第二十話 洞窟の中の声
湿った匂いが、最初にした。
濡れた土の匂い。
古い石壁から染み出した、黴の匂い。
そして背中に入り込んでくる、冷たい冷気。
ナラはゆっくりと目を開けた。
頭が割れそうに痛かった。
視界はぼやけ、口の中はひどく乾いていた。
手を動かそうとした。
けれど、動かなかった。
そのとき初めて気づいた。
両手が、背中の後ろで縛られている。
「……」
ナラは息を飲んだ。
周囲は暗かった。
いくつかのランタンだけが、洞窟の中をぼんやりと照らしていた。
光は足りなかった。
むしろ、闇をさらに深くしているだけだった。
ここは、どこ。
私は、どうやってここまで来たの。
ハナは。
ハナは無事なの。
ハナも捕まったの。
どうして私をここまで連れてきたの。
何のために。
問いが、頭の中を狂ったように駆け抜けていった。
恐怖が全身を包んだ。
初めてだった。
ハナなしで、完全に一人になったのは。
見知らぬ場所。
見知らぬ人間たち。
動かせない手首。
逃げられない闇。
ナラは歯を食いしばった。
泣いてはいけない。
崩れてはいけない。
手を縛られたまま、ここから抜け出すのは簡単ではなかった。
ならば、せめて知るべきだった。
彼らが、なぜ自分を連れてきたのか。
ナラはまだ意識が戻っていないふりをして、再び顔を伏せた。
瞼を半分だけ下ろし、息を殺した。
けれど全神経は、洞窟の奥から聞こえてくる男たちの会話へ向いていた。
「儀式の準備は終わったのか?」
低く、荒い声だった。
「少しのミスも許されない。隊長があの鍵を手に入れるために、どれだけ手間をかけたと思ってる」
鍵。
ナラは心臓が落ちるような感覚に襲われた。
あの鍵。
その言葉は、自分を指していた。
私が?
何を開く鍵だというの。
儀式って、何。
「あの女、本当に反応したのか?」
「確認したと言っただろ。感情の残響を読むほうだ。隊長が探していた条件の一つだ」
ナラの指先が冷たくなった。
感情の残響。
彼らは知っていた。
自分が何を感じるのか。
何を読むのか。
「もう一人は?」
「すぐに来る」
もう一人。
ハナ。
ナラは、危うく息の音を聞かれるところだった。
彼らは最初から、自分だけを狙ったのではなかった。
ハナまで呼び寄せるために、自分を連れてきたのだ。
その瞬間、地下駐車場で出会った黒い服の男が頭に浮かんだ。
感情が読めなかった男。
冷たいというより、空っぽだった人間。
隊長。
あの男と繋がっている。
ナラはゆっくりと手首を動かした。
縛られた結束バンドが、肌に食い込んでいた。
手首の内側が、熱を持ってひりついた。
けれど、じっとしてはいられなかった。
男たちの視線が洞窟の奥へ向いた隙に、ナラはほんの少しずつ体を動かした。
背後の壁。
粗く突き出た石の面。
ナラは手首を、そこへ押しつけた。
摩擦を起こせば、切れるかもしれない。
ざり。
ざり。
結束バンドが石に擦れた。
手首の皮膚も一緒に擦れた。
痛みが込み上げたが、ナラは声を飲み込んだ。
ざり。
ざり。
息が上がっていく。
額に汗がにじんだ。
指先は少しずつ痺れてきた。
そのときだった。
洞窟のさらに奥から、誰かが焦った声で叫んだ。
「まずい! 儀式の準備に問題が起きたみたいだ!」
「何?」
「水が動かない。反応が切れた!」
男たちの顔が固まった。
「くそ。隊長が知ったら、ただじゃ済まないぞ」
「早く確認しろ」
屈強な男たちがランタンを持ち、さらに深い闇の中へ入っていった。
足音が遠ざかる。
一つ。
二つ。
三つ。
彼らのシルエットが完全に見えなくなったとき、ナラはゆっくりと顔を上げた。
今だ。
逃げるなら、今しかない。
ナラは壁に手首をもう一度、強く擦りつけた。
ざり。
ざり。
ぷつん。
結束バンドが完全に切れたわけではなかった。
けれど、緩んだ。
ナラは手首を捻った。
皮膚が裂けるような痛みが走った。
歯を食いしばり、もう一度捻った。
ついに片方の手が抜けた。
ナラは荒く息を飲み込み、抜けた片手を胸元へ引き寄せた。
もう片方の手首には、まだケーブルタイが残っている。
赤く食い込んだ痕から、血が少しずつ滲んでいた。
けれど、見ている時間はなかった。
ナラは身を低くしたまま、ゆっくりと後ずさった。
一歩。
また一歩。
洞窟の入口のほうに、かすかな光が見えた。
あと少し。
あと少しで出られる。
そう思った瞬間。
入口を塞いでいた二人の男が、振り向いた。
「あ?」
ナラは止まらなかった。
全力で走った。
「捕まえろ!」
