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第六話 線を越える瞬間

警察署を出たあとも、ナラの指先はまだ震えていた。

あの男の空腹。

あの男の孤独。

誰にも届かなかった叫び。

それらはまだ、ナラの胸の奥に残っていた。

けれど、立ち止まっている時間はなかった。

電気設備の担当者名簿から、怪しい人物が浮かび上がった。

その人物が最後に向かったのは、南江( ナムガン)

の向こう側にある行事支援区域だった。

ジュンはすぐに動いた。

ハナとナラも、その後を追った。

そして三人は、祭りの人波がもっとも激しく押し寄せる仮設の浮橋の前にたどり着いた。


橋が、揺れていた。

最初は、小さな揺れだった。

足の裏に伝わる、わずかな沈み込み。

それが一歩ごとに大きくなっていく。

ぎしり。

ぎしり。

プラスチックのポンツーンの上に敷かれた板が、人の重みにきしんでいた。

板と板の隙間から、黒い川面が見えた。

夜の南江は、光を飲み込むように暗かった。

「押すなよ!」

誰かが怒鳴った。

その声に、別の誰かが反応した。

「そっちが押してるんだろ!」

怒鳴り声が、また別の怒鳴り声を呼んだ。

橋の上の空気が、急に狭くなった。

息がしづらい。

寒いはずなのに、人の熱と湿った息がまとわりついてくる。

祭りの熱気ではなかった。

もっと粘り気のある、嫌なものだった。

ナラが足を止めた。

「……変」

ハナがすぐに振り返った。

「何?」

ナラは答えようとした。

けれど、言葉が喉で止まった。

感情が多すぎた。

苛立ち。

恐怖。

焦り。

怒り。

それらが人から人へ、火花のように飛び移っている。

自然なざわめきではなかった。

誰かが、見えない針で人々の神経を突いている。

そんな感じがした。

「ナラ?」

ハナがもう一度呼んだ。

ナラは唇を震わせた。

「誰かが……煽ってる」

「煽ってる?」

「単純な苛立ちじゃない。橋がひっくり返るとか、後ろから誰かに押されてるとか……そういう恐怖が広がってる」

ナラの目が、人波の奥へ向いた。

「しかも、方向が一定すぎる。誰かが意図的に、人の神経を逆撫でしてる」

その瞬間。

ハナの視界が、白く弾けた。

音が消えた。

見えたのは、ほんの一瞬だった。

小さな手。

老人の腕にしがみつく子ども。

濡れた板の端。

滑る足。

伸ばした手が、空を掴む。

そして。

黒い水。

ハナの喉から声が飛び出した。

「走って!」

ジュンが先に動いた。

人波を割るように前へ出る。

「警察です! 道を開けてください!」

だが、誰もまともに聞いていなかった。

声は怒号に飲まれた。

誰かの肩がハナにぶつかった。

誰かの肘がナラの胸をかすめた。

橋が大きく沈んだ。

きゃあっ、と女の悲鳴が上がる。

その悲鳴が、さらに人々を押し出した。

「落ちる!」

「前に行け!」

「押すなって!」

すべてが一気に崩れ始めていた。

橋の端。

老人がいた。

胸に小さな子どもを抱いている。

子どもは声も出せず、老人の服を握りしめていた。

老人の片足は、もう板の端にかかっていた。

その背後で、大柄な男が目を血走らせていた。

「どけよ!」

男の手が、老人の背中に伸びる。

ハナは息を呑んだ。

間に合わない。

「やめて!」

ハナが老人の腕を掴んだ。

同時に、男の手が老人の肩を押した。

ぐらり。

老人の体が外へ傾いた。

子どもの靴が宙に浮いた。

ハナは全身の力で老人を引き戻した。

腕が抜けそうに痛んだ。

「ジュン刑事!」

ジュンが男の腕を掴んだ。

だが、男は暴れた。

「邪魔するな! 俺が落ちるだろ!」

その声は怒りというより、悲鳴に近かった。

ナラは男を見た。

男の感情が膨れ上がっている。

本来の大きさではなかった。

誰かに空気を送り込まれた風船のように、異様に膨らんでいた。

理不尽さ。

苛立ち。

そしてその底にある、毒のような自己憐憫。

なぜ俺だけが損をしなければならない。

なぜ俺が我慢しなければならない。

なぜ俺が押しのけられなければならない。

だが、それは彼本来の感情ではなかった。

外から注入されたものだった。

誰かが、意図的に育てたものだった。

このままでは破裂する。

そして、その破片が誰かを殺す。

ナラは一歩踏み出した。

「ナラ、だめ!」

ハナの声が聞こえた。

