第十話 確認された反応
「音が先に死んだ、ですか?」
ジュンの声が低く沈んだ。
撮影現場は、まだ騒然としていた。
スタッフたちは落下した照明を囲んでざわつき、誰かは怪我人がいないか確認していた。
誰かは保険担当者に電話をかけ、また誰かは監督の顔色をうかがいながら、機材を片づけてもいいのか尋ねていた。
けれどジュンの視線は、ただ一人に向けられていた。
ソ・ジヌ。
照明の下でいくつものカメラを受け止めていた俳優は今、床に落ちた照明を見つめていた。
表情は落ち着いている。
だが、目は違った。
ジヌの目は、すでに何かを聞いてしまった人間のように沈んでいた。
「はい」
ジヌがゆっくりと答えた。
「落ちる直前、音が消えました」
ハナが眉をひそめた。
「どういう意味ですか? 照明が落ちる前に、どんな音があるんですか?」
ジヌはしばらくハナを見た。
それから再び照明へ視線を戻した。
「こういう現場は、本来、静かにはなりません。足音、ケーブルを引きずる音、人の息遣い、機材のモーター音」
彼は低く言った。
「でも、さっきは、ほんの短い瞬間だけ、すべてが抜け落ちました」
ナラはその言葉を聞き、指先を握りしめた。
音が消えた。
ナラには、感情が空白になったように見えていた。
あの一瞬、照明の周囲に残っていたのは、事故の恐怖でも、失敗の動揺でもなかった。
冷たく乾いた意図。
誰かがわざと残した痕跡。
ジュンは落下した照明へ近づいた。
「誰も触らないでください」
彼の声で、スタッフたちの動きが止まった。
ジュンは身をかがめ、照明の固定部分を調べた。
金属の接合部。
切断されたワイヤー。
半分ほど外された固定ピン。
老朽化や単なるミスと見るには、あまりにもきれいすぎた。
ジュンの目が冷たくなった。
「これは事故ではありません」
撮影監督が青ざめた顔で近づいてきた。
「刑事さん、それはどういう意味ですか? うちは撮影前に全部点検しています。照明チームがいつも確認していますし」
「点検したのは誰ですか?」
「照明チームの新人とチーフです。でもさっきまでは異常ありませんでした。本当です」
ジュンはゆっくりと顔を上げた。
「なら、異常が起きたのはそのあとでしょうね」
その一言で、撮影現場の空気が再び固まった。
誰かが、この中にいた。
撮影が終わる前。
あるいは、終わった直後。
人々が緊張を解き、機材の片づけで視線が散った、そのわずかな隙。
そのとき、誰かが照明に手を加えた。
ハナは周囲を素早く見回した。
スタッフ。
俳優。
エキストラ。
機材スタッフ。
マネージャー。
多すぎた。
誰が犯人なのか、わからない。
だが、一つだけはっきりしていた。
さっき落ちた照明は、ナラを狙っていた。
ハナは再びナラの腕をつかんだ。
「本当に大丈夫?」
ナラはうなずいたが、顔はまだ真っ白だった。
「うん。大丈夫」
大丈夫という言葉は嘘だった。
ハナにはわかった。
ナラが大丈夫なはずがなかった。
ほんの少し遅れていたら、照明はナラの頭上に落ちていた。
ハナの中で、何かが熱くせり上がった。
怒り。
恐怖。
そして、自分が先に見られなかったという罪悪感。
どうして見えなかったの。
どうして今回は遅れたの。
未来は、いつだって勝手だった。
見たいときには見えず、避けたいときに限って、あまりにも鮮明に押し寄せてくる。
ハナは歯を食いしばった。
「これ、私たちへのものですよね?」
ジュンがハナを振り返った。
ハナの目は揺れていた。
けれど、引く気はなかった。
「事故に見せかけた警告」
ジュンはすぐには答えなかった。
だが、その沈黙が答えだった。
そのとき、撮影現場の奥から、誰かが慌てて走る音がした。
タッ。
タタッ。
速く、軽い足音。
ハナの顔が弾かれたように向いた。
「今の、聞こえました?」
ジュンはすでに動いていた。
「出入口を押さえろ!」
彼の声が撮影現場を裂いた。
「裏口! 裏口側を確認しろ!」
スタッフたちが驚いて道を空けた。
ジュンは音のした方向へまっすぐ走った。
ハナもその後を追った。
「ハナさん!」
ジュンが振り返って叫んだ。
「ここにいてください!」
「嫌です!」
ハナはそう答えるのと同時に、もうジュンの横に並んでいた。
