第十六話 ひび割れた信頼
廃工場での作戦が終わってから、二時間ほどが過ぎていた。
ジュンは重い足取りで警察署へ戻ってきた。
廊下は、いつもと何も変わらなかった。
蛍光灯は冷たく光り、夜勤の職員たちの足音が、ぽつりぽつりと続いている。
けれどジュンの内側では、何かが崩れ始めていた。
これからは、誰も簡単には信じられない。
警察内部の情報が漏れていた。
作戦の動線。
突入班の配置。
後方待機地点。
そして、ハナとナラの名前まで。
それは、外部の人間が知り得る情報ではなかった。
内部に、誰かがいる。
ジュンは会議室に一人で座り、廃工場から持ち帰った書類をもう一度広げた。
紙に書かれた文字が、目の前で冷たく浮かび上がった。
正門進入。
裏門迂回。
後方待機。
双子。
ハナ。
ナラ。
ジュンは指先で、書類の端を押さえた。
誰が、この情報に触れられたのか。
作戦ブリーフィングにいた者。
無線記録を確認できる者。
現場の動線を知っていた者。
ジュンヒョク。
ミンジェ。
そして、数名の捜査チーム員。
ジュンの視線が止まった。
ジュンヒョク。
まさか。
その名前が浮かんだ瞬間、ジュンは無意識に首を横に振った。
どう考えても、ジュンヒョクではない。
ジュンヒョクは誰よりも誠実だった。
誰よりも責任感が強かった。
危険な現場でも、いつも一番に動いた。
ミスを一つでも減らすために、何度も記録を確認する後輩だった。
ジュンは目を閉じ、長く息を吐いた。
同じ仲間を疑わなければならない。
その事実が、何より彼を苦しめていた。
そのときだった。
会議室の扉が、そっと開いた。
「チーム長」
ミンジェが書類ファイルを抱えて入ってきた。
カン・ミンジェ巡査。
末端の巡査らしからぬほど、現場記録だけは几帳面な男だった。
普段は軽くて、おしゃべりで、冗談も多い。
けれど勤務時間だけは、不思議なほど真面目だった。
ミンジェは会議室の重い空気に気づいたのか、わざと明るく笑った。
「チーム長、最近ジュンヒョク先輩、恋愛してるみたいですよ」
ジュンが眉をひそめた。
「何?」
「恋愛ですよ、恋愛」
ミンジェは書類ファイルを机の上に置きながら、からかうように言った。
「隙さえあればぼんやりしてるし、電話が来ると必ず外に出て受けるんです。戻ってくるときの表情も、妙に変で」
ジュンは答えなかった。
ミンジェは一人で盛り上がったように続けた。
「一人でこそこそ電話してる感じが、まさに恋愛中の人っぽいんですよ。ジュンヒョク警査、もともとそういう人じゃないじゃないですか。勤務中は携帯なんてほとんど見ない人なのに」
ジュンの目が、かすかに固まった。
電話。
その一語が、頭のどこかに引っかかった。
廃工場の作戦前にも、ジュンヒョクは何度か席を外していた。
そのときは、気にも留めなかった。
現場に入る前なら、誰だって一度や二度、電話くらいする。
そう思っていた。
違う。
ジュンは自分で思考を断ち切った。
ジュンヒョクが、そんなことをするはずがない。
だが、一度生まれた疑念は、すでに細いひびのように心の奥へ残っていた。
そのとき、会議室の外から足音が聞こえた。
ジュンヒョクだった。
「何をそんなに深刻そうに話してるんですか?」
彼は扉のそばにもたれかかり、笑った。
「俺だけ抜きで?」
ミンジェが待ってましたとばかりに振り返った。
「先輩の恋愛話です」
ジュンヒョクの眉が、わずかに上がった。
「何?」
ミンジェはいたずらっぽく笑った。
「今日は彼女と電話しに行かないんですか?」
ジュンヒョクは鼻で笑い、手に持っていた書類でミンジェの肩を軽く叩いた。
「おい、くだらないこと言ってないで仕事しろ」
「えー、図星ですか?」
ミンジェはさらに調子よく返した。
「どれだけ美人なんですか。俺たちにも見せてくれないなんて。まさか先輩だけ恋愛して、俺たちはずっと残業しろってことですか?」
周りにいたチーム員たちが、軽く笑った。
空気が、ほんの一瞬だけ緩んだように見えた。
だが、ジュンは笑わなかった。
彼はジュンヒョクの顔を見ていた。
ジュンヒョクも笑っていた。
いつものように。
何でもない人間のように。
けれど、ごく短い一瞬。
眼鏡の奥の瞳が揺れた。
不安。
焦り。
そして、隠そうとする人間の反射的な緊張。
