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第四話 意図された事故

朝が来た。


昨夜、数千もの灯籠が浮かんでいた南江は、嘘のように静かだった。


流れきれなかったいくつかの灯籠が川岸に絡まり、黄色い規制線の向こうには、黒く焼け焦げたテントがぽつぽつと残っている。


祭りの痕跡はまだそこにあった。


けれど、人々の笑い声だけが消えていた。


ジュンは警察署のデスクに、三枚の写真を並べた。


人波に押され、折り重なるように倒れた人々。


炎に包まれたテント。


そして、青白い火花を散らした仮設の電気設備。


昨夜までは、三つの事故だった。


だが、今は違う。


ジュンは最後の一枚を手に取った。


切断された電線の断面を拡大した写真だった。


「チーム長」


隣の席でボールペンを回していたジュニョクが、写真をちらりと見た。


「まだ昨夜の事故を調べてるんですか?」


ジュンより二歳年下の刑事だった。


眼鏡の奥の目は鋭いが、現場の勘よりも記録と数字を先に信じるタイプだ。


「祭りで起きた事故ですよ。十万人以上が集まるイベントなんですから。あの程度なら――」


ジュンは写真を彼の前へ滑らせた。


「これも統計のうちか?」


ジュニョクのペンが止まった。


写真に写った黒い電線。


被覆が熱で溶けた跡はない。


その代わり、片方の断面が不自然なほど真っ直ぐだった。


ジュニョクが眼鏡を押し上げる。


「これ……」


「過負荷で切れたんじゃない」


ジュンの指が断面を指した。


「切られてる」


しばらく沈黙が流れた。


「鑑識の結果は?」


「まだだ」


ジュンは席を立った。


「だから、自分の目で見に行く」




ハナとナラは川沿いを歩いていた。


夜と昼の境目が、これほどはっきりしていることが不思議だった。


昨夜、人々が悲鳴を上げながら走っていた道に、朝の陽射しが降り注いでいる。


自転車で通り過ぎる人がいた。


犬を連れて散歩する人もいた。


人々が倒れた場所も。


火が出た場所も。


感電事故が起こりかけた場所も。


すべてが、何事もなかったような朝に紛れ込んでいた。


「眠れなかったでしょ」


ナラが言った。


「そっちも寝てないじゃん」


「それでも聞くの」


ハナが姉を見る。


「なんで?」


「知ってることと、ハナの口から聞くことは違うから」


ハナがふっと笑った。


「会話って、そういうもの?」


「うん」


しばらく、二人のあいだに沈黙が流れた。


ナラがハナの顔を覗き込む。


「また……見えた?」


ハナの笑みが消えた。


「少し」


「何が?」


「言いたくない」


ハナは川へ視線を向けた。


「言葉にすると、もっとはっきりする気がする。頭の中にあるうちはただの断片なのに、口に出した瞬間、本当に起きたことみたいになるから」


ナラは、それ以上聞かなかった。


そのとき、背後から足音がした。


「二人とも」


同時に振り返る。


ジュンだった。


昨夜とは違い、私服姿だった。


挨拶もせずに言った。


「行くぞ」


ハナが眉を上げる。


「どこへ?」


「確認したいことがある」


ナラが尋ねた。


「昨夜の電気設備?」


ジュンは一瞬、ナラを見た。


「ああ」


それ以上説明せず、先に歩き出す。


ハナとナラは顔を見合わせた。


昨夜、ジュンが言った言葉が蘇る。


――明日から、一緒に動く。


ハナが先にジュンの後を追った。


ナラも黙って歩き出した。


三人が共に動き始めた、最初の朝だった。




仮設電源エリアは、思っていたよりずっと広かった。


太いケーブルが地面を這うように複雑に伸び、ところどころに置かれた配電盤には「立入禁止」の表示が貼られていた。


「ここから先は立入禁止です!」


警備員が止めたが、ジュンが身分証を見せると、すぐに道を開けた。


三人は中へ入った。


昼間に見る電線は、昨夜とはまるで違っていた。


青白い火花も。


悲鳴も。


電気が弾ける音もない。


ただ、太い黒いケーブルが一本、地面に横たわっているだけだった。


ジュンがその前にしゃがみ込む。


「これだ」


ハナとナラも近づいた。


電線の一部が裂けている。


ハナが身をかがめた。


「切れたんですか?」


「いや」


ジュンが答えた。


「切られた」


ハナの視線が止まった。


ジュンは手袋をはめた手で、電線の端を慎重に持ち上げた。


断面は滑らかだった。


何かに押し潰されたわけでもない。


熱で溶けたわけでもない。


「まだ詳しい鑑定は出てない。ただ、自然にできた損傷じゃない可能性が高い」


ナラは切断された電線を見つめた。


昨夜感じた感覚が蘇る。


電気が身体を引き裂くような、鋭い痛み。


あれが事故ではなかったとしたら。


誰かが意図的に、ここへ残したものだったとしたら。


ハナが低く呟いた。


「じゃあ、昨夜のあれは……」


「まだ決めつけるな」


ジュンが遮った。


「疑うことと、確かめることは別だ」


その瞬間だった。


ナラが顔を上げた。


「待って」


ジュンとハナが同時に彼女を見る。


ナラの顔から、ゆっくりと血の気が引いていった。


「どうしたの?」


ハナが尋ねる。


ナラは答えなかった。


目を閉じる。


朝の川辺は穏やかだった。


遠くから人々の話し声が聞こえる。


作業員たちの短い会話。


疲労。


面倒くささ。


眠気。


そんなありふれた感情が、淡く流れてくる。


その中に、ひとつだけ異質なものが混じっていた。


冷たい。


鋭い。


息を殺すような感情。


――見つかってはいけない。


ナラの目が開いた。


「近くにいる」


ジュンの表情が固まる。


「何が?」


「人です」


ナラがゆっくりと顔を向けた。


