神さま、嗚咽を漏らす。
助けを求めた所で、誰も応えてはくれない。
今まで、何度叫んでも。
どれだけ涙を流しても。
それらの行動が意味を持った事は、一度たりとも無かった。
力を入れるだけ痛みが増すだけだし、泣いて許しを乞うだけ加虐心を誘うだけだ。
分かっている。
だから、全て諦めて、流そうとした。
受け入れる必要なんてない。
嵐のようなものだ。
過ぎ去るのを、ただじっと、待てば良い。
……そう、思っていた。
ロウソクの灯りが揺れる部屋。
近付く影が、俺の唇に触れる。
そのほんの少し前に、村長が自分の口元を舐め回した。
変態という生き物は世界すら超えて、自分の支配下にあるモノにツバを付けたがる生き物なんだなぁ。
どこか他人事のように、一歩下がった所で、そんな風に思っていた。
だが意識は、不意に背後から伸びた手によって、急激に現実に引き戻された。
その突如現れた手は、村長の口を乱暴に鷲掴みにした。
俺の背後は、地面だ。
誰かが潜む余地などない。
しかもその手は黒く、実体があるとも思えない、影のように朧気な見た目をしていた。
次から次へと影から伸ばされる手に雁字搦めにされた村長は、宙に浮き顔を真っ赤にしてもがいている。
最初に口を塞いだ影が、口も鼻も塞いでいるのだ。
息が出来ないのだろう。
これは……逃げても、良いのだろうか?
不思議と、影から伸びる腕は、俺には一切触れて来ない。
と言うか、俺の身体をすり抜けていき、触れる事が出来ない。
俺を拘束していた腕の持ち主は今、天井で磔になっている。
この状態から「ジャマは入ったが続きをしよう」だなんて言える程の猛者ではあるまい。
自由になったのだから、動いても……逃げても、良いだろう。
うん。
そんなに強い力で押さえつけられたワケではない。
なのに手に力が入らず、起き上がる事が、出来なかった。
どうやら情けないことに、腰を抜かしてしまったらしい。
運動機能の一切が、猛烈なショックによるストレスで遮断されてしまっている。
交感神経が暴走しているせいだ。
大丈夫。
原因は分かっている。
血流さえ元通りになれば、動ける。
問題ない。
深呼吸を……
頭では分かっているのに、うまく息が吸えない。
違う。
吐けていないのか。
ハッハッとまるで犬のように、荒い呼吸音だけが部屋に響く。
手足の痺れに、血の気が引くような感覚。
完全に過呼吸だ。
あぁ、チクショウ。
こんな事、ここ近年無かったのに……
忌々しい。
人に害されてこうなっているのに、寒くて人肌が恋しいと感じてしまう。
せめて自分を抱きしめようと思えど、痺れて動けない。
村長の姿が、酷く遠くにあるように思える。
影で簀巻きにされていて、どこが頭なのかすら、分からなくなっている。
顔を見ずに済むのは、有難い。
目を開けているのも億劫になってきて目を閉じたら、重力に逆らった時の感覚が、全身を襲う。
誰かに、抱き上げられたらしい。
ガクリと首が、後ろに下がった。
自分の頭なのに、酷く重く感じる。
……誰だ?
ココに来られる該当人物が、思い浮かばない。
『――遅くなってごめん。
肩でも、胸でもいいから、顔を押し付けて。
……そう。
吸って……、吐いて……』
ふわりと感じる甘い香りに、落ち着いたトーンの優しい声。
あくまで仮初の器でしかないから、本来なら匂いなんてしない。
精霊は代謝なんてしないし、体温もないのだから。
しかし俺のワガママを聞いて、朝から料理をさせられていたために、ソレが体臭のように染み付いてしまっているようだ。
呼吸をすると肺いっぱいに広がる懐かしい香りに、少しずつ呼吸が落ち着いて来た。
……まさか、具現化した状態で、琥珀が駆けつけてくれるとは思わなかった。
この村に滞在している間は、娘である瑞基と鉢合わせをしたくないから、姿を現さないと言っていたのに。
俺が迂闊だったばっかりに、申し訳ない事をしてしまった。
『――そういう所は君の長所だけれど、こんな時まで、他人に配慮しないで。
今は、自分のことだけ考えて』
汗と涙でグチャグチャになっている顔を、服に押し付けた状態というのは、なかなかに落ち着かないものなのだけれど。
汚してしまう。
特に今は女装をしている。
ウォータープルーフの化粧品なんて使っていないので、押し付けた部分だけ、服が真っ白になってしまわないかが心配だ。
……少なくとも、思考を変な方向に向けられるようになっただけ、余裕が出てきたと判断して良いだろうか。
服なら、洗えば良いのだ。
琥珀のお言葉に甘えて、胸を貸して貰った。
落ち着いてくると、失われていた五感も戻って来たようだ。
突然、ラジオの電源が入ったように、外から、喧騒が聞こえてきた。
こんなにハッキリと外の音が分かるくらい壁が薄いのに、人をレイプしようとしたのか?
あのオッサンは。
やはり加虐的な嗜好の持ち主だったのだろうなぁ。
聞かれて興奮するタチとか、救えねぇ。
勢い良く扉が開かれると同時に、無数の手の影は、跡形もなく消え去った。
前置きも何もなく、天井から落とされた村長は、受け身もろくに出来なかったのだろう。
顔面から無様に落ちて、派手な音と共に鼻と前歯を折っていた。
よく見れば、天井にめり込んだ跡がある。
凄い力で押さえつけられていたようだし、もしかしたら、とうに気絶していたのかも。
『――遅かったね?
瑞基は?』
「申し訳ありません。
気付くのが、遅れました。
彼女は、別の場所を探して貰っているので、まだ暫くは、コチラへは来ないかと」
琥珀の問いに、跪いてカノンが答える。
余程急いで来たのだろう。
肩で息をしている。
カノンにも、迷惑をかけてしまったか。
『――……そう。
私達が間に合ったし、遅くなったのは、不問にしてあげる。
ただ……大人のフリをしていても、この子はまだ、十六の子供だよ。
背伸びをして、虚勢を張っていた頃が、君にもあったことを、忘れていないよね?
もう少し、考えて行動はできなかったのかな?
この子の近くにいるヒトは、君しかいないのだから。
……任せるね?』
言って琥珀は、身を縮こませたカノンに、俺を手渡す。
前世が血縁関係とは言え、今の琥珀は伯父さんではなく、精霊神だ。
苦言を漏らされたら、萎縮するのは当然だろう。
しかもカノンは、精霊の信仰者でもある。
精霊術師だからね。
精霊の力を借りなければ、どれだけ自分達が無力で非力な存在か、嫌という程理解している。
そんな立場にいるのに、精霊のトップに直接お小言を言われたら、地面にめり込むまで土下座をしたくなる案件だろう。
俺を抱えたせいで、出来ないけれど。
まだ見た目を整えていないし、こんな状態で荷物の引渡しなんてしたら、クレームが来そうなんですけど。
せめて身なりを整えさせてくれ。
頼むから、顔を覗き込んでくれるなよ。
過呼吸を起こしたせいか、意識がボンヤリとしている。
あぁ、でも……忘れてしまう前に、カノンに、伝えなきゃ……
粉媒楢の蔓延は、人災だって。