男の一人が腕を伸ばした。
ナラは身をひねって避けようとしたが、別の男が前を塞いだ。
その手が肩を掴もうとした瞬間。
「きゃあ!」
ナラは本能的に悲鳴を上げた。
そのときだった。
洞窟の入口の闇から、誰かが飛び出した。
どんっ。
男の一人が、そのまま床へ叩きつけられた。
もう一人が反応するより早く、別の人物がその腕をねじり上げ、背中へ回した。
「うわあっ!」
悲鳴が洞窟の中に響いた。
ナラは息を止めたまま、彼らを見つめた。
先に現れたのは、ジュンヒョクだった。
ずれた眼鏡の奥に、いつもの柔らかな目つきはなかった。
彼は倒れた男の腕をしっかり押さえ込み、歯を食いしばっていた。
「思ったより強いですね、この人たち」
そして、その後ろから、別の声が聞こえた。
「ナラさん」
ナラはその声を聞いた瞬間、全身の力が抜けそうになった。
ジヌだった。
彼はヘッドランプの光を低く落としたまま、ほとんど駆け寄るように近づいてきた。
いつもの余裕のある、柔らかな顔はなかった。
息は荒く、目は揺れていた。
「無事でよかった」
彼は低く言った。
「本当に……よかったです」
ナラは答えようとした。
けれど、声が出なかった。
ジヌはすぐにナラの手首を確認した。
額につけたヘッドランプを、少し下へ向ける。
細い光がナラの手首を照らした瞬間、縛られていた場所にくっきりと残った赤い痕と、血の滲む傷があらわになった。
彼の表情が、一瞬で固まった。
「誰が、こんなことを……」
その声には、はっきりとした怒りが混じっていた。
ジヌはポケットから小さな道具を取り出し、残っていた結束バンドを完全に切った。
かちり。
手首が解放された瞬間、ナラはようやく大きく息を吸い込んだ。
ジヌがそっと彼女の手首を支えた。
指先が震えていた。
それが彼のものなのか、ナラのものなのか、わからなかった。
ナラはその感情を読んだ。
安堵。
怒り。
恐怖。
そして、自分を失いかけたという、言葉にならない切実さ。
ナラはかすかに笑ってみせた。
「私は、大丈夫です」
ジヌの目が揺れた。
「大丈夫には見えません」
「でも……来てくれたじゃないですか」
その一言に、ジヌはしばらく言葉を失った。
けれど、感情に立ち止まっている時間はなかった。
洞窟の奥から、荒い足音が押し寄せてきた。
「侵入者だ!」
「女を奪われた!」
「止めろ!」
男たちが一人、また一人と、闇の中から姿を現した。
手には鉄パイプや刃物、そして正体のわからない道具が握られていた。
ジヌはナラの前に立った。
「ナラさんには、指一本触れさせません」
ジュンヒョクも隣で姿勢を低くした。
「僕も同じ意見です」
ジヌがちらりとジュンヒョクを見た。
「信じてもいいんですか?」
ジュンヒョクはずれた眼鏡を直しながら言った。
「こう見えても、合気道三段、剣道三段、柔道三段です」
ジヌは短く笑った。
「頼もしいですね」
「ファンです」
「え?」
「いえ。今言うことではありませんね」
その短いやり取りが終わるより早く、敵が飛びかかってきた。
ジュンヒョクが先に動いた。
小柄な体からは信じられないほど速かった。
相手の力を正面から受けずに流し、腕を巻き込んで重心を崩す。
ジヌもすぐに身を投げ出した。
撮影現場で覚えたアクションの動きと、実際の感覚は違っていた。
拳はもっと重く、ぶつかる衝撃ははるかに荒かった。
それでも、彼は下がらなかった。
一人を押し返せば、すぐに背後を確認した。
また一人が近づけば、体でナラの前を塞いだ。
彼は完璧な闘士ではなかった。
けれど、必死だった。
ナラの前を、絶対に空けなかった。
しかし、敵は次々と現れた。
どこに隠れていたのかわからないほど、闇の中から一人、また一人と姿を見せた。
ジュンヒョクの眼鏡がずれた。
ジヌの口元には血が滲んだ。
ナラは後ずさりながら、拳を強く握った。
無力なまま立っていることはできなかった。
そのとき。
洞窟の入口のほうから、別の声が響いた。
「ナラ!」
ハナだった。
ナラは弾かれたように顔を上げた。
ハナが走ってきていた。
その隣にはジュンがいた。
ジュンは短く周囲を見渡した。
倒れている男たち。
押し寄せる敵。
そして、ナラの手首に残った赤い痕。
彼の目が冷たく沈んだ。
ハナは敵の間を抜け、ナラへ駆け寄った。
「ナラ!」
その声を聞いた瞬間、ナラの目にようやく涙がにじんだ。
ハナはナラの両腕をつかみ、素早く確かめた。
「どこを怪我したの? 手首、どうしたの? 顔は? 頭は?」
