第十七話 月牙山の半月
翌日。
ハナとナラは、チョンゴク寺へ向かっていた。
月牙山へ上っていく道は、街中とは違っていた。
空気が違った。
音も違った。
車の騒音や人々の悲鳴、無線機の雑音が遠ざかり、その代わりに、湿った土の匂いと木の葉が揺れる音が満ちていった。
ハナは車の窓の外を眺めながら、小さく呟いた。
「お母さんのせいで、お寺まで来ることになるなんて」
ナラは答えなかった。
彼女は、窓の外へ続く山道を見つめていた。
曲がりくねった道。
湿った岩。
古い木々。
そのあいだから差し込む、曇った陽の光。
おかしかった。
初めて来る道なのに、完全に見知らぬ場所には思えなかった。
ナラはゆっくりと指先を握った。
「どうしたの?」
ハナが尋ねた。
ナラは少し迷ってから、首を横に振った。
「何でもない」
けれど、それは嘘だった。
何かがあった。
月牙山の奥から、とても古い感情の層が流れていた。
怒りではない。
悲しみでもない。
恐怖でもなかった。
それよりも、もっと深く、もっと古いもの。
待つこと。
ナラがその感情をきちんと読み取る前に、車は寺の入口で止まった。
チョンゴク寺は、山の中に低く佇んでいた。
古びた瓦。
苔のついた石段。
風に揺れる風鐸の音。
法堂の前庭には、すでにいくつかの灯籠が掛けられていた。
赤い灯籠。
黄色い灯籠。
白い灯籠。
その下で、小さな名札が風に揺れていた。
寺は静かだった。
その静けさが、あまりにも深くて、かえって少し見知らぬものに感じられた。
ハナとナラは、母と一緒に法堂の前に立った。
母は二人の名前を書くために、韓紙をそっと広げた。
「名前はちゃんと書かないとね」
ハナが小さく笑った。
「お母さん、私たちの名前って、そんな難しい漢字でもないでしょ」
「静かにしなさい。こういうものは、心で書くの」
母の声は、いつもと違って真剣だった。
ハナはさらにからかおうとして、口を閉じた。
母の指先が、少し震えていたからだ。
韓紙の上に名前が書かれた。
ハナ。
ナラ。
その名前が灯籠の下に掛けられた瞬間、ナラの指先がかすかに震えた。
風が吹いた。
灯籠が揺れた。
吊るされた名札同士が触れ合い、とても小さな音を立てた。
かさり。
かさり。
ナラの瞳が揺れた。
それは紙の音だった。
それなのに、どういうわけか、誰かがずっと遠くから囁いている声のように聞こえた。
そのとき、ハナの携帯が鳴った。
発信者はジュンだった。
ハナは周りを見回し、小さな声で電話に出た。
「はい、ジュン刑事さん」
――ハナさん。今どこですか?
ジュンの声は低く、切迫していた。
「どうしたんですか?」
――急いでナラさんの力が必要です。
ハナは法堂のほうを振り返った。
母が灯籠を整えていた。
「今は席を外しにくいんです。お寺に来ていて」
――お寺ですか?
