第十一話 斬るたび、災厄は学ぶ
「……カギ」
掠れた声だった。
それでも、聞き間違いではない。
六十八年前に死んだはずの灰角王ヴァルガルドが、セラだけを見て、確かにそう呼んだ。
「なら、なぜあいつは私を知っている」
セラが剣を構える。
返事の代わりに、ヴァルガルドの銀灰色のたてがみを青白い光が這った。
巨大な右前脚が石床を掴む。爪が沈んだだけで、その周囲へ細かな亀裂が伸びていく。
「セラ」
「ああ」
「来ます」
「見えている」
次の瞬間、巨体が前へ出た。
左右で脚の長さが違い、片方の肩だけが異様に膨れている。胸元からは肋骨まで覗き、二本の角も形が揃っていない。
どう見ても、まともな身体じゃない。
それでも速かった。
身体を動かし始めるまでにはわずかな鈍さがある。だが、一度動き始めてしまえば、その巨大な質量すべてが攻撃になる。
ヴァルガルドの前脚が持ち上がった。
広がった影だけで、セラの姿がすっぽり消える。
小さな家なら、屋根までまとめて潰してしまいそうな足裏が落ちてきた。
セラが動いたのは、直前だった。
後ろではない。
斜め前へ踏み込み、爪と爪の間をすり抜ける。
直後、ヴァルガルドの足が床を打った。
地下空洞を揺らす轟音。砕けた石が跳ね上がり、衝撃だけで俺の服まで震えた。
その頃には、セラはもうヴァルガルドの懐にいた。
俺の視界に、右肩へ集まる負荷が浮かぶ。
《荷重集中――右前肢基部》
「右肩!」
「分かった」
セラの剣が走る。
一撃目は黒い皮膚を裂いただけだった。
ヴァルガルドが首を振り、大角が横から迫る。
倒れた城壁を、そのまま振り回しているような一撃だ。
セラは受け止めなかった。
剣の腹を角へ触れさせ、その表面を滑らせる。
軌道を変えたのは、ほんのわずか。
人ひとりが通れる隙間だけだった。
それで十分だった。
灰角がセラの背中すれすれを通り過ぎ、そのまま石壁へ突き刺さる。
巨獣の首が一瞬止まった。
セラは、その角へ足をかけた。
一歩。
二歩。
角の根元から頬へ移り、そのまま肩へ駆け上がる。
ヴァルガルドの身体は大きい。肩まで上がったセラを見上げると、地上から見張り台の上を見る時と大して変わらない高さがあった。
巨体そのものが、一つの地形だ。
ヴァルガルドが激しく身体を振った。
セラは肩に残る最初の傷へ剣先を浅く噛ませ、両手で柄を支える。
身体が外側へ大きく引かれた。
それでも、すぐには剣を抜かない。
肩が最も大きく振り切られる、その直前。
セラは自分から刃を引き抜いた。
ヴァルガルドが生み出した横向きの勢いだけを受け取り、身体が大きく宙へ飛ぶ。
次の瞬間、一瞬前までセラがいた肩へ雷が落ちた。
「……人間業なのか」
城主が呟いた。
俺も同じことを思っていた。
空中へ投げ出されたセラの下では、崩れた壁の石塊がいくつも落下している。
その一つへ片足を置いた。
石はすぐに砕けた。
だが、その一瞬だけで落下方向は変わる。
セラは再びヴァルガルドの右肩へ向かった。
狙うのは、さっきの傷。
一撃目が肉へ入る。
ヴァルガルドが前脚を引いた。
今度、セラは剣を抜かなかった。
脚が引かれる方向へ自分の身体も流し、ヴァルガルド自身の力を使って傷口を横へ広げていく。
肉が裂け、その奥から白い骨が覗いた。
ヴァルガルドが前脚を床へ叩きつける。
その衝撃が来る直前、セラは剣を引き抜いた。
身体がわずかに浮く。
そこから二撃目。
露出した骨へ刃が食い込む。
着地と同時に剣を返し、三撃目。
骨が断たれた。
巨大な右前脚が肩口から落ちる。
轟音とともに床が揺れた。
