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第八話 亀裂

男は、ナラを襲わなかった。

ただ、歩いてきた。

一歩。

また一歩。

濡れたコンクリートを、革靴の音が叩く。

そのたびに、ナラの心臓がひとつずつ締めつけられた。

こつ。

こつ。

こつ。

足音は遅かった。

けれど、その遅さが怖かった。

逃げる時間を与えているのではない。

恐怖が体の奥へ染み込む時間を、わざと与えているようだった。

男は、ある距離で止まった。

近すぎず。

遠すぎず。

ナラが最もはっきりと恐怖を感じる位置を、正確に知っているかのように。

男が低く言った。

「殺しに来たんじゃない」

ナラの息が、喉の奥で止まった。

指先が冷たくなる。

男は続けた。

「伝えに来た」

ナラは、かろうじて唇を動かした。

「何を……」

男の口元が、ほんの少しだけ動いた。

笑みなのか。

嘲りなのか。

わからなかった。

「次はもっと大きい」

その瞬間。

ナラの瞳が揺れた。

自分では抑えられないほどに。

男の感情は読めなかった。

いや。

読ませてくれなかった。

憎しみもない。

怒りもない。

殺意すらない。

彼は空っぽの人間ではなかった。

自ら、すべての扉を閉ざしている人間だった。

それなのに。

奇妙なことに、彼の周囲に残った空気の残響だけが反応していた。

ガスの匂い。

閉じられた空間。

子どもの泣き声。

割れるガラス。

そして。

本当の爆発。

ナラの体が、ぐらりと傾いた。

見えない煙を吸い込んだように、一瞬、足元が崩れた。

男はその様子を見つめながら、囁くように言った。

「お前が感じたものは、警告じゃない」

短い沈黙。

地下駐車場の蛍光灯が、一度だけ瞬いた。

闇。

光。

また、闇。

男が言った。

「招待状だ」

招待状。

誰を。

どこへ。

何のために。

問いが、ナラの頭の中に一斉に浮かんだ。

けれど、そのどれも声にはならなかった。

その時だった。

遠くから、ハナの声が裂けるように響いた。

「ナラ!」

ナラは反射的に振り返った。

その瞬間。

男の輪郭が揺らいだ。

蛍光灯がまた瞬く。

煙が、床を低く這った。

もう一度、闇が落ちた。

そして光が戻った時。

男はいなかった。

本当に、消えたように見えた。

足音もない。

逃げていく影もない。

残っていたのは、低い声の余韻だけだった。

次はもっと大きい。


少し前。

ハナはスーパーへ向かう車の中で、突然、頭の奥へねじ込まれるような強い幻視を見ていた。

ナラが、暗闇の中で誰かと向き合っている。

その男の顔は、ぼやけていた。

けれど、存在感だけは異様にはっきりしていた。

そして次の光景。

地下二階。

黒い車の列の間から立ち上るガス。

子どもの泣き声。

砕けるガラス。

巨大な炎。

ハナは息を呑んだ。

「戻らなきゃ」

ジュンの視線が彼女に向いた。

「どういうことですか」

「ナラが危ない」

ジュンはそれ以上、聞かなかった。

ハナの顔を見た瞬間、ハンドルを切った。

タイヤが濡れた道路を引っかくように鳴いた。

ジュンはすぐに無線を取った。

「ジュンヒョク。通報のあったスーパーはそっちで対応しろ」

——チーム長?

「ガス漏れを確認。周辺を封鎖しろ。消防が到着するまで、絶対に無理はするな」

——了解しました。

ジュンの声が、さらに低くなった。

「ミスはするな」

短い間のあと、ジュンヒョクの返事が返ってきた。

——はい。チーム長。

車はそのまま、ショッピングモールの地下駐車場へ滑り込んだ。

ドアが開ききる前に、ハナは飛び出していた。

「ナラ!」

ナラがハナの方を振り返った。

顔が、真っ白だった。

声は出なかった。

ハナは駆け寄り、ナラの肩を掴んだ。

「大丈夫? 怪我してない? 今の人、何なの?」

ナラの唇が震えた。

それでも、言葉は出てこなかった。

ジュンは周囲を素早く見渡した。

制圧された男。

焦げた床。

残った煙。

そして、鼻を刺す匂い。

ジュンの顔が変わった。

「ガスの匂いだ」

その言葉が終わるより早く、無線が弾けるように鳴った。

——地下二階、ガス濃度急上昇! 爆発の危険あり! 全員退避が必要です!

