第十五話 待っていた場所
十月の夜気は冷たかった。
晋州の郊外へ向かうほど、都心の明かりは一つ、また一つと遠ざかっていった。
闇は、少しずつ濃くなっていく。
廃工場は、その闇の中にうずくまる獣のように立っていた。
古びた鉄門。
錆びついた塀。
割れた窓。
風に揺れる、古い看板。
昼間なら、ただ捨てられた工場に見えたかもしれない。
けれど、夜が降りた廃工場は違っていた。
陰鬱で。
不吉で。
まるで、ずっと昔から誰かを待っていた場所のように見えた。
ハナとナラ、ジュン、そしてジヌは、それぞれのやり方で不安と恐怖を呑み込みながら、廃工場の近くへ到着した。
現場にはすでに、ジュンの連絡を受けたジュンヒョクと突入班が待機していた。
隊員たちは防弾ベストを身につけ、音もなく装備を確認している。
銃口は下を向いていた。
それでも空気には、すでに張り詰めた緊張がかかっていた。
ジュンが低い声でジュンヒョクに尋ねた。
「状況は?」
ジュンヒョクはすぐに答えた。
「工場内部には明かりがついています。奥から断続的に音も聞こえます。ただし、外から確認できる不審な動きは、まだありません」
ジュンの目が廃工場へ向いた。
闇の中で、工場の窓がいくつか、ぼんやりと光っていた。
「出入口は?」
「入手した図面と現場のGPS確認の結果、正門と裏門が、それぞれ東側と西側に一つずつあります」
ジュンは短くうなずいた。
「第一突入班は正門で進入待機。第二突入班は裏門へ回り込む」
その声は低かった。
だが、揺らぎはなかった。
「できる限り気づかれずに接近する。発砲は最終手段。生け捕りを最優先に」
「はい」
ジュンの指示が落ちると、突入班と警察官たちは一糸乱れず動き始めた。
誰も大きな声を出さなかった。
闇の中で聞こえるのは、風の音だけだった。
そして風が錆びた鉄門に触れるたび、きしむ音が短く夜気を引っかいた。
工場の裏手。
安全距離の外。
ハナとナラ、そしてジヌは、その様子を不安げに見守っていた。
ジュンが三人のほうへ戻ってきた。
「ここで待機してください」
ハナの表情がすぐに固まった。
「またですか?」
「今回は冗談ではありません」
ジュンはジヌを見た。
「ジヌさんが、お二人を守ってください。そして絶対に勝手に動かせないようにしてください」
ジヌは少し戸惑いながら、うなずいた。
「はい。全力で……止めてみます」
ハナが小さく舌打ちした。
「ちぇっ」
ジュンの視線がすぐにハナへ向いた。
「特にハナさん」
ハナが目を吊り上げた。
「なんで私だけ名指しなんですか?」
「一番動く可能性が高いからです」
ジュンは一瞬のためらいもなく言った。
「どうか軽率な行動はしないでください。突入班が来ているのには理由があります」
ハナは言い返そうとして、口を閉じた。
ジュンの顔が、あまりにも真剣だったからだ。
彼は再び工場のほうへ戻ろうとした。
その瞬間、ハナが低く呼び止めた。
「気をつけてください」
ジュンの足が止まった。
ハナは胸の奥に広がる不安を必死に押し込みながら言った。
「奴らの罠に、こっちから入っていくのかもしれません」
ジュンはしばらくハナを見つめた。
そして、ごく薄く笑った。
「心配しないでください」
短い言葉だった。
けれどその言葉が、なぜかハナの胸をさらにざわつかせた。
ジュンは身を翻し、工場へ歩いていった。
突入班の影が、彼の後を追って闇の中へ溶けていく。
ハナは今にも駆け出しそうに、体を前へ傾けた。
ナラがその手首を強くつかんだ。
「だめ」
「まだ何も言ってないけど」
「言わなくてもわかる」
ジヌが二人の間で、ぎこちなく笑った。
「あの……ジュン刑事さんに、止めるよう言われています」
ハナがジヌをにらんだ。
「止められると思います?」
ジヌは少し考えてから、正直に言った。
「止められないと思います」
その言葉に、ハナは呆れたように彼を見た。
だが、その瞬間。
ナラの表情が微かに変わった。
ジヌが最初に気づいた。
彼はナラのほうへ身を傾けた。
「何かおかしいんですか?」