切り落とされた脚一本だけで、地下回廊の半分以上が塞がっている。
「グァァァァァッ!」
ヴァルガルドが吠えた。
セラはすぐに追撃せず、少し距離を取った。
呼吸は乱れていない。
「頭は?」
俺が尋ねる。
「まだだ」
「話を聞くためですか」
「あれだけ喋れた。もう一度くらい喋るかもしれない」
「意外と慎重ですね」
「お前に言われたくない」
言い返す余裕まである。
少なくとも、ここまでは。
明確にセラが上だった。
その時。
ドクン、と低い脈動が響いた。
俺の視線が、ヴァルガルドの切断面へ引かれる。
外から何かが集まっていた。
《外部流入――増加》
切断面から骨が伸びる。
そこへ血管が絡み、筋肉が纏わりつき、その上から黒い皮膚が形成されていく。
「再生……?」
盾守が呻いた。
「いや」
俺は目を細めた。
《再構築――不整合》
元と同じ脚ではない。
新しく作られた脚は、さっきより少し細い。
だがその分、肩の奥深くまで接続され、胴体との繋がりが明らかに安定している。
「直したんじゃない」
セラも新しい脚を見ていた。
「作り替えたのか」
「たぶん」
ヴァルガルドが、新しい前脚を床へ置いた。
巨体が一度沈む。
そして。
次の踏み込みは、先ほどより明らかに速かった。
「――っ」
セラが二歩下がる。
最初は必要なかった距離だ。
大角が迫る。
かわした直後、新しい前脚が続く。
その攻撃を抜けきる前に、首が戻ってきた。
再び角。
さっきまであった、動作と動作の間の鈍さが短くなっている。
「……なるほど」
セラが剣を握り直した。
「使いやすい身体になったらしい」
ヴァルガルドが突っ込む。
今度は、セラも真正面から迎えた。
―――
ラグナ西方。
城壁を見下ろせる丘に、灰色の外套をまとった男が一人立っていた。
男の眼下には、魔物の大群が広がっていた。
数を数えられるような規模ではない。
街道を埋め、乾いた川床を黒く染め、林の向こうからも次々と影が続いている。
もともとラグナ方面へ向かっていた群れだった。
男が操っているのは、そのすべてではない。
群れの先頭近くにいる大型の四足獣。
その首の後ろに、一本の黒い杭が打ち込まれている。
少し右を走る牙獣にも。
さらに中央付近、周囲より一回り大きな個体にも。
杭を打たれているのは、大群の中のほんの数匹だけだった。
男が指をわずかに曲げる。
先頭の大型個体が速度を落とした。
すぐ後ろを走っていた魔物が詰まり、衝突を避けて左右へ流れる。
そのさらに後ろも速度を落とす。
わずかな減速が、波紋のように大群全体へ伝わった。
「まだ早い」
男はラグナの城壁を見る。
ただ魔物を城へぶつけるだけなら簡単だ。
黒杭の抑制を解けばいい。
だが、それでは意味がなかった。
狙いはラグナを滅ぼすことじゃない。
地下で行われている仕事へ、兵を近づけないこと。
城壁へ守備兵を張りつける。
救護も、伝令も、可能な限り地上へ引きつける。
さらに城外へこれだけの魔物が迫れば、城護盾バスティオンそのものを停止する決断も難しくなる。
内部ではキオが偽命令を流す。
城内側に入り込んだ仲間が、それを本物の命令らしく補強する。
守備隊が最も混乱した、その瞬間。
大群を到達させる。
早すぎれば城は警戒を強める。
遅すぎれば内部工作が露見する。
だから男の役目は、魔物を操ることそのものではない。
大群がラグナへ届く時間を、可能な限り調整することだった。
右側の黒杭へ魔力を送る。
大型個体がゆっくり左へ寄った。
それを避けた周囲の魔物も進路を変え、その後ろもさらに左へ流れる。
数匹しか直接動かしていない。