「ナラが死にかけたのに、私がじっとしていられると思いますか?」
ジュンの顔が険しくなった。
「危険です」
「わかってます」
「わかっているなら止まってください」
「わかっているから止まれないんです」
その言葉に、ジュンは一瞬、言葉を失った。
ハナの目は、異様なほど熱かった。
怖がっていない目ではない。
怖いからこそ走っている目だった。
ジュンは歯を食いしばり、前を向いた。
「私の後ろについてください」
「命令ですか?」
「お願いです」
ハナの足取りが、ほんの一瞬だけ揺れた。
お願い。
その短い言葉が、奇妙に胸の奥へ触れた。
けれど、立ち止まっている時間はなかった。
二人はセットの裏通路へ飛び込んだ。
撮影現場の裏側は、表とはまるで違っていた。
華やかな照明も、カメラも、人々の笑い声もない。
壁際には偽物の窓や扉が立てかけられ、床にはケーブル、木製パネル、小道具の箱が乱雑に積まれていた。
作り物の世界の裏側。
光の届かない場所。
そこは、なぜか現実よりも暗く感じられた。
タタタッ。
足音はさらに奥へ続いていた。
ジュンは無線機を取り出した。
「裏口を封鎖。黒い帽子、グレーのジャンパーの男。現場裏の通路を移動中」
無線の向こうから、雑音混じりの返事が返ってきた。
—確認しました。
ハナは息を整えながら、ジュンの後を追った。
その瞬間だった。
頭の中が白く弾けた。
幻視だった。
短い。
短すぎて、つかむのが難しかった。
暗い通路。
揺れる鉄製フレーム。
床へなだれ落ちる木製パネル。
そして、血のついた手。
ハナは鋭く息を吸った。
「止まって!」
ジュンが反射的に足を止めた。
その直後だった。
ドンッ!
天井近くに立てかけられていた巨大なセットの壁が、前方へ崩れ落ちた。
あと少し走っていたら、そのまま下敷きになっていた場所だった。
埃が爆発するように舞い上がる。
ジュンはハナの腕をつかみ、後ろへ引いた。
木片の一つが、二人のすぐ前をかすめて落ちた。
「大丈夫ですか?」
ジュンが低く尋ねた。
ハナは荒い息を吐きながら、うなずいた。
「今……見えました」
ジュンの目が揺れた。
ほんの一瞬。
彼はハナを見つめた。
恐れ。
驚き。
そして、それよりも深い何か。
けれど、その感情はすぐに消えた。
ジュンは再び刑事の顔に戻った。
「なら、なおさら慎重に動くべきです」
「はい」
「私のそばを離れないでください」
ハナは答えようとして、口を閉じた。
いつもなら、何か言い返していたはずだった。
私、子どもじゃないんですけど。
誰が誰を守るっていうんですか。
けれど、なぜか言葉が出てこなかった。
ジュンの手は、まだ自分の腕をつかんでいた。
強く、熱い手。
危険の中でも揺るがない手。
ハナはそれを意識しないようにした。
けれど、意識しないようにするほど、余計にはっきりと感じてしまう。
ジュンもそれに気づいたのか、ゆっくりと手を離した。
「行きましょう」
その声はいつものように落ち着いていた。
けれど、ほんの少しだけ低くなっていた。
二人は崩れたセットの壁を迂回し、さらに奥へ進んだ。
足音は、もう聞こえない。
代わりに、どこかで金属が揺れる音がした。
ギィ。
ギィィ。
ハナは本能的に身をすくめた。
「あの音……」
ジュンが手で静かにするよう合図した。
彼は腰元へ手を伸ばした。
だが、銃は簡単には抜かなかった。
ここは民間人の多い撮影現場だ。
暗闇の中から、誰かが突然飛び出してくるかもしれない。
ジュンは慎重に通路の角を曲がった。
その瞬間、黒い影が飛び出してきた。
男だった。
黒い帽子。
グレーのジャンパー。
顔にはマスクをしている。
男は手に持っていた鉄パイプを振り下ろした。
ジュンが身をひねってかわした。
鉄パイプが壁を強く叩き、鋭い音を立てた。
ハナが息を呑んだ。
男はそのままジュンに突っ込んできた。
ジュンは男の手首をつかみ、ひねり上げた。
鉄パイプが床に落ちた。
男は体をねじって逃れようとしたが、ジュンはその腕を極め、セットの壁へ押しつけた。
「警察だ」
ジュンの声が冷たく落ちた。
「動くな」
男は答えなかった。
代わりに身を低くし、ジュンの脚を払った。
ジュンがバランスを崩した瞬間、男は素早く抜け出した。