ナラは廃工場を見つめていた。
その目が、少しずつ沈んでいく。
恐怖。
不安。
混乱。
そういう感情があるはずだった。
誰かがあそこに隠れているなら、見つかることを恐れたり、急いで逃げようとする感情が残っているはずだった。
けれど、工場のほうから流れてくるものは違っていた。
静かすぎた。
落ち着きすぎていた。
まるで。
「待っています」
ナラが低く言った。
ハナが振り返った。
「何?」
ナラの指先が、かすかに震えた。
「見つかることを怖がっているんじゃありません。逃げようとしているわけでもない」
ジヌの顔が固まった。
ナラはゆっくりと言葉を続けた。
「むしろ……私たちを待っていたみたいです」
廃工場の奥で、古い明かりが一つ、またたいた。
一度。
そして、もう一度。
ナラは息を呑んだ。
「罠です」
その瞬間。
工場へ入っていくジュンの背中が、闇の中へ完全に消えた。
ジュンは第一突入班とともに、正門へ近づいていた。
一歩。
また一歩。
隊員たちの足音は、土の地面にほとんど吸い込まれて消えた。
廃工場の正門は、半分傾いたまま閉じていた。
錆びた南京錠は、取っ手の横に無造作に掛けられている。
鉄門の隙間から、かすかな光が漏れていた。
ジュンは手を上げ、隊員たちを止めた。
全員が息を潜めた。
中から音が聞こえた。
古い機械が回るような、低い振動。
金属がどこかにぶつかるような、小さな響き。
そして、ずっと遠くから流れてくるような、人の声。
だが、おかしかった。
あまりにも一定だった。
生きている人間が動きながら出す音というより、誰かがわざと流している雑音のようだった。
ジュンの目が冷たく沈んだ。
彼は慎重に手を伸ばし、錆びた鉄門を押した。
ぎいいい。
ほんの少しだけ開けるつもりだった。
それでも古い鉄門は、夜気を引っかくような音を立てた。
扉の隙間から、工場の中が見えた。
錆びた鉄製の棚。
捨てられた工具箱。
積み上げられた廃材と、破れたビニールシート。
床には、黒い油の跡が染みのように広がっていた。
人の姿は見えなかった。
それなのに、工場の中が空っぽだとは思えなかった。
人はいない。
なのに、視線だけが残っているような感覚。
ジュンは低く息を吐いた。
その感覚が、気に入らなかった。
彼は後ろの隊員たちに短く手で合図した。
左に二人。
右に二人。
後方を警戒。
隊員たちは無言で散った。
ジュンは身を低くしたまま、最初に敷居を越えた。
彼の軍靴が工場の床に触れた、その瞬間だった。
カチッ。
どこかでスイッチが落ちる音がした。
同時に、工場内の明かりがすべて消えた。
完全な闇が降りた。
工場の外からも、その瞬間は見えた。
細く漏れていた光が、一斉に消えた。
ハナの顔から血の気が引いた。
「今の……見ましたよね?」
ジヌが低く言った。
ナラは答えられなかった。
廃工場のほうから流れてくる感情が、変わっていた。
待機から、確信へ。
まるで、誰かが中から扉を閉めて笑ったような感覚。
そのとき、天井のほうから雑音が弾けた。
ジジッ。
ジッ、ジジジッ。
古いスピーカーが目を覚ます音だった。
鉄をこするようなノイズが、工場の内外へぼんやりと広がっていく。
そして、低い男の声が流れた。
録音された声だった。
感情がなかった。
だからこそ、余計に気味が悪かった。
――歓迎する。
ジュンの眉が、わずかに動いた。
隊員たちの銃口が、一斉に闇へ向いた。
――ここまで辿り着いたのは、なかなかだ。
短い沈黙。
――だが、我々が待っていたのは警察ではない。
ジュンの手が無線機へ向かった。
しかし、無線からは雑音だけが流れた。
チッ、チジッ。
通信がつながらない。
ジュンの顔が固まった。
――お前たちは、これから証人になる。
声は低く、冷たかった。
――我々がなぜ消されたのか。
――そして、誰が我々を消したのか。
その瞬間、ハナの視界が白く弾けた。
閃光。
真っ暗な工場の中。
高く積まれた錆びた鉄製の棚。
その支柱がねじれるように折れ、巨大な鉄の塊が片側へ崩れ落ちた。