「誰かが……見つかるのを怖がってる」


「どこだ?」


ナラの視線が施設の裏へ動いた。


建物の影が長く伸びる場所。


そこに、作業服姿の男が一人立っていた。


帽子を深くかぶり、こちらに背を向けて何かを触っている。


別の高圧ケーブルの接続部だった。


ジュンの目つきが変わった。


「おい!」


男の身体が固まる。


「そこで何してる!」


男が顔を上げた。


ほんの一瞬。


帽子の下の目が、三人を捉えた。


驚いた目ではなかった。


ジュンが一歩近づく。


「手を離して、こっちへ来い」


男はジュンを見た。


そして――


走った。


「止まれ!」


ジュンがすぐに追う。


「ハナ!」


ナラが呼ぶより早く、ハナも駆け出していた。


「一緒に動くって言ったでしょ!」


「こういう時までついて来いって意味じゃない!」


ジュンの声が前方から飛んできた。


男は塀を越え、路地へ消えた。


ジュンも続いて塀を越える。


ハナとナラもその後を追った。


狭い路地に、四人分の足音が響く。


男は速かった。


それ以上に、道を知っていた。


路地が分かれるたび、一度も迷うことなく方向を変える。


ジュンとの距離が少しずつ開いていった。


「くそっ」


ジュンが速度を上げる。


その瞬間。


ハナの視界が揺れた。


光が消える。


そして――


短い映像が走った。


急な鉄製階段。


男の靴。


錆びた手すり。


足が滑る。


身体が傾く。


ドン――。


現実に戻った。


ハナが叫んだ。


「左!」


ジュンが走りながら振り返る。


「何?」


「左の階段! あの人、そこへ行く!」


男はまだ分かれ道にすら到達していなかった。


ジュンは一瞬だけ迷った。


そして左へ方向を変えた。


数秒後。


男が路地の先に現れた。


本当に左の鉄製階段へ向かって走っていく。


ジュンの目が鋭く光った。


男が一段目を踏む。


二段目。


三段目。


そして――


足を滑らせた。


ドン!


男の身体が階段を転げ落ちた。


ジュンが飛びかかる。


男が起き上がろうとした瞬間、腕を掴み、背中側へ捻り上げた。


「動くな!」


「うっ……!」


男の頬が冷たいアスファルトへ押しつけられた。


ジュンが手錠を取り出す。


カチッ。


ようやくハナとナラが追いついた。


ハナは膝に手をつき、息を切らした。


「捕まえ……ましたね」


ジュンがハナを見る。


「言った通りだった」


「だから、これからはちゃんと聞いてください」


「昨日からちゃんと聞いてる」


ハナが笑いかけた、そのときだった。


「お姉ちゃん?」


ナラが動かなかった。


地面に押さえつけられた男を見つめている。


おかしい。


捕まった。


逃げ場もない。


手錠までかけられた。


それなのに――


何も感じない。


普通なら、恐怖があるはずだった。


動揺。


怒り。


絶望。


少なくとも、生き延びたいという本能的な抵抗。


けれど、この男には何もなかった。


静かすぎた。


ナラはゆっくりと近づいた。


「どうしたの?」


ハナが尋ねる。


ナラは答えなかった。


男が顔を動かした。


目が合う。


その瞬間、ナラの背筋を悪寒が走った。


空白。


感情がないのではない。


何かがあまりにも深く壊れてしまい、その跡に何も残っていないような空白。


まるで――


自分自身を、すでに死んだ人間だと思っているかのような。


ジュンが男の腕を押さえたまま尋ねた。


「なぜ電線をいじってた?」


答えはない。


「昨夜の電線も、お前がやったのか?」


男の口元がわずかに動いた。


笑っていた。


ジュンの目が冷たく沈む。


「何がおかしい?」


男がゆっくりと口を開いた。


「俺たちは……ただ、見せてるだけだ」


声は驚くほど穏やかだった。


「何を?」


「お前たちが積み上げたものが、どれだけ簡単に崩れるか」


ナラの指先が震えた。


男はまだ笑っていた。


「平和なんて」


男が言った。


「砂の城と同じだ」


ジュンが男の腕をさらに強く押さえる。


「大勢の人が死ぬところだった」


今度はナラが言った。


男の視線がナラへ向いた。


その目を見た瞬間、胸の奥が冷たくなる。


そこには罪悪感もなかった。


だからといって、狂気があるわけでもない。


男が小さく言った。


「もう死んでる」


ナラの息が止まった。


そして、男は続けた。


「俺たちは」


風が路地を吹き抜けた。


どこかから、パトカーのサイレンが近づいてくる。


それでもナラは動けなかった。


――俺たち。


男は一人ではない。


その事実より、もっと恐ろしいことがあった。


今、その言葉を口にした瞬間でさえ――


男からは、何の恐怖も感じられなかった。


男がパトカーに乗せられた後も、ナラはしばらくその場に立ち尽くしていた。


ハナが静かに隣へ来る。


「大丈夫?」


ナラは自分の手を見下ろした。


まだ、かすかに震えている。


「あの人……変なの」


ジュンも彼女を見る。


「何が?」


「何もないんです」


「どういう意味だ?」


ナラは男が消えた路地の先を見つめた。


「捕まったのに、怖くないんです」


少し言葉を探してから、続ける。


「自分がどうなっても構わない人みたいに」


ハナの表情が固くなる。


ナラが低く言った。


「それに、確かに『俺たち』って言いました」


三人のあいだに沈黙が落ちた。


遠く、南江の水面で朝の光が砕けていた。


昨夜の闇は、もう消えている。


それなのにナラは――


本当に始まるのは、


これからなのだと思った。

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