第十三話 誰を盾の外に置くのか
「私の一族が守っていた場所だ」
ユーリクの声が、長いあいだ閉ざされていた地下室に静かに響いた。
盾守はすぐには答えなかった。
俺たちの前にあるのは、これまで見てきた城護盾バスティオンとは明らかに造りの違う装置だった。
壁一面を黒ずんだ導管が這い、その中央には、人間が両腕を広げても端まで届かないほど巨大な円環が埋め込まれている。
表面には細かな文字と幾何学模様が幾重にも刻まれ、ところどころに欠けや腐食が浮いていた。
六十八年前に造られたものというより、もっと古い時代からここに存在し、その上へ後世の設備が重ねられてきたように見える。
そして、その円環へ触れているユーリクの右手も、すでに正常とは言えなかった。
小指と薬指は半ば曲がった状態で固まり、手首も十分には返っていない。肩の位置もわずかに不自然に上がっている。
《固定》を使うたびに、自分自身まで固定されていく。
以前見た時より、明らかに反作用が進んでいた。
「……どういう意味だ」
ようやく盾守が口を開く。
「この区画は、現役の盾守である私しか知らないはずだ。なぜお前が先に入っている。なぜ、この装置を知っている」
「伝わっていないのではない」
ユーリクはゆっくり振り返った。
「伝えられなくなったんだ」
「何?」
「ユーリク・ヘイン。六十八年前までラグナで盾守を務めていた、ヘイン家の末裔だ」
盾守の顔が強張った。
「ヘイン……。災厄戦の後、盾守の座を追われた一族か」
「追われた、ね」
ユーリクの口元がわずかに歪んだが、それは笑みと呼べるものではなかった。
俺には、その言葉で別のことが繋がった。
「だから、昔の呼び方を知ってたんですね」
「何の話だ」
「外周導流室、副流路、蓄流環。今の盾守が使っていた名前とは、少しだけ違ってた」
「ああ。家で教えられた」
「でも、ヴァルガルドの魔核を使った補助系統は知らなかった」
「知らないとも。あれが造られたのは、我々がラグナを追われた後だ」
やはりそうだった。
ユーリクが詳しいのは、過去のバスティオンについてだ。
その一方で、一族がラグナを去った後に追加された設備については何も知らない。
知識が食い違っていたわけではない。
途中で途切れていたのだ。
その時、頭上から鈍い振動が伝わり、天井に積もっていた細かな埃がぱらぱらと落ちた。
セラと灰角王の戦いは、まだ続いている。
「時間がありません」
俺は巨大な円環へ向き直った。
「これが、盾守の言っていた『誰から力を吸うのかを選ぶ装置』なんですね」
「当時は選流環と呼んでいた」
ユーリクは円環へ硬くなった指を置いた。
「今のバスティオンは、周囲から広く魔力や生命力を徴収している。だが、本来は何を徴収対象とするかを指定できた」
「魔物だけを選べる?」
「魔物という名前を選択するわけではない。対象の魔力構造を登録し、それに合致するものから優先して力を奪う」
盾守が円環へ一歩近づく。
「なら、誤認も起こるのか」
「起こり得る。だが、この機構の本当の危険はそこではない」
ユーリクは首を振った。
「選流環は未完成品ではない。むしろ、よく出来ている」
「よく出来ている?」
「六十八年前、実際にヴァルガルドと、その周囲に集まった魔物を徴収対象へ指定した。それによって群れを弱らせ、奪った力でバスティオンを維持した」
俺は円環を見上げた。
「なら、どうして隠したんです」
「正確に選べるからだ」
意味が分からず、俺は眉を寄せた。
「正確に選べるなら、むしろ安全じゃないんですか」
「魔物を選べる。災厄を選べる。なら、人間も選べる」
盾守の顔色が変わった。
ユーリクはその反応を見ても声を変えなかった。
「敵国の魔術師、特定の魔導具を装備した兵、騎兵。条件を定義できれば、戦場の一方だけから力を奪うことさえできる」
相手は戦うほど弱くなる。
その奪った力で、こちらの障壁は維持される。
それだけでも十分に兵器だと思ったが、ユーリクの説明はそこで終わらなかった。
