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第三話 偶然は二度起きない

炎は、ようやく鎮まりつつあった。


黒く焼け焦げたテントに消防の水が降り注ぎ、濡れたアスファルトから白い湯気が立ちのぼっている。


ついさっきまで人で埋め尽くされていた川辺には、ところどころ不自然な空白ができていた。


遠くで、救急車の赤いランプが回っている。


南江には、今も灯籠が浮かんでいた。


まるで、何事もなかったかのように。


ハナはその光を見つめながら、ゆっくりと息を吐いた。


人々が倒れるのも見た。


火が出るのも見た。


二度とも――起きる前に。


それなのに、完全には止められなかった。


指先がまだ震えていた。


「ハナ」


ナラが呼んだ。


ハナは答えなかった。


「あなたが止められなかったわけじゃない」


そこでようやく、ハナは姉を振り返った。


「見えてたじゃない」


低い声がかすれた。


「わかってたのに」


「だから、被害が少なくて済んだのよ」


「でも、起きた」


ナラはしばらく何も言わなかった。


何を言っても、今は妹には届かない。


そんな顔をしていた。


そのとき、二人の前に黒い影が落ちた。


「二人とも」


低く、硬い声。


さっき現場で人々を誘導していた警察官だった。


制服の片袖が黒く煤けている。


額には乾いた汗の跡が残っていたが、その目だけは少しも揺らいでいなかった。


ジュンはハナを見た。


「さっき、火が出るって言ったな」


ハナは答えなかった。


「落ちてくる前に」


彼の視線が南江のほうへ向いた。


火災を起こした灯籠の残骸が、濡れたテントの下に転がっている。


「どうしてわかった?」


「言っても、信じないでしょう」


「それは俺が決める」


ハナはジュンを見返した。


少し前までなら、説明する気にさえならなかっただろう。


だが彼の顔には、嘲笑も好奇心もなかった。


ただ、確かめようとする人間の目があった。


ナラが先に口を開いた。


「私たちにも、うまく説明できないんです」


ジュンの視線がナラへ移った。


「私は、人の感情を感じます。一人の感情というより……その場所に積もっていく感情に近いんです」


「感情を感じる?」


「はい」


ジュンの表情は変わらない。


ナラは続けた。


「さっき人が倒れ始める前、不安が一か所に集中していくのを感じました。火が出る前には、それとはまったく違う感覚が来て」


ジュンは今度はハナを見た。


「じゃあ、君は?」


ハナは少しためらった。


「見えるんです」


「何が」


「まだ起きていないことが」


短い沈黙が流れた。


周囲では消防隊員たちの声と、無線のノイズが入り混じっている。


ジュンは何も言わなかった。


ハナには、その沈黙の意味がわかる気がした。


当然だ。


自分だって、信じなかっただろう。


「もういいです」


ハナが先に背を向けた。


「無理に信じてもらわなくても」


その瞬間だった。


ナラの手が、ハナの腕をつかんだ。


指先に力がこもる。


「待って」


ハナが足を止めた。


「お姉ちゃん?」


ナラの顔から血の気が引いていた。


ジュンもそれに気づいた。


「どうした?」


ナラは答えられなかった。


胸元を押さえたまま、ゆっくりと顔を向ける。


祭り会場の端。


仮設の電気設備が集まっている一角だった。


何本ものケーブルが地面を這い、テントの裏には仮設分電盤が並んでいる。


「あっち……」


ナラの声が震えた。


「何がある?」


「わかりません」


ナラは短く息を吸った。


「さっきまでと違う」


「どう違う?」


「鋭すぎる」


ナラは自分の腕を抱いた。


まるで、本当に何かで切り裂かれたように。


「皮膚の内側を引っかかれてるみたい」


そして、かすかに付け加えた。


「電気が……身体を引き裂くみたいに」


ハナの目が大きく見開かれた。


刹那。


世界が消えた。


そして、別の光景が流れ込んできた。


青白い火花。


濡れた地面。


黒い電線が、生きた蛇のように跳ね上がる。


その横を通り過ぎようとする男。


手にしていた紙コップが落ちる。


青い閃光。


身体が硬直する。


倒れる。


ハナは目を開けた。


「ダメ」


ジュンがすぐに聞いた。


「何を見た?」


「感電です」


ハナはもう走り出していた。


「また事故が起きます!」


ジュンは一瞬、動かなかった。


だが、それは迷いではなかった。


判断だった。


ほんの数分前、この女は火が出ると言った。


そして、本当に火が出た。


ジュンは無線をつかんだ。


「仮設電源エリアを確認。異常があれば即時遮断できるようにしろ」


『現在、電気担当が確認中です』


「確認より先に、遮断の準備だ」


ジュンも走り出した。


ナラが二人のあとを追う。


冷たい夜気が頬を打った。


人のほとんどが避難した祭り会場の一角には、まだ撤収できていない露店の人間や作業員たちが残っていた。


ハナは走りながら周囲を見回した。


違う。


どこだった?


幻視の中の地面。


濡れていた。


右側に黄色いテント。


その奥に青いプラスチックケース。


そして――


紙コップ。


ハナが勢いよく顔を向けた。


一人の男が紙コップを手に歩いていた。


「すみません!」


男が振り返った。


「そこで止まって!」


「え?」


男の足が、一歩前へ出る。


ハナの心臓が沈んだ。


「動かないで!」


男が反射的に足を止めた。


そのときだった。


ジジッ。


異様な音がした。


ジュンの表情が変わった。


「全員、下がれ!」


青い閃光が弾けた。


バチッ――!