それでも、大群全体がわずかに向きを変えた。
男は、群れそのものを操舵している。
「あと少しだ」
その時。
先頭を走る一頭が、わずかに脚をもつれさせた。
男の眉が寄った。
―――
地下。
今度は、ヴァルガルドの左後脚が落ちた。
ただし、右前脚を切った時ほど簡単ではなかった。
セラが懐へ入ろうとするたび、再構築された前脚が進路を塞ぐ。
大角をかわしたところへ前脚が続き、それを潜れば首が戻ってくる。
攻撃同士が繋がり始めていた。
それでも、まだセラの方が速い。
巨体が旋回した一瞬、腹の下にだけ死角ができる。
セラは身体を低くし、その隙間へ飛び込んだ。
左後脚へ一撃。
深い。
だが、まだ切れない。
ヴァルガルドが身体を回した。
あれだけ巨大なのに、旋回まで速くなっている。
セラは立ち上がらなかった。
低い姿勢のまま床を蹴り、腹の下を滑るように反対側へ抜ける。
二撃目。
骨まで届いた。
すぐに後脚が蹴り上げられる。
セラが身体を捻った。
爪が鎧の前を掠める。
着地。
三撃目。
左後脚が落ちた。
ヴァルガルドの巨体が大きく傾く。
セラは即座に離れた。
その判断は正しかった。
たてがみから、雷が床を走る。
一本目をかわす。
だが、二本目はその移動先へ来た。
「……狙ってる」
俺が呟く。
最初とは違う。
漏れているんじゃない。
明確に当てようとしている。
ヴァルガルドの首元では、さっきより銀灰色のたてがみが増えていた。
とはいえ、見た目が綺麗になったわけじゃない。
片側にはまだ毛がなく、皮膚も骨も露出している。
むしろ異形さは増している。
それなのに、雷の流れだけは確実に整っていた。
ドクン。
失った後脚へ、また外から何かが流れ込む。
《外部流入――増加》
新しい後脚が形成される。
今度は元より長い。
しかも途中に、本来ならないはずの関節が一つ増えていた。
「……なんだ、あれ」
城主が呻く。
セラも眉を寄せる。
新しい後脚が深く沈んだ。
次の瞬間。
ヴァルガルドの巨体が宙へ浮いた。
「え?」
思わず声が出た。
城壁の一角が、丸ごと宙へ跳ね上がったように見えた。
ヴァルガルドが着地した瞬間、地下空洞全体が大きく揺れた。亀裂が床を走り、砕けた石片が跳ねる。
セラは横へ逃れる。
だが、ヴァルガルドは着地の勢いを殺さないまま前脚を振り抜いた。
それをかわした先には大角。
さらに、セラが次に身体を逃がす方向へ雷が走る。
三つの攻撃が、もはや別々ではなかった。
前脚で動かし、角で進路を限定し、最後に雷を置く。
「……っ」
完全には抜けきれない。
セラは身体の前へ剣を立て、大角を受けた。
轟音。
刃と角が噛み合った瞬間、靴底が石床を削る。
一歩押される。
さらにもう一歩。
三歩目でようやく、セラは剣先をわずかに傾けて力を横へ逃がした。
大角が脇を抜ける。
「セラ!」
「平気だ」
返事は早い。
しかし、さっきまでとは違っていた。
口元に残っていた余裕は消え、セラは一度だけ剣を握る指を開くと、感触を確かめるようにもう一度強く柄を握った。
「再構築すると」
ヴァルガルドから目を離さないまま、セラが言う。
「前より、動ける身体になる」
「俺もそう見えます」
「厄介だな」
「セラがそれ言うんですね」
「事実は事実だ」
ヴァルガルドが再び後脚を沈める。
今度はセラも、跳ぶ前から身体を低くした。
―――
丘の上では、灰衣の男が黒杭へ力を送っていた。
狙うのは、群れの先頭を走る大型個体。
速度を落とせ。
そう命じる。
だが、反応が遅い。
「止まれ」
男がさらに強く術線を引くと、杭を打ち込まれた魔物が苦しげに首を振り、ようやく脚を緩めた。
