1の4 山で育った姫
私は元々、アシュロム神聖国の王都から離れた山のふもとで、ハンスと二人で暮らしていた。
近くに小川がある、とても静かな場所だ。
誰かが建てた山小屋をハンスが買い取り、私達の家にしたらしい。
街からはかなり離れているものの、付近は山の中とあって土地はあり余っている。
それで私達は家の周りの土地を開墾し、様々な野菜を植えた。
それらの実を収穫して、ハンスが街で売って得た収入で細々と暮らしている。私が街に出るのをハンスはかなり渋るので、野菜を売りに行くのは彼の役目になっていた。
「あ、ハンス、見て。吉兆の雲だわ。数年前に女王が代替わりした時にも、あの雲が出ていたわよね」
朝に小川から水を汲んで野菜の苗にかけている時、ふと見上げた空には翼を広げた鳥のような雲が浮かんでいた。
この国においては、吉兆とされる雲だ。
あれが出現すると、アシュロムにとって何か重大な出来事が起こるらしい。
籠にトマトを入れていたハンスは私の言葉で手をとめて、不安そうな面持ちで空を見上げた。
「何も起こらないのが一番だ。どうかずっと平和に暮らせますように……」
そう言って目を閉じて、しわだらけになった手を組んで祈りを捧げている。
私はハンスから幾度となく聞かされた話を思い出していた。
この世界は二千年前に、ひとりの女神がお創りになった。
女神は瘴気と魔獣に苦しむ人間達のために、自らの力を二人の人間に分け与えた。
少年には魔獣を祓う力を。
そして少女には、瘴気を祓う力を。
女神はさらに、結界樹という特別な樹を二本植え、そこに世界中から魔獣と瘴気が集まるようにした。
結界樹を守るように作られた国が、アシュロム神聖国とグリセーズ帝国だ。少女はアシュロムの女王となり、少年はグリセーズの皇帝となった。
それぞれの国に結界樹があって、王族と皇族がずっとその木を守り続けている。
二つの国はいわば世界の守護者であり、私はアシュロムに生を受けた事を誇りに思っていた。
私が暮らす国に、世界を瘴気から守っている王族がいるのだ。
誰だって誇らしいと思うはず――なのだけど、王族の話をしようとすると、ハンスの顔は暗くなる。
彼はどうも王族の話はしたくないらしい。それがなぜかは分からないけれど、ハンスは私にとって親そのものだから、彼が嫌がるなら黙っていようと思っていた。
「ねえ、ハンス。今日は街へ降りてもいい? 買い物へ行きたいの」
祈りを終えた時に声を掛けると、彼はシワのある口元を少し歪めた。
「どうしても行きたいのかい? 私は同行できないんだが……」
六十歳を超えたハンスは山道で膝を痛めてしまい、歩く時に少し片足を引きずるようになった。
きっと彼は一緒に来れないだろうと分かっていて、それでも私は「ひとりで行くわ」と答える。
「私、今日で十八歳になったのよ。お祝いにタルトでも買いに行きたいの」
本当の目的はハンスのために医者を呼んでくる事だけど、そう提案したら彼はきっと「そのうち治るよ、医者なんかいらない」と断るだろう。
今までにも何度かそれとなく医者を勧めたけど、いつも誤魔化されてきた。
ハンスは私の心配はするくせに、自分の体の不調はおざなりにするくせがある。
(ハンスは膝が痛くて山道を歩けない。だったら私が街から医者を呼んでくるしかないわ)
こっそり決意しながらハンスの様子を窺うと、やはり彼は渋面だった。
それで私はさらに提案した。
「ちゃんと帽子を被って、眼鏡もかけて顔が分からないようにするわ。それならいいでしょう?」
ハンスはどういう訳か、私が街に出るのをかなり嫌がる。
どうしても行きたいと懇願すると、髪はきっちり帽子の中にいれて、おじさんが使うような古ぼけた眼鏡をかけさせられた。
別人のような見た目にならないと、街へ出てはいけないらしい。
ハンスが膝を痛めてからは、街から商人が来て野菜を引き取ってくれるけど、その時でさえ私には「奥に隠れていなさい」と言う。
私は物心ついた時には山小屋にいたので、自分の素性をよく知らない。
傍にいたのはハンスというおじさんで、彼は私に「ティナの両親は亡くなったんだよ」と教えてくれたのだった。
ハンスはとても優しかったし、本当の父親のように私を可愛がってくれたけど、なぜか時々よく分からない決まりごとを言う。
ハンスのことは「お父さん」ではなく、名前で呼ぶ事。
そして街に行く時は、必ず顔がよく見えないように帽子と眼鏡で変装して、必要以上に喋らない事。
その決まりを守りながら育ったので、私には親しい友人はいない。時々寂しく思うこともあるけど、ハンスが傍にいるので辛くはなかった。
彼はしばらく渋面だったけれど、やがて諦めたように溜め息をついた。
「そうか、誕生日だったね……なら仕方がない。なるべく早く帰ってくるんだよ」
「うん、ありがとう! ついでに食料も買ってくるね」
本当は別の目的だったけれど、とにかくハンスの許可は得た。
彼の気が変わらない内に、早く家を出てしまおう。
肩掛け鞄を準備していると、ハンスは私を見てしみじみと言った。
「見とれるような綺麗な娘になったもんだ。そろそろ信頼できる男に、ティナを任せたいもんだなぁ」
今までずっと私を子ども扱いしてきたのに、急に変な事を言い出すので、私はぷっと吹きだした。
「いきなり何を言うの? そもそも信頼できる男なんか、どこにもいないでしょ。私は一人でも生きていけるわ」
「心配なんだよ。私がいなくなったら、ティナはこの家に一人きりになってしまうからね……」
「そういうのは、あと十年くらい生きてから言ってよ」
ハンスは膝を痛めてから、妙に弱気な事を言うようになってしまった。
(年を取ったからなのかしら。まだまだ元気でいてくれないと困るわ)
きっと膝さえ治ったら、以前の元気なハンスに戻るはずだ。
帽子を被ったところで、窓から山道を走ってくる立派な四頭だての馬車が見えた。
「わあ、馬車だわ。何の用でここまで来たのかしら」
私は珍しさに思わず窓を開けた。
街で見かける馬車は艶々と黒光りしていて、綺麗な服を着た紳士や少女がよく乗っている。あれが貴族なのだろうけど、別世界の住人すぎて私は近づく事すらできなかった。
その馬車が、一体なんの用で山に入ってきたのか。
背後でガタンと大きな音がして、振り返ってみると、ハンスが倒れた椅子の横で真っ青になっている。
彼は慌てて駆け寄ってきて、窓を勢いよく閉めた。
さらにカーテンまで閉めたので、外の様子は全く分からなくなってしまった。こんな切羽詰まった様子の彼を見るのは初めてだ。