地面に伸びていた一本のケーブルが大きく跳ねた。


男の手から紙コップが落ちる。


中の水がアスファルトに広がった。


あと一歩だった。


男の顔から血の気が引いた。


「下がって!」


ハナが男の腕を引いた。


同時に、ケーブルの先端から再び青白い火花が散った。


バチッ、バチッ。


悲鳴が上がる。


「近づくな!」


ジュンが叫んだ。


「地面が濡れてる! 全員、下がれ!」


ナラが近づいてくる人々の前に立った。


「こっちに来ないでください! 下がって!」


ジュンは無線を握った。


「電源を落とせ! 今すぐ!」


『現場の確認がまだ――』


「落とせ!」


カチッ。


その瞬間、周囲の照明が一斉に消えた。


祭り会場の一角が闇に沈む。


そして――


青い火花も消えた。


静寂。


誰かの荒い呼吸だけが聞こえた。


しばらくして非常灯が点いた。


淡い赤色の光の中、ハナは自分の手を見下ろした。


震えていた。


でも、今度は違った。


見た。


そして、止めた。


目の前の男は、生きている。


そのことを確かめて、ようやくハナは長く息を吐いた。


そのとき、ジュンが近づいてきた。


地面に死んだように横たわる電線を見つめ、それからハナに目を向ける。


「あの男があそこを通ることも見えたのか?」


ハナはうなずいた。


「紙コップも?」


「はい」


「電線が跳ねることも?」


「はい」


ジュンはナラを見た。


「あなたは?」


「起きる前に感じました」


「感電だと?」


ナラは少し考えてから、首を横に振った。


「正確にはわかりません。私はハナみたいに場面が見えるわけじゃないから」


ナラは自分の腕をさすった。


「ただ……すごく痛かったんです。電気が身体の中に入ってくるみたいに」


ジュンはそれ以上、何も聞かなかった。


彼の視線が、二人のあいだをゆっくり行き来した。


少し前まで、彼の頭の中にはいくつもの疑問があった。


偶然か。


思い込みか。


あらかじめ知っていたのか。


事故そのものに関わっているのか。


だが、目の前で起きたことを説明できる答えは、そのどれでもなかった。


ハナは事故が起きる前に、正確な場所へ走った。


ナラもまた、それより先に危険を感じ取っていた。


そして二人が口にしたことが――


現実になった。


ジュンは短く息を吐いた。


「わかった」


ハナが眉を寄せた。


「何がですか?」


「信じる」


ハナの表情が初めて揺れた。


「……何を?」


「君たちが言ったことだ」


ジュンは淡々と言った。


信じるというより、一つの事実を受け入れるように。


「まだ起きていないことが見えること。感情から危険を感じ取れること」


ナラは黙ってジュンを見つめた。


「ただし、条件がある」


ハナが小さく笑った。


「やっぱり、ただ信じてくれるわけじゃないんですね」


「俺は警察官だ」


ジュンはきっぱりと言った。


「自分で確認できないものを無条件に信じることはできない。だが――」


一度、言葉を切る。


「君たちが危険だと言ったら、先に動く」


ハナから笑みが消えた。


ジュンは二人を交互に見た。


「今日みたいなことがまた起きても、二人だけで飛び込むな。警察が必要なことなら、俺に言え」


ナラが尋ねた。


「じゃあ、刑事さんは?」


「何が?」


「私たちが必要ですか?」


ジュンはしばらく答えなかった。


遠く、南江の水面を灯籠がゆっくりと流れていた。


さっき事故が起きた場所から、ほんの数十メートルしか離れていない川の上で、人々の願いを乗せた灯りは今も美しかった。


その美しさが、かえって不自然だった。


ジュンが言った。


「必要だ」


短い一言だった。


「今夜だけで事故が三回起きた」


ハナの目が鋭くなる。


ジュンは地面に横たわる電線を見た。


「それに、俺の経験上――」


声が低くなる。


「こんな妙なことが立て続けに起きたときは、まだ終わってない」


風が吹いた。


黒く焼けたテントの切れ端が、地面を擦りながら転がっていく。


ナラは何気なくそちらを見た。


おかしい。


人々の恐怖は少しずつ薄れている。


なのに、その下に――


かすかな何かが残っていた。


冷たく。


見知らぬ感情。


ナラは目を細めた。


「どうしたの?」


ハナが聞いた。


「ううん」


ナラはゆっくりと周囲を見回した。


誰かがこちらを見ているような気がする。


けれど、どこにも怪しい人影は見当たらない。


ナラは首を振った。


「何でもない」


ジュンが二人に背を向けた。


「とりあえず、ここを出るぞ」


数歩進んだところで、彼は足を止めた。


そして振り返らないまま言った。


「明日から、一緒に動く」


ハナとナラが同時に彼を見た。


「今日はここまでだ」


ジュンは再び歩き出した。


ハナはしばらくその背中を見つめ、それからナラを見た。


「お姉ちゃん」


「うん」


「私たち、今、警察とチームになったの?」


ナラがほんの少し笑った。


「臨時だけど、そうみたいね」


ハナも笑いかけて――やめた。


なぜか、胸の奥が冷たかった。


二人はジュンのあとを追って歩き始めた。


その夜、


南江には二つの月が浮かんでいた。


一つは、空に。


もう一つは、黒い川の中に。


二つの月のあいだを、数千の灯籠がゆっくりと流れていく。


まだ誰も知らなかった。


三人が共に歩き始めた、まさにその瞬間――


彼らを見つめる、


もう一つの視線があったことを。

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