「トーマ。お前は道中で路守を見ただろう」
「……見ました」
街道で遭遇した戦闘体が頭に浮かぶ。
「どうしてそれを?」
「各地に残っているからだ」
ユーリクは円環の外周へ刻まれた細い紋様を指した。中央から伸びた複数の線は途中で枝分かれし、まるで街の外へ続く道のように広がっている。
「路守は、単独で完結した守護兵ではない。本来はバスティオン系統から供給を受ける末端兵だった」
「供給?」
「敵から徴収した力を送る」
盾守が息をのんだ。
「まさか……」
「消費すれば補充する。戦えば補充する。供給路が生きている限り、目の前にいる敵自身を燃料として戦い続ける」
その言葉で、ようやく全体像が見えた。
「魔力切れを起こさない兵士……」
「正確には、供給され続けている間だけだ。機体そのものを破壊されれば動けないし、供給範囲から外れても止まる。それでも、魔力切れによる戦闘停止はほとんど起こさない」
敵から力を奪う。
奪った力で障壁を維持する。
さらに路守へ送る。
路守は戦い続け、敵だけが衰弱していく。
俺は巨大な円環を見上げた。
「……これ、防御装置じゃない」
「ようやく分かったか」
ユーリクがわずかに口元を上げる。
盾守は納得できないように眉を寄せた。
「城護盾だぞ」
「盾ではある。攻撃を防ぐ。街を守る。それも、この装置の正しい使い方だ」
ユーリクはそう答えると、円環へ視線を戻した。
「だが、それだけではない。誰から奪うかを変えれば、同じ仕組みで敵軍を削り、その力を自軍へ回せる」
「使い方によって兵器になる……」
「違う」
ユーリクが俺を見る。
「最初から、その力を持っている」
声が低くなる。
「城主が敵兵を指定すれば戦争兵器になる。王が敵国の民まで徴収対象へ広げれば、軍だけでは済まない」
装置が壊れているから危険なのではない。
正常に働くからこそ危険なのだ。
指定された相手から、正確に力を奪う。
「だから、操作方法を全部残さなかった?」
「ああ。この機能を権力者へ丸ごと渡すべきではないと判断した盾守がいた」
「あなたの一族ですか」
「そうだ」
ユーリクは円環を見上げたまま続けた。
「盾守とは、盾を動かす者ではない。誰を盾の外へ置くのかを決める者だった」
その言葉だけは、妙に重く残った。
守る人間を決めることと、犠牲になる人間を決めること。
バスティオンにとって、その二つは同じだったのだ。
「城護盾バスティオン。随分と穏やかな名前だけが残ったものだ」
「じゃあ、本当は何なんです」
「守ることもできる。滅ぼすこともできる」
ユーリクは一度だけ俺を見た。
「――破壊するための盾だ」
頭上で、再び大きな衝撃が響いた。
俺は反射的に天井を見る。
もう、ゆっくり話している時間はない。
「選流環を使えば、今、外にいる魔物から優先して力を吸えるんですね」
「ああ」
「なら使います」
「待て」
盾守が止めた。
「今のバスティオンは、六十八年前と同じではない」
そうだ。
ヴァルガルドの魔核を使った、後付けの補助系統だ。
俺は選流環へ《不具合鑑定》を向けた。
操作方法そのものは分からない。それでも、魔力が通った場合に、どこへ負荷が流れるかは追える。
古い円環から中枢へ。
そこから障壁、蓄力系統、各設備へ分岐し、その途中から、明らかに後から継ぎ足された別の流路が伸びている。
補助系統。
「……やっぱり」
「何が見える」
ユーリクが訊く。
「選流環で吸った力は、一度バスティオンへ入る。その後、一部が補助系統へ流れてる」
ユーリクの表情が変わった。
彼はその先を知らない。
だから俺が答える。
「今、その補助系統の先にはヴァルガルドがいる」
盾守が息をのんだ。
「なら、魔物から大量に徴収すれば、その一部がヴァルガルドへ回る?」
「可能性は高いです」
けれど、問題はそれだけじゃない。
俺は、ここまで戦ってきたヴァルガルドの変化を思い返した。
最初に現れた身体は、伝承に残る姿とは明らかに違っていた。左右非対称の脚、片方だけ異様に発達した前脚、露出した肋骨、形の揃っていない角。
