第七話 次はもっと大きい
夜だった。
けれど、晋州の街は眠っていなかった。
サイレンが鳴っていた。
一方向ではない。
東から。
西から。
遠くから。
すぐ近くから。
いくつもの音が重なり、ほどけ、また重なっていく。
まるで街全体が、見えない包囲網に閉じ込められているようだった。
祭りの余熱は、もう消えかけていた。
代わりに街を満たしていたのは、湿った緊張だった。
小さな火花ひとつで、すべてが弾け飛びそうな空気。
ジュンはハンドルを握ったまま、前だけを見ていた。
信号が変わるたび、車は止まった。
進んでは止まり、また進む。
その間にも、窓の外では救急車の赤い光がビルの壁をなめるように流れていった。
後部座席で、ハナは腕を組んでいた。
落ち着いているように見えた。
けれど、指先だけが落ち着きなく肘を叩いていた。
ナラは目を閉じていた。
眠っているのではない。
街の感情を読んでいた。
いや、読もうとしていた。
「おかしくないか」
ジュンが沈黙を破った。
「これまでの事件は、全部、人が密集した場所で起きている。感情が限界まで膨らんだ瞬間を狙って、火をつけている」
ハナが窓から目を離した。
「条件を作ってるんですね」
「そうだ」
ジュンの声は低かった。
「混乱を最大化して、統制を無力化する。人を凶器に変えるには、いちばん効率がいい」
「でも、それだけじゃない」
ナラが目を開けた。
その顔は青ざめていた。
「街の感情が……薄い」
ハナが振り返った。
「薄い?」
「怒りも、恐怖も、あるはずなのに」
ナラは胸元を押さえた。
「全部、平らに押しつぶされてる。静かすぎるの。これは平和じゃない」
一拍。
「爆発の前に、周りの音だけ全部消したみたいな静けさ」
その瞬間、ジュンが急ブレーキを踏んだ。
車が大きく揺れた。
目の前には、大型ショッピングモールがあった。
週末の夜。
明るい照明。
軽やかな音楽。
家族連れ。
カップル。
買い物袋を抱えた人々。
何も知らない人たちが、いつも通りの夜を歩いていた。
だからこそ、気味が悪かった。
ナラは唇を噛んだ。
「ここです」
ジュンはすぐに車を降りた。
「行くぞ」
三人は人波を割ってモールの中へ入った。
中は明るすぎた。
白い床に照明が反射し、吹き抜けの天井から流れる音楽が妙に軽かった。
その明るさの中で、ナラの顔だけがこわばっていた。
「おかしい」
「何が?」
ハナが聞いた。
「みんな、落ち着きすぎてる」
ナラは周囲を見回した。
「買い物をしてる。笑ってる。歩いてる。でも感情が……整いすぎてる」
「整いすぎてる?」
「誰かが空気を撫でつけてるみたい。ざわめきがあるのに、乱れがない」
ジュンの目が鋭くなった。
「意図的に抑えている?」
ナラが頷きかけた、その時だった。
黒いバッグを抱えた男が、三人の横をすり抜けた。
速い。
だが走ってはいない。
焦っているわけでもない。
人を避ける動きに迷いがなく、目的地だけを見ていた。
二十代後半。
黒い帽子を深くかぶり、バッグを胸に抱えている。
その足は、地下駐車場へ向かっていた。
ハナの背筋が冷えた。
「ジュン刑事」
ジュンはすでに動いていた。
「止まれ!」
声が響いた。
男は振り返らなかった。
次の瞬間、走り出した。
人々の悲鳴が上がった。
男はエスカレーターの横をすり抜け、階段へ飛び込んだ。
ジュンが追う。
ハナも続いた。
ナラは一瞬遅れて走り出した。
階段に足音が叩きつけられる。
一段。
二段。
三段。
男は速かった。
けれど、必死ではなかった。
逃げているのに、慌てていない。
その背中には、生き延びたい人間の焦りがなかった。
あるのは、決められた場所へ向かう静かな確信だけだった。
「止まれ!」
ジュンの声が地下へ落ちていく。
男は地下駐車場の入口で、ふいに足を止めた。
冷たいコンクリートの匂いがした。
湿った空気。
排気ガス。
点滅する蛍光灯。
男はゆっくり振り返った。
そして笑った。
「遅かった」
黒いバッグが床に置かれた。
ピッ——。
鋭い電子音が鳴った。
ハナの頭の中に、赤い光が爆ぜた。
炎。
車の列。
天井から落ちる破片。
走る人々。
泣き叫ぶ子ども。
そして、ショッピングモール全体を飲み込む黒い煙。
「今!」
ハナが叫んだ。
「止めて!」
ジュンは迷わなかった。
男の膝を蹴り払うと同時に、バッグを思いきり蹴り飛ばした。
黒いバッグが床を滑り、車止めの向こうへ飛んだ。
次の瞬間。
ドン——!