「チョンゴク寺です。月牙山の」
短い沈黙のあと、ジュンが言った。
――私が行きます。
「え?」
――そこで待っていてください。
電話は切れた。
ハナは携帯を見下ろした。
「何なの。どうしてそんなに急いでるの」
それから、さほど時間は経たなかった。
法堂の前庭に、速い足音が響いた。
ハナが振り返った。
ジュンだった。
スーツを着ているわけでもなく、まだ現場からそのまま駆けつけてきたような顔をしていた。
ハナは目を大きくした。
「飛んできたんですか?」
ジュンは息を整えながら答えた。
「急いでいたので」
「いや、いくら急いでたって。お寺までこんなに早く来ます?」
ジュンは少し気まずそうに視線をそらした。
「それより、ここで何をしているんですか?」
そのとき、母がひょこっと顔をのぞかせた。
その目が、またきらりと光った。
「あら」
ハナは不吉なものを感じた。
「お母さん、やめて」
けれど、もう遅かった。
母はジュンをじっと見つめた。
「この端正で凛々しい青年は、また誰なの?」
ハナが額を押さえた。
「お母さんってば!」
ナラは小さく笑いを飲み込んだ。
ハナは急いで言った。
「刑事さんだよ。刑事さん」
ジュンはすぐに腰を折った。
「初めまして。晋州警察署のカン・ジュン警部補です。ハナさんとナラさんに捜査協力をお願いしています」
母はしばらく彼を見つめ、それから残念そうに呟いた。
「ああ、また肩すかしね」
ジュンは意味がわからず一瞬固まり、ハナは顔を赤くした。
「お母さん!」
その短い騒ぎの中でも、ナラは不思議な感覚から抜け出せなかった。
チョンゴク寺の空気は違っていた。
街の感情のように騒がしくもなく、廃工場のように腐ってもいなかった。
けれど、空っぽでもなかった。
ここは、何かを抱えていた。
とても古い記憶。
とても古い約束。
そして、まだ開いていない扉。
そのときだった。
法堂の奥から、低い声が聞こえた。
「来たか」
全員が振り返った。
住職が立っていた。
灰色の僧衣をまとった老僧だった。
初めて会う人間のようにそこに立っていた。
けれど、その眼差しは不思議なほど、ずっと昔から二人を待っていた者のようだった。
住職はハナとナラをゆっくりと見つめた。
「ようやく来たな」
ハナは戸惑った。
「私たちを、ご存じなんですか?」
住職はただ微笑んだ。
「知っていることと、待っていたことは、少し違う」
その一言が、二人の心の深いところを静かに揺らした。
ジュンの目が細くなった。
彼は住職を見つめた。
初めて会う人だ。
それなのに、この人はすでに知っている。
そう感じた。
住職は三人に茶を勧めた。
母は灯籠を掛ける手続きを済ませなければならないと言い、寺の世話係に案内されて法堂のほうへ歩いていった。
「あんたたちは、住職さんのお話をちゃんと聞いていなさい。お母さん、すぐ戻るから」
ハナは小さくため息をついたが、それ以上は言い返さなかった。
小さな茶室の中は、淡い茶の香りで満ちていた。
外では、風鐸の音がゆっくりと揺れていた。
ハナとナラ、そしてジュンは向かい合って座った。
ジュンは警戒を解かなかった。
寺という空間の中にいても、その目は依然として刑事の目だった。
住職は静かに茶を注いだ。
茶が器の中へ落ちる音が、やけに大きく聞こえた。
やがて住職が、ハナとナラを見た。
「一人は、見るべきではないものを見ている」
ハナの手が止まった。
住職はナラを見た。
「一人は、聞くべきではないものを聞いている」
ナラの顔がこわばった。
ジュンの目つきも変わった。
ハナは思わずジュンを見た。
ジュンもまた、住職から目を離さずにいた。
住職はそれ以上、深く説明しなかった。
ただ、二人の前へ茶碗を押し出した。
「二人が持っているものは、才能ではない」
短い沈黙。
「負い目でもあり、扉でもある」
ハナは何も言えなかった。
ナラも同じだった。
才能。
負い目。
扉。
三つの言葉が、茶室の中に長く残った。
ジュンは静かに住職を見つめていた。
知りすぎている。
彼はそう感じた。
住職は小さな箱を二つ取り出した。
古びてはいたが、きちんと手入れされた木箱だった。
箱が開かれると、その中には数珠の腕輪が入っていた。
それぞれの腕輪には、半月の形をした玉がついていた。
ハナのものは、ごく淡い青い光を宿していた。
ナラのものは、月明かりのような薄い白を帯びていた。
住職が言った。
「いつか道に迷うときが来る」
その声は低かった。
けれど、不思議なほどはっきりと響いた。
「そのとき、これがお前たちを繋ぎ止めてくれるだろう」
ナラは慎重に尋ねた。
「どうして、私たちにこれをくださるんですか?」
住職はナラを見た。
その眼差しは温かかった。
けれど、逃げられないほど深かった。
