第十八話 近しい影
チョンゴク寺から戻ったあと、ジュンはそのまま警察署へ向かった。
夜はすでに深かった。
それでも警察署の中は、まだ明るかった。
蛍光灯は冷たく光り、廊下の奥の自動ドアは、一定の間隔で開いては閉じていた。
すべてが、いつも通りだった。
けれどジュンにとっては、何ひとつ、いつも通りではなかった。
彼はミンジェから送られてきた記録を、もう一度確認した。
現場の出入り記録。
無線ログ。
CCTVの動線。
廃工場の作戦直前、公式の無線網から外れていた、いくつかの空白。
そして、その時間帯に現場外郭のカメラに映っていた、ジュンヒョクの姿。
その時間は、妙に噛み合っていた。
作戦情報が漏れた可能性のある時間。
ジュンヒョクが席を外していた時間。
そして、廃工場に残されていた内部資料。
正門進入。
裏門迂回。
後方待機。
双子。
ハナ。
ナラ。
ジュンは、画面を長いあいだ見つめていた。
心のどこかで、ずっと否定していた。
違う。
ジュンヒョクではない。
けれど証拠は、少しずつ一人の人間へと集まり始めていた。
ジュンは携帯を置き、席を立った。
頭が熱かった。
じっと座っていることができなかった。
彼が廊下を抜け、非常口のほうへ向かおうとしたときだった。
閉じた扉の向こうから、低い声が聞こえた。
ジュンは足を止めた。
非常階段のほうだった。
扉の隙間から、かすかな明かりが漏れている。
そしてその中で、誰かが切羽詰まった声で話していた。
「もう、やれるだけのことはやったじゃないですか」
ジュンヒョクの声だった。
ジュンの目が冷たく固まった。
「これ以上は無理です」
短い沈黙が流れた。
相手が何を言ったのか、ジュンヒョクの声が一段と荒くなった。
「今……俺を脅してるんですか?」
ジュンは息さえ殺した。
ジュンヒョクは歯を食いしばるように、低く言った。
「あの双子の話は、もうやめろと言ったはずです。俺も知らないんです」
再び沈黙。
ジュンヒョクの息が荒くなった。
「手を出すな」
その声は、怒りというより、懇願に近かった。
「あの人たちには、もう手を出すな」
ジュンは、それ以上聞いていられなかった。
彼は非常口の扉を押した。
鉄の扉が、低い音を立てて開いた。
ジュンヒョクが弾かれたように振り返った。
携帯を握った手が、そのまま固まる。
「チー……チーム長」
彼の顔から血の気が引いた。
「いつから……」
ジュンは答えなかった。
ゆっくりと、ジュンヒョクへ近づいた。
一歩。
また一歩。
ジュンヒョクは後ずさろうとした。
けれど背後にあるのは、冷たいコンクリートの壁だけだった。
ジュンは彼の胸ぐらをつかんだ。
「お前だったのか?」
声は低かった。
低いからこそ、恐ろしかった。
「お前が、俺たちの情報を流したのか?」
ジュンヒョクは唇を動かした。
けれど、何も言えなかった。
その沈黙が、答えだった。
ジュンの手に力が入った。
「この野郎」
その声が裂けた。
「お前のせいで、仲間が死にかけたんだぞ」
ジュンヒョクの目元が赤くなった。
「チーム長……」
「ハナさんも、ナラさんも危なかった」
ジュンは歯を食いしばった。
「あの人たちが、何をしたっていうんだ」
ジュンの拳が上がった。
ジュンヒョクは目を閉じた。
しかし、その拳は最後まで振り下ろされなかった。
ジュンは震える手で、ジュンヒョクの胸ぐらをさらに強くつかんだ。
殴りたかった。
壊してしまいたかった。
けれど、できなかった。
彼は警察官だった。
そしてジュンヒョクも、まだ彼の後輩だった。
ジュンはジュンヒョクを壁に押しつけたまま、低く問い詰めた。
「言え」
息が荒くなった。
「なぜだ」
ジュンヒョクの脚から、力が抜けた。
ジュンは胸ぐらを放した。
ジュンヒョクはそのまま、冷たい階段の床に崩れ落ちた。
彼はしばらく、顔を上げることができなかった。
階段の下から、かすかな風の音が上がってきた。
ジュンは彼を見下ろした。
「答えろ」
ジュンヒョクは震える手で、顔をぬぐった。
「申し訳ありません」
その声は、ほとんど聞こえないほど低かった。
「俺も……ここまでになるとは思いませんでした」
ジュンの目が冷たく沈んだ。
「その言葉で終わらせるつもりなら、やめろ」
ジュンヒョクは顔を上げた。
殴られてもいないのに、すでに殴られた人間のように顔が崩れていた。
その目には涙がにじんでいた。
「仮想通貨をやりました」
ジュンは何も言わなかった。
「最初は、小さな金額でした。すぐに取り戻せると思っていました」
ジュンヒョクは乾いた唾を飲み込んだ。
「でも、失いました。取り返そうとして借金をして、融資も止まって……闇金にまで手を出しました」
話せば話すほど、その声は小さくなっていった。
「利子が雪だるまみたいに膨れ上がりました。どうにもできませんでした」
