第十二話 消された人々
警察署の冷たい廊下。
静寂を破るように、切迫した足音が響いた。
タッ、タッ、タッ。
三人は同時に振り返った。
ジュンヒョクだった。
警察官にしては小柄な体格。
眼鏡の奥の目は、一見すると穏やかに見えたが、よく見ると、鋭い光がぞっとするほど冷たく閃いていた。
深刻な表情のジュンヒョクは、片手に分厚い書類封筒を抱えていた。
息を整えた彼が、ジュンを見た。
「チーム長」
ジュンが顔を上げた。
ジュンヒョクは書類封筒から、数枚の資料を取り出した。
「最初に捕まった電気設備の男」
彼は紙をめくった。
「名前はキム・ドヒョン」
「年齢は二十四歳」
「住所は、晋州の南江洞にある簡易宿泊街です」
ハナの眉が、かすかに動いた。
「二十四……」
思っていたより若かった。
ナラも、黙ったまま資料を見つめていた。
彼女の記憶には、まだあの男の空っぽな顔が残っていた。
俺たちは、もう死んだ人間だ。
あのとき彼が口にした言葉が、再び耳元へ沈んでくる。
ジュンヒョクは次のページをめくりかけ、ふと手を止めた。
血の気のない白い指先が、硬くこわばっていた。
「……家族関係は」
しばしの沈黙。
ジュンヒョクは低く言った。
「ありません」
ハナとナラが同時にジュンヒョクを見た。
ジュンヒョクはゆっくりと言葉を続けた。
「キム・ドヒョンは高校時代、両親と二歳上の兄を亡くしています」
彼の声が少し沈んだ。
「事業の失敗と生活苦の末に……」
ジュンヒョクは一度、言葉を止めた。
紙を握る手に力が入る。
「三人とも、心中しました」
その瞬間。
廊下に静寂が落ちた。
ハナとナラ。
そしてジュンまでも。
誰も何も言えなかった。
ジュンヒョクは重い表情で、次のページをめくった。
「そして……」
彼は乾いた唾を飲み込んだ。
「唯一の生存者が、キム・ドヒョンです」
最後の一言が落ちると、廊下は再び沈黙に包まれた。
蛍光灯の光の下、冷たいコンクリートの床だけが、かすかな冷気を放っていた。
ハナは黙って唇を噛んだ。
ナラはゆっくりと目を閉じた。
昨日、留置場の廊下で感じた感情の残響が、またよみがえった。
怒りではなかった。
後悔でもなかった。
それは、生き残った人間が長いあいだ抱え続けてきた、果てしない諦めだった。
ナラが目を開けた。
その目の色が、少し変わっていた。
何かを決意したように、ナラは突然ハナの手首をつかんだ。
「行こう」
「どこに?」
急なナラの行動に、ハナが目を丸くして尋ねた。
ナラはジュンヒョクが持っている資料を見た。
「その人の背景になっている場所」
彼女の目が鋭くなった。
「その人が、口を閉ざすことになった場所」
その様子を見ていたジュンが、すぐに二人の後を追った。
「どこへ行くにしても、報告はしてから動いてください」
ハナが振り返った。
ジュンの声はいつものように硬かった。
だが、その中には確かな心配が混じっていた。
「危険ですから」
ナラはその言葉を聞き、静かにうなずいた。
「あの住所です」
ジュンが足を止めた。
ナラは資料を見つめ、ゆっくりと言った。
「その人が住んでいた場所。そして家族が眠っている場所」
ハナとジュンは、そのときようやくナラの意図に気づいたように、互いを見た。
キム・ドヒョンがなぜ口を閉ざしたのかを知るには、彼が生きてきた時間を見なければならなかった。
ジュンはしばらく黙っていた。
そして低く言った。
「気をつけてください」
ハナは意外そうに彼を見た。
ジュンは視線をそらさなかった。
「携帯は必ず持っていてください」
彼はナラを見てから、もう一度ハナを見た。
「軽率な行動はしないでください」
ハナは軽く笑おうとした。
けれど、口角は簡単には上がらなかった。
「わかりました」
ナラも短く答えた。