「お前たちの持つ月が、まだ半分だからだ」
ハナが首をかしげた。
「月、ですか?」
住職は答えなかった。
ただ、二人の手首に腕輪を乗せた。
玉が肌に触れた瞬間、ナラはごく短く息を飲んだ。
冷たくなかった。
むしろ、ずっと昔から自分を知っていたかのように、ほのかに温かかった。
ハナも自分の腕輪を見下ろした。
「変なの」
「何が?」
「初めてつけたのに……前から私のものだったみたい」
その言葉に、住職の微笑みがほんのわずかに深くなった。
ジュンは、もうそれ以上黙っていられなかった。
「住職」
住職が彼を見た。
「この事件について、何かご存じなんですか?」
茶室の空気が、静かに沈んだ。
住職は茶碗を置いた。
「事件は、人の営みだ」
彼はゆっくりと言った。
「だが、人の営みが長く積もれば、ときに土地も記憶する」
ジュンはその言葉を理解できなかった。
けれど、ナラは違った。
その言葉を聞いた瞬間、胸のどこかが低く響いた。
土地も記憶する。
空間も感情を抱く。
彼女がこれまで読み取ってきた感情の残響が、突然、別の意味を持ち始めた。
ナラは思わず尋ねた。
「では……ここも記憶しているんですか?」
住職の視線がナラへ届いた。
「記憶している」
風が吹いた。
茶室の外で、風鐸が揺れた。
ちりん。
短い音だった。
けれどその瞬間、ナラの視界がかすかに揺れた。
法堂。
月明かり。
白い服を着た二人の子ども。
別々の方向へ分かれていく二つの道。
そして、水の上に浮かぶ半月。
ナラは息を飲んだ。
映像は一瞬で消えた。
けれど手首の腕輪は、まだかすかに温かかった。
「ナラ?」
ハナが低く呼んだ。
ナラは首を横に振った。
「大丈夫」
けれど、大丈夫ではなかった。
ここは、ただの寺ではない。
ナラはそれを直感した。
しばらくして。
三人が茶室を出ようとしたときだった。
ジュンの携帯が鳴った。
カン・ミンジェだった。
ジュンはすぐに電話に出た。
「話せ」
――チーム長、本当に大したことじゃないかもしれないんですけど。
ミンジェの声は、いつものように軽かった。
だがジュンは、その軽さの奥にある緊張を感じ取った。
「話せ」
――現場の出入り記録と無線ログを照らし合わせていて、おかしな点を見つけました。
ジュンの目が冷たく沈んだ。
――廃工場の作戦直前、ジュンヒョク先輩が公式の無線網から外れていた時間が何度かあります。短いんですが、妙に重要な時間帯なんです。
ジュンの手に力が入った。
ミンジェが続けた。
――それと、その時間帯に、現場の外周カメラに映っていました。一人で離れた場所にいて、個人の携帯を持っていました。通話しているように見えます。
チョンゴク寺の風鐸が、風に揺れた。
ちりん。
ちりん。
ミンジェが慎重に付け加えた。
――どうもジュンヒョク先輩恋愛じゃなくて、本当に何かやらかしてる気がします。
ジュンの顔が冷たく固まった。
「無線の空白時間、CCTVの動線、現場出入り記録、ボディカメラ映像。すべて時系列で合わせろ」
――わかりました。
ジュンは電話を切った。
そして、静かに拳を握った。
ハナが彼の表情を見て尋ねた。
「何があったんですか?」
ジュンはすぐには答えなかった。
ハナが目を細めた。
「さっきは、急いでナラの力が必要だって言ってましたよね」
ジュンはしばらくナラを見た。
「廃工場から持ち帰った物を、ナラさんに確認してもらうつもりでした。何か残された痕跡がないか」
彼は低く息を吐いた。
「ですが、今の報告で優先順位が変わりました」
「ジュンヒョク刑事さんのことですか?」
ジュンは答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
ナラはジュンの顔を見た。
彼は怒っていた。
けれど、そのもっと深いところには、傷ついた人間の沈黙があった。
そのとき、住職が静かに言った。
「近しい者ほど、影は遅れて見えるものだ」
ジュンが住職を振り返った。
住職は、それ以上何も言わなかった。
ハナとナラは、手首につけた半月の玉の数珠を見下ろした。
青い光。
白い光。
二つの半月が、静かに光を宿していた。
ジュンは山の下を見つめた。
街は遠くにあった。
それでも、その闇はここまで届いていた。
信じていた者たちのあいだに、ひびが入り始めていた。
そしてそのひびは。
思っていたよりも、ずっと近い場所から広がっていた。
その瞬間、ナラの手首につけた白い半月が、ごくかすかに震えた。
ハナの青い半月も、ほとんど同時に淡い光を宿した。
二人は互いを見つめた。
何も言わなかった。
けれど、二人とも感じていた。
この腕輪は、飾りではない。
そしてチョンゴク寺は、終わりではなかった。
始まりだった。
著:ジンファ・ジンギョン
(姉妹による共著)