ジュンが即座に叫んだ。

「全員退避!」

その声が、地下駐車場を切り裂いた。

「今すぐ人を外へ出せ!」

さっき制圧した実行犯のバッグは、囮だった。

本当の装置は、地下二階の換気設備付近に隠されていた。

ショッピングモールの爆発は、終わっていなかった。

むしろ、これから始まろうとしていた。

あの男は、爆発を起こしに来たのではなかった。

爆発の始まりを告げて、消えたのだ。

実行犯ではない。

観察者。

狩る者。

ピッ。

ピッ。

ピッ。

ピッ。

警報音が鳴り始めた。

頭と耳を同時に刺す、不快な音だった。

人々が悲鳴を上げ、出口へと雪崩れ込む。

子どもを抱えた母親。

買い物袋を落とした恋人たち。

互いを押しのけながら階段へ向かう人の群れ。

警報音と悲鳴が絡み合い、駐車場は一瞬で混乱の渦になった。

ジュンはその真ん中で動いた。

緊迫していた。

けれど、崩れなかった。

「右の通路を塞げ!」

「エレベーターは使わせるな!」

「階段へ誘導しろ!」

警察官たちが散った。

ハナは、固まったままのナラを立たせた。

「行こう。ここにいたら危ない」

ナラはふらつきながら、一歩踏み出した。

その時。

彼女が突然、立ち止まった。

「待って」

ハナが振り返る。

ナラは、出口から離れた駐車スペースを指さしていた。

黒い車の中。

小さな子どもが、ひとりで閉じ込められて泣いていた。

小さな手が、窓を叩いている。

ドアはロックされていた。

近くに親の姿はなかった。

「子どもが一人でいる」

ハナは迷わなかった。

体が先に動いていた。

「ハナさん!」

ジュンが彼女を呼んだ。

ハナは振り返り、叫んだ。

「三十秒で戻ります!」

ジュンは一瞬だけ迷った。

ガスの匂いは濃くなっている。

爆発まで、どれだけ時間が残っているのかもわからない。

けれど。

子どもがいた。

ハナがいた。

ジュンは歯を食いしばった。

「三十秒だ」

ハナは車へ向かって走った。

車内の子どもは、泣き疲れた顔をしていた。

汗と涙と鼻水で、顔がぐしゃぐしゃになっている。

ハナはドアノブを掴んだ。

開かない。

もう一度、力を込める。

びくともしない。

「大丈夫! 少しだけ待って!」

子どもの泣き声がさらに大きくなった。

ハナは焦った手で窓を叩いた。

何かでガラスを割らなければならない。

けれど、周囲には使えそうなものが見当たらなかった。

ガスの匂いは、さらに濃くなる。

逃げなければならない時間は、確実に迫っていた。

その時。

とん。

誰かが、ハナの肩に軽く触れて通り過ぎた。

「どいてください」

低く、柔らかな声だった。

妙なほど落ち着いた声。

ハナは反射的に振り返った。

深く帽子をかぶった男が立っていた。

顔は完全には見えない。

けれど、露わになった顎の線と目元だけで、普通の人間には見えなかった。

この阿鼻叫喚の中で、彼だけが妙に清潔だった。

慌ててもいない。

急いでもいない。

まるで、この状況を一度経験したことがあるかのようだった。

男はポケットから小さな道具を取り出した。

そして、あまりにも慣れた動作で、それをロック部分に差し込んだ。

カチリ。

ドアが開いた。

信じられないほど、あっさりと。

男は子どもを抱き上げた。

「大丈夫。もう出よう」

子どもをなだめる声は、驚くほど優しかった。

さっきまで泣き叫んでいた子どもが、その声に一瞬、息を呑んだ。

男は子どもをハナへ渡した。

ハナは子どもを抱きながら尋ねた。

「あなたは……?」

男は答えなかった。

ただ、短く笑った。

「今は、外へ出るのが先でしょう」

そう言い残して、彼は人の流れの中へ歩き出した。

ハナは呆然と、その背中を見つめた。