「はい」
二人はすぐに、キム・ドヒョンが住んでいた場所へ向かった。
晋州、南江洞の端。
低い建物がぎっしりと並ぶ路地の奥に、キム・ドヒョンの住所はあった。
錆びた門。
塗装の剥がれた壁。
今にも崩れそうに傾いた屋根。
その家は、人が暮らしていた場所というより、ずっと昔に捨てられた廃屋のように見えた。
門の前に立つと、湿って重たい空気が先に二人を迎えた。
カビの匂い。
古い木の匂い。
そして長いあいだ日差しを浴びていない部屋特有の、じっとりとした匂い。
ハナは思わず鼻先をしかめた。
「こんなところに……人が住んでいたっていうの?」
返事はなかった。
ナラは苦しげな顔で周囲を見回した。
古い下駄箱。
片脚の傾いた椅子。
いつから止まっているのかわからない壁時計。
生活の跡はあった。
けれど、温もりはなかった。
ナラは慎重に中へ入った。
部屋は狭かった。
狭い空間の中に、古い布団、小さな電気ストーブ、歪んだ鍋がいくつか置かれている。
そして、すっかり古びた卓上に、たった一枚だけ残された家族写真があった。
ナラはゆっくりとその前へ近づいた。
写真の中のキム・ドヒョンは高校生だった。
今の空っぽな顔とは、まるで違っていた。
彼の顔には生気があった。
目は澄んでいて、口元には不器用だが明るい笑みが浮かんでいる。
まだ未来があると信じている少年の顔。
意欲も、夢も、明日への期待も、消えてしまう前の顔だった。
その後ろには、若い母親と父親が立っていた。
そして二歳上の兄らしい少年が、ドヒョンの肩に腕を回している。
四人とも、明るく笑っていた。
あまりにも平凡で。
だからこそ、残酷な写真だった。
ハナは黙って写真を見つめた。
「この人が……」
彼女の声が小さく揺れた。
「あの人なの?」
ナラは答えられなかった。
喉の奥が詰まったようだった。
写真の中の少年と、留置場の中の男は、あまりにも違っていた。
一人はまだ生きていて。
もう一人は、ずっと昔に死んでいた。
ナラの目が赤く潤んだ。
「こんな人が……」
彼女はようやく言葉を絞り出した。
「家族を失って」
指先が震えた。
「一人で残されて」
写真の上には、古い埃が積もっていた。
ナラはそれを、そっと拭い取った。
「絶望の中で、生きてきたんだね」
その瞬間。
部屋の空気が、かすかに揺れた。
ナラの息が止まった。
古い壁紙の隙間から、はるか昔の感情が滲み出してくる。
最初はかすかだった。
だが、すぐに波のように押し寄せた。
息を殺した泣き声。
言葉にできなかった罪悪感。
一人だけ生き残ってしまったという、耐えがたい羞恥。
そして誰にも気づかれないよう、何度も何度も押し込めてきた絶望。
ナラの視界が滲んだ。
ハナが慌てて近づいた。
「姉さん」
ナラは卓の端をつかんだ。
「大丈夫」
「大丈夫そうに見えないけど」
ナラは首を横に振った。
だが、感情は止まらなかった。
その家は空っぽだった。
けれど、空っぽではなかった。
キム・ドヒョンがこの場所で飲み込んできた夜が、そのまま残っていた。
家族写真の前でご飯を食べた夜。
誰も帰ってこない扉を見つめた夜。
生き残ったという事実ひとつのせいで、二度とまともに笑えなくなった夜。
ナラは目を閉じた。
そして、とても小さく呟いた。
「この人は……」
ハナが彼女を見つめた。
ナラはゆっくりと目を開けた。
「犯罪者になる前に」
その声は、壊れそうなほど低かった。
「先に、捨てられた人だった」
そのときだった。
ナラの脳裏に、一つの光景がかすめた。
古い建物。
長い廊下。
ぼんやりした照明の下、果てしなく続く小さな区画。
近くの市立納骨堂だった。
その一番奥、小さな一画の前に、誰かが立っていた。
うつむいたまま。
何も言えないまま。
力なく。
