1の7 帝国へ
女王がそう言うと、シェイラは私の背中を打つようになった。
(エルヴィス? それが皇帝の名前?)
どうやら私が嫁ぐ予定の相手は、エルヴィスという名を持つらしい。
女王とシェイラは当然ながら、国同士の付き合いがあって、その王を知っているのだろう。
(蛮族の王と言っていたわね……。怖い人なのかしら)
でも夫がどんなに怖い男だろうと、今の状況よりはましな気がする。きっと皇帝は、シェイラのように私を鞭で打ったりはしないはずだ。
結界樹は王宮の奥の森に生えていた。
森の中にぽっかりと穴が開いたかのように湖があって、湖面には小さな島が浮いている。
その島の中央に、背の高い木が――結界樹が生えているのだった。
岸から島までは細い砂利道が伸びていて、まるで女神が人間のために作った橋のようだった。
連日の勉強で疲れていて、どうしても集中力が途切れてくる。
そんな時は決まってシェイラの怒声が飛んできた。
「ほら、ぼんやりしている暇はないわよ。手の平に意識を集中させなさい! 私とお姉様が頑張ってきた分まで、しっかり浄化するのよ!」
シェイラにとって浄化は、心身を削るような苦痛があるらしい。
実際、彼女は浄化した後、青白い顔で寝込んだりする。
だから私も同じように疲弊するのではと怖かったけど、私は浄化を行っても倒れたりはしなかった。
何日かは少し体がだるかったものの、平気だった。寝込む事もなかった。
だからこそシェイラは私の様子を見て、さらに怒りを燃え上がらせたようだった、
「嫁ぐまでずっと、私の代わりに浄化を続けなさい。休むのは許さないわ!」
疲れて浄化がうまく進まなかった日には、夕食を抜かれた。
逆に成功した日には遠目からハンスの脚の治療を見せてくれたりしたので、私はシェイラの機嫌に翻弄されながら一か月の日々を過ごした。
自分が苦しい日々を過ごしていただけに、ハンスの治療を見るのは嬉しかった。
いよいよ出発となった前日、シェイラは侍女に命令して、特殊な薬草で私の髪を紫色に染めた。
「これは三ヶ月しかもたないのよ。それまでに結界樹の浄化を終えて、アシュロムに帰ることね。あの男は偽の姫を見逃すほど甘くはないわ……。金の氷帝と呼ばれているくらいだから」
「金の氷帝……?」
「そう呼ばれるほど冷酷で残忍という事よ。魔獣殺しの皇帝ですものね……偽の姫だと知ったら、まず間違いなく処刑するでしょう。でも私達は助けたりしないわよ? 私の名を勝手に騙った傍流の姫だと報告して、ハンスも氷帝に差し出すわ」
「……」
シェイラが残酷な事を言うたびに、私は自分の誇りを汚されるような気分だった。
本当は、世界の守護者たるアシュロムの姫として、自分を誇りに思いたい。
でも現実はほど遠く、実際の私はハンスを人質に取られて、泣く泣くグリセーズ帝国へ嫁ぐのだ。
(普通の人間に生まれたかったわ)
ハンスの娘として生を受けたなら、どれだけ嬉しかっただろう。
無言のままの私に何を思ったのか、シェイラは楽しげに笑った。
「安心なさい、ティナ。あの男は私を大いに嫌っているから、手を出したりはしないはずよ。お飾りの妻になるのは間違いないわ。まあ私とあなたじゃ見た目は同じでも、巫女姫としての格が違うけれどね」
私の手はずっと畑仕事をしてきたせいか、一ヶ月たっても綺麗にはならなかった。少し日焼けしているし、爪も傷んでいる。
シェイラは私の手を見るたびに、蔑むような目で「姫の手だとは思えないわね」と嘲笑った。
でも私はシェイラの言葉にむしろ安堵を感じていた。
(嫌っているのなら、妻の手をじろじろ見たりはしないはずよ)
大嫌いな姫が嫁いでくる皇帝だって、早く祖国へ帰ってほしいはずだ。きっと私の事は放置してくれるだろう。
お互いに、たった三か月の我慢だ。
どれだけ嫌な出来事が起ころうと、三か月後には私とハンスは自由になれる。
私は不安と期待を胸に帝国へ向けて出発した。
何日もかけて国境に到着したが、隊の責任者である騎士はあっさりと言った。
「では我々はここで失礼します。女王陛下から、国境までと命じられていますので」
国境には古びた塔があった。
そこに着くと護衛の騎士も侍女も帰ってしまい、たった一人で何時間も塔で待つ羽目になった。
到着したのは昼頃だったけど、何も食べ物は持たされていない。
荷物は最低限で、古ぼけたドレスが二着だけ。
このまま塔で夜を明かす事になったどうしよう。ここは帝国から近いから、魔獣が出るかもしれない。
不安で心細くて、涙が出そうになった頃、遠くから馬車がやってきた。
何人かの騎士と、灰白色の髪の男性が塔に入って来て私に言った。
「一人で来たのですか?」
灰白色の髪の男性は、ひどく驚いた様子だった。
私はお腹がすいて倒れそうだったけど、シェイラそっくりに振舞おうと思って、可能な限り尊大な態度で答えた。
「ええ、そうよ。ぞろぞろと大人数で移動するのは好きじゃないの。侍女も邪魔だから帰したけれど、問題ないわよね? そちらの侍女を私に付けてちょうだい」
偉そうに言いながら、いつお腹がぐうと鳴るかと気が気ではなかった。
私が内心ではヒヤヒヤしていると、彼は少しだけ首を傾げたものの、馬車に案内してくれた。
「あなたの事だから、てっきり大勢の侍女を連れてくるだろうと思っていたのです。予想が外れましたね」
扉が閉まる直前、皮肉っぽく言われて、やっぱりそうなのねと思った。
(シェイラは自分の世話を全部侍女にさせていたもの。ひとりも連れていないのは不自然よね……)
私はシェイラになりきれるだろうか。
不安はあったものの、たった三か月なのだから、何としてでも演じ切ろうと思った。
騎士の一人が彼を「ザイオン様」と呼ぶのを聞き、灰白色の髪の男性の名を心にとめる。
(あの人はザイオンというのね。巫女姫の迎えに来るくらいだから、皇帝の側近か……きっと近い地位にいるはずだわ)
そうして馬車に乗り、すっかり空が茜色に染まった頃、皇都に着いた。
オレンジ色の空を背景にして、要塞のような黒ずんだ皇城が視界に入り、なんて不吉な光景だろうかと思った。
いくつも聳え立つ尖塔が、いつか私の体を貫いてしまうのではないかと怖かった。
身代わりだとバレてしまったら、皇帝は私を殺すだろう。




