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第九話 初めてなのに、なぜか

撮影現場の空気は、照明が落ちた瞬間、ひやりと冷たく沈んだ。

「カット! オーケー、今日の撮影はここまで!」

監督の声が響いた途端、張り詰めていた緊張がほどけた。

スタッフたちが一斉に動き出し、あちこちで機材を片づける音が重なっていく。

ケーブルが床をこすり、照明スタッフが高い位置の機材をひとつずつ下ろしていた。

大きく笑う者もいれば、疲れた顔でペットボトルを探す者もいた。

撮影が終わった現場には、妙な解放感が漂っていた。

けれど、その騒がしい空気の真ん中で、ナラだけが島のようにひとり立っていた。

表向き、彼女は撮影現場を取材に来た資料調査の作家だった。

正確には、そう紹介されている人物だった。

昨夜、地下駐車場で起きた事件のあと、ジュンは防犯カメラと車両の動線をもう一度洗い直した。

爆発の直前、駐車場を抜け出した不審な男の足取りは、この撮影現場の周辺で途切れていた。

撮影現場は、外部の人間が簡単に入れる場所ではない。

警察が正面から踏み込めば、噂のほうが先に広がる。

相手に気づかれれば、また姿を消されるかもしれなかった。

だからジュンは、静かな方法を選んだ。

制作会社に最低限の協力を求め、ハナとナラは現場資料の調査という名目で撮影現場に入った。

「今日だけ、作家さんです」

現場に入る前、ジュンは低い声でそう言った。

ハナは呆れたように彼を見た。

「私とナラが?」

「部外者より、作家のほうが怪しまれません」

「私、文章なんて書けないんだけど」

ジュンはしばらくハナを見つめ、それから短く答えた。

「話すのは得意でしょう」

ハナは一瞬、言葉を失った。

ナラはそのやり取りを思い出し、小さく息を吐いた。

作家さん。

慣れない呼び方だった。

けれど今は、その呼び方のおかげで、この場所に立っていられる。

ジュンとハナが撮影現場の隅で昨夜の事件につながる痕跡を探しているあいだ、ナラは目を閉じ、空間に残った感情を読んでいた。

疲労。

安堵。

麻痺したような解放感。

撮影が終わった空間に残る、独特の熱とだるさ。

ほとんどは、ありふれたものだった。

それでもナラは、やめることができなかった。

昨夜、地下駐車場で感じた、あの眠らされた恐怖。

誰かが無理やり感情を押し込めたような、異様なほど空っぽの空白。

あの感覚が、この場所のどこかにも潜んでいるような気がしていた。

そのときだった。

「作家さん?」

聞き慣れないのに、なぜか鼓膜の奥を静かに震わせる声。

ナラは顔を上げた。

あの男だった。

昨夜、阿鼻叫喚の駐車場で、ハナの横をすり抜けるように駆け抜け、迷わず車のドアを開けて子どもを救い出した男。

ナラは少し離れた場所から、その一部始終を見ていた。

彼が子どもをハナに預け、人混みの中へ消えていくまで、なぜか目を離すことができなかった。

照明の下で改めて向き合った彼の顔は、現実離れしているほど澄んでいて整っていた。

善良で、どこか清らかな目元。

相手の警戒心をやわらかくほどいてしまう、不思議な空気。

けれどナラが最初に感じたのは、その顔ではなかった。

彼のまわりに、低く流れる周波数。

空間の感情とは違うもの。

音のようで、響きのようでもある、見慣れない気配。

ナラは思わず息を止めた。

「あ……あのとき。駐車場で」

ナラがようやく口を開くと、男はかすかに笑った。

「はい」

彼は一歩、近づいた。

「隣にいた方は子どものことで手一杯に見えました。でも作家さんは、僕のことをずいぶん長く見ていましたね」

ナラの心臓が、どくんと落ちた。

直接話したこともない。

近くに寄ったこともない。

それなのに彼は知っていた。

自分が彼を見ていたことを。

「あなたが……車のドアを開けてくれたんですよね」

ナラは視線を逸らさないようにしながら言った。

「おかげで、あの子は助かりました」