その姿はキム・ドヒョンだった。
写真の中では笑っていた少年。
留置場の中ではすべてを諦めた目をしていた男。
彼が、家族の遺骨が納められた小さな区画の前で、長いあいだ動けずに立っていた。
ナラは息を吸い込んだ。
ハナが驚いて彼女を支えた。
「姉さん?」
ナラの目の色が再び変わった。
「行こう」
「今度はどこに?」
ハナが半ば呆れた顔で尋ねた。
ナラはもう、玄関のほうへ歩き出していた。
「確かめないと」
「あ、はいはい」
ハナは諦めたようにため息をつき、後を追った。
「姉さんが“行こう”って言ったら、もう行くしかないってことね」
二人が向かったのは、キム・ドヒョンの家族が眠る市立納骨堂だった。
納骨堂へ向かう途中、ナラは近くの花屋の前で足を止めた。
華やかな花束ではなかった。
小さな白い菊を一輪。
ナラはそれを慎重に選んだ。
ハナは何も言わずに会計を済ませた。
市立納骨堂の中は静かだった。
静かすぎて、二人の足音さえ慎重になった。
壁一面に、小さな名前が並んでいた。
それぞれの人生が。
それぞれの死が。
手のひらほどの空間に、静かに閉じ込められている。
ナラは幻視で見た廊下をたどった。
そして、ついに立ち止まった。
キム・ドヒョンの父。
キム・ドヒョンの母。
キム・ドヒョンの兄。
三人の名前が、小さな名札の上に並んで記されていた。
ハナはその名前を、ゆっくりと読んだ。
読むだけで、喉の奥が詰まった。
ナラは白い菊を一輪、そっと添えた。
そして一歩下がった。
二人は並んで頭を下げた。
長く、黙祷した。
彼女たちの知っている人たちではなかった。
一度も会ったことのない人たちだった。
それでも、彼らは一人の家族だった。
誰かが最後まで忘れられなかった名前だった。
そして、もしかすると、誰も訪れなかった名前だった。
ナラはとても低く言った。
「遅くなって、ごめんなさい」
ハナが彼女を振り返った。
ナラの目元は濡れていた。
「ドヒョンさんが……あまりにも長く、一人だったんです」
ハナは再び名札を見つめた。
「これからは、私たちが少しだけ聞きます」
二人はもう一度、頭を下げた。
その姿を、少し離れた場所から見ている人がいた。
納骨堂の片隅のベンチに座っていた、白髪の老人だった。
小柄な体に、古びた灰色の外套を着た老女だった。
老女は、二人が添えた白い菊と、その前で長く頭を下げる姿を、黙って見つめていた。
目元の古い皺が、深く折り重なった。
だが、彼女は何も言わなかった。
ただ、二人が去ったあとも、長いあいだその場所を見つめていた。
重い気持ちで警察署へ戻ったとき、署の前にはいつのまにか夕暮れが降りていた。
ハナは何も言わなかった。
ナラもしばらく口を開かなかった。
キム・ドヒョンが住んでいた部屋の湿った匂い。
卓上の家族写真。
納骨堂の小さな名札。
そのすべてが、二人の心の奥に重く沈んでいた。
警察署の中へ入ると、すぐにジュンが足早に近づいてきた。
その顔には珍しく、戸惑いと安堵が同時に浮かんでいた。
「いったい何をしたんですか?」
ハナが瞬きをした。
「え?」
ジュンは二人を交互に見た。
「キム・ドヒョンが接見を求めました」
ナラの瞳が揺れた。
「ドヒョンさんが?」
「はい」
ジュンの声が低くなった。
「突然、あなたたちに会いたいと言い出しました」
ハナとナラは互いを見た。
二人とも、目を見開いていた。
面会室は冷たかった。
厚いガラス窓が、内側と外側を隔てている。
しばらくして、扉が開き、キム・ドヒョンが入ってきた。
手錠をかけられた手首。
痩せた肩。
こけた顔。
ろくに食べていない人間特有の荒れた肌には、染みのような暗い斑点が浮かんでいた。
二十四歳。
資料にはそう書かれていた。
だが目の前のキム・ドヒョンは、資料の年齢より十歳は老けて見えた。