ジュンは歯を食いしばった。
「それで、情報を売ったのか?」
ジュンヒョクはうつむいた。
「あいつらが先に知って、近づいてきたんです」
「何を」
「俺がどこから金を借りたのか、いくら失ったのか、家族がどこに住んでいるのか……全部、知っていました」
ジュンヒョクの手が震えた。
「金をやるから、小さな情報だけ流せと言われました」
ジュンの声が冷たくなった。
「小さな情報?」
「最初は本当に、小さな情報でした」
ジュンヒョクは床を見つめたまま言った。
「誰が現場に出るのか。どのチームが動くのか。その程度でした」
ジュンが低く笑った。
笑いというより、怒りが漏れた音だった。
「その程度?」
ジュンヒョクは顔を上げられなかった。
「引き返せると思っていました」
その目元が、さらに赤くなった。
「一度だけ流せば終わると思っていました。金を返せば、抜け出せると思っていました」
「それで?」
「あいつらは、最初から終わらせるつもりなんてありませんでした」
ジュンヒョクは両手で頭を抱えた。
「一度渡したら、今度はもっと大きなものを要求してきました。断ろうとしたら、脅されました。俺がやったことを全部ばらすと。家族にまで手を出すと」
ジュンは目を閉じた。
彼が一番恐れていた答えだった。
卑怯な選択。
取り返しのつかない過ち。
そしてその過ちを餌にして育った、さらに大きな悪意。
ジュンヒョクは震える声で言った。
「申し訳ありません、チーム長」
ジュンは何も言わなかった。
「俺も、ここまでやるつもりはありませんでした」
「黙れ」
ジュンの声が冷たく遮った。
ジュンヒョクは口を閉ざした。
ジュンはゆっくりと息を吸った。
彼はこの瞬間にも、怒りよりもっと恐ろしいものを感じていた。
傷。
信じていた人間に裏切られた傷。
そしてそれでもなお、この後輩を完全には切り捨てられない自分への怒り。
ジュンはしばらくして、ようやく口を開いた。
「それで」
ジュンヒョクが顔を上げた。
「これからどうするつもりだ」
ジュンヒョクは涙を飲み込むように唇を噛んだ。
そして、ゆっくりと言った。
「自分の手で終わらせます」
ジュンの目が鋭くなった。
「何を」
「あいつらを」
ジュンヒョクの目に、初めて力が戻った。
「警察官として始めたことです。警察官らしく、終わらせます」
ジュンは冷ややかに彼を見つめた。
「その言葉で、お前の罪が消えるわけじゃない」
「わかっています」
「お前は自首しなければならない」
「わかっています」
ジュンヒョクはうなずいた。
「ですがその前に、俺が知っていることは全部話します」
ジュンは階段の手すりをつかんだ。
「話せ」
ジュンヒョクは息を整えた。
「廃工場の残党は、ほとんど逃げました」
「ほとんど?」
「はい。ですが晋州支部を動かしていた男は、まだ晋州に残っているようです」
ジュンの目が変わった。
「名前は」
ジュンヒョクは首を横に振った。
「わかりません。顔も、まともに見たことがありません。いつも別の人間を通して連絡してきました」
「なら、何を知っている」
ジュンヒョクは乾いた唾を飲み込んだ。
「最後の通話で聞きました」
「何を」
「月牙山」
ジュンの顔が固まった。
「月牙山?」
その名前が出た瞬間、ジュンの頭の中にチョンゴク寺が浮かんだ。
住職。
半月の玉がついた腕輪。
揺れていたナラの顔。
そして、あの言葉。
近しい者ほど、影は遅れて見えるものだ。
ジュンヒョクは苦しそうに言葉を続けた。
「正確な場所までは聞いていません。ただ……寺の前のほう、水辺、月がかかる場所。そんなことを言っていました」
ジュンの手が固まった。
「ほかには」
ジュンヒョクはしばらく迷った。
「それから……」
「言え」
「あいつらは、双子のどちらか一人を欲しがっていると言っていました」
その瞬間、非常口の中の空気が冷たく凍りついた。
ジュンは再び、ジュンヒョクの胸ぐらをつかんだ。
「どっちだ」
「それは俺にもわかりません」
「嘘をつくな」
「本当にわかりません!」
ジュンヒョクの声が崩れた。
「ですが、あいつらは二人のことを知っています。ハナさんが何を見るのか、ナラさんが何を感じるのか……ある程度は知っています」
ジュンの顔が固まった。
「その情報を、お前が流したのか」
ジュンヒョクは強く首を横に振った。
「違います。それだけは違います。俺は知りませんでした。あいつらがそこまで知っているなんて……」
ジュンは、その言葉を信じたくなかった。
けれどジュンヒョクの顔に浮かんだ恐怖は、嘘には見えなかった。
そのとき、ジュンの携帯が鳴った。
ハナだった。
ジュンはすぐに電話に出た。
「ハナさん」
――ジュン刑事さん。
ハナの声は、妙に不安げだった。
――ナラから、何か連絡は来ていませんか?