「当然のことをしただけです」

男は静かに答えた。

「ソ・ジヌです」

短い沈黙が落ちた。

ナラは瞬きをした。

ソ・ジヌ。

その名前は、知らないものではなかった。

テレビ。

広告。

映画のポスター。

街のあちこちで、通り過ぎるように見てきた顔。

韓国で彼の名前を知らない人間は、そう多くない。

けれどナラが妙だと思ったのは、有名俳優を目の前にしたことではなかった。

初めて会う人なのに。

どうして、こんなに知らない気がしないのだろう。

ジヌも、同じことを考えているようだった。

彼が低く言った。

「不思議ですね」

ナラは彼を見た。

「何がですか?」

「初めてお会いするのに」

ジヌは少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。

「どこか、懐かしい気がします」

ナラの指先が、ほんのわずかに固まった。

その言葉は、彼女自身が感じていたものにあまりにも似ていた。

ナラはずっと、人の感情の中に押し流されるように生きてきた。

誰かの不安。

誰かの怒り。

誰かの悲しみ。

人はそれぞれ感情をこぼし、ナラは望まなくてもそれを感じてしまった。

けれど、この男は違った。

彼から押し寄せてくるのは、感情ではなかった。

むしろ感情のさらに外側にある、薄く細い震え。

空気が揺れる直前の、かすかな振動。

音が生まれる前の、低い響き。

ナラには、その感覚をうまく説明できなかった。

ただ、ひとつだけわかった。

この人も、何かを聞いている。

そのとき、撮影現場の反対側からハナの声がした。

「ナラ!」

ナラは振り向いた。

ハナはジュンと一緒に、機材ケースの近くに立っていた。

何かを見つけたようだったが、まだ確信は持てない表情をしていた。

ジュンは周囲を確認しながら、低い声で何か指示を出している。

ジヌの視線も、わずかにそちらへ向いた。

「刑事さんですか?」

ナラは短く答えた。

「はい」

「では、作家さんは……」

「今日だけ作家です」

ナラは、自分でも意外なほど素直にそう言っていた。

ジヌの目元に、ほんのかすかな笑みが浮かんだ。

「そうでしたか」

それ以上、彼は尋ねなかった。

それが、なぜかありがたかった。

詮索しない人。

相手が話さない理由を、待つことのできる人。

ナラにとって、そういう人は少なかった。

ジヌはしばらく、撮影現場の天井を見上げていた。

その表情が、ほんのわずかに変わる。

ナラはその変化を見逃さなかった。

「どうしました?」

ジヌはすぐには答えなかった。

さっきまで柔らかかった目が、少し沈んでいる。

「作家さんは、こういうことに気づくほうですか?」

「こういうこと?」

「何かが起きる直前の感じです」

ナラの手が止まった。

ジヌは天井に視線を向けたまま、低い声で言った。

「昨夜の駐車場でもそうでした。音がする前なのに、作家さんはもう知っている顔をしていました」

ナラの心臓が、急に速く打ち始めた。

「私が?」

「はい」

ジヌの声が、さらに低くなる。

「僕も、ときどきあります」

「何がですか?」

「空気が、わずかに歪む感じです」

彼はゆっくりと言葉を続けた。

「音が、一瞬だけ遠のくんです。説明は難しいですが……それを感じたあとには、必ず何かが起きる」

ナラは息を止めた。

ずっと自分だけだと思っていた感覚。

呪いのように、自分ひとりを苦しめてきたもの。

それを、この男は別の言葉で語っていた。

感情ではなく、音として。

残響ではなく、振動として。

その瞬間、ナラの周囲の空気が、ほんのわずかに傾いた。

見えない天秤が、片側へゆっくりと重さを移すような感覚。

その上を、薄い感情がひとつ、かすめていった。

意図。

誰かがわざと残した、冷たく乾いた意図。

ナラは顔を上げた。

天井の照明。

その固定具のひとつが、ゆっくりと揺れていた。

「まさか……」

ジヌがひどく低い声で言った。

「今です」

――ガシャン!

