第五話 他人の一日
警察署の長い廊下は、静まり返っていた。
一定の間隔で天井に埋め込まれた蛍光灯は、明るすぎるほど白く、かえって冷たく非現実的に見えた。
人が通るたび、革靴の踵が硬い床を打つ音だけが、鋭い響きとなって廊下の端まで届いた。
昨夜、赤い灯籠の光が揺れ、人々の悲鳴が入り混じっていた南江の川辺とは、完全に切り離された別世界のようだった。
ハナとナラは、取調室の扉の横にある冷たい壁にもたれて立っていた。
二人とも一睡もしていないせいで、顔には濃い疲労の色が浮かんでいた。
ハナは腕を組んだまま、固く閉ざされた取調室の扉を見つめていた。
頭の中では、昨夜の断片が絶えず組み合わされていた。
次の手がかりを見つけるための計算が、休むことなく回り続けている。
「あの人の口から、もう少し何か出てくればいいんだけど」
ハナの低い声が、廊下の静寂を破った。
その目にあるのは焦りではなく、明確な目的へ向かう意志だった。
「組織の実態でも、次の標的でも……何か手がかりがなければ、こっちは先に動けない」
ナラはぼんやりと宙を見つめたまま答えた。
「ジュン刑事が、できる限りのことはしてくれてるはずよ」
「一人じゃ限界がある。法と手続きを踏む正式なルートじゃ、時間がかかりすぎる」
ハナの言葉に、ナラが顔を向けた。
「別の方法って?」
「まだわからない。でも、ここでただ結果を待ってるだけなんて、私の性に合わない」
ハナが腕を解いて立ち上がろうとした、その瞬間だった。
ナラが突然、ハナの腕を掴んだ。
「……おかしい」
ナラの視線は、すでに取調室の扉に固定されていた。
瞳が、かすかに震えている。
「何が? また何か感じるの?」
「何も感じない」
ナラの声に、言いようのない不安が滲んだ。
「恐怖も、後悔も、自分を守ろうとする最低限の抵抗すら感じない。普通の人なら、こういう状況で不安や圧迫感を感じるはずなのに、あの人にはそれがまったくない」
ハナが眉をひそめた。
「何もないって、どういう感じなの?」
「すべてを手放した人の空洞」
ナラの声が、少し硬くなった。
「体はここにあるのに、その中の魂は……もうとっくに死んでしまったみたいな、ひどい空洞」
その言葉が終わった瞬間、重い鉄の扉が開く音が廊下に響いた。
手錠をかけられた男が、警察官に連れられて出てきた。
両脇を警察官に固められているにもかかわらず、男は抵抗ひとつしなかった。
ただ、ゆっくりと足を動かしていた。
うつむいたまま廊下を歩いていた男が、ハナとナラの前を通り過ぎる瞬間、ゆっくりと顔を上げた。
そして、笑った。
口の端だけを機械的に引き上げた、感情のない笑みだった。
その虚ろな笑みが、ナラの目と正面からぶつかった瞬間。
波が来た。
津波のように。
ナラの全身を貫く、感情の嵐だった。
それは、ただ一人の感情ではなかった。
長い年月ではなかった。
けれど、一人の人間を壊すには十分すぎる時間だった。
その短い歳月の中で、濃く、重く積もってしまった孤独。
誰にも届かなかった怒り。
若さごと削り取られたあとに残った、空虚の塊。
それらが一斉に、ナラの胸を殴りつけた。
「うっ……!」
ナラが胸を押さえ、よろめいた。
「ナラ! ちょっと、どうしたの!」
ハナが慌てて駆け寄り、ナラの腕を支えた。
けれど、ナラの視界はすでに現実を離れ、激しく歪み始めていた。
次に目を開けたとき、ナラはもう警察署の廊下にはいなかった。
狭い部屋だった。
天井の隅にはカビが広がり、湿った空気の中には、染みついた生活臭とカビの匂いが濃く漂っていた。
体が重かった。
石のように重かった。
震える視線で、自分の手を見下ろした。
それは、ナラの手ではなかった。
節くれ立ち、荒れ、指先には古い傷とひび割れが刻まれていた。
何度も裂け、何度も血が滲み、それでも誰にも差し出されなかった手。
ナラは今、この男が生きてきた人生の一片の中に落ちていた。
壁に掛かったひび割れた鏡の中に、ひとりの青年が映っていた。
二十四歳。
そのはずだった。
けれど、その顔は年齢よりもずっと老けて見えた。
目の下は深く落ちくぼみ、頬骨は鋭く浮き上がっていた。
長いあいだまともに食事をしていない人間の顔だった。
貧しさと孤独と、誰にも助けを求められなかった時間が、彼から若さだけを先に奪ってしまったようだった。
扉の外から、隣人たちの尖った声が壁を伝って染み込んできた。
「また、あの家?」
「本当に迷惑よね」
「臭いもひどいし……」
男は、それを聞いていた。
けれど、何も返さなかった。
罵りも、嫌悪も、彼にとっては日常だった。
男は何の表情もなく立ち上がり、機械のように扉を開けて外へ出た。
街は平和だった。
けれど、男が通るたび、人々はまるで病を避けるように足をずらした。
「またあの人だ」
すれ違いざまに聞こえた声が、耳を打った。
誰も彼を正面から見ようとはしなかった。
彼はそこに存在していた。
けれど同時に、存在していないもののように扱われていた。
透明な幽霊のように。