彼は椅子に座った。
最初はいつものように、うつむいたまま手錠だけを見下ろしていた。
ハナとナラが向かい側に座る。
誰も先に話さなかった。
長い沈黙の末、キム・ドヒョンがゆっくりと顔を上げた。
初めてだった。
彼が、誰かの目をまっすぐ見たのは。
その目は空っぽだった。
だが、完全に死んでいるわけではなかった。
かすかに震えていた。
「どうして」
喉に詰まったような声だった。
彼は再び口を開いた。
「どうして……」
乾いた唇が震えた。
キム・ドヒョンはもう一度尋ねた。
「どうして……納骨堂に行ったんですか」
ナラは何も言えなかった。
キム・ドヒョンの瞳の奥で、何かが崩れていくのが見えた。
怒りではなかった。
警戒でもなかった。
長いあいだ閉ざされていた扉の隙間から、ごく小さな光が漏れ出したようだった。
ハナも、ジュンも、何も言えなかった。
しばらくして、ナラが慎重に尋ねた。
「でも……どうして知ったんですか?」
キム・ドヒョンがナラを見た。
「え?」
ナラの声は低かった。
「私たちが、納骨堂に行ったことを」
キム・ドヒョンはしばらく唇を動かし、それからゆっくりとうつむいた。
「親戚のおばあさんから聞きました」
彼の声が低く割れた。
「子どものころ、時々僕の面倒を見てくれた人がいるんです。うちの家族がそこにいることを知っている、数少ない人の一人です」
彼は手錠をかけられた手を見下ろした。
「その人が言いました」
「今日……見知らぬ女の人が二人来て、花を置いていったって」
彼の指先が震えた。
「誰も来ないと思っていたのに」
面会室に、再び沈黙が降りた。
ナラはキム・ドヒョンに向かって、静かに言った。
「キム・ドヒョンという人が、どんな人なのか知りたかったんです」
ドヒョンがゆっくりと顔を上げた。
「あなたが犯したことではなくて」
ナラは言葉を選びながら続けた。
「あなたがどんな孤独の中で、どんな絶望の中で、ここまで来てしまったのかを知りたかったんです」
キム・ドヒョンの目元が赤くなった。
「初めてあなたを感じたとき」
ナラは自分の胸に手を当てた。
「あなたの中で、誰かがずっと叫んでいるようでした」
出してくれ。
ここから、出してくれ。
ナラの声が、とても小さくなった。
「だから、その孤独と絶望の中でもがいているあなたに……手を伸ばしたかったんです」
キム・ドヒョンの唇が震えた。
彼は長いあいだ、何も言わなかった。
やがて、突然、涙がこぼれ落ちた。
最初は一筋だった。
すぐに止まるかと思われた涙は、止まらなかった。
乾いた顔の上を、あまりにも長く耐えてきたものが、静かに崩れ落ちていった。
「あの日……」
キム・ドヒョンがようやく口を開いた。
喉が詰まり、声がうまく出なかった。
「学校の授業が終わって、家に帰ったんです」
彼は乾いた唾を飲み込んだ。
「でも……」
肩が震えた。
「兄さんも、母さんも、父さんも……みんな死んでいました」
ハナが息を止めた。
ナラの目にも涙が滲んだ。
キム・ドヒョンはガラスの下を見つめながら、言葉を続けた。
「家の前には警察がいて、見物人がいました」
彼の声に、初めて怒りが混じった。
「みんな、うちを見ていたんです」
「かわいそうだって言いながら」
「怖いって言いながら」
「どうしてあんなことができるんだって言いながら」
キム・ドヒョンは涙を拭うこともできなかった。
手錠をかけられた手が、膝の上で震えていた。
「それから記者たちが来ました」
彼は歯を食いしばった。
「一日も欠かさず来ました。うちの家族の話を売り物にするために」
「何も知らないくせに」
「うちの母がどんな人だったのか、父がどれだけ耐えようとしていたのか、兄がどれほど優しかったのか、何も知らないくせに」