金属が裂ける音とともに、巨大な照明が落下した。

一瞬、すべての音が消えた。

スタッフたちの悲鳴も。

床を転がる機材の音も。

誰かが駆け寄ってくる足音も。

ナラの目には、落ちてくる照明がひどくゆっくりと見えた。

避けなければ。

わかっているのに、体が動かない。

その刹那。

強い腕が、ナラの腰をさらった。

ジヌだった。

彼はナラを自分の胸元へ荒々しく引き寄せ、そのまま床を転がった。

照明は、ナラが立っていた場所のすぐ横に叩きつけられた。

遅れて、破裂するような轟音が現場を切り裂いた。

「きゃあっ!」

「誰か怪我したか!」

「照明、下ろせ!」

騒ぎが一気に押し寄せた。

けれどナラの耳には、不思議なほど、ひとつの音だけがはっきりと聞こえていた。

ジヌの鼓動。

速く、荒いのに、なぜか落ち着く音。

ナラはゆっくりと目を開けた。

ジヌの顔がすぐ目の前にあった。

照明の下で見た、澄んで整った顔。

けれど今の彼の目は、少しも柔らかくなかった。

硬く、深く、どこか冷たいほどに澄んでいた。

彼はナラの腕をつかんだまま、低く尋ねた。

「大丈夫ですか?」

ナラは答えようとした。

けれど、すぐには声が出なかった。

胸が大きく鳴っていた。

それが、今まさに死にかけた恐怖のせいなのか。

それとも、自分を抱き寄せたこの男の体温のせいなのか。

ナラ自身にもわからなかった。

「……はい」

ようやく出た声は、とても小さかった。

ジヌは彼女に怪我がないことを確かめてから、ゆっくりと手を離した。

その瞬間、ナラの指先がほんの短く震えた。

おかしかった。

人の感情に押しつぶされるように生きてきたナラにとって、誰かに触れられることは、たいてい避けたい刺激だった。

けれど、今のは違った。

侵入ではなかった。

能力で読み取った感情でもなかった。

ただ、人の温度だった。

知らないはずなのに。

危ういほど優しい温度。

そのとき、ジュンとハナが駆け寄ってきた。

「ナラ!」

ハナがナラの腕をつかんだ。

「大丈夫? 怪我してない?」

ナラはぼんやりとうなずいた。

「大丈夫」

ジュンはすぐに、落下した照明へ視線を向けた。

その顔が固まる。

照明は、ナラが立っていた場所のすぐ横に落ちていた。

少し遅れていたら。

ほんの少しでも、ジヌが遅れていたら。

ジュンが低く言った。

「全員、動かないでください」

スタッフたちがざわめいた。

ジュンの声が、さらに冷たくなる。

「今から、誰も外へ出さないでください」

ジヌは無言で、床に落ちた照明を見つめていた。

ナラもまた、そこから目を離せなかった。

照明の周囲には、ごく薄い感情が残っていた。

失敗の動揺でもない。

事故の恐怖でもない。

冷たく、乾いた意図。

誰かがわざと残した痕跡。

ナラは息を呑んだ。

その瞬間、ジヌがとても低い声でつぶやいた。

「やっぱり」

ナラは彼を振り返った。

「何がですか?」

ジヌは照明を見つめたまま答えた。

「落ちる前に、音が先に死にました」

ナラの心臓が、また大きく跳ねた。

音が死んだ。

その言葉は、不思議なほど、ナラが感じた感覚と似ていた。

ジヌがゆっくりと彼女を見る。

「作家さんも、感じましたよね?」

ナラは何も言えなかった。

答えていないのに、もう答えたも同じだった。

騒然とする撮影現場の中で、二人の視線が短く重なった。

初めて会った人。

それなのに、なぜか。

この人は、自分の知らない言葉で、自分と同じ世界を読んでいた。


著:ジンファ・ジンギョン

(姉妹による共著)





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