遅すぎた。
背後から迫っていた後続が詰まり、衝突を避けようとした魔物が左右へ押し出される。その外側にいた個体まで進路を変え、整えていた群れの前面が少しずつ膨らんでいく。
男は眉を寄せた。
何かがおかしい。
視線を落とすと、足元の草が先ほどより明らかに萎れていた。
「……何だ?」
さらに、中央で舵として使っていた杭付きの個体まで身体をふらつかせる。
一頭の乱れが周囲へ伝わり、その乱れがさらに後ろへ押し戻されていく。
大群の流れが、ゆっくりと崩れ始めていた。
―――
地下では、雷がセラの着地点を待ち構えていた。
セラは右へ身体を流す。
そこへ前脚が落ちる。
爪が頭上を通過する寸前まで姿勢を沈め、その勢いのままヴァルガルドの懐へ滑り込むと、立ち上がる力を斬撃へ変えて脇腹を狙った。
だが。
刃先が皮膚を浅く裂いただけで、ヴァルガルドの胴体が後ろへ引かれた。
剣が空を切る。
「……かわした?」
思わず声が漏れた。
黄色い瞳が、セラを追っている。
偶然じゃない。
戦闘直後のヴァルガルドは、セラの動きを認識してから身体がついてくるまでに遅れがあった。
今は違う。
見て。
判断して。
その先へ身体を動かしている。
ヴァルガルドが大角を横へ振る。
セラは角の内側へ入り、その勢いを利用して懐へ抜けようとした。
一度目に使った動きだ。
だが、ヴァルガルドは振り切らなかった。
途中で首を止める。
セラの身体に乗るはずだった勢いが、突然消えた。
「覚えてる……」
俺の声に、セラは答えない。
空中に残された彼女の着地点へ、たてがみの雷が集まる。
セラは止まった大角へ剣先を滑らせた。
火花が散る。
刃と角が擦れる抵抗を使って身体を半回転させ、落ちてくる雷の軌道から外れる。
そのまま角へ足をついた。
二歩。
だが、根元までは走らない。
ヴァルガルドが首を振り始めた瞬間、自分から角を蹴って肩へ移る。
ヴァルガルドも、もう待ってはいなかった。
セラが肩へ乗ったと見るや、巨体そのものを壁へ押しつける。
「セラ!」
石壁とヴァルガルドの身体の隙間が、一気に狭まった。
このままでは潰される。
セラは肩を駆け上がるのをやめ、逆に前脚の付け根へ向かって斜めに走り下りた。
最後は身体を横へ倒し、腹側へ滑り込む。
次の瞬間。
ヴァルガルドの肩が石壁へ激突した。
地下を揺らす轟音とともに、巨大な壁面が崩れ落ちる。
セラは巨体の反対側から抜けた。
だが。
そこまで読まれていた。
後脚が横から迫る。
回避は間に合わない。
セラは剣を両手で構え、爪を受ける。
衝撃に身体ごと弾き飛ばされた。
床へ足をつく。
そのまま勢いを殺せず、靴底が長く石を削った。
一度大きく体勢を崩し、二歩目で踏み直してようやく止まる。
左肩の鎧には、細い亀裂が走っていた。
「……」
セラはその傷を一度だけ見た。
ほんの一瞬。
すぐにヴァルガルドへ視線を戻す。
もう、最初のような余裕は残っていなかった。
「トーマ」
「はい」
「次で頭を落とす」
息をのんだ。
「話は?」
「後回しだ」
ヴァルガルドが喉の奥で低く唸る。
セラは、その巨体から目を離さない。
「これ以上、作り直させる方が危険だ」
合理的だった。
少なくとも。
この時点では、俺もそう思っていた。
セラが静かに剣先を下げる。
「王国騎士セラ・ヴァルク」
銀灰色のたてがみを、青白い雷が這っていく。
「名をここに置く」
一歩。
セラがヴァルガルドとの距離を詰めた。
「――剣の向こう側で、神さえ知らぬ結末を見せてやる」
その言葉を境に、空気が変わった。