ジュンの目が、一瞬で固まった。
「ナラさんですか?」
――少し前に家の前に出たんですけど、まだ戻ってこないんです。電話にも出なくて。
ジュンは息を止めた。
非常口の冷たい空気が、喉を締めつけてきた。
「いつ出たんですか」
――十分くらい前です。少し風に当たってくるって言って……。
ジュンはジュンヒョクを見た。
ジュンヒョクの顔が、真っ白に青ざめていた。
月牙山。
双子のうち一人。
寺の前。
水辺。
月がかかる場所。
すべての言葉が、一瞬でつながった。
ジュンは低く言った。
「ハナさん」
――はい?
「ナラさんがどこにいるのか、見当がついたかもしれません」
受話器の向こうで、ハナの息が止まった。
――それ、どういう意味ですか?
ジュンは短く目を閉じ、そして開いた。
「まだ確かではありません。ですが……ナラさんは、拉致された可能性があります」
受話器の向こうで、再びハナの息が止まった。
――拉致……?
「心当たりがあります」
――どこですか?
ジュンは少し息を整えてから言った。
「月牙山です」
受話器の向こうが、静まり返った。
ジュンは低く言った。
「ハナさん、よく聞いてください」
――聞いてます。
ハナの声は震えていた。
それでも、不思議なほどはっきりしていた。
――でも、じっとしていろって言うなら聞きません。
ジュンは目を閉じ、また開いた。
「チョンゴク寺へ行ってください。一人で山の奥へ入ってはいけません」
――お寺に隠れていろってことですか?
「今は、そこが一番安全です」
――ナラが消えたのに、安全な場所にいろって言うんですか?
ハナの息が揺れた。
――私には無理です。
「ハナさん」
――チョンゴク寺までは行きます。でも、そこでただ待っているつもりはありません。
ジュンは歯を食いしばった。
彼の知っているハナなら、結局そう言う人だった。
逃げない。
待たない。
必ず飛び込む人。
だからこそ、止めなければならなかった。
「私がそちらへ向かいます。到着するまで、絶対に一人で動かないでください」
――遅れたら?