彼の息が荒くなった。
「めちゃくちゃな記事を書いたんです」
「心中家族」
「借金苦の悲劇」
「一人だけ生き残った息子」
彼の唇が歪んだ。
「あの人たちは、僕の家族をもう一度殺しました」
ガラス越しの空気が、重く揺れた。
ドヒョンの声は、次第に涙に沈んでいった。
「全部、憎かった」
「記者たちも」
「見物していた人たちも」
「かわいそうだって顔で僕を見る大人たちも」
彼はうつむいた。
そして、とても小さく、それでも最も痛い言葉を口にした。
「僕だけを置いていった家族も」
ナラは目を閉じた。
ドヒョンの絶望が、そのまま押し寄せてきた。
キム・ドヒョンは、子どものように泣き始めた。
「どうして僕だけ残したんだ」
彼が呟いた。
「僕は、家族さえいれば大丈夫だったんです」
「今にも崩れそうな家も」
「ぼろぼろの制服も」
「気が狂いそうな空腹も」
彼の痩せた肩が震えた。
「母さんと、父さんと、兄さんさえいてくれたら、全部耐えられた」
「何だってできた」
そしてついに、彼の泣き声が崩れ落ちた。
「どうして僕だけ置いていったんだ」
「どうして行ってしまったんだ」
「みんなで一緒に乗り越えればよかったじゃないか」
「僕も連れていってくれればよかったのに……」
その慟哭は、ガラスを越えて、面会室の空気を重く震わせた。
ハナはうつむいた。
涙が落ちそうで、唇を強く噛んだ。
ジュンは面会室の外から、その光景を見ていた。
彼の顔は硬く強張っていた。
刑事として、数えきれないほどの犯罪者を見てきた。
だが今、目の前にいる男は、ただ罪を犯した人間ではなかった。
壊れたあと、誰にも起こしてもらえなかった人間だった。
ナラはゆっくりと口を開いた。
「ご家族がそういう選択をされたことは……本当に残念です」
ドヒョンが顔を上げた。
ナラの声は慎重だった。
彼の家族を、軽々しく理解していると言わないために。
一つ一つ、言葉を選んでいた。
「でも、私は思うんです」
「もしかしたら、ご家族はドヒョンさんの中に、最後の希望を見ていたのではないかって」
キム・ドヒョンの瞳が揺れた。
「希望……ですか?」
ナラはうなずいた。
「お前なら、私たちの分まで生きられる」
彼女の声が、さらに低くなった。
「だからどうか、私たちの分まで生きて……遠い未来でまた会おう」
キム・ドヒョンは何も言えなかった。
ナラは彼の目をまっすぐ見つめた。
「私には、見えるんです」
涙に濡れたドヒョンの顔が止まった。
「あなたの中にも」
「絶望の中で、それでもかすかに残っている意志が」
ナラの目元にも涙が溜まっていた。
「闇の中でも消えずに耐えている、とても小さな光が」
ドヒョンの手錠をかけられた手が、再び震えた。
ナラは静かに言った。
「だから、罪は償ってください」
「あなたがしたことは、消えませんから」
ドヒョンは唇を噛んだ。
「でも……」
ナラの声が、いっそう柔らかくなった。
「ご家族の分まで、ちゃんと生きてください」
「死んだ人のように耐えるんじゃなくて」
「生きている人として」
その言葉を聞いたキム・ドヒョンは、顔を伏せた。
もう、耐えられないようだった。
最初は、息を殺した泣き声だった。
だが、やがて肩が震えた。
全身が揺れた。
彼は手錠をかけられた手で顔を覆おうとしたが、うまく隠すこともできなかった。
涙が手の甲を伝って流れ落ちた。
面会室の中には、しばらく彼の泣き声だけが残った。
誰も、その涙を止めなかった。
誰も、急かさなかった。
初めて、キム・ドヒョンは犯人ではなく、一人の人間として泣いていた。
遠い昔に家族を失った少年として。
誰にも聞いてもらえなかった生存者として。
そして、まだ完全には死にきれなかった人間として。
著:ジンファ・ジンギョン
(姉妹による共著)