ここからは。
本気で仕留めるつもりだ。
ヴァルガルドが後脚を深く沈め、巨体を跳ね上げた。
今までで最も高い。
セラの頭上を覆う影が広がるより早く、二条の雷が床を走り、逃げ道を先に潰す。
さらに、その中央へ大角が落ちてくる。
二条の雷と、大角。
三つの攻撃が、同じ一点へ重なった。
セラは退かなかった。
真正面へ踏み込む。
最初の雷へ剣の腹を触れさせる。
完全に受けるのではなく、わずかに軌道を変える。
二条目には、自分からヴァルガルドの大角を挟んだ。
雷が角へ直撃する。
爆発。
灰色の破片が周囲へ弾け、セラの身体も爆風に押される。
だが。
セラは押し戻されなかった。
その力が進行方向と重なるよう、自分からさらに踏み込んだ。
ヴァルガルドの頬へ片足をかける。
そこから眉間。
さらに頭頂へ。
人ひとりが駆けるには巨大すぎる顔を、一気に上へ駆け抜ける。
ヴァルガルドが頭を激しく振る。
セラは逆らわなかった。
振られる方向へ足を運び、巨獣の首が生み出す勢いを、そのまま自分の踏み込みへ変える。
大角が横薙ぎに戻ってくる。
自分の頭ごと、セラを払うつもりだ。
セラは姿勢を深く沈めた。
灰角が銀髪のすぐ上を通過する。
その下から。
剣が喉へ入った。
深い。
ヴァルガルドが咆哮とともに首を持ち上げる。
セラの身体も、傷へ残した刃ごと上へ運ばれた。
それでも剣を抜かない。
巨獣自身が首を起こす力を利用して、裂け目を下から上へ広げていく。
至近距離で雷が弾けた。
さすがに刃を抜く。
セラは巨体から落下した。
眼下には、さっき崩れた石柱が斜めに残っている。
片足を置いた瞬間、柱は折れた。
だが、壊れる直前に返ってきた反発だけを使い、セラは再び上へ跳ぶ。
目の前にヴァルガルドの顔。
前脚が追ってくる。
セラは横へ逃げない。
持ち上がった足の甲へ着地した。
ヴァルガルドが前脚を振り上げる。
その上昇まで使って跳び、ついにヴァルガルドの頭より高い位置へ出る。
そこで初めて。
セラは剣を両手で握った。
ヴァルガルドが首を振る。
空中のセラも、その力に引かれて横へ流される。
まだ斬らない。
待つ。
首が最も速く振られた瞬間。
セラ自身も同じ方向へ身体を回した。
ヴァルガルドの巨体が生んだ勢いと、セラ自身の回転が重なる。
刃が首へ食い込んだ。
一撃目で、半ばまで。
ヴァルガルドの全身から雷が噴き出した。
セラの袖が焼け、銀髪が激しく逆立つ。
それでも手を離さない。
剣を引く。
もう一度。
二撃目が、さらに深く入った。
「グァァァァァァッ!」
ヴァルガルドが自分の前脚を振り上げる。
首ごとセラを叩き潰す気だ。
セラは傷へ刃を残したまま、首の反対側へ一歩だけ走った。
踏み位置を変える。
身体を返す。
そして。
三撃目。
刃が反対側まで抜けた。
その瞬間だけ。
地下から音が消えたように感じた。
ヴァルガルドの頭がわずかに傾く。
そのまま。
ゆっくりとずれた。
落ちる。
次の瞬間、地下広間を揺らす轟音が響いた。
頭部だけで、広間の一角が塞がる。
首を失った胴体は惰性のまま一歩だけ進み、さらにもう一歩踏み出したところで前脚が折れた。
巨体が崩れ落ちる。
たてがみに残っていた雷も、ようやく消えた。
静かになった。
セラは倒れたヴァルガルドの身体から床へ降りる。
着地すると、すぐには何も言わなかった。
肩がわずかに上下している。
俺は初めて見た。
戦闘を終えたセラが、明確に息を整えているところを。
「……終わったか」
城主が呟いた。
誰も、すぐには答えなかった。
俺は倒れたヴァルガルドではなく、その周囲へ伸びている流れを見る。