コンビニの前で、男は足を止めた。
ガラス越しに、温かい弁当が並んでいた。
男はポケットに手を入れた。
空だった。
何もなかった。
男はゆっくりと背を向けた。
「……腹が減った」
無意識にこぼれたその一言を、聞いてくれる人は世界のどこにもいなかった。
その瞬間。
男の奥深くに沈んでいた悲しみが、ナラへ直接流れ込んできた。
過去のニュース映像が、乱れながら目の前をよぎった。
事故で失われた家族。
その悲劇を歪め、面白おかしく語る無責任な声。
「助けてくれって言ったじゃないか」
男は叫んでいた。
「聞いてくれって、言ったじゃないか!」
けれど、世界は耳を塞いだ。
彼は何も悪いことをしていなかった。
ただ貧しかった。
ただ弱かった。
それだけの理由で、彼は少しずつ世界から消されていった。
暗い部屋の中。
ひとり膝を抱え、涙を拭う男の記憶が、ナラの胸を引き裂いた。
「俺たちはただ……ただ普通に、生きたかっただけなのに……」
その絶叫が、ナラの魂の芯まで突き刺さった。
「ナラ! しっかりして、ナラ!」
ハナの必死な声が、遠くから落ちてきた。
ナラの目が、はっと開いた。
そこは再び、警察署の冷たい廊下だった。
ナラの頬を、熱い涙が伝っていた。
息は喉の奥で詰まり、全身はひどい悪寒に襲われたように震えていた。
ハナはナラの両腕を掴み、青ざめた顔を覗き込んでいた。
「何……今の。いったい何を見たの?」
ナラは震える手で顔を覆い、ようやく口を開いた。
「見たの……あの人の人生を」
声がかすれていた。
「あの地獄みたいな時間を、全部……」
いつの間にか、ジュンが二人のそばに来ていた。
「人生を見た、とはどういう意味だ」
ナラは顔を上げてジュンを見た。
その目には、さっきまでとは違う深い憐れみと怒りが宿っていた。
「あの人……怪物じゃありません」
ゆっくりと言った。
「世界に徹底的に壊されて、孤立して、最後には魂まで消されてしまった……哀れな人です」
空気が重く沈んだ。
ジュンは沈痛な表情で答えた。
「それでも、罪のない多くの人間を死なせかけた」
「わかっています。あの人の罪が消えるわけじゃない。でも……」
ナラは言葉を続けられなかった。
男の空腹が、まだ自分の胃の中に残っていた。
誰にも聞かれなかった叫びが、まだ自分の喉の奥で震えていた。
そのとき、ハナが低く、けれどはっきりとした声で口を開いた。
「ナラ」
ハナはナラをまっすぐ見つめた。
「ナラが感じたものが何かは、わかる。あの人がどれだけ本当に壊れていたのかも」
短い間があった。
「でも、だからこそ私はもっと腹が立つ」
ナラがハナを見た。
「……どういうこと?」
「あの人の傷を利用して、破滅へ導いた奴らのことよ」
ハナの目は、冷たい怒りに燃えていた。
「崖っぷちに立っている人間に近づいて、『世界がお前を捨てたんだから、お前も世界を壊せ』って囁いた。復讐の道具として使い捨てた」
ハナは拳を握りしめた。
「あの人の後ろに隠れて笑っている奴らが、本当の悪魔よ」
ナラは黙っていた。
ハナの怒りは、ナラの憐れみとぶつかるものではなかった。
むしろ、同じ場所を指していた。
「憐れむからこそ、止めなきゃいけない」
ハナの声が、さらに低くなった。
「あの人みたいな消耗品が、これ以上生まれないように」
「その汚い構造を、壊さなきゃいけない」
ナラはハナの目を見つめた。
そして、ゆっくりと頷いた。
ナラはようやく気づいた。
自分の力が、ただ感情を読む段階を越え始めていることに。
感情の共鳴が極限まで深まれば、その人が歩いてきた時間そのものを受け取ってしまう。
人生の断片を。
記憶を。
痛みを。
そしてその代償は、自分の魂が削られるのと同じくらい重い。
それでも、真実に触れるためには避けられない道なのだと、ナラは直感していた。
「あの人たちが、自分たちを呼ぶ名前があります」
ナラは唇を噛みながら言った。
「感情の奥深くに刻まれた、ひどい恨みのこもった名前……」
短い沈黙。
「消された者たち」
ジュンの目が鋭く光った。
「消された者たち……か」
「ジュン刑事」
ハナが壁から体を離した。
「今すぐ動かないと。どこから始めますか?」
ジュンはしばらく双子を見つめていた。
そして、決意したように口を開いた。
「電気設備の担当者名簿から、怪しい人物を見つけた」
「誰ですか?」
「行事の二日前、突然投入された新人だ」
ハナの表情が変わった。
「その人が共犯の可能性が高いですね」
「そうだ」
ジュンは短く答えた。
「身元確認から始める。一緒に来るか」
ハナとナラは同時に頷いた。
「もう始まってますから」
三人は廊下を横切り、外へ向かった。
ハナは迷わず先を歩いた。
ナラはまだ消えない他人の痛みを、静かに抱えながら、その後に続いた。
もう、この戦いは単なる事件解決ではなかった。
消された者たちの人生を取り戻し、彼らを利用してきた大きな悪へ向けた宣戦布告だった。
著:ジンファ・ジンギョン
(姉妹による共著)