ナラは無理に笑った。
「大丈夫」
「全然大丈夫に見えないけど?」
「ジヌさんとジュンヒョク刑事さんが、すぐに解いてくれたから」
ナラは手首の痕を見せながら、笑ってみせた。
ハナの顔が、そのまま固まった。
その目つきが変わった。
「誰がやったの」
冷たく沈んだ声だった。
ナラが答えるより先に、ジヌが低く言った。
「挨拶はそのくらいにしましょう」
彼の視線は、再び押し寄せてくる敵へ向いていた。
「今は、この人たちから片づけるべきです」
ジヌがジュンをちらりと見た。
「ジュン刑事さん、少し遅かったですね」
ジュンの眉が、わずかに動いた。
「その間に、これだけしか片づけられなかったんですか?」
ジヌがふっと笑った。
「撮影よりずっと大変ですね」
ジュンは冷たく答えた。
「なら、ここからが実戦です」
ハナは二人を交互に見た。
「二人とも、今冗談言ってる場合ですか?」
ジュンヒョクが小さく息を整えながら言った。
「緊張をほぐそうとしてるんです。たぶん」
その瞬間、敵が再び襲いかかってきた。
五人は同時に動いた。
ジュン。
ハナ。
ナラ。
ジヌ。
ジュンヒョク。
彼らは自然に背中を合わせた。
完全な円。
互いの死角を塞ぎ、互いの隙を埋める形。
最初に見たのは、ハナだった。
「左!」
ジュンが身を低くした。
鉄パイプが、彼の頭上をかすめていった。
ジュンはすぐに相手の腕をつかみ、ねじり上げた。
「後ろ!」
ジヌが体を回した。
飛びかかってきた男の手首をつかんで押し返し、ジュンヒョクがその隙を逃さず足を払った。
「伏せて!」
ハナの叫びに、ナラが身を低くした。
その瞬間、ナラの背後を狙っていた男の刃が空を切った。
ナラは手を伸ばした。
直接触れたわけではなかった。
それでも、感情が流れ込んだ。
恐怖。
罪悪感。
疑念。
男の表情が歪んだ。
彼は突然、後ずさった。
「何だ……」
ナラは歯を食いしばった。
「あなたたちが飲み込んだ感情です」
その隙に、ジヌが彼を押し飛ばした。
ハナは、砕けた幻視を見続けていた。
正確な未来ではなかった。
短い断片。
飛んでくる刃先。
もつれる足。
ランタンが割れる瞬間。
ハナはそれを掴んだ。
「ジヌさん、右!」
ジヌが体をひねった。
「ジュンヒョク刑事さん、後ろへ!」
ジュンヒョクが一歩下がり、そこへジュンの蹴りが入った。
「ジュン刑事さん、今!」
ジュンは黙って動いた。
彼らは戦っていた。
けれど、ただそれぞれが戦っているのではなかった。
ハナは見た。
ナラは揺さぶった。
ジヌは守った。
ジュンヒョクは隙を埋めた。
ジュンは終わらせた。
洞窟の中の空気が変わった。
初めて、彼らは同じ方向を見ていた。
同じ危険を読んでいた。
同じ人を守っていた。
最後に飛びかかってきた男が、ジュンに制圧されて床に倒れた。
荒い息だけが残った。
ランタンが一つ、床を転がり、壁を照らした。
もう動く敵は見えなかった。
束の間の静寂。
ジヌが息を切らしながら言った。
「うわあ」
ハナが彼を見た。
ジヌは血の滲んだ口元を手の甲で拭い、笑った。
「僕たち……完全にアベンジャーズみたいじゃなかったですか?」
ジュンがすぐに彼を振り返った。
「今は映画の撮影じゃありません」
ジヌは肩をすくめた。
「わかってます。だから、余計に緊張しますね」
隣でジュンヒョクが小さくつぶやいた。
「僕は今の、少し格好よかったと思いましたけど」
ジュンが短く言った。
「報告書には書くな」
「はい」
ハナはナラの手を強く握った。
ナラの手は冷たかった。
けれど、生きていた。
その事実だけで、ハナは息をすることができた。
終わった。
あとは出るだけ。
誰もがそう思った、その瞬間だった。
洞窟の一番奥。
光の届かない闇の中から、ひどく低い声が聞こえた。
「ようやく、そろったな」
五人の体が同時に固まった。
ハナの腕輪が熱くなった。
ナラの腕輪も同時に光った。
洞窟の奥から、水滴の落ちる音がした。
ぽたり。
ぽたり。
ぽたり。
壁の隙間から染み出した水が、床の黒い水たまりに溜まっていた。
空の見えない洞窟の中。
それなのに、その水面には、かすかな月明かりが浮かんでいた。
ハナは息を止めた。
彼女の目の前に、短い場面がよぎった。
闇。
銃口。
閃く光。
そして、誰かが倒れる姿。
「だめ……」
ハナが呟いた瞬間。
パン!
銃声が洞窟を引き裂いた。
全員が同時に振り返った。
誰かの体が大きく揺れた。
そして次の瞬間。
どさり。
一人が、床へ倒れた。