《不具合鑑定》では、生きているか死んでいるかは分からない。
だが。
外から何かが入り続けていることだけは見える。
「……何だ?」
赤い流れが細くなるどころか、急速に太くなっていく。
《外部流入――急増》
「盾守!」
城主の声に、盾守が操作盤へ駆け寄った。
「外部徴収が……また上がっています!」
さっきまでとは比べものにならない。
その直後。
ドクン――と。
ヴァルガルドではなく、地下そのものが脈を打ったような振動が足元から伝わってきた。
―――
地上。
共同井戸のそばを通りかかったネネは、水面を見て足を止めた。
「……え?」
下がっている。
ゆっくりではない。
まるで井戸の底から巨大な何かに吸われているように、水面が目の前で落ちていく。
近くに繋がれていた馬が突然よろめいた。
前脚が折れ、その場に膝をつく。
「何!?」
ネネが駆け寄ろうとした、その頃。
城壁の外でも。
同じ異変が起きていた。
―――
丘の男が、黒杭へ繋がる術線を強く引く。
「止まれ!」
先頭を抑えるはずだった大型個体が、命令に従うより先に膝から崩れた。
その直後。
後ろから押し寄せていた魔物が左右へ分かれる。
片方は別の群れへぶつかり、押された個体がさらに外側へ逃げる。
中央では、もう一頭の杭付き個体まで急激に速度を失った。
後続は止まれない。
後ろから押す。
押された群れが膨らむ。
一つにまとめていた大群の先端が、みるみる複数の流れへ裂けていく。
「違う。そこへ流れるな!」
男が術線を操る。
だが。
黒杭で動かせる一頭より、その背後から押し寄せる何十頭もの力の方が強い。
先導個体が命令通りに動けない。
それを避ける周囲が、また別の流れを作る。
男が初めて顔色を変えた。
「まだ早い……!」
調整していた魔物の波が。
予定より早く。
しかも予定していた形を失ったまま、ラグナへ向かい始めた。
―――
地下。
ミシ――。
嫌な音がした。
俺はヴァルガルドへ振り返る。
首を失った身体。
その切断面から、白い骨が伸びていた。
「……セラ」
一本。
さらに一本。
頸骨が形を作り、その周囲へ血管が絡みつく。
筋肉が覆う。
再構築の速度が、今までとは明らかに違っていた。
「トーマ」
セラも気づいた。
剣を構え直す。
「これでも再生するのか」
俺は答えられなかった。
首が作られていく。
顎の骨格が組み上がり、そこへ牙が生える。
銀灰色のたてがみが首筋を覆い始める。
最後に。
黄色い眼球。
その形成を見ながら。
俺の頭の中で、それまでの戦いが繋がった。
右前脚を落とした後。
踏み込みが速くなった。
後脚を落とした後には、あの巨体で跳躍できるようになった。
たてがみが増えてからは、ただ漏れていた雷を狙って撃つようになった。
そして。
セラが一度使った入り方まで覚え、次にはその動きを潰してきた。
再構築するたび。
ただ元へ戻っているんじゃない。
壊された身体を、もっと戦いやすい形へ。
作り替えている。
そして今、セラは頭を落とした。
「……次は」
自分でも分かるほど、声が掠れた。
「何を覚えて戻るんだ」
新しく作られた瞼が開いた。
黄色い眼が現れる。
その視線は、一瞬も迷わなかった。
最初から。
セラを捉えていた。
再構築されたばかりの身体とは思えない。
ヴァルガルドが前脚を床へ沈める。
セラの目が細くなる。
次の瞬間。
巨体が弾けるように前へ出た。
さっきまでの踏み込みとは比較にならない。
「セラ!」
俺が叫んだ時には。
もう。
ヴァルガルドは彼女の眼前まで迫っていた。




