の足場を奪う。
技術では負けていない。
それでも。
身体が先に限界へ近づいていく。
銀髪は埃と血で汚れている。
左腕はほとんど上がらない。
右脚も引きずり始めている。
それでも剣だけは。
まだ。
相手の身体へ深く入っていない。
城主が、声を失ったようにその戦いを見ていた。
やがて。
小さく呟く。
「……鬼神」
マレクが横目で見る。
「何だ」
「敵を斬るから、そう呼ばれるのだと思っていた」
目の前では。
セラが一度も決定打を入れていない。
それでも。
災厄を一歩も先へ行かせていない。
「違ったらしい」
マレクは答えなかった。
ただ。
その目だけが。
セラを追っていた。
―――
『まだ!』
伝声管からネネの声が飛ぶ。
俺は思わず口金を強く握った。
「あとどれくらいです!」
『分かんない! でも後ろの群れがまだ動いてる!』
「速度は!」
『かなり落ちてる! でも止めるなら、もう少し!』
もう少し。
その言葉を。
何回聞いた。
上の伝声管から。
マレクの声。
『トーマ!』
「はい!」
『セラがまずい!』
胸が締まる。
「繋いでください!」
『今は無理だ!』
「一言だけでも!」
轟音。
通信が途切れかける。
しばらくして。
雑音の向こうから。
声。
『……トーマ』
「セラ!」
息が。
ひどく荒い。
「大丈夫ですか!」
『大丈夫じゃない』
即答だった。
「あと少しです」
『ネネから聞こえてる』
「もし本当に無理なら――」
言いかけた。
セラが遮る。
『言うな』
「でも」
『言うな、トーマ』
声は弱い。
それでも。
その一言だけは。
強かった。
『お前が斬るなと言った』
「……はい」
『なら、私は斬らない』
「死んだら意味ないでしょう!」
『だから死なない』
「そんな無茶な」
『無茶を頼んだのはお前だ』
言葉に詰まった。
その通りだった。
俺が頼んだ。
壊すな。
斬るな。
そうしなければ。
何が起こるか分からないから。
なのに。
今さら。
彼女が危ないからって。
撤回するのか。
「……ごめんなさい」
『謝るな』
「でも」
『その代わり』
一度。
息。
『早くしろ』
通信が切れた。
俺は口金を握ったまま。
しばらく動けなかった。
ユーリクが横から言う。
「信じるのも、仕事だぞ」
「分かってます」
「顔は分かっていない」
「うるさいです」
それでも。
視線を選流環へ戻す。
俺にできるのは。
ここだ。
―――
灰角王ヴァルガルドは。
もうセラが限界に近いと理解していた。
呼吸。
脚。
剣の速度。
全部。
見ている。
だから。
最後は。
複雑なことをしなかった。
真正面から。
潰しに来た。
たてがみに雷が集まる。
セラの左右へ二本。
背後へ一本。
退路を焼く。
同時に前脚で床を割る。
残った足場を狭める。
その中央へ。
大角を低く構えたまま。
巨体そのものが突っ込んでくる。
セラは。
一目で分かった。
避けられない。
流せない。
受ければ。
今度こそ身体が持たない。
そして。
もう一つ。
分かる。
首筋。
今なら。
斬れる。
ヴァルガルドは防御していない。
セラが斬らないと。
最後まで。
信じ切っている。
剣を立てれば。
届く。
ほんの一振り。
それだけで。
少なくとも。
自分へ来る攻撃を止めることはできる。
セラの手が。
わずかに動いた。
刃が。
ヴァルガルドの首へ向きかける。
そこで。
止まった。
『お前が斬るなと言った』
自分で言った言葉が。
頭に残っている。
トーマの顔が。
ほんの一瞬。
浮かんだ。
セラは。
刃を寝かせた。
「馬鹿だな」
誰に言ったのか。
自分か。
トーマか。
分からない。
でも。
笑った。
「約束したからな」
ヴァルガルドが迫る。
セラは殺すための構えを捨てた。
最後まで。
受ける。
右足をわずかに引く。
使える腕は一本。
左肩は動かない。
剣の腹を角へ向ける。
止めるのは無理。
なら。
最後の瞬間。
ほんの少しだけ。
軌道をずらす。
それしかない。
「来い」
ヴァルガルドが床を蹴った。
雷。
大角。
巨体。
全部が。
セラへ集中する。
あと一歩。
セラが剣を上げる。
その瞬間。
ヴァルガルドの右前脚から。
力が抜けた。
「……?」
巨大な身体が。
