それを、忘れない
目が覚めた瞬間、
世界が、音を失っていた
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いつもなら聞こえるはずの朝の音が
何もない
鳥の声も、車の気配も、人の生活音も。
何もない。
まるで
世界だけが一枚剥がれ落ちたみたいに
「……は?」
体を起こす。
そのとき気づく。
机の上に、
紙が一枚置かれている。
昨日までは、
絶対に存在していなかった場所に。
ゆっくり手に取る。
白い紙。
それが“異常”だと気がつく前に、指が触れていた
そこに書かれていたのは——
『まだ、忘れてない?』
喉が乾く。
見覚えのない文字。
なのに、
なぜか知っている気がした。
“知っていたものを失った感覚”だけが残っている。
胸の奥がざわつく。
紙を裏返す。
何もない。
ただの裏面。
それなのに、
指先だけが離れない。
もう一度表を見ると、
インクがわずかに滲んだ気がした。
まるで、
今さっき書かれたみたいに。
「……気持ち悪」
そう呟いても、
捨てられなかった。
理由はない。
ただ、
これを手放したら、
“何かが終わる”気がした。
制服に着替える。
その間もずっと、
あの言葉が頭の中で反響している。
『まだ、忘れてない?』
誰に向けた言葉だ。
自分に?
それとも——
ポケットに入れる。
外に出る。
いつもの道。
いつもの朝。
……のはずなのに、
どこかが決定的にズレている。
信号待ちで立ち止まる。
無意識にポケットへ手を入れる。
紙がある。
そして、
増えている。
「……は?」
一枚だったはずだ。
確かに、一枚だった。
なのに二枚ある。
指が震えながら取り出す。
一枚目。
『まだ、忘れてない?』
二枚目。
『よかった』
心臓が跳ねる。
「誰だよ……」
声が漏れる。
周囲が一瞬だけこちらを見る。
でも関係ない。
ポケットの奥に、
まだ“厚み”がある。
取り出す。
三枚目。
開く。
『まだ、消えてない』
その瞬間、
頭の奥で何かが軋んだ。
知らないはずの感覚。
笑い声。
隣にいた誰かの気配。
同じ景色を見ていた記憶。
一瞬だけ、
“確かに存在していた世界”が流れ込んで——
すぐに消える。
「……誰だよ、お前」
怖い。
なのに、
捨てられない。
捨ててはいけない気がする。
四枚目。
もう驚かない。
開く。
『思い出したら、終わるから』
息が止まる。
その下に、
かすれた小さな文字。
『お願い』
その瞬間、
世界の音が一気に戻る。
車の音。
人の声。
信号機の電子音。
さっきまでの無音が嘘のように押し寄せる。
なのに、
その言葉だけが消えない。
思い出したら、終わる。
「……終わるって、なんだよ」
そのときだった。
背後で声がした。
「やっと、気づいたな」
振り返る。
誰もいない。
でも確かに、
すぐ後ろで聞こえた。
息が浅くなる。
心臓が嫌な速さで打つ。
理解が追いつかない。
それでも、
一つだけ確かなことがある。
これは偶然じゃない。
ポケットの中に、
最後の一枚。
取り出す。
開く。
『それでも』
そこで途切れている。
続きはない。
なのに、
なぜか理解してしまった。
この先を、
自分は知っている。
思い出せば、
すべてが繋がる。
でも、
それをやった瞬間——
何かが終わる。
風が吹く。
紙が指からすり抜ける。
「……っ」
反射的に手を伸ばす。
届かない。
白い紙が落ちていく。
その一瞬だけ、
インクが浮かぶ。
『まだ、思い出さないで』
そして消える。
何もなかったみたいに。
立ち尽くす。
呼吸だけがやけにうるさい。
何もわからない。
でも、
胸の奥だけがはっきりしている。
これは他人の話じゃない。
そして、
確かに“誰かがいた”という感覚だけが、
消えずに残っている。
——レイ。
その名前が、
頭の奥で形になりかけて、
すぐに崩れた。
⸻
ここから、
すべてが“残響”になる。