ジュンは答えられなかった。
――遅れたら、私一人でも入ります。
短い沈黙が流れた。
ジュンは低く言った。
「だから、遅れません」
電話を切ると、ジュンはすぐに階段を下りようとした。
だが、ジュンヒョクがその前に立ちはだかった。
「俺も行きます」
ジュンの目が冷たく変わった。
「どけ」
「俺が招いたことです」
「だから、なおさら駄目だ」
「チーム長!」
ジュンヒョクの声が裂けた。
「今回だけ……今回だけ、俺にやらせてください」
ジュンは彼を睨みつけた。
「お前はもう、線を越えた」
「わかっています」
ジュンヒョクは頭を下げた。
「それでも、まだ警察官でいたいんです」
その言葉に、ジュンの顔が歪んだ。
怒りのせいなのか、悲しみのせいなのか、自分でもわからなかった。
ジュンはしばらく、何も言わなかった。
やがて低く言った。
「ミンジェに連絡しろ。通信記録を全部渡して、支援を要請しろ」
ジュンヒョクが顔を上げた。
「チーム長」
「勘違いするな」
ジュンの声は冷たかった。
「お前を信じるわけじゃない」
ジュンヒョクは唇を閉じた。
ジュンは彼の横を通り過ぎながら言った。
「お前がどこまで壊れたのか、俺が最後まで見届けるだけだ」
その少し前。
ナラは家の前の路地に立っていた。
雨は降っていないのに、地面は妙に濡れていた。
街灯の光が、水のたまったアスファルトの上に長く滲んでいる。
ナラは手首を見下ろした。
白い半月の腕輪が熱かった。
最初は、ただ温かい程度だった。
けれど今は違った。
肌の奥にまで食い込んでくるような熱だった。
ナラは腕輪を包み込むように握った。
「どうして……」
その瞬間、背後から、とても低い声が聞こえた。
「見つけた」
ナラはゆっくりと振り返った。
路地の奥。
闇の中に、男が立っていた。
黒いコート。
濡れたような髪。
ほとんど光を宿していない目。
あの男だった。
感情が読めなかった男。
狩る者。
ナラの息が止まった。
彼からは、やはり何も読めなかった。
怒りも。
殺意も。
喜びも。
恐怖も。
何ひとつ。
その空白が、かえって叫び声のように大きく迫ってきた。
ナラは一歩、後ずさった。
「あなた……」
男はゆっくりと首を傾けた。
「今回は、お前に来てもらう」
ナラは逃げようとした。
だが、足が動かなかった。
違う。
足元の影が、先に動いた。
水のたまった地面の上に、淡い半月が浮かび上がった。
白い光。
ナラの手首からあふれ出した光だった。
男はそれを見下ろし、ごくかすかに笑った。
「やはりな」
ナラの心臓が狂ったように打った。
彼女はありったけの力で叫ぼうとした。
「ハナ……!」
けれど声は、最後まで出なかった。
路地の明かりが、一度だけ瞬いた。
そして次の瞬間。
ナラは消えた。
路地には、誰も残っていなかった。
ただ、雨水のたまった地面の上に、白い半月がひとつ、ほんの一瞬だけ浮かび上がり、消えた。
そのころ。
ジヌの撮影は、ちょうど終わろうとしていた。
スタジオの照明が、一つ、また一つと消えていく。
スタッフたちの足音が遠ざかり、控室前の廊下には、夜更け特有の疲れた静寂が降りていた。
ジヌは鏡の前に座っていた。
メイクチームが去ったあとには、まだパウダーの匂いと照明の熱が残っていた。
彼はゆっくりと目を閉じた。
一日中続いた撮影のせいか、頭が重かった。
そのときだった。
低い振動が聞こえた。
いや。
聞こえたのではなかった。
感じた。
耳ではなく、骨の内側へ染み込んでくる周波数。
ジヌは目を開いた。
鏡の中の自分の顔が、見知らぬもののように見えた。
これまで彼が感じてきた響きとは違っていた。
廃工場でも。
地下駐車場でも。
彼は不快な波動を聞いていた。
腐った空気のように濁り、古びた金属のように粗く、人の不安が混ざった音。
けれど今は違った。
これは、もっと深かった。
もっと鮮明だった。
そして不思議なほど、痛かった。
まるで、とても大切な何かが裂ける直前に立てる音のようだった。
ジヌはゆっくりと立ち上がった。
心臓が不規則に跳ねていた。
「これは……何だ」
彼は胸の上に手を置いた。
周波数は、遠くから彼を呼んでいた。
街の騒音の向こう。
道路と建物の向こう。
山のほうから。
月牙山。
その名前が浮かんだ瞬間、ジヌは息を止めた。
なぜそこなのかは、わからなかった。
それでも体は、もう知っていた。
行かなければならない。
今行かなければ、間に合わない。
ジヌは携帯と車のキーをつかみ、控室を出た。
マネージャーが廊下の奥で驚いて彼を呼んだ。
「ジヌさん? どこへ行くんですか? 明日は早朝撮影ですよ」
ジヌは足を止めなかった。
「少し出てきます」
「今ですか?」
ジヌは答えなかった。
扉が開き、夜の空気が流れ込んできた。
その瞬間、周波数はさらに鮮明になった。
低く、深い響き。
まるで闇の中で、誰かが彼の名前を呼んでいるようだった。
ジヌは車に乗り込んだ。
エンジンがかかった。
ナビをつける前から、彼の視線はすでに一つの方向へ向いていた。
月牙山。
そこで、何かが揺れていた。
そして、その揺れの真ん中に。
ナラがいた。
著:ジンファ・ジンギョン
(姉妹による共著)