鈍い爆音。
小さな爆発。
白い煙が一気に広がった。
車の警報音が鳴り響いた。
人々の悲鳴が遅れて爆発する。
だが、炎は広がらなかった。
連鎖は止まった。
ジュンは男を床に押さえつけた。
「動くな」
手錠が鳴った。
男は抵抗しなかった。
むしろ、笑っていた。
床に頬を押しつけられたまま、薄く笑っていた。
「これで……終わりだと思うのか」
ジュンの手に力が入った。
「何をした」
男は目だけでジュンを見た。
「始まりにすぎない」
その瞬間、ジュンの無線機が鳴った。
ノイズ混じりの声。
—二キロ先の大型スーパーでガス漏れ通報。避難誘導中。爆発の危険あり。
ハナの顔から血の気が引いた。
「同時に……?」
男の笑みが深くなった。
「どこに行く?」
男が囁いた。
「ここか。あそこか。それとも、次か」
ハナが歯を食いしばった。
「私たちを分断するつもりだ」
ジュンは一瞬だけ目を閉じた。
迷っている時間はなかった。
「ナラ」
ナラが顔を上げた。
「君はここに残れ。こいつを見張りながら、応援を待つんだ」
ナラの手が震えた。
「私が……?」
「無理はするな。絶対に一人で動くな」
ジュンの声は厳しかった。
けれど、その奥に心配があった。
ハナがナラの手を握った。
「すぐ戻る」
ナラは頷いた。
声は出なかった。
ジュンとハナが駐車場を駆け出した。
車のエンジン音が響く。
タイヤが床をこすり、鋭い音を立てた。
そして。
音が遠ざかった。
残されたのは、点滅する蛍光灯の音だけだった。
ジジッ。
ジジジッ。
白い光が揺れる。
煙はまだ完全には消えていなかった。
湿ったコンクリートの匂いが肺にまとわりつく。
床には手錠をかけられた男がいる。
男は笑っていなかった。
ただ、横たわったまま天井を見ていた。
ナラは一歩、後ろへ下がった。
怖い。
はっきりと、そう思った。
でも目は逸らさなかった。
その時。
背後で足音がした。
コツ。
コツ。
コツ。
ゆっくり。
一定の間隔で。
ナラは振り返った。
点滅する蛍光灯の向こうに、人影が立っていた。
背が高い。
肩幅が広い。
黒いコート。
動きに、揺れがない。
まるで最初からそこにいたものが、ようやく姿を現したようだった。
「一人か」
低い声だった。
柔らかい声だった。
その柔らかさが、かえってナラの心臓を凍らせた。
ナラは本能的に感覚を伸ばした。
読む。
相手の感情を。
恐怖。
怒り。
殺意。
憎しみ。
何かがあるはずだった。
けれど。
何もなかった。
空白。
だが、それはこれまで触れてきた空白とは違った。
壊れて空いた穴ではない。
失って空になった器でもない。
これは、閉じている。
感情の扉を、自分の意思で完全に閉ざした人間の空白だった。
訓練された静けさ。
鋼鉄のような無音。
男は一歩近づいた。
ナラは動けなかった。
「読もうとしたな」
男が言った。
ナラの喉が固まった。
男は微笑んだ。
感情のない笑みだった。
「面白い」
彼はさらに近づいた。
「怖がらなくていい」
優しい声だった。
だからこそ、ぞっとした。
「まだ、ここでお前が死ぬ予定はない」
まだ。
その一言が、蛍光灯の光より鋭く闇を裂いた。
ナラは壁を背にした。
逃げ場はなかった。
前には男。
後ろには冷たいコンクリート。
床には手錠の男。
点滅する光の中で、男の顔が明るくなり、消え、また浮かび上がった。
これはテロじゃない。
ナラは悟った。
これは、狩りだ。
自分たちを狙った、精密な狩り。
蛍光灯がまた点滅した。
暗くなる。
明るくなる。
男は動かなかった。
ただ見ていた。
ナラは震えそうになる膝に力を込めた。
揺れるな。
目を逸らすな。
ハナ。
早く。
著:ジンファ・ジンギョン
(姉妹による共著)