そこへセラが剣を入れた。
右前脚を斬った直後、外部から流れ込む力が増え、骨と肉が生まれて失った脚が戻った。
けれど、元通りにはならなかった。
新しく作られた前脚は、それまでより巨体を前へ押し出しやすい形になっていた。
後脚も同じだった。壊した後には、跳躍へ適した構造へ変わった。
頭を落とした時はさらに露骨だった。目が戻っただけではない。セラを追う精度が上がり、雷の扱いも、判断も、そして言葉まで明確になっていった。
壊すたびに、何かが増えている。
その時、ほんの一瞬だけ、別の景色が脳裏に浮かんだ。
白い蛍光灯。
油と鉄の匂い。
前世の工場。
品質管理をしていた頃、不具合で返却した部品が「修理完了」の札を付けて戻ってきたことがあった。
見た目はほとんど同じだった。
担当者も「直しました」と言った。
だが、測定すれば違った。
肉厚、補強位置、穴の位置、荷重を受けた時の逃げ方。
元の図面通りに戻したのではなく、不具合の出た場所を避けるように構造そのものを変えていた。
あの時、俺は検査票を突き返した。
――これは修理じゃない。
――壊れたものを元に戻したんじゃなく、壊れ方を見て作り直してる。
修理と再製造。
見た目は似ていても、意味はまるで違う。
ヴァルガルドの右前脚も、後脚も、頭も同じだった。
失ったものが戻っているんじゃない。
壊れた箇所を参考にしながら、次に戦える形へ組み直されている。
「……違う」
思わず声が漏れた。
ユーリクが眉を寄せる。
「何がだ」
俺はヴァルガルドへ続く魔力の流れを見た。
「こいつ、蘇ったんじゃない」
盾守が俺を見る。
「どういう意味だ」
「断定はできません。《不具合鑑定》に魂が見えるわけじゃないし、死者が蘇ったかどうかを判定できるわけでもない」
それでも、目の前で起きている現象なら説明できる。
「六十八年前に残った魔核か、その中に残っていた何かを、バスティオンが使ってるんだと思います」
「何か?」
「身体の構造、魔力回路、戦い方、記憶。そういう情報です。それを設計図みたいにして、外から吸った力で身体を作ってる」
ユーリクは黙って聞いている。
俺はそのまま続けた。
「もし本当に蘇生なら、壊れた場所は元の身体へ戻ろうとするはずです。でも、あいつは違う。壊れるたび、その戦いに都合のいい形へ組み直されてる」
「再生ではなく……再構築か」
盾守が低く呟いた。
「たぶん、それが一番近い」
だから、壊すたびに材料が必要になる。
材料は、外から吸い上げる力だ。
前脚より後脚。後脚より頭部を失った時の方が、外部徴収量は大きかった。
「しかも、再構築してるのは身体だけじゃない。動きも、雷の扱いも、判断も良くなってる。言葉まで戻ってきてる」
最初は『カギ』しか言えなかった。
今ではセラに、なぜ人間の側にいるのかと問いかけている。
「身体を作り直すたび、残っていた戦闘記憶や認識まで拾い直してるんじゃないかと思います」
六十八年前の本人そのものなのか。
それとも、残された情報から本人に近いものを作り直しているだけなのか。
そこまでは分からない。
「でも少なくとも、死者がそのまま蘇ったと考えるより、残っていた灰角王の情報をバスティオンが外から集めた力で再構築していると考えた方が、今までの現象には説明がつきます」
誰も、すぐには否定しなかった。
また上から大きな衝撃が響く。
「だから、致命傷を与えるのが一番まずい」
「再構築に必要な力が増えるからか」
ユーリクが訊く。
「はい」
俺は盾守へ向き直った。
「本来のバスティオンは、必要な維持量以上には吸わないんですよね」
盾守が答えるまで、わずかな間があった。
「通常ならな」
「通常なら?」
「今は、徴収量の上限を私が抑えられない」
嫌な答えだった。
「どうして」
「セラ殿だ」
その名前で、誰にも開けられなかった中枢の扉を思い出した。
セラが近づいた時だけ反応した、あの扉。