その下には、ジュンがいた。
そして、突入班の隊員たちがいた。
ハナの全身が、冷たい汗に濡れた。
「だめ」
ナラがハナを見た。
「ハナ?」
「鉄棚が落ちる」
ジヌの顔がこわばった。
「何ですって?」
「ジュン刑事さんと突入班が怪我をする」
ハナは震える息を、無理やり呑み込んだ。
怖かった。
けれど、怖がっている時間はなかった。
「動かなきゃ」
ナラがハナの手首をさらに強くつかんだ。
「ジュン刑事さんが待てって言ったでしょ」
「待ったら遅い」
ハナの目は揺れなかった。
「私はジュン刑事さんのほうへ行く」
そして、ジヌとナラを交互に見た。
「二人は突入班のほうをお願い」
ジヌは一瞬ためらった。
彼は警察官ではない。
訓練を受けた人間でもない。
けれどナラの顔を見た瞬間、もう下がれなかった。
ナラも静かにうなずいた。
「わかった」
それ以上、言葉はいらなかった。
次の瞬間、三人は同時に闇へ飛び込んだ。
「ハナさん!」
後ろで警察官の一人が叫んだが、もう遅かった。
ハナは正門へ向かって走った。
ナラとジヌは、後方の進入路へ身を翻した。
工場の中では、古いスピーカーの雑音がまだ鳴り続けていた。
――生き残ったなら、聞き続けろ。
その声を聞きながら、ハナはさらに強く地面を蹴った。
敷居を越えた瞬間、闇が彼女を呑み込んだ。
何も見えなかった。
それでもハナは、すでに見ていた。
未来が通り過ぎた場所。
ジュンのいる方向。
崩れる棚の位置。
その短い欠片だけをつかんで、ハナは闇の中へ飛び込んだ。
「ジュン!」
悲鳴のように、彼の名が弾けた。
ジュンが振り返った。
「ハナさん?」
彼の表情が固まった。
「なぜここに――」
言葉が終わる前だった。
ハナがジュンの背後へ体を投げ出した。
彼女は彼の腰にしがみつくように抱きつき、ありったけの力で横へ押し倒した。
二人の体が同時に床を転がった。
その直後。
ガアアアン!
巨大な鉄製の棚が轟音とともに崩れ落ちた。
さっきまでジュンが立っていた場所を、重い鉄の塊と錆びた部品が、そのまま押し潰した。
埃と油の匂いが、爆発するように広がった。
ハナは息を呑んだ。
目の前が白くなる。
けれど次の瞬間、自分を包み込む重い体温を感じた。
ジュンだった。
ジュンは本能的に体を反転させ、ハナを下にかばっていた。
崩れた鉄の破片の一つが、二人のすぐ横の床へ突き刺さった。
鋭い金属音が、耳を裂いた。
ハナの心臓が、狂ったように鳴っていた。
ジュンの腕が、彼女の肩と頭をしっかり包んでいた。
あまりにも近い距離。
ジュンの息が、ハナの額に触れた。
本来なら、彼が先に尋ねるべき言葉だった。
けれど、ハナが先に聞いた。
「大丈夫ですか?」
ジュンは一瞬、言葉を失った。
自分の胸の中で、ハナが彼を見上げていた。
恐怖に濡れた顔。
それでも最後まで退かない目。
ジュンは低く息を吐いた。
「まったく……」
その一言には、怒りと安堵と、隠しきれなかった優しさが混じっていた。
彼はハナを、もう少し強く抱きしめた。
「そんな軽率なことはするなと言ったはずです」
声は低かった。
けれど、冷たくはなかった。
むしろ、あまりにも安堵した人間の声だった。
ハナはどうにか息を整えながら言った。
「感謝してるなら、素直にありがとうって言えばいいのに」
ジュンは答えられなかった。
その代わり、ごく短く、彼女の肩をさらに強く抱いた。
その短い瞬間。
二人は互いが無事であることだけを確かめるように、動けなかった。
だが、工場の中はまだ終わっていなかった。
「全員、後退!」
後方から、ジヌの声が聞こえた。
「出口側へ避難してください! もうすぐ崩れます!」
ナラも突入班の隊長のほうへ走りながら叫んだ。
「今すぐ動いてください! ここにいたらだめです!」
突入班長は、最初は戸惑ったように二人を見た。
しかし次の瞬間、左側の棚の上で、カチッという音がした。
その音を聞いた突入班長の目が変わった。
「全員後退!」
命令が落ちると同時に、隊員たちが身を引いた。
ガアン!
