第五話 他人の一日
男は何も話さなかった。
取調室の扉の向こうでは、低い声で何度も質問が繰り返されていた。
けれど、返ってくるのは沈黙だけだった。
ハナとナラは、廊下の壁にもたれて立っていた。
明るすぎる蛍光灯の下を、警察官たちが行き交っている。
靴音が床を叩くたび、硬い音が長い廊下の先まで響いた。
ハナは固く閉ざされた取調室の扉を見つめた。
「あの人の口から、何か出てくればいいんだけど」
ナラは答えなかった。
昨日、路地で見た男の目が何度も浮かんでくる。
――もう死んでる。
そして、そのあとに続いた言葉。
――俺たちは。
「組織の正体でも、次の標的でもいい。何か分からないと、先に動けない」
「ジュン刑事が聞き出してくれるよ」
「あの人一人じゃ限界がある」
ハナは壁から背を離した。
「法律や手続きは待ってくれるけど、あの人たちは待ってくれない気がする」
ナラにも分かっていた。
けれど、ほかに何ができるのかは分からなかった。
もう一度、取調室の扉を見る。
扉一枚を隔てた向こうに、男がいる。
昨日と同じだった。
これほど近くにいるのに、何も感じない。
空っぽのような――
あの空白。
そのときだった。
ガチャッ。
取調室の扉が開いた。
ハナとナラが同時に顔を上げた。
手錠をかけられた男が、二人の警察官に挟まれて出てきた。
昨日の作業服ではなかった。
服はしわだらけで、髪も乱れている。
それなのに、不自然なほど穏やかだった。
俯いたまま廊下を歩いていた男が、二人の前を通り過ぎる。
一歩。
二歩。
そして、止まった。
男がゆっくりと顔を上げる。
ナラと目が合った。
笑った。
口元が、ほんの少しだけ上がった。
昨日と同じ笑みだった。
その瞬間――
ナラの息が止まった。
何もなかったんじゃない。
多すぎたのだ。
一気に押し寄せてきた感情が、ナラの胸を殴りつけた。
孤独。
怒り。
屈辱。
飢え。
そして――
どれだけ叫んでも、誰一人振り向いてくれないときに生まれる絶望。
「うっ……!」
ナラが胸を押さえた。
「ナラ?」
ハナが慌てて腕を掴む。
けれど、もう遅かった。
廊下の蛍光灯が長く伸びた。
人々の顔が歪んでいく。
ハナの声が、遠くへ押し流されていった。
「ナラ!」
世界が反転した。
最初に入ってきたのは、匂いだった。
湿ったカビの匂い。
いつまでも乾かない洗濯物と、古い食べ物の匂いが混じっている。
ナラは目を開けた。
知らない部屋だった。
天井の隅には黒いカビが広がっていた。
壁紙はところどころ浮き、小さな窓には古い新聞紙が貼られている。
寒かった。
ナラは無意識に両手を擦り合わせた。
そして、止まった。
自分の手ではなかった。
手の甲は荒れていた。
節は太く、指先には古い傷がいくつも重なっている。
ナラは息を呑んだ。
壁に、ひび割れた鏡が掛かっていた。
鏡の中に男が立っていた。
昨日、捕まったあの男。
今より少し若い。
そして、ずっと痩せていた。
目の下は落ちくぼみ、長い間まともに食べていない人間のように頬がこけている。
ナラは動かなかった。
いや。
動けなかった。
男が動けば、自分も動いた。
男が息をすれば、ナラの肺も動いた。
男が寒さを感じれば、ナラの指先まで冷えた。
これは幻視ではない。
記憶だった。
男が扉を開けた。
「また、あの部屋?」
廊下のどこかから声がした。
「臭い、どうにかしてほしいよね。ほんとに」
足音が遠ざかっていった。
男は何も言わなかった。
俯いたまま階段を下りた。
外は晴れていた。
陽射しが眩しかった。
人々が行き交っている。
男はその中を歩いた。
誰かが彼を見て、そっと道を空けた。
別の誰かは、目が合う前に顔を背けた。
男はコンビニの前で立ち止まった。
ガラス越しに、弁当がずらりと並んでいる。
曇った透明の蓋の下に、白いご飯と肉が見えた。
男は長いあいだ、それを見つめていた。
手がポケットに入る。
硬貨が二枚。
それだけだった。
扉は開かなかった。
男はまた歩き出した。
「腹減ったな」
誰に向けた言葉でもなかった。
だから、誰も答えなかった。
ナラの胸が痛んだ。
男の空腹が、自分のものだった。
冷たい風が入り込む薄い服も。
人に避けられるたび、何でもないふりをして俯く癖も。
すべてがナラのものになっていた。
景色が揺れた。
今度は、小さな部屋の中だった。
古いテレビがついている。
画面の下をニュースの字幕が流れていた。
事故。
死亡者。
遺族。
男が画面へ近づいた。
手が震えていた。
画面に、一枚の写真が映った。
その瞬間――
息ができなくなった。
家族だった。
ナラの知らない顔なのに、分かった。
この男が愛していた人たちだった。
途切れたフィルムのように、いくつもの場面が過ぎていった。