前へ沈んだ。
踏み込みが崩れる。
大角がセラの横を通り過ぎ、床へ深く突き刺さった。
雷も。
途中で乱れた。
セラの剣は。
首を斬らない。
最初から。
そのつもりで上げていなかった。
剣の腹が角へ触れ。
力を失った角を。
わずかに横へ押した。
ヴァルガルドの巨体が。
そのまま床へ崩れ落ちる。
黄色い瞳が。
ゆっくり。
セラを見る。
「カ……ギ……」
声が。
また途切れ始めている。
「ナゼ……」
セラは。
息を切らしながら。
剣を下ろした。
「何度聞く」
ヴァルガルドの口が。
わずかに動く。
「約束……」
セラの目が。
ほんの少しだけ見開かれた。
それ以上。
言葉は続かなかった。
たてがみを覆っていた雷が。
一つずつ消えていく。
―――
『トーマ!』
ネネの声が響いた。
「聞こえてます!」
『止まった!』
「何が!」
『群れ! 後ろも! ほとんど動けてない!』
《不具合鑑定》。
城外から伸びていた流れ。
弱くなっている。
群れから。
もう。
まともに走れるだけの力を取れない。
「盾守!」
「分かっている!」
「止めます!」
ユーリクも。
すでに解除機構へ移動していた。
右手はほとんど動かない。
左手で右手を支え。
解除棒へ引っかける。
「主系統は私が落とす!」
盾守が反対側へ走る。
「同時に!」
ユーリクが言う。
「三つ数える!」
俺は。
上へ。
一度だけ視線を向けた。
セラ。
持った。
本当に。
持たせた。
「一!」
城外では。
魔物が次々と膝を折る。
「二!」
上では。
ヴァルガルドの雷が消えていく。
「三!」
二つの機構が。
同時に落ちた。
選流環の光が消える。
城護盾バスティオンの主系統も停止する。
城外を覆っていた障壁が。
ゆっくり薄れていく。
灰角王への供給も。
途切れた。
―――
セラは、しばらく倒れたヴァルガルドを見ていた。
勝った。
そういう顔ではなかった。
マレクが駆け寄る。
「セラ!」
「来るなと言っただろう」
「もう終わった!」
「まだ分からん」
そう答えた直後。
右脚が震えた。
セラの身体が傾く。
マレクが腕を取る。
今度は。
振り払わなかった。
「……重い」
「お前が軽くなりすぎてるんだ」
「そうか」
「そうだ」
セラは剣を床へつきながら、もう一度ヴァルガルドを見る。
城主が近づいてきた。
「勝ったのか」
セラは。
しばらく答えなかった。
それから。
小さく首を振る。
「分からん」
「だが、災厄は倒れた」
「私が倒したんじゃない」
その言葉だけ。
妙に。
はっきりしていた。
セラは。
それ以上説明しなかった。
勝ったんじゃない。
時間が来ただけだ。
その言葉を本当に口にするのは、もっと先でいい。
今はただ。
約束を守った。
それだけだった。
―――
地下深く。
俺は、ようやく息を吐いた。
終わった。
そう思った。
でも。
《不具合鑑定》の視界で。
一つの流れだけが。
逆向きに動いた。
「……え?」
群れからの徴収は止まった。
障壁への供給も止めた。
ヴァルガルドへ流れていた補助系統も閉じ始めている。
なのに。
バスティオン内部へすでに取り込まれていた膨大な力が。
消えていない。
さっきまで。
障壁とヴァルガルド。
二つの出口へ流れていた。
その二つを。
ほぼ同時に閉じた。
行き場がない。
後ろから押されていた力が。
中央へ戻る。
「待って」
盾守が振り返る。
「何だ」
俺は。
中枢へ続く流れを見る。
バスティオン中央。
大量の魔力を一時的に受け止める蓄流環。
そこへ。
行き場を失った力が。
一気に押し戻されている。
「まずい」
古い導管が震えた。
一度。
続いて。
もっと大きく。
《不具合鑑定》の視界で、蓄流環の内部へ細い亀裂が走る。
一本。
二本。
そこから破損経路が広がった。
地下水路へ。
城壁へ。
街の基礎へ。
ラグナ全体へ。
盾守の顔から血の気が引く。
「何が見えている」
俺は答えたくなかった。
でも見えている。
「バスティオンが」
喉が乾く。
「今度は、バスティオンそのものが壊れます」
「壊れたら、どうなる」
蓄流環の亀裂がもう一本増えた。
俺はその先を見る。
「ラグナごと」
足元から。
鈍い振動が響いた。
「吹き飛びます」