そして、ハナのほうへ走った。
ハナの目の前が閃いた。
また別の幻視。
男の手。
小さな刃。
自分の脇腹へ食い込む冷たい光。
ハナは避けようとした。
しかし背後には小道具の箱が積まれていた。
足首がケーブルに引っかかる。
体が後ろへ傾いた。
「ハナさん!」
ジュンの声が鋭く裂けた。
男の手の中で、短い刃が光った。
その瞬間、ジュンが体を投げ出した。
彼はハナを抱き込むように押しのけ、男の刃をかわした。
二人は一緒に床へ転がった。
ハナの背後で、小道具の箱が崩れ落ちた。
刃はジュンの腕をかすめた。
浅いが、はっきりとした傷。
血がにじんだ。
ハナの目が大きく揺れた。
「ジュン刑事!」
ジュンは歯を食いしばって体を起こした。
男が再び逃げようとした。
だが、今度は遠くまで行けなかった。
通路の反対側から、ジュンの部下であるカン・ミンジェ巡査と応援の警官たちが飛び込んできた。
「止まれ!」
男は方向を変えようとしたが、ミンジェが体ごと飛びかかり、その脚をつかんだ。
二人は床に絡まるように倒れた。
「ああっ! こいつ、思ったより強い!」
ミンジェが歯を食いしばって叫んだ。
「チーム長! 捕まえました! いや、ほぼ捕まえました!」
ジュンが駆け寄り、男の腕を後ろへねじり上げた。
手錠がかかる金属音が、闇の中に短く響いた。
カチャリ。
男は荒く息をしていたが、最後まで何も言わなかった。
ジュンは男のマスクを外した。
見覚えのない顔だった。
スタッフでも、俳優でもない。
出入り名簿にも載っていない人物。
誰かの手引きなしには、入れるはずのない人間。
ジュンの表情がさらに険しくなった。
「誰に送り込まれた」
男は笑わなかった。
怒りもしなかった。
怯えもしなかった。
ただ、ジュンを見上げた。
そして、とても低く言った。
「見たか?」
ジュンの目が冷たくなった。
「何を」
男の視線がハナへ向いた。
「あの女」
ハナの体が固まった。
男の目は、不快なほど空っぽだった。
「本当に見えるんだな」
ジュンは男の胸ぐらをつかんで引き上げた。
「どういう意味だ」
男は答えなかった。
唇の端だけが、かすかに上がった。
「次は、もっと近くで見る」
ジュンの手に力が入った。
その瞬間、ミンジェが慌てて割って入った。
「チーム長」
ジュンは止まった。
ぎりぎりのところで。
彼は男の胸ぐらを離した。
「連行しろ」
ミンジェがうなずいた。
「はい。私が連れていきます」
男は連れていかれながらも、ずっとハナを見ていた。
その視線が消えるまで、ハナは動けなかった。
体の内側が冷たくなっていく。
本当に見えるんだな。
その言葉が耳の奥に張りついた。
彼らは知っていた。
ハナが何を見るのか。
ナラが何を感じるのか。
そして今は、試しているのだ。
どれほど見えるのか。
どこまで反応するのか。
ハナは遅れてジュンの腕を見た。
血。
黒い服の上に、濃い血が広がっていた。
「怪我してるじゃないですか」
ジュンは自分の腕を見下ろした。
「かすっただけです」
「かすっただけじゃないですよ」
「大丈夫です」
「なんでいつも大丈夫って言うんですか?」
ハナの声が少し震えた。
ジュンは彼女を見た。
ハナは怒った顔をしていた。
けれど、その奥には確かな恐怖が混じっていた。
たった今、自分の目の前で誰かが傷つきかけた。
それも、自分を押しのけたせいで。
その事実が、ハナの顔を崩していた。
「私、見たのに避けられませんでした」
ハナが低く言った。
「私はいつもこうなんです。見えるのに、遅い。わかっているのに、体が動かない。結局、誰かが傷つくんです」
「それはハナさんのせいではありません」
「違います」
ハナは首を横に振った。
「私がもっと早く言っていれば、もっと早く動けていれば……」
「やめてください」
ジュンの声が低く遮った。
ハナは口を閉じた。
ジュンは傷ついた腕を気にすることもなく、彼女を見つめた。
「そんなふうに考えないでください」
「でも……」
「ハナさんがいなければ、私は最初のセットの壁に潰されていました」
ハナの瞳が揺れた。
ジュンは静かに言った。
「さっきも、ハナさんが先に見たから、私は動けました」