「中枢でセラ殿が認証された時、古い非常運用権限が解放された。彼女自身が何かを操作したわけではない。だが、バスティオンが彼女を私より上位の権限として認識した」
盾守は悔しそうに拳を握った。
「それ以降、徴収量の上限制御が効かない。私の盾守権限では戻せない」
セラが望んだわけじゃない。
バスティオンがセラを認識したことで、非常時の枷だけが外れたのだ。
俺は、ヴァルガルドの頭を落とした時を思い返した。
井戸の水位が落ち、人が倒れ、馬が弱り、障壁まで薄くなった。
あれが頭部一つを再構築するための徴収だったとしたら。
「セラがもっとダメージを与えたら、どこまで吸うか分からない」
誰も答えられなかった。
だから、壊せない。
そこでユーリクが選流環を見る。
「なら、徴収対象を魔物へ絞ればいい」
「今起きている過剰徴収については、それで魔物側へ寄せられると思います」
「なら問題はないだろう」
「あります」
俺は首を振り、選流環から伸びる古い流路と、その途中へ後付けされた補助系統を見比べた。
「この選流環が制御しているのは、元々のバスティオンの徴収経路です。だから、今周囲から余計に吸っている分を『魔物から取れ』へ寄せることはできると思います」
「では何が問題だ」
「ヴァルガルドに致命傷を与えた後です」
盾守が先に気づいた。
「再構築によって、新たな供給要求が発生する……」
「はい」
六十八年前には存在しなかった、ヴァルガルドの魔核を組み込んだ後付け系統。
しかも今は、セラの上位認証によって非常時の徴収制限まで外れている。
「ヴァルガルドが激しい損傷を負い、バスティオンが大量の修復エネルギーを必要とした時、その要求まで選流環の指定に従う保証がありません」
ユーリクが顔をしかめる。
「つまり、再び魔物以外から吸う可能性がある?」
「あるかもしれません。人間、水、土地、家畜。どこへ手を伸ばすのか分からない」
選流環で、今起きている徴収の向きを魔物へ変えることはできる。
だが、それでバスティオン全体を支配できるわけじゃない。
まして、六十八年前より後に追加されたヴァルガルドの再構築系統まで、安全になったとは言えない。
「それに、仮に再構築分まで全部魔物から取ってくれたとしても、その力の一部は補助系統を通ってヴァルガルドへ戻る」
群れは弱る。
しかし同時に、ヴァルガルドにも力が入る。
ユーリクが整理するように言った。
「選流環で魔物を弱らせることはできる。だが、その間にヴァルガルドを大破させれば、再び周囲から無差別に吸うかもしれない。そのうえ、集めた力でヴァルガルド自身まで強くなる」
「そうです」
だから、やることは一つしかない。
魔物へ徴収を寄せる。
群れが動けなくなるまで吸わせる。
その間、セラにはヴァルガルドを倒してもらうんじゃない。
壊さずに、止めてもらうしかない。
―――
盾守が部屋の隅で古い伝声管を見つけた。
黒ずんだ切替弁は錆びついており、一人では動かない。
ユーリクと二人で力をかけると、ようやく金属が低く軋み、管の奥から雑音が返ってきた。
「マレク!」
返事はない。
「マレク!」
二度目で、遠くから声が届いた。
『……聞こえてる!』
「セラは!」
答えより先に轟音が伝声管を震わせた。
『まだ戦ってる! 早くしろ!』
「セラに繋いでください!」
しばらくは戦闘音しか聞こえなかったが、やがて声が変わった。
『トーマ』
「セラ!」
息は荒い。
それでも、声はしっかりしている。
『見つかったか』
「方法はあります」
『ならやれ』
「短く説明します」
『最初からそうしろ』
今、それを言うか。
「ヴァルガルドは、たぶん蘇ったんじゃありません。バスティオンが残った魔核か情報を使って身体を作り直してます。壊すたび外から力を吸って、その力で再構築してる」
向こうで何かが砕け、セラの息が一度遠ざかってから戻った。
『だから、斬った場所が元通りにならなかったのか』
「たぶん。それと、セラが中枢で認証された時に非常時の上位権限が開いてます」
『私がか?』
「そうです」