そして遠くから。

ナラも、その男を見ていた。

おかしかった。

彼からも、何かが感じられた。

けれど、さっき駐車場の闇にいた男とはまったく違う。

彼は空っぽではなかった。

冷たくもなかった。

それでも、普通ではなかった。

まるで空間の隙間を通ってきた人間のように、彼の周囲だけ空気が違う形で揺れていた。

「ハナさん!」

ジュンの声が飛んだ。

「出ろ!」

ハナは子どもを抱いて走った。

ナラがその後を追う。

ジュンは最後に周囲を確認し、人々を外へ追い出した。

退避がほぼ終わった、その瞬間。

ドン——!

地下二階で爆発が起きた。

床が跳ねた。

空気が、拳のように背中を殴った。

ガラスが悲鳴を上げて砕け散る。

熱を含んだ風が、階段を駆け上がってきた。

人々が叫んだ。

ハナは子どもを抱きしめたまま身を低くし、ジュンは本能的に彼女とナラの前に立った。

やがて。

煙が地上へと昇っていった。

それでも、死者は出なかった。

避難が早かったからだ。

子どもも無事だった。

ジュンは、その子が両親の腕に戻るのを確認した。

両親は泣きながら、子どもを抱きしめていた。

ハナはその姿を見て、ようやく息を吐いた。

だが、すぐに周囲を見回した。

子どもを救った男。

彼の姿がない。

ナラもまた、別の誰かを探していた。

駐車場の闇の中で、自分を見下ろしていた男。

感情を完全に閉ざしていた男。

二人の男は、どちらも消えていた。

一人は、人を救って消えた。

一人は、爆発を告げて消えた。

どちらも、この夜に似合わないほど非現実的だった。

ハナが低く尋ねた。

「さっきの男……何だったの?」

ナラはゆっくりと顔を上げた。

「感情がなかった」

「爆弾を持ってた男?」

「違う」

ナラの声が低くなった。

「爆弾犯じゃなかった」

ハナの表情が固まる。

ナラは続けた。

「あの人は……見ていた」

「何を?」

ナラはハナを見た。

「私たちを」

ハナが息を呑んだ。

ナラの指先が、また震えた。

「それに、知っていた」

「何を?」

ナラの声は、ほとんど囁きだった。

「私に何ができるのかを」

遠くで、サイレンが幾重にも重なって響いていた。

消防車。

救急車。

パトカー。

晋州の夜は、また赤と青の光に染まっていく。

その頃。

晋州市内の、ある映画撮影現場。

数十台の照明とカメラが、セットを照らしていた。

さっきの爆発とはまるで別の世界のように、そこは明るく、整っていた。

「カット! オーケー!」

監督の声とともに、現場の緊張がほどけた。

スタッフたちが拍手を送る。

撮影の中心に立っていた男が、ゆっくりと顔を上げた。

少し前、地下駐車場で子どもを救った男だった。

彼が帽子を脱ぐと、顔が現れた。

ソ・ジヌ。

韓国中に愛される俳優。

カメラの前では、誰よりも柔らかく、誰よりも鮮やかな顔を持つ男。

スタッフたちが声をかける。

「お疲れさまでした!」

ジヌは慣れた微笑みで頭を下げた。

「お疲れさまでした」

けれど。

鏡の前に立った瞬間。

その微笑みが、わずかに消えた。

ジヌは、自分の指先を見下ろした。

さっき車のドアを開けた時に感じた振動。

地下駐車場全体を包んでいた、あの不快な響き。

それは音ではなかった。

けれど、確かに聞こえた。

建物の骨の奥底から這い上がってくるような、不快な波。

ジヌは低く呟いた。

「また……聞こえた」

鏡の中の彼の目が、静かに沈んだ。

彼は普通の人間ではなかった。

けれど、まだ。

そのことを誰かに話すつもりはなかった。


著:ジンファ・ジンギョン

(姉妹による共著)


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