ジュンは、その一瞬を見逃さなかった。
ジュンヒョクはすぐに視線をそらした。
「チーム長、現場鑑識班の報告は、明け方ごろ入ると思います」
声はいつも通りだった。
あまりにも、いつも通りだった。
だからこそ、かえって不自然だった。
ジュンはゆっくりとうなずいた。
「わかった」
短い返事だった。
けれどその短い言葉の中で、ジュンの心はすでに一歩、後ろへ下がっていた。
彼はもう、以前と同じようにはジュンヒョクを見ることができなかった。
その夜。
ハナとナラ、そしてジヌは、暗い路地を並んで歩いていた。
ジヌは、二人を家の前まで送ると言った。
ハナは最初、大丈夫だと断った。
けれどナラは、黙ってうなずいた。
だから三人は、しばらく何も言わずに歩いた。
街灯の光が、濡れたアスファルトの上に長く滲んでいた。
遠くで聞こえていたサイレンの音は、もうかすかになっていた。
それでも三人の頭の中では、廃工場の中を引っかいていった古いスピーカーの雑音が、まだ消えずに残っていた。
最初に口を開いたのは、ハナだった。
「警察の中に、本当に誰かいるんでしょうか」
ナラはすぐには答えなかった。
ハナがナラを見た。
「何か感じなかった?」
ナラはしばらく迷った。
言うべきだろうか。
それとも、まだ飲み込んでおくべきだろうか。
感情は、いつも真実だった。
けれど、その感情が指し示す理由までは教えてくれない。
ナラは低い声で言った。
「ジュンヒョク刑事さんから……変なものを感じた」
ハナの足取りが、少しだけ遅くなった。
「どんな?」
「恐れ。不安。罪悪感」
ナラはゆっくりと指先を握った。
「でも、確信はできない。その感情が裏切りのせいなのか、それとも別の理由なのかは、わからない」
ジヌは黙ってその言葉を聞いていた。
彼はナラの横顔を見つめた。
他人の感情を読むということ。
人が隠しておきたい感情まで、望まなくても感じてしまうということ。
それは能力というより、毎回、傷に最初に触れてしまうことに近いのかもしれなかった。
ジヌは、軽々しく慰めの言葉を口にできなかった。
自分が感じる音や揺らぎも苦しい。
けれどナラが背負っている痛みは、また別の種類のものだった。
ただ、少しでも軽くしてあげたいと思った。
だから何も言わず、彼女を見つめていた。
ナラがその視線に気づき、顔を上げた。
「何ですか?」
ジヌは少しだけ動揺した。
ナラが慎重に尋ねた。
「何か、気になることがあるんですか?」
ジヌはしばらく彼女を見た。
そして、とてもやわらかく笑った。
「何でもありません」
嘘ではなかった。
けれど、すべてでもなかった。
重い沈黙の中、三人はハナとナラの家の前に着いた。
ところが、門の前に誰かが落ち着きなく立っていた。
ハナとナラの母だった。
彼女は二人を見るなり、大股で近づいてきた。
「こんな時間まで、どこを歩き回ってたの?」
声には怒りより先に、心配が滲んでいた。
「心配で、母さんがじっと座っていられると思う?」
ハナがため息をついた。
「言ったじゃん。今日は大事な用があって遅くなるかもって。私たちだって子どもじゃないし、二人で一緒にいたんだよ」
母の目が鋭くなった。
「母さんが心配しないでいられると思う? あんたたちが普通の子たちなの?」
彼女がハナの背中を軽く叩こうとした、その瞬間だった。
視線が横へ滑った。
ジヌ。
母の表情が、一瞬で変わった。
「あら」
さっきまで鋭かった目が、ぱっと明るくなった。
「どなた?」
ジヌが丁寧に頭を下げた。
「こんばんは。ソ・ジヌです」
母はハナとナラを交互に見て、それからもう一度ジヌを上から下まで眺めた。
「この顔もよくて、背もすらっとした青年は、どうしてうちの双子と一緒にいるのかしら?」
ハナが目を見開いた。
「お母さん」
母はまったく気にしなかった。
「どっちのお相手?」
ナラの顔が赤くなった。
「お母さん! 友だち、友だち!」
ハナは横で小さく呟いた。
「いや、今日一日長すぎるんだけど……」
母はもう一度、ジヌの顔をまじまじと見た。
どこかで見たことのある顔だった。
けれど、すぐには思い出せないようだった。
ハナがため息まじりに言った。
「お母さん、わからないの? 韓国の国民的俳優、ソ・ジヌじゃん」