一度、息を吸う。
「古い装置を使えば、今吸ってる分を外の魔物へ寄せられます。ただし、ヴァルガルドに大きな損傷を与えないでください」
『なぜだ』
「大規模な再構築が始まった時まで、魔物だけから吸う保証がない。人や水や土地からまた吸うかもしれないし、吸った力の一部はヴァルガルドにも戻ります!」
少しの沈黙。
その間にも灰角王の咆哮が響いている。
やがて、セラが短く息を吐いた。
『つまり、外の群れが弱るまで、こいつを壊さず止めればいい』
「……そうです」
簡単に言う。
だが、無茶だ。
「どれくらいかかるか分かりません。だから、できれば余力を――」
『逆だ』
「え?」
『何分必要か分からないなら、最初から全力で止める』
「後半は?」
『後半のために今押されれば意味がない』
正論だった。
「でも、全力でやったら壊すでしょう」
『壊さなければいい』
「それが難しいって話なんですけど」
『トーマ』
声が少し低くなる。
『騎士の全力が、首を落とすことだけだと思うな』
俺は黙った。
《完全適合》。
剣だけじゃない。
足運び、視線、呼吸、重心、速度、判断、地形、相手の動き。
使えるものを全部使う。
ただし、決定的な破壊だけはしない。
「本当に強くなりますよ」
『聞いた』
「どこまでか分かりません」
『それも聞いた』
「無茶です」
向こうで、ほんのわずかに笑った気配がした。
『私は世界最強の騎士だぞ』
信じろとも、任せろとも言わない。
ただ、それだけだった。
だからこそ。
決めるのは俺だ。
セラに責任を押しつけるんじゃない。
彼女が作る時間を、俺が使う。
「……分かりました」
『遅い』
「まだ何も動かしてませんよ!」
『決めるのがだ』
直後、激しい衝突音が響いた。
『話は終わりか』
「はい!」
『なら早くしろ』
「セラ」
『何だ』
「死なないでください」
少しだけ返事が遅れた。
『注文が多いな』
通信が切れた。
―――
「やります」
俺は選流環へ向き直った。
「今の徴収を魔物へ寄せます」
盾守の表情は硬い。
「後戻りできなくなる可能性もあるぞ」
「今だって十分戻れません」
ユーリクが円環の前へ立った。
「操作は私がやる。そのために私は存在する」
硬くなった指を最初の石板へ置く。
「トーマ。お前は壊れる場所を見ろ」
「それならできます」
一枚目を押しても反応はない。
二枚目で、円環の一部へ淡い光が灯った。
三枚、四枚と操作を続けるにつれて、長く眠っていた術式が少しずつ繋がっていく。
やがて右下の一部で、流れが止まった。
《不具合鑑定》を向けると、魔力がそこで淀んでいる。
「右下!」
盾守が走る。
「どこだ!」
「外側から三本目!」
石板を外すと、中の導線が一本、黒く焼け切れていた。
「切れている!」
「その隣へ回せます。左側の経路はまだ生きてる!」
盾守には操作方法が分からない。
しかし、ユーリクは迷わなかった。
古いレバーへ手を伸ばす。
固まった指では上手く握れず、両手を重ね、肩まで使って押し込んだ。
金属が低く軋みながら少しずつ動く。
やがて、止まっていた光が焼けた導線を避け、隣の経路へ流れた。
「通った!」
盾守が叫ぶ。
古い円環に、また一つ光が戻った。
その時。
俺はヴァルガルドの言葉を思い出した。
最初は『カギ』しか言えなかった。
それが今は、『なぜ人の側にいる』と意味のある問いを口にしている。
「ユーリク」
「何だ」
「六十八年前のヴァルガルドって、人の言葉を話しましたか」
レバーへ置かれていた手が止まった。
「なぜ聞く」
「今のヴァルガルドが、少しずつ話せるようになってます」
ユーリクの表情から、わずかに残っていた余裕が消えた。
「何を言った」
「最初は『カギ』だけ。でも今は、セラになぜ人間の側にいるのかって」
しばらく沈黙した後、ユーリクが低く言った。
「言い伝えにある。六十八年前のヴァルガルドも、人語を使った」
身体。
雷。
戦い方。
そして言葉。
俺の仮説と一致する。
「何を話したんです」