人々の前で何かを必死に説明する男。
書類を抱えて役所の廊下に立つ男。
カメラの前で泣きながら訴える男。
誰かに腕を掴まれ、外へ連れ出される男。
そして、声が枯れるまで叫ぶ声。
「俺たちの話を聞いてください!」
誰も立ち止まらなかった。
「一度だけでいい……」
人々が通り過ぎていく。
「お願いします」
カメラが止まった。
扉が閉まった。
男だけが残った。
暗い部屋。
明かりすらつけなかった。
男は床に座っていた。
長いあいだ、何の音も立てなかった。
やがて、ごく小さな声で言った。
「俺たちは、ただ……」
声が掠れた。
「普通に生きたかっただけなのに」
ナラの目から涙がこぼれた。
男の涙なのか。
自分の涙なのか。
もう分からなかった。
そのときだった。
暗闇の中から、誰かの声が聞こえた。
顔は見えない。
一本の手が、男へ差し出された。
そして――
ひとつの感情が、あまりにも鮮明に流れ込んできた。
初めて誰かが自分の話を聞いてくれた。
その安堵。
男は、その手を取った。
その瞬間、ひとつの言葉がナラの頭に焼きついた。
名前だった。
何度も何度も繰り返され、
今では感情のように深く刻まれた名前。
――消された人々。
「ナラ!」
目を開けた。
冷たい蛍光灯。
白い壁。
警察署の廊下だった。
ハナがナラの両腕を掴んでいる。
「しっかりして。私が見える?」
ナラは息を吸い込んだ。
肺が裂けそうに痛かった。
頬が濡れている。
男はすでに廊下の先へ連れていかれていた。
ナラはその背中を見つめた。
ついさっきまで自分のものだった、荒れた手。
飢え。
寒さ。
誰にも聞いてもらえなかった声。
そのすべてが、まだ身体の中に残っていた。
「見たの」
ナラがようやく言った。
「何を?」
「あの人」
ハナがナラの顔を覗き込む。
「あの人の……記憶」
「記憶?」
いつの間にか、ジュンもそばに来ていた。
ナラは壁に身体を預けた。
「あの人の中に入ったんです」
ジュンの表情が固まった。
「どういう意味だ?」
「分かりません。私も初めてだから」
ナラは震える手を見下ろした。
「あの人が生きた一日を、私が生きたんです」
しばらく、誰も口を開かなかった。
ナラは目を閉じた。
コンビニのガラスが浮かんだ。
二枚の硬貨。
古いテレビ。
消えるカメラ。
そして、暗闇の中から差し出された手。
「あの人……最初からああだったわけじゃない」
ジュンが低い声で言った。
「それでも、罪のない人たちを殺しかけた」
「分かってます」
ナラはすぐに答えた。
「許そうって言ってるんじゃありません」
声が少し震えた。
「でも、誰かがあの人のところへ来たんです」
ハナの目つきが変わった。
「いつ?」
「分からない。顔も見えなかった」
ナラは首を横に振った。
「ただ……誰も自分の話を聞いてくれなかったとき。世界に一人きりだと思っていたとき」
ハナはしばらく黙っていた。
やがて、廊下の先を見る。
男が消えた方向だった。
「そのとき、手を差し出したんだね」
ナラが頷いた。
ハナの声が冷たくなる。
「助けるために差し出した手じゃない」
ナラは妹を見た。
「うん」
「利用するために」
短い沈黙が流れた。
ナラの胸の中を、男の空腹がもう一度通り過ぎた。
ハナが言った。
「じゃあ、あの人一人を捕まえて終わる話じゃないね」
ジュンの表情も険しくなった。
「それはもう分かってる」
「違います」
ナラが言った。
二人が彼女を見る。
「名前があるんです」
「名前?」
ナラは口を開いた。
その言葉を声にした瞬間、暗闇の中で男に差し出された手が蘇った。
「消された人々」
ジュンの目つきが変わった。
「消された人々……」
そのとき、ジュンのスマートフォンが鳴った。
短い通話を終えると、その表情はさらに険しくなっていた。
「電気設備の担当者名簿を確認した」
ハナが身体を起こす。
「何か出たんですか?」
「祭りの二日前に、急に入った人間が一人いる。身元確認もきちんとされてない」
「共犯ですか?」
「まだ分からない」
ジュンが二人を見る。
「だから、確認しに行く」
ハナは迷わなかった。
「一緒に行きます」
ジュンの視線がナラへ向いた。
ナラはまだ壁にもたれていた。
身体の中には、今も他人の一日が残っていた。
飢えも。
寒さも。
誰も振り向かなかった声も。
ナラはゆっくりと壁から身体を離した。
「行きましょう」
三人は廊下を歩き出した。
ハナが先を行く。
ジュンがその後を追った。
ナラは最後に一度だけ、取調室のほうを振り返った。
扉は閉まっていた。
その前には、もう誰もいなかった。
それなのに――
ナラの手にはまだ、
あの男の空腹が残っているような気がした。