母の目が丸くなった。
「あっ!」
ようやく、彼女の顔にぱっと光が差した。
「最近テレビをつけると出てくる、あの俳優さん?」
ジヌは少し照れたように笑った。
「そこまでではありません」
「何がそこまでじゃないの。どうりで、どこかで見た顔だと思ったわ」
母はすっかり顔を明るくして、ジヌを見つめた。
「実物のほうがずっと男前ね。画面が実物をちゃんと映せてないわ、映せてない」
「ありがとうございます」
ジヌは礼儀正しく頭を下げた。
母の声は、さっきまで二人の娘を叱っていた人とは思えないほど、やわらかくなっていた。
「こんな遅い時間に、うちの子たちを送ってくれてありがとう。入って、お茶でも飲んでいって」
ナラが慌てて母の腕をつかんだ。
「お母さん、急に何のお茶なの」
「どうして? お客さんにお茶一杯も出せないの?」
ハナは小さく呟いた。
「さっきは背中叩こうとしてたのに……」
ジヌは笑いをこらえるように、口元を少しだけ上げた。
そして丁寧に言った。
「本当にありがとうございます。でも明日は早朝から撮影があるので、今日は宿舎に戻らなければならなくて」
母の顔に、残念そうな色が浮かんだ。
「あらまあ、早朝撮影なら疲れるでしょうね」
「その代わり、次はぜひもう一度招待してください」
その言葉に、母の顔がまた明るくなった。
「もちろんよ。必ず来てね。お茶じゃなくて、ご飯を用意するから」
ジヌはやわらかく笑った。
「楽しみにしています」
彼はハナとナラへ視線を向けた。
「今日は、ここで入ってください」
ハナは軽く手を上げた。
「気をつけて帰ってくださいね、国民的俳優さん」
ジヌは小さく笑った。
「その呼び方は、少し負担ですね」
ナラが静かに言った。
「ありがとうございました。送ってくださって」
ジヌはしばらくナラを見つめた。
その目が、ほんの一瞬だけやわらかくなった。
「とんでもありません」
彼はそれ以上、何も言わなかった。
言葉を重ねれば、何かがばれてしまいそうだった。
ジヌはもう一度、母に挨拶をして、路地を曲がっていった。
彼の後ろ姿が、街灯の下で遠ざかっていく。
ナラはその姿を、しばらく見つめていた。
不思議なことに、彼が消えていく路地の先に、とても低い響きのようなものが残っている気がした。
母はそのとき、ようやく軽く手を叩いた。
「あ、そうだ。それはそうと、あんたたち二人、明日は時間を空けておきなさい」
ハナがすぐに顔をしかめた。
「なんで?」
「チョンゴク寺に行くの」
「急にお寺って、なんで?」
母の顔が、また真剣になった。
「急じゃないわ」
月牙山、チョンゴク寺。
母が昔から通っている寺だった。
彼女は、二人の娘が何度も事件に巻き込まれていることが、ずっと気がかりだった。
だから明日、二人の無事を願って、灯明を上げるつもりだった。
「住職さんが言っていたの。あんたたち二人を、必ず連れてきなさいって」
ハナはすぐに首を横に振った。
「お母さん、今そんなところに行ってる余裕ないよ」
母の声はきっぱりとしていた。
「だから行くの」
ハナが口を閉じた。
「あんたたちが、危ない場所にばかり立っているから」
ナラは静かに母を見つめた。
月牙山。
チョンゴク寺。
その二つの言葉が、不思議と胸の奥を叩いた。
説明のつかない響きだった。
ナラはゆっくりと言った。
「行こう、ハナ」
ハナがナラを振り返った。
「あんたまで、どうしたの?」
ナラにも、理由はわからなかった。
けれど、不思議と行かなければならない気がした。
「ただ……行かなきゃいけない気がする」
その夜、ナラはなかなか眠れなかった。
目を閉じると、廃工場の闇が浮かんだ。
崩れ落ちた鉄棚。
黒いファイル。
揺れていたジュンヒョクの目。
そして、山のほうから吹いてくるような、不思議な風。
月牙山。
チョンゴク寺。
その名前は、不思議なほど見知らぬものではなかった。
初めて聞く場所ではないように。
ずっと昔から、自分を待っていた名前のように。
ナラは指先を胸の上に置いた。
心臓は静かに打っていた。
けれど、その奥深くで、ごくかすかな響きが広がっていた。
まるで見えない扉が、遠くでほんの少し開く音のように。
著:ジンファ・ジンギョン
(姉妹による共著)