「そこまでは残っていない。記録も処分された」
「どうして」
「知らん。ただ、お前の仮説が正しいなら、今のあれが取り戻しているのは肉体だけではない」
記憶。
戦闘経験。
あるいは、それ以上。
考えている時間はない。
「ネネと繋ぎます」
盾守が別の切替弁を回した。
雑音の向こうから、やがて声が返ってくる。
「ネネ!」
『トーマ!?』
「聞こえますか!」
『聞こえる!』
「これから城外の魔物へ徴収を寄せます!」
『何するの!?』
「説明はあと!」
『みんなそれ言う!』
何か言われたらしい。
「群れを見てください。走れている数、止まった数、城壁までの距離。変化したらすぐ教えて!」
『分かった!』
「絶対に前へ出ないで!」
『分かってるって!』
まったく信用できない。
でも、今は任せるしかない。
ユーリクが最後の石板へ手をかける。
「確定するぞ」
俺は一度だけ目を閉じた。
『私は世界最強の騎士だぞ』
その言葉を思い出す。
そして目を開けた。
「お願いします」
石板が押し込まれた。
一秒。
二秒。
何も起きない。
次の瞬間。
円環の一端から光が走った。
一本だった線が二本へ分かれ、さらに枝分かれしながら、古い文字の溝をなぞって巨大な円環全体へ広がっていく。
地下室の空気が震えた。
機械音でも、地鳴りでもない。
長く眠っていた巨大な何かが、初めて息を吸ったような音だった。
《不具合鑑定》の視界に、新しい流れが現れる。
城外にいる無数の魔物。
一頭一頭から細い流れが伸び、それらが束となってラグナへ向かってくる。
「始まった……」
盾守が呟いた。
―――
城壁の外では、群れの先頭を走っていた大型個体の脚から突然力が抜けた。
前脚が崩れ、その背へ後続がぶつかる。別の個体も速度を落とし、その後ろでも走れなくなったものへさらに後続が詰まった。
押し寄せていた群れの形そのものが、目に見えて崩れ始める。
『トーマ!』
ネネの声が伝声管から響いた。
『遅くなってる! 何頭も止まった!』
成功した。
少なくとも、今発生している過剰徴収は魔物へ向いた。
しかし、安心できたのは一瞬だった。
選流環へ入る魔力の流れが、急激に太くなる。
「……多い」
盾守が息をのんだ。
細い線だったものが濁流へ変わり、バスティオン中枢へ流れ込んでいく。
障壁。
各系統。
そして、その途中から一部が横へ逸れた。
後付けの補助系統。
「ヴァルガルドへ行ってる!」
俺が叫ぶ。
ユーリクが顔を上げた。
「量は!」
「分かりません!」
ただ一つ分かるのは、今までとは比較にならない量だということだけだった。
次の瞬間、はるか上の地下空洞から雷鳴が轟き、石壁そのものが大きく震えた。
―――
灰角王ヴァルガルドのたてがみが、一斉に逆立った。
これまで漏れるように走っていた青白い雷が、首から背、四肢へと繋がり、歪んだ身体全体を覆っていく。
それでも、姿そのものは完全には戻らない。
左右非対称の脚も、露出した肋骨も、歪んだ大角も残ったままだ。
完全に蘇ったヴァルガルドではない。
不完全な器の中へ。
異常な量の力だけが流れ込んでいる。
セラは、その変化を見ながら剣を低く構え直した。
余力を残すつもりはない。
斬らない。
大きく壊さない。
守るのは、その二つだけ。
それ以外は全部使う。
ヴァルガルドの黄色い瞳が、まっすぐセラを捉えた。
「カギ……ヒトを、まだ守ルか」
先ほどより、明らかに言葉が滑らかになっている。
「そうだ」
「ナゼ」
セラは一歩前へ出た。
「私が決めた」
ヴァルガルドの前脚が床を踏み込むと同時に雷が走り、大角が唸り、巨体そのものがセラへ向かって加速した。
三つの攻撃が別々に来るのではない。
一つを避けた先へ、次が置かれている。
セラの銀髪が風圧で大きく舞った。
それでも、その目に迷いはなかった。
ここから群れが止まるまで。
一度も力を残さない。
その代わり。
一度も、ヴァルガルドを壊さない。
セラは真正面から、加速する災厄を迎え撃った。