その声は淡々としていた。
けれど、その淡々とした響きが、かえってハナの胸を強く打った。
「遅かったわけじゃありません」
ジュンが言った。
「あなたのおかげで助かったんです」
ハナは何も言えなかった。
その言葉は不思議だった。
慰めのようにも聞こえた。
命令のようにも聞こえた。
そして、なぜか自分をつなぎ止める言葉のようにも聞こえた。
これまでハナの幻視は、いつも呪いのようだった。
誰かが死ぬ場面。
避けられない事故。
すでに遅すぎる未来。
けれどジュンは、初めて違うふうに言った。
あなたのおかげで助かった、と。
ハナは顔を伏せた。
「そんなふうに言わないでください」
ジュンの目が、ほんの少し揺れた。
「なぜですか」
「本当にそうだって、思いたくなるから」
とても小さな声だった。
けれどジュンには聞こえた。
その言葉は、奇妙なほど長く胸に残った。
ジュンはしばらく答えられなかった。
彼は刑事だった。
ハナは事件の中心にいる人物だった。
守るべき人。
証言すべき人。
そして今は、目の前で崩れそうになりながらも、必死に立っている人だった。
ジュンは視線を落とした。
「まずは傷を見ましょう」
ハナが彼の腕をつかんだ。
「それは私の台詞です。ジュン刑事の腕が先です」
「大丈夫です」
「その言葉、禁止」
ハナがすぐに切った。
ジュンはほんの一瞬、動きを止めた。
そして短く息を吐いた。
笑いと言うにはあまりに薄く、ため息と言うには少し柔らかかった。
ハナはその顔を見て、少しのあいだ言葉を失った。
こんな表情もするんだ。
いつも冷たくて、硬くて、隙がないように見える人が。
ほんの一瞬だけ、人間みたいに揺れるんだ。
ハナは慌てて視線を逸らした。
「とにかく、手当てしてください」
「わかりました」
ジュンはそれ以上、言い返さなかった。
その短い返事が、なぜかひどく不慣れに聞こえた。
そのとき、ミンジェの声が闇の中を裂いた。
「チーム長! この男のスマホ、ロックされています! でも何か変です!」
ジュンの表情がすぐに変わった。
再び刑事の顔だった。
「行きます」
二人は再び事件の中へ戻っていった。
さっき触れかけた感情は、言葉にならないまま折りたたまれた。
けれど、完全に消えたわけではなかった。
小さく熱い火種のように、二人のあいだのどこかに残った。
撮影現場の一角では、ナラとジヌが落下した照明の前に立っていた。
ジヌは無言で固定部分を見下ろしていた。
ナラは照明の周囲に残る感情をたどっていた。
冷たく乾いた意図。
その下に沈む、ひどく見知らぬ空白。
それは昨夜、地下駐車場で感じたものと似ていた。
眠らされた恐怖。
感情を無理やり押し込めた人間の痕跡。
ナラはゆっくりと口を開いた。
「この人……怖がっていませんでした」
ジヌが彼女を見た。
「誰がですか?」
「照明を細工した人です」
ナラは目を閉じた。
「普通、こういうことをすれば少しは残るんです。不安、興奮、恐怖。見つかるかもしれないという焦り」
彼女の声が低くなる。
「でも、ここにはそれがありません」
ジヌは静かに聞いていた。
ナラは指先を震わせながら言った。
「まるで、感情を閉じ込めた人みたいです」
ジヌの目が暗くなった。
「昨夜のあの男も、そうでしたか?」
ナラは顔を上げた。
「え?」
「駐車場で見た男です」
ジヌは低く言った。
「子どもを助けたあと、僕も見ました。遠くから、誰かがこちらを見ていました」
ナラは息を止めた。
狩人。
感情が読めなかった男。
あの男の空っぽな目が、再び浮かび上がった。
「あの人も……感情がありませんでした」
ジヌはとても小さくうなずいた。
「なら、同じ側の人間かもしれませんね」
その言葉に、ナラの指先が冷たくなった。
同じ側。
昨夜の地下駐車場。
今日の撮影現場。
偶然につながった事件ではなかった。
誰かが彼らを見ている。
どこまで感じるのか。
どこまで見えるのか。
そして誰を動かすことができるのか。
そのとき、ジュンがミンジェの持っていたスマホを受け取った。
黒い帽子の男のスマホだった。
ロック画面には何の通知もない。
けれど画面の一番上で、小さなアイコンが点滅していた。
録音。
ジュンの顔が固まった。