二つ目の鉄製棚が、横へ傾きながら崩れた。
隊員の一人が、紙一重で体を転がした。
ジヌがその隊員の腕をつかんで引き出し、ナラはふらつく別の隊員の背を押して出口へ向かわせた。
埃と鉄粉が、工場内を覆い尽くした。
闇の中で、咳き込む声と無線機の雑音が入り混じった。
「負傷者を確認!」
ジュンの声が、再び工場内を切り裂いた。
彼はハナを立ち上がらせると、すぐに周囲を確認した。
「全員、位置を報告!」
「第一班、異常ありません!」
「後方、異常ありません!」
「第二班、軽傷者一名。移動可能です!」
ジュンは短くうなずいた。
ハナはまだ息を荒げていた。
ジュンが彼女を再び見た。
「怪我は?」
「ありません」
「確かですか?」
「はい」
「嘘なら叱ります」
ハナはこんな状況なのに、小さく笑った。
「刑事さん、今でも小言を言う余裕があるんですね」
ジュンの口元に、ごく薄い笑みがよぎった。
だがすぐに、その表情は冷たく固まった。
彼は崩れた棚の支柱を確認した。
自然に折れたものではなかった。
切られていた。
正確な位置で。
正確な時間に崩れるように。
ジュンの顎が、硬く固まった。
「奴らはいません」
突入班長が近づいてきて報告した。
「内部確認の結果、人員はいません。痕跡だけが残されています」
ジュンは闇の奥を見つめた。
人はいなかった。
だが、罠は残っていた。
そしてその罠は、正確に彼らへ向けられていた。
「全区域を捜索します」
ジュンが低く言った。
「小さな紙片一つも見逃さないように」
突入班と警察官たちが、再び動き始めた。
今度は、さらに慎重に。
崩れた鉄棚の間を通り、錆びた機械と廃材の山を一つずつ確認していく。
工場の中には、ついさっきまで誰かがいた痕跡が残っていた。
まだ完全には乾いていない紙コップ。
床に落ちた作業用手袋。
急いで切断されたケーブル。
壁に貼られていた地図が、破り取られた跡。
だが、人はいなかった。
奴らは、すでに抜け出していた。
ただ一つだけ、はっきりしていた。
彼らは知っていた。
警察が来ることを。
ハナとナラが来ることを。
そして、誰かがこの罠を見ることまで。
しばらくして、小さな工場事務室のほうから、突入班長の声が聞こえた。
「チーム長」
ジュンが振り返った。
突入班長は、古い机の上に散らばっていた数枚の紙を手にしていた。
「これを見てください」
ジュンはすぐに近づいた。
紙は半分ほどくしゃくしゃになっていて、一部はわざと破られたようだった。
だが、残された内容だけで十分だった。
警察内部文書。
今夜の作戦予想動線。
正門進入。
裏門迂回。
後方待機地点。
支援部隊到着予想時刻。
ジュンの手が止まった。
紙の端に、見慣れた言葉が書かれていた。
双子。
そして、その下。
ハナ。
ナラ。
工場の空気が、再び冷たく沈んだ。
ハナはジュンの表情を見て、直感した。
何かがおかしい。
取り返しがつかないほど、大きく。
ジヌが低く尋ねた。
「どうしたんですか?」
ジュンはしばらく答えなかった。
その視線は、紙の上に固定されていた。
怒りではなかった。
それよりも、もっと深い感情。
信じていた内側に、亀裂が入る瞬間の冷たさ。
ジュンはゆっくりと口を開いた。
「これは……」
声が低く沈んだ。
「警察内部の情報でなければ、知り得ない内容です」
ナラが息を呑んだ。
ハナの顔からも、冗談の色が消えた。
「それって……」
ジュンは答えなかった。
けれど沈黙だけで、十分だった。
誰かが漏らしている。
彼らの動きを。
作戦の経路を。
そして、ハナとナラの名前まで。
ジュンは紙をゆっくりと折った。
その目が、闇の中で冷たく光った。
廃工場で見つかったものは、本拠地ではなかった。
犯人でもなかった。
そこに残されていたのは、一つのメッセージだった。
我々は、お前たちを知っている。
そして今度は。
お前たちの番だ。
著:ジンファ・ジンギョン
(姉妹による共著)