でも、ナラは止まれなかった。

読むだけでは、もう間に合わない。

男の肩に手を置いた。

その瞬間。

世界が歪んだ。

男の怒りが流れ込んできた。

熱い。

うるさい。

苦しい。

けれど、それは本物の熱ではなかった。

誰かに焚きつけられた、空っぽの炎だった。

ナラは歯を食いしばった。

この怒りは、この人のものじゃない。

でも。

この人が今、誰かを殺そうとしているのは事実だ。

ナラの視線が、老人へ向いた。

震える腕。

子どもを抱きしめる細い指。

落ちれば終わると知っている目。

その恐怖が、ナラの胸に流れ込んできた。

冷たい。

深い。

黒い水の底へ引きずり込まれるような恐怖。

ナラは男の肩を掴む手に力を込めた。

そして、心の中で低く呟いた。

「……あなたも、味わってみて。自分が撒き散らした地獄を」


欄干のない縁。

足元の黒い水。

腕の中の子どもの重さ。

指先から力が抜けていく絶望。

落ちれば終わるという、原始的な恐怖。

それを、そのまま男の魂へ叩きつけた。

「ぐっ……!」

男が後ろへ弾けた。

見えない壁にぶつかったように、橋の上へ尻もちをついた。

その目から、怒りが消えていた。

残ったのは恐怖だった。

そして、自分が何をしようとしていたのかを理解した人間の顔だった。

「俺……」

男の唇が震えた。

「俺、何を……」

彼は老人を見た。

そして、その腕の中の子どもを見た。

「すみません」

声が割れた。

「俺……俺は、何を……」

男の謝罪とともに、橋の上の空気が変わった。

誰かが泣き出した。

誰かが隣の人を支えた。

さっきまで怒鳴っていた声が、ひとつずつ消えていく。

橋はまだ揺れていた。

けれど、人々の中にあった狂気の波は、ようやく引き始めていた。

ナラは、橋の真ん中に座り込んだ。

足に力が入らなかった。

震える手を、膝の上で見つめた。

涙が、頬を伝っていた。

自分のものではない感情の残骸が、胸の中に散らばっていた。

ハナが隣にしゃがみ、ナラを抱いた。

何も言わなかった。

ただ、抱いた。

しばらくして、ナラがゆっくり口を開いた。

「……人の心を強制的に変えるって」

声が震えていた。

「本当に、恐ろしいことだと思った」

ハナはナラの背を抱いたまま、静かに言った。

「あの男は、増幅された感情に操られてただけ。あなたがしたのは、その偽物を剥がしただけよ」

ナラは小さく首を振った。

「でも……」

ナラは自分の手を見下ろした。

まだ残っている。

男の怒り。

老人の恐怖。

そして、自分がそれを押し返した瞬間の感触。

「今、私がしたことは……他人の魂に踏み込むことだった」

たとえ理由があっても。

たとえ誰かを救うためでも。

線を越えた。

その感触が、手のひらに残っていた。

ジュンが二人の前に立った。

その表情は、いつもより複雑だった。

「ナラ」

低い声だった。

「その力は、両刃の剣だ」

一呼吸置いて、ジュンは続けた。

「人を救うこともできる。だが、制御を失えば、君自身が怪物になる」

空気が、張り詰めた。

ハナがジュンをまっすぐ見た。

「わかってます」

その声は揺れなかった。

「だから、私がそばにいます。ナラが道を見失わないように」

ジュンはしばらく、二人を見つめていた。

何かを測るように。

何かを確かめるように。

それから、無線機を手に取った。

「手がかりが出た。行事の支援スタッフの一人だ。昨日捕まえた男と、同じ秘密コミュニティにアクセスした形跡がある」

ハナの目が、鋭く光った。

「そのコミュニティの名前は?」

短い沈黙のあと、ジュンが答えた。

「消された者たちの避難所」

ナラの指先が、かすかに震えた。

その名前を聞いた瞬間、橋の上に残っていた感情の残響が、胸の奥で低く疼いた。

怒り。

孤独。

そして、救われたかった誰かの叫び。

ハナが低く言った。

「そこに、いるんですね」

ジュンは静かに頷いた。

「おそらくな」

黒い川面の上を、冷たい風が渡っていった。

ナラは自分の手を見下ろした。

さっき、他人の心に踏み込んだ手。

その感触はまだ消えていなかった。

一線を越えた。

けれど、戻ることはできない。

もう、彼らの声を聞いてしまったのだから。


著:ジンファ・ジンギョン

(姉妹による共著)


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