「録音中だったのか?」
ミンジェが唾を飲んだ。
「はい。さっきまで」
「いつからだ」
「正確にはフォレンジックに回さないとわかりませんが……おそらく、照明が落ちる前から起動していたと思います」
ジュンはスマホをにらんだ。
彼らは事故を起こしたのではなかった。
反応を記録していた。
ナラが何を感じるのか。
ハナが何を見るのか。
ジヌが何を聞くのか。
そしてジュンがどう動くのか。
その話を聞いたハナの顔が青ざめた。
「私たち……試されたんですか?」
ジュンは答えられなかった。
答えたくなかった。
けれど、事実はすでにあまりにも明確だった。
そのとき、スマホの画面が突然点灯した。
ロック画面の上に、一通のメッセージが浮かんだ。
差出人なし。
文字は、たった一行だった。
—確認した。
撮影現場の空気が凍りついた。
ジュンは画面を見つめた。
確認した。
何を。
彼らの能力。
彼らの反応。
彼らの関係。
そして、彼らを揺さぶる方法。
ハナの指先が冷たくなった。
その瞬間、彼女の頭の中に、ごく短い光景が閃いた。
暗い部屋。
テーブルの上に置かれた何枚もの写真。
ハナ。
ナラ。
ジュン。
そしてソ・ジヌ。
写真の上を、誰かの手が滑っていく。
その手が最後に止まったのは、ナラの写真だった。
ハナは息を呑んだ。
「違う……」
ジュンが彼女を振り返った。
「何を見ました?」
ハナは答えようとした。
だが、次の光景がその言葉を遮った。
闇の中に滲む、かすかな水の光。
丸くない月明かり。
完成されていない、半分だけの光。
そして、ひどく低い声。
—次は、もっと深い場所だ。
ハナの体がぐらりと揺れた。
ジュンがすぐに彼女を支えた。
「ハナさん!」
ハナはジュンの腕をつかんだまま、荒く息をした。
「見ました」
「何を見ました」
ハナはゆっくり顔を上げた。
瞳が揺れていた。
「写真がありました。私たちの写真」
ジュンの顔が固まった。
「誰の写真ですか」
「私。ナラ。ジュン刑事」
ハナはジヌのほうを見た。
「それから、ジヌさんまで」
ジヌの表情が、ごくわずかに変わった。
ハナは震える声で続けた。
「でも最後に……ナラの写真のところで、手が止まりました」
それを聞いたナラの顔が固まった。
「私の写真?」
ハナはうなずいた。
「それから……水の光みたいなものが見えた」
「水の光?」
「うん。はっきりはわからない」
ハナは指先を握りしめた。
「月明かりみたいでもあった。でも……変だった。完全な月じゃなかった」
その言葉に、全員がしばらく黙り込んだ。
理由はわからなかった。
けれど、その言葉は妙に不吉だった。
水。
月明かり。
そしてナラ。
ジヌがゆっくりと息を吸った。
「さっきから……聞こえています」
ジュンが彼を見た。
「何がですか」
ジヌは撮影現場の外、暗い夜空の向こうを見つめた。
「ここで終わる音ではありません」
その声は低かった。
けれど、ほとんど確信に近かった。
「どこかへ続いています」
ナラは思わず尋ねた。
「どこへ?」
ジヌはすぐには答えられなかった。
まだ遠すぎた。
音はかすかで、方向もぼやけている。
けれど、確かにあった。
低く、深い振動。
昨夜の地下駐車場と今日の撮影現場をつなぐ、黒い糸のような響き。
ジヌはゆっくりと言った。
「まだ、わかりません」
そして、とても小さく付け加えた。
「でも、また聞こえるはずです」
ジュンはスマホの画面の文字をもう一度見た。
—確認した。
その一行は、いつまでも消えなかった。
撮影現場の照明は、ほとんど落とされていた。
さっきまで眩しいほど明るかったセットは、今では偽物の壁と影だけが残る場所のように見えた。
それでも、四人にはわかっていた。
終わったわけではない。
誰かが彼らを見ている。
誰かが彼らの反応を記録した。
そして誰かが、すでに次の場所を決めている。
ハナはまだ、ジュンの腕をつかんでいた。
ジュンもそれに気づいていた。
けれど、今度は先に離さなかった。
ナラとジヌは、落ちた照明を見つめていた。
それぞれ違う感覚で、同じ痕跡を読んでいた。
そしてどこか遠くで。
まだ見えない扉が、少しずつ開きはじめていた。
著:ジンファ・ジンギョン
(姉妹による